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目の前ではまだお説教タイムが続いている。あたしがいるっていうのに。まるであたしなんか見えてないみたいだ。あたしなんか最初からいないみたいだ。
気がつけばあたしは、ふらふらと足もとから崩れ落ちていた。
そこでやっと、天王寺未来の視線がこちらに向けられる。とても冷たい目だと思った。十分以上もお客さんをほっといてるっていうのに、なんかあたしが悪者みたいな、容赦のない視線だった。
じっさいあたしだってここが場違いだとは思うけど。いろんな意味で。
天王寺未来はすぐに心配そうな表情になった。でもその表情もたぶん演技だ。どうしようもなく混乱してへたり込んでいる。そんなあたしの前にしゃがみ込んで、だいじょうぶですか、と声をかけてくる。……公子さんに対してはあんな態度のくせに、あたしにはやっぱりそうやって紳士的なふりをするんだね。
「……だいじょぶじゃないです。だって、あたし……」
「コロが……公子がご迷惑をおかけしたようでほんとうにすみません。もともとできが悪いうえに、しつけのなってない犬なんです。悪い子ではないんですが……できが悪い子ほどかわいいと言いますし、たぶん僕のひいき目です。申しわけない」
「公子さんが、できが悪いわけ、しつけがなってないわけ、ないじゃないですか……あんなに仕事のできるひとを……なにを……言ってるんですか……」
「コロ。こっち来い」
公子さんはびくりと肩を震わせる。
「来い!」
公子さんは泣きそうな顔になって、こっちに来る。……四つん這いだ。しかも慣れているみたいで、あたしの隣に来るまで一瞬だった。
もうほんと、やめてほしい……公子さんが、あたしの目にも、犬に見えはじめちゃったらどうしよう。そんなわけないのに。あたしの常識だって、おかしくなっちゃうもん……。
公子さんは、天王寺未来がゆっくりと手を下げる動作に合わせて、さっきのような犬座りをする。
「お客さまに謝れ」
「――えっあたしはべつに」
とっさにそう言ってしまう。
「……あたしはべつに、いいんです、べつに、ほんとに」
「お手数かけてほんとうにすみません。……でもこれもしつけですので。すぐに終わりますので、ご協力いただければと思います……のちほどお礼はさせていただきますので」
「そんなの……いらない、そうじゃなくってあたしべつに!」
「早くしろ、コロ。段ボールに詰めて捨てられたいのか」
公子さんは上目づかいであたしを見ていた。あたしの知っている同僚の顔ではなかった。オフィスであったら視線が合ったら微笑まれているところだというのに、すごく、動物みたいな顔をしてる。目が、暗いというのにぎらぎらしてる。
「……公子さん」
あたしがそう呼びかけたのに、公子さんは――土下座した。
そしてあろうことか、あたしの素足を――舌をつかって舐めはじめた。
たぶんこういうことに慣れてるんだろうなってすぐにわかってしまう。……同性のあたしでも変な気持ちになっちゃうくらいに。
あたしは足をどうにか引っ込めようとする。でも公子さんも負けていない。あたしの足を求めてくる。なに。なんなのこのひとたちは。なんのつもりなの。
「……ちょ、っと!」
しつこすぎて、あたしは立ち上がった。
惨めに床に這いつくばった公子さんが、あたしを見上げている。
――公子さんは涙を流していた。
ぽろぽろぽろぽろ、と。大粒の涙を、次々と。
同期のなかでぶっちぎりで美人だと評判の、そのうつくしい顔で。
「……ごめんなさぁぁぁい……」
公子さんは顔を歪めて、声を上げて泣きはじめた。
そのまま、顔さえも床に突っ伏した。嗚咽を漏らしながら、手足をばたばたとさせながら、首輪からつながった鎖をじゃらじゃらと鳴らしながら、ずっとずっと言っている。
「……ごめんなさい、ごめんなさい、コロができが悪くてしつけのなってない犬でごめんなさい、うっ、ううっ、謝る、コロずっと謝るっ、謝らせてください、ぜんぶコロが悪いのです、なんでもしますから、あ、うっ、がんばってもっともっと芸も覚えるし、いいこ、に、コロいいこになります、コロはもっといいこになる……なりますから……だから捨てないでください……あ、う、あうぅっ、お願いですからコロを捨てないでえぇぇ……!」
……ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、と喚き続けている。
天王寺未来はしゃがみ込んだまま、媚びるような笑顔をあたしに向けた。
「すみませんね。ほんとしつけを間違えたみたいで、お恥ずかしいです。よくよくしつけ直しますのでご容赦ください」
「いえ……あたしは、その。べつに」
「ゆるしていただけますかね?」
「べつに……最初から怒ってもないですし」
天王寺未来は、床にぺったりと張りついてるかのようなその頭に、ふんわりと手を当てた。かすかに動かす。……撫でてる、つもりなのかもしれない。
「コロ。よし」
手足の動きがぴたり止まる。うつ伏せになったまま、ぐずりぐずりと鼻水をすすった。
「……ありがとうございます、ありがとうございますご主人さまぁ……ううっ、うっ……コロは捨て犬になったらだれにも飼ってもらえないのですよぉ……」
天王寺未来はそれ以上の言葉もかけず、その頭を撫で続ける。
トントン、とドアがノックされた。
「お坊ちゃま。お客人はそちらですか。開けてもよろしゅうございますか」
「ああ。いまコロのしつけ中だけど」
ドアを細く開けたのは、玄関に案内してくれたおばあさんだった。
「ああ、いまコロが無作法をしたんでしつけ直してた。さいきんちょっとコロははしゃぎすぎだよな。できの悪い子ほどかわいいとはよく言ったもんだけどさ」
「はあ。はいはい。なるほどなるほど。……遠藤さん、でしたっけ」
「……いえ。須藤ですけど」
「ああ須藤さん。当主があなたとお話したがってらっしゃるんですよ。お客さまがいらっしゃるのもここさいきんは珍しいことでございまして。こちらはね、もうすこし時間が必要ですのでね。お坊ちゃま、ちょっとお客人をお借りしてもよろしゅうございますか」
「ああ、かまわない。飯野さんの言う通りです。しつけはまとまった時間の必要なものだ」
「はいはい。それじゃあ須藤さんいらっしゃい」
飯野さんは、ひょいひょいと手招きをする。
「あの……」
あたしは気まずくってそう言ったけど、この部屋では、もうあたしなんか気にもされていないようだ。
だから仕方なく、荷物を持って立ち上がって、ドアの外に出ようとする。
怖かったけど最後にひとつ振り返った。
コロは主人の膝もとに前足を乗せる格好で、頭を撫でられて、身体を揺らしてとても嬉しそうにしていた。
どう見ても、犬と飼い主っていう、そういうことなのに。
……恋人どうしにも見えちゃうのがふしぎで、あたしは呑み込めきれないような、変な気持ちになった。
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