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久しぶり、と彼女は言った。
仕事帰りにふらりと立ち寄ったお気に入りのワイン酒場のカウンターで、サングリアのグラスに口をつけたときだった。
久しぶり、と咄嗟に応えると、彼女はホッとしたように小さな笑みを浮かべ、「隣、いい?」と私の隣の椅子の背に手をかけた。
「もちろん」と笑顔を返しながら、さて、と私は背筋をのばす。
この人、誰だっけ――?
大きな声では言えないが、私は人の顔を覚えるのが少し苦手だ。
いや、正直に言おう。すごく苦手だ。
毎日会う人、例えば勤務先の信用金庫の同僚や上司の顔はちゃんと覚えられる。職場で、同僚の名前が分からなくて戸惑うなんてことはない。
でも、窓口に来られたお客様の顔は、出金処理するほんのわずか五分弱の間に分からなくなってしまう。
私なりに努力はしているつもりなのだ。窓口業務の先輩にもらったアドバイス通りに、服装、背格好、髪型を意識的に観察してみたり。
待合スペースに人が少ないときには、それでなんとかなる。そのお客様にしっかり視線を固定して、「○○様、お待たせ致しました」と呼びかけることができる。
でもそうじゃないとき、つまり待合スペースに人が多くて、特徴の一致する人が複数いる場合は難しい。特にスーツ姿のおじさんは難易度が高い。そういうときは仕方がないので、誰を見ているともとれるようなぼんやりとした目付きで、普段より声を張ってお客様の名前を読み上げることになる。
仕事はそんなふうに、情けない思いをしつつもなんとか乗り切っているのだけど、やっかいなのはむしろプライベートの方だ。
街で知り合いとすれ違ったのに気付かず、後で指摘されて気まずい思いをする、なんてことはしょっちゅうだ。
いきなり声をかけられて、「誰だっけ……?」と冷や汗をかくのも珍しいことじゃない。そんなときには愛想笑いで当たり障りのない挨拶を交わし、さも急ぎの用事があるかのように素早く立ち去ることに決めている。喋りすぎてボロを出す前に。
一番困るのは、逃げ場のない状況で声をかけられたときだ。
そう、ちょうど今みたいに。
「飲み物、何にしようかな。あ、それ何?」
「桃のサングリア。甘くて飲みやすいよ」
「いいなぁ、私もそれにしようかな」
店員を呼んで飲み物を注文する彼女を、横目で密かに観察する。
年齢は二十代半ばくらいだろうか。平均的な身長に、細身の体型。服装もバッグもシンプルなところからすると、私と同じく仕事帰りなのかもしれない。
目、鼻、口はどれも小ぶりだけれど、その配置はそれなりに整っている。化粧の薄いその顔からは真面目そうな印象を受けたが、ただそれだけだ。これと言った特徴のない、大人しい顔立ち。見覚えがあるような気もするし、ないような気もする。結局、外見から分かったのは、自分と同年代だということくらいだ。
それから喋り方。彼女の砕けた口調からすると、仕事関係の知り合いではないと思う。例えば友人と呼んで差し支えないような、それなりに付き合いのあった人ではないだろうか。
もう少し喋ってヒントを得たいところだが、会話にはリスクも伴う。失言をして、私が彼女の名前を思い出せていないことに気付かれてしまうかもしれない。気付かれる前に、どうにか彼女の名前を思い出さなければ……。
どうしたものかと決めかねているうちに、注文を終えた彼女がこちらに顔を向けたので、思わずドキリとした。
「ほんとに久しぶりだよね。いつぶりかなぁ?」
「あー、いつぶりだっけ?」
内心のヒヤヒヤはおくびにも出さず、私はオウム返しに彼女の言葉をくり返す。
相手が誰だか思い出せないときの秘技その一だ。
こちらはボロを出しにくい上、運が良ければ相手が勝手に喋って情報を提供してくれる。
私の期待どおりに、彼女は「うーん」と考えるそぶりを見せた。
「……確か学校を卒業して以来だから、五年ぶりかな」
「あぁ、そっか。もうそんなになるんだ」
そつなく相槌を打ちながら、私は内心でガッツポーズをした。
学校を卒業してから五年ぶりの再会。
これは大きな手がかりだ。
私は今年、二十七歳になる。大学を卒業したのはちょうど五年前。
ということは、私と彼女の関係は「大学の同級生」。ここまではまず間違いないだろう。
問題は、ここまで特定できてもなお、彼女の顔と名前が思い出せないということだ。
さすがに、同じゼミやサークルの友達の顔が分からないなんてことはないはずだから、おそらく同じ学科の友人なのだろう。
これは厄介だな、と私は内心で嘆息した。友人となると、秘技その二が非常に使いづらいからだ。
秘技その二。それはズバリ、「お名前、何でしたっけ?」とストレートに聞いてしまう、文字通りの最終手段である。
こう尋ねると、相手はちょっと不満な顔をしながらも、名字またはフルネームを教えてくれる。あとは、「名字は覚えてたんですけど、下のお名前が思い出せなくて……」とフォローすれば、たいていの相手はなるほどと納得してくれるのだ。
ただしこれは、下の名前を覚えていなくても不自然ではない程度の、それほど親しくない相手にしか使えない技だ。
通常、友人相手に使える技ではない。だけど、学科が同じ程度の、付き合いの浅い友人なら、ギリギリ許されるかもしれない……。
そんなふうに秘技その二の実行を企てていた私は、次に彼女の口から発せられた言葉に衝撃を受けた。
「ゼミのみんな、元気かなぁ。誰かに会ったりすることある?」
「あ、いや、会ってない、かな……」
不覚にもしどろもどろになってしまったのも、仕方のないことだと思う。
だって、「ゼミの友達」という可能性は、ついさっき消去したばかりなのだ。
ゼミの友達の顔が思い出せないなんて、さすがにそんなことはないと思っていたのに……。
でも即座に、私ならありうる、と思い直した。
確かに、頻繁に会う人の顔は覚えられる。でも、それも実は完璧なものとは言えないのだ。
例えば、会う場所が変わると途端に分からなくなったりする。職場の先輩とデパ地下の総菜コーナーでばったり会ったとき、すぐには誰だか分からなかった。
それに、しばらく会わなかった人も分からなくなる。大学を卒業した年、高校の友達と四年ぶりに会う約束をして駅で待ち合わせたとき、改札前に人待ち顔で佇む女の子がその友達だという確信が持てなかった。そのときは、人混みで見つからない風を装ってスマホで電話をかけ、その女の子がバッグからスマホを取り出すのを見て、ようやく確信を持って声をかけることができた。
そんな私だから、久しぶりに思いがけず再会したゼミの友達の顔が分からないというのも、ありうる話なのだった。我ながら情けないとは思うけれど。
私はやむを得ず、秘技その二の実行を断念した。さすがの私も、ゼミの友達相手に「あなたのお名前なんでしたっけ?」と尋ねる度胸はない。
「それじゃ、久しぶりの再会に乾杯」
「乾杯」
彼女が屈託のない笑みでグラスを持ち上げる。
後ろめたさを笑顔で覆い隠し、私もグラスを軽く持ち上げた。グラスに口を付け、一口飲む。桃の甘い香りの後に残ったのは、わずかな苦みだった。
もう正直に打ち明けるしかないだろうか。あなたの名前が思い出せないのだと。彼女は私を軽蔑するに違いない。それでも、このまま話を続けたら、いつか必ずボロが出る。謝るなら早い方がまだマシだろう……。
意を決して息を吸い込んだ、そのときだった。
「さっちゃん、お待たせ。久しぶりだね。……えっと、そちらの方は?」
背後からかけられた声に、私と彼女は揃って振り返った。
そこには、私や彼女と同年代の女性が、小さく首をかしげて立っていた。見覚えがない女性だ(もっとも、私の「見覚えがない」はアテにならないが)。
私の隣で、彼女――さっちゃんが「えっ、りえちゃん?」と小さく声をあげるのが聞こえた。
さっちゃんはぽかんと口を開け、新たに現れた女性(おそらく名前はりえちゃんなのだろう)と私をキョロキョロと見比べる。大きく見開かれた目はオロオロと揺れ、手に持ったままのグラスの中で薄桃色の液体が小さな波を立てた。
みるみるうちに顔を青ざめさせるさっちゃんを見ながら、私は状況を正確に理解した。
ああ、さっちゃんは私と「同じ」なのだ。
安堵と親近感と、それから妙な使命感に燃えながら、私は新たに現れた女性に向き直った。
「私から声をかけて、一杯付き合ってもらってたんです。一人で飲んでたんですけど、無性に誰かとお喋りしたくなっちゃって」
いまだ言葉の出ないさっちゃんに代わり、私から女性に説明する。
ぺらぺらと誤魔化しの言葉が口をついて出てくる自分に呆れつつ、まぁいいかと開き直る自分も確かに感じていた。
私はぐいっとグラスの中身を飲み干し、席を立った。
「さっちゃん、今日は付き合ってくれてありがとう。私達きっと話が合うと思うんだ。私、よくこのワイン酒場にいるから、また一緒に飲もうね。じゃあ、私はこれで」
一気にそう言うと、私はさっちゃんに小さく手を振って見せた。目を潤ませて何度もうなずくさっちゃんの口が、「ありがとう」の形に動く。
本当にまたここで彼女に会えたら素敵だな、と思う。
そのときまでどうかお互いに顔を覚えていますようにと祈りながら、私は彼女に背を向けた。
〈了〉
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