生と死

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生と死

「いってきます」  娘の柚菜の声が聞こえた。その声は小さくて低く、鉛を飲み込んだような声だった。 「いってらっしゃい。大丈夫?」  次に妻の沙知絵の心配そうな声がした。  一人で朝食を食べていた私は、食べる手を止め、顔を上げた。玄関に向かう柚菜と目があったが、すぐに私の方から目を逸らし下を向いた。次に顔を上げた時には、柚菜はすでに背中を向けていた。彼女は摺り足気味で歩幅が狭く、足枷でもつけられているような歩き方だった。  沙知絵がキッチンから出てきて、柚菜の後を追いかけていく。柚菜はこれから学校へ行くようだが、明らかにそれが嫌だという態度だった。情けない娘だなと、一人舌打ちをした。  沙知絵のように優しく接する気にはなれなかった。学校で悩みがあるのかもしれないが、高校生が抱える悩みなど軽いもので大したことはない。私なんて職場でもっと重くたくさんの悩みを抱えている。今の柚菜が抱える悩みの何十倍も重い悩みをだ。柚菜は何を甘えているんだ。この調子だと将来が思いやられる。  柚菜は自宅からバスで三十分くらいのところにある県立高校に通う高校一年生だ。学校がおもしろくないのかもしれないが、そもそも学校なんておもしろいところではないのだ。それを我慢することもせずに態度に出しすぎだ。柚菜がああいう態度をとるのは沙知絵が甘やかせているせいだ。 「柚菜、無理しなくていいのよ」  沙知絵がまた心配そうに声をかけている。『沙知絵、放っておけ』と怒鳴りたい気分だった。 「うん、でも大丈夫」  柚菜の方は相変わらず元気のない声だ。大丈夫と言うのなら、もう少し元気な声を出して、親を安心させろ。 「本当に?」  沙知絵、しつこいぞ。放っておけ。 「うん、心配しないで」  柚菜よ、心配しないでと言うなら、嘘でも元気なフリをしろ。甘えるな。 「高校は義務教育じゃないんだし、嫌ならやめてもいいのよ。なんなら通信教育だってあるんだし」  母親が娘をここまで甘やかすとあきれるしかない。 「でも、お父さんが……」 『お父さんが』という柚菜のか細い声が耳に引っ掛かった。私のせいなのか。私のせいで学校が嫌なのか。いい加減にしろ。言いたいことがあるなら、面と向かって私に言え。  その後の母娘二人の会話のボリュームは明らかに小さくなり、私の耳には届かなくなった。沙知絵が柚菜の耳元でコソコソと話している。きっと私の悪口でも言っているのだろう。  コソコソと二人だけの話が終わると、柚菜が玄関で靴を履いていた。 「じゃあ、お母さん、いってきます。心配しないで、大丈夫だから」  柚菜は沙知絵に笑みを向けていた。 「わかった。でも、無理しないでね」  沙知絵が柚菜の背中をポンポンと軽く撫でるように叩いて送り出した。  沙知絵は柚菜にだけは優しいなと思いながら、私はその様子をボンヤリと眺めた。最近の沙知絵の私に対する態度とは雲泥の差がある。  柚菜は私に対しては目を合わすこともなく、『いってきます』の声もなく出て行ってしまった。  柚菜は中学生になった頃から私を避けるようになっていた。そして最近は沙知絵まで私を避けるようになった。  柚菜は、そういう年頃なんだろうと、なんとか理解し、受け入れたが、沙知絵までが私を避けるようになったことに寂しさを越えて絶望に近いものを感じていた。家族ってこんなに冷めたものなのかと落胆する。  家族になる前の方がよかった。きっと沙知絵もそう思っているはずだ。沙知絵は私と家族になったことを後悔している。  沙知絵と出会った頃のことを思い出した。あの時に沙知絵は私ではなく当時の店長と結婚していたらどうなっていただろう。きっと今ごろ沙知絵の人生は色のついた輝いたものになっていたはずだ。沙知絵は今そう思っている。だから、私に冷たい態度をとるのだ。  あの日、あの事件がなければ、私と沙知絵が結婚することはなかった。まともに話をすることもなかったかもしれない。沙知絵にとって私の存在など記憶の片隅にも残っていなかっただろう。あの事件さえなければ。  当時、私と沙知絵は、私が今働いている食品スーパーで働いていた。私は今と同じ精肉売場を担当し、沙知絵はレジを担当していた。沙知絵はすらりと背が高く、背筋がピンと伸びてショートカットの髪がよく似合う女性だった。丸みのあるきれいな額とはっきりした目鼻立ちが聡明に見えた。見えただけでなく実際に聡明な女性だった。仕事をテキパキとこなし、アルバイトに的確な指示を出す。他部署とのコミュニケーションもうまくてみんなからの信頼も厚かった。  当時の店長も沙知絵を信頼していた。そして店長と沙知絵は付き合っている、結婚間近じゃないかという噂も飛んでいた。美男美女でお似合いだという人、仕事とのけじめがないと苦言を言う人、本人たちの知らないところで噂は真実のように渦巻いていた。  その店長と私は同期入社だったが、その時点で二人の出世のスピードには大きな差がついていた。  私も沙知絵に秘かに好意を抱いていたが、背が低く小太りの上、若いうちから髪の毛がさびしいヒラ社員の私が店のマドンナのような沙知絵と釣り合うとは到底思わなかった。一方、店長はイケメンで、同期のなかでは出世頭だ。私が勝てる要素など微塵もない。私は沙知絵のことは高嶺の花だと早々に白旗をあげていた。なので、沙知絵とは同じ職場でありながら挨拶程度しか言葉を交わしたことはなかった。  そんな私と沙知絵の距離が近づくことになるのは、ある事件がきっかけだった。その事件は店長が休みの日に起こった。あの日に店長が出勤していたら、私と沙知絵の人生は今とは大きく変わっていただろう。  事件と言っても大したことではない。ちょっとしたお客さんとの揉め事だった。  その日は朝から銀の針のような強い雨が降り、お客さんは少ない日だった。暇だったので長い時間、喫煙所でタバコを吸っていた私は作業場に戻る前に、フラッと店内を覗いた。 「このボケー」  店内に入った時、レジの方から耳を裂くような怒鳴り声が聞こえてきた。お客さんが怒鳴っているのだとすぐにわかった。嫌な予感がしたが、無視することも出来ず、私は怒鳴り声のするレジの方へと向かって歩いた。  見ると、レジに沙知絵が立っていて、男性のお客さんが沙知絵の前に立ち、彼女を睨みつけていた。面倒なことに巻き込まれそうだと思いながらも私は仕方なく沙知絵と男性客の立つレジへと向かっていった。  怒鳴り声の主は、五十歳くらいで背は低く細くて鶏ガラのような男だった。 「謝ってすむもんじゃねえんだよ。だからちょっとわしに付き合えよ」  男はそう言って沙知絵の左手首を掴み引っ張った。沙知絵は抵抗していたが、男は鶏ガラのくせに意外と力が強いようで、沙知絵はずるずると男に引っ張られていた。 「やめてください」  いつも冷静でクールな沙知絵だが、この時はさすがに悲鳴のような声を上げた。 「やかましいわー」  男は沙知絵の頭を張った。 「お、お客様、す、すいません。ど、どうされましたか」  私は慌てて男のところまで行って声をかけた。  男は私の方に振り返りぎょろりとした濁った目で私を睨んだ。男の顔を近くで見ると頬骨が出て顎が張った爬虫類のような顔だった。 「なんだ、てめえ。わしの邪魔する気か」  男は私に顔を近づけ唾を飛ばしながら怒鳴った。男の口から飛ぶ唾液が顔面に当たる。まだ午前中だというのに男の吐く息は酒の臭いがプンプンとした。私は男の唾液で濡れた顔を拭い顔をしかめた。 「なんだー、そのツラは。わしは客だぞ。それが客に対する態度か」  男は私の胸をドンとついた。 「も、申し訳ありません」  とりあえず頭を下げた。男を冷静にさせて帰ってもらうしかない。  顔を上げてから、沙知絵の方にチラリと視線を向けると、沙知絵は唇を噛みしめて俯き加減でいた。私の視線に気付いたのか顔を上げた時に目が合うと、沙知絵は私に向けて申し訳なさそうに眉をハの字にして小さく頭を下げた。 「何があったの?」沙知絵に近づき声をかけた。  すると、すぐに男が口を挟んできた。 「どうもこうもねえよ。この姉ちゃんがわしから余分に金奪おうとしたんだよ」  男はそう言って沙知絵を睨めるように見た。 「奪おうだなんて、そんな……」  沙知絵が反論しようとしたが、私は手で制した。 「さようでございますか。それは申し訳ございませんでした」  私は男に向かって深々と頭を下げた。沙知絵に非がなさそうだが、ここは謝って終わらせようと思った。 「謝ってすむかよ。ボケ」  男は私に向かって、ペッと唾を吐いた。それが私のズボンにかかった。見るとズボンの裾に黄色い痰のようなものがついていた。腹が立ったが、一応お客さんだし、手を出すわけにはいかない。それに腕力には全く自信がない。反対にボコボコにされるのがオチだ。私はグッと堪えた。  それから男は意味不明な言葉を喚きちらしていたが、それを整理すると、男の買った酒が値札より高くレジで請求されて、その差額を沙知絵がネコババするつもりだったと怒っているようだった。  確かに値段を間違えるのはお客さんに迷惑がかかるからあってはならないことだ。しかし、だからと言って、沙知絵がネコババしようとしたと怒り出し、彼女を外に連れ出そうとするのはおかしい。それに実際は沙知絵がレジで金額を打ち間違えたわけではなく、あらかじめレジに登録されていた値段が間違っていたのだ。お酒の担当者が値段を登録するのを間違えたのだろう。お客さんがそのことがわからないのは仕方がない。  私は沙知絵と男の間に入りお詫びをし、余分に受け取ってしまったお金を返金すると言って男に頭を下げて差額の現金を男の前に差し出した。 「金なんて、そんなのどうでもいいんだよ」  男は声を荒げて私が差し出した手を思いっきり払った。そして、私が手に持っていた小銭がチャリチャリリーンと音を立てて床に転がっていった。落ちた小銭を目で追いかけると、十円玉がコロコロと転がりレジ台の下に消えていった。 「そんなはした金は、どうでもいいんだよ。これはわしの気持ちの問題だ。このままだとわしの気持ちが収まらねえんだ。だから、この姉ちゃんをわしの家に連れて行って、土下座させてから酌してもらうんや。なんだかんだ言ってもこの姉ちゃんベッピンやからそれで許したるわ。姉ちゃんにも酒飲ましたるしな。二人で楽しもうや。さあ、行くぞ」  男は卑しい笑みを浮かべ、また沙知絵の左手首を握って連れだそうとした。 「申し訳ありません。それでしたら彼女の代わりに私がお客様のご自宅まで行かせていただきます」  私はそう言った。私も必死だったのだろう。気の弱い私だが、この時は男に対する恐怖心は消えていた。店長がいない以上、自分が何とかしなければならない、沙知絵を守らなければならないと思った。  私は沙知絵と男を引き離そうと、沙知絵の腕を持つ男の手首を強い力で握った。腕力には自信がないが、毎日のように包丁を握り肉を切っているためか、握力には自信がある。それでも男がなかなか沙知絵の腕を離そうとしないので、つい男の手首を握る手に力が入った。 「いてー」  男が悲鳴をあげ、沙知絵の腕を離したので、私も男の手首を持つ手を緩めた。  その瞬間だった。男の拳が私の顔面に向かって飛んできた。 『バシッ』という鈍い音がした。顔面に痛みが走り、目の前に赤いものが飛んだ。頭がボーッとして体がふらついた。  ふらついて倒れそうになるのを堪え前屈みになった。今度は目の前に汚れた黒い革靴が見えたと思った瞬間、革靴の先が鳩尾に突き刺さった。目の前が真っ暗になり、続けて鳩尾に鈍い痛みがした。私は尻餅をつくように後ろに倒れた。胃の中から何か酸っぱい固形物が口に上がってきた。気が遠くなり床にうっぷせた。 『キャー』という耳をつんざく悲鳴が遠くの方で聞こえた。  床に倒れたが意識はあった。しかし、起き上がりたくても体に力が入らず起き上がれない。体が言うことをきかない。たくさんの足音が床に響いて聞こえてくる。 「すぐに警察呼んだ方がいいわ」甲高い女性の声がした。 「それより救急車よ。早く救急車、誰か呼んであげてー」悲鳴のような声がした。  次々にあちこちから声が飛んでくる。  倒れたまま首だけを持ち上げると男と視線がぶつかった。男は口を開け、少し青ざめて震えていた。 「お、お前が悪いんやぞ」  男は私に向けて人差し指を向けた。 「お、お前が先に、手ぇ出したんやからな」  男はそこまで言って、すぐに踵を返し、そして「どけ、どけー」と野次馬をかき分け、逃げるように走って店を出て行った。 「大丈夫ですか?」  入社二年目の男子社員の三宅が私の前に屈んで、声を掛けてくれた。 「あ、ああ、だ、大丈夫だ」 「大沢さん、立てますか? 肩貸しましょうか」  三宅が肩を貸してくれた。三宅は学生時代柔道部でガタイがいい。 「ああ、有難う」  私は鼻をおさえながら三宅の肩に手を置いて立ち上がった。しばらくフラフラしていたので三宅の肩に手を置いたままにした。  立ち上がってから周りを見渡すと従業員やお客さんの視線が私に集中していた。今の騒ぎで、みんな買い物どころではなくなったようだ。 「あらー、大変、鼻から血が出てる。救急車呼んだほうがいいわ」  いつも肉を買ってくれる常連の女性のお客様が私の顔を見て、眉をハの字にして言った。 「ありがとうございます。でも、もう大丈夫です。ご心配おかけしました」  私はそう言って三宅の肩から手を離し、ふらつきながらも頭を下げた。  そして、周りを見渡すと「ありゃー」と自然と声が出た。  私の鼻血がレジやレジ台、床に飛び散っていた。自分のお腹に視線を向けると、白衣が赤く染まっていた。鼻を指で触ってみると指にべっとりと赤いものがついた。 「本当に大丈夫ですか」  沙知絵が心配そうな顔をしていた。 「大丈夫だよ。それより、この辺を汚しちゃって申し訳ない」  私は沙知絵に向かって頭を下げ、ズボンのポケットからハンカチを取り出し、血が飛び散っているレジ台を拭いた。しかし、私の色褪せた薄っぺらいハンカチでは焼け石に水だった。ハンカチはすぐに真っ赤に染まり、赤い血をレジ台の上に引き伸ばしているだけで、余計にレジ台は汚れてしまった。 「そんなこといいです。わたしの方こそ、ごめんなさい。大沢さんは悪くないのに」  沙知絵がそう言ってポケットからハンカチを取り出した。そして、私の目の前に立ち、ハンカチを持った手を伸ばし私の鼻にそっと当てた。  ハンカチから花のようないい匂いがした。沙知絵の手の感触がハンカチ越しに鼻に伝わる。私はそのまま気を失いそうになった。  この日まで、私と沙知絵は挨拶程度の言葉しか交わしたことがなかった。沙知絵とまともに会話をしたのはこれがはじめてだった。この日の夜は、沙知絵のことで頭がいっぱいで眠れなかった。ギュッと枕を抱きしめて沙知絵のことを思った。  次の日、家を出ると前日とは打って変わって、雲ひとつない真っ青な空が広がっていた。店は前日の大雨の反動で、朝の開店からたくさんのお客さんが買い物に来てくれた。昨日の怪我は大丈夫だったのか、とあたたかい声を掛けてくれるお客様もいて、有り難くて胸が熱くなった。沙知絵のことが気になったが、姿が見えなかった。  作業場で忙しく肉を切っていた。すると、ドアの窓から誰かがこっちを覗いている気配を感じた。肉を切る手を止めて、スイングドアの窓に視線を向けた。小さく四角い窓の向こうに沙知絵の小さな顔が見えた。  窓越しで目が合った瞬間、沙知絵がぺこりと頭を下げた。その時、私の胸は跳ねた。とりあえず私も小さく頭を下げて、慌てて手を洗い作業場から出ていった。 「お、お疲れさま。どうかしましたか?」  私は後頭部を掻きながら挨拶をした。顔が熱くなっていくのがわかった。 「昨日は助けていただいて有難うございました」  沙知絵はいつものように背筋をピンと伸ばしてから腰を折った。 「礼なんていいですよ。それより鼻血でレジの周り汚しちゃったから、反対に迷惑かけちゃったんじゃないかって心配でした。それに助けるどころか、殴られて蹴られてぶっ倒れて、ほんとみっともなかったです」  沙知絵を前にして体の温度がドンドン上昇していくのがわかった。前日に沙知絵が鼻に当ててくれたハンカチのいい匂いを思い出した。 「いえ、そんな、みっともないことなんて絶対にありません。大沢さん、すごくかっこよかったですし、わたし、すごく感謝しています」 「そ、そう。それなら良かったけど」 「あ、あの、これ、昨日のお礼です」  沙知絵が紙袋を私の前につき出した。 「えっ」  私はつき出された紙袋を見た。近くにある百貨店の紙袋だった。 「これは?」と沙知絵の顔を見て訊いた。 「昨日、大沢さんのハンカチ汚れちゃってたので、これハンカチです」 「あ、有難う。あんなボロボロのハンカチなんてどうでもよかったのに」  私はボリボリと後頭部を掻いた。 「いえ、そういうわけにはいきません。どうぞ、受け取ってください」  沙知絵が紙袋を持った両手を伸ばしてペコリと頭を下げた。 「あ、ありがとう」  私は汗ばんだ両手で紙袋を受け取った。わざわざ百貨店まで、これを買いに行ってくれたのかと思うと胸が熱くなった。外見がきれいなことはわかっていたが、心まで、こんなにきれいな女性だとは思わなかった。私は完全に沙知絵に惚れてしまった。  月とスッポン、美女と野獣、周りはバカにするかもしれないが、そんなことはもうどうでもいい。私は彼女に惚れた。この気持ちを彼女に伝えたいと思った。  以来、私は沙知絵とよく言葉を交わすようになった。沙知絵と話してみると、新しい発見がいろいろとあった。彼女はクールでとっつきにくい印象だったが、おちゃめな一面も見せてくれた。本当は優しくておもしろい女性だなと思った。日に日に彼女への気持ちが膨らんでいくのを実感した。  沙知絵は私のことなど、ただの職場の先輩の一人としか思っていないかもしれないが、とりあえずそれでもいい。自分の気持ちを伝えるだけは伝えたい。  それから、一ヶ月が経ったある日、思わぬ形で沙知絵を食事に誘うチャンスがやってきた。休憩中に見ていたテレビ番組でお好み焼の特集をやっていた。それを見ていた沙知絵が久しぶりにカキオコを食べたいなと、一人言のように言った。カキオコとはこの地域で有名な牡蠣を肉の代わりにお好み焼きにトッピングしたご当地グルメである。  私はその声を聞き逃さなかった。食事に誘うチャンスだと思った。カキオコなら行きつけの美味しい店を知っている。 「カキ、カキオコが、す、すきなの?」  少し声が震える声で沙知絵に訊いた。 「はい。好きです。久しぶりに食べたいです。大沢さん食べに連れてってくださいよ」  にこやかでハツラツとした沙知絵の声に頭が真っ白になった。もちろんオーケーしたのだが、その時どんな言葉を発したのか記憶が飛んでいる。  三日後の仕事終わりにカキオコを食べに行くことが決まった。それからの私は眠れない夜が続いた。彼女にとっては、今回カキオコを二人で食べに行くことは男女のデートのつもりではなく、たまたま話の流れでカキオコを食べに行くことになっただけかもしれないが、私にとっては一世一代の勝負の時だ。生まれてはじめて女性と二人きりで食事に行く。それも大好きでたまらない女性と行くのだ。ここで告白しなければ一生後悔するだろう。ダメでもいい。ダメで当たり前なんだ。断られることを恐れるな。気持ちを伝えるだけでいい。断られたら、今まで通り職場の仲間として接すればいいんだと、三日間、布団のなかで自分に言い聞かせた。  沙知絵と二人だけでカキオコを食べた。生まれてはじめてカキオコが美味しいと感じなかった。全く味わうことができなかった。飲み過ぎてはいけないと思いながらも、ビールばかりをあおっていた。目の前では美味しそうに沙知絵がカキオコを食べて、そして生ビールを飲んでいた。ゴクゴクと喉を鳴らしてジョッキから口を離した瞬間に私に向かって嬉しそうな笑みを向ける。その表情に私の胸が跳ねる。  カキオコを食べた帰り道、覚悟を決め沙知絵に交際を申し込んだ。オーケーの返事をもらった時は夢のようだった。気は早かったが、私の両親が築いてくれたようなあたたかい家庭を彼女といっしょに築くんだと心に決めた。  なのに、そうはならなかった。沙知絵は変わってしまった。あの頃の聡明で心優しい沙知絵はどこにいってしまったんだろう。  あの日、あの酔っぱらいがクレームをつけなければ、私と沙知絵は結婚していなかっただろう。あの頃はあの事件のおかげで沙知絵と結婚できたと喜んでいたが、最近はあの事件のせいで、お互いが不幸になってしまったと思うようになった。  柚菜は学校へ行き、沙知絵はパートに行った。仕事が休みで残された私は一人で朝食を食べていた。朝食といっても、沙知絵が準備していたのはシリアルだけだった。それに自分で牛乳をぶっかけた。牛乳で湿っていくシリアルを見て虚しい気持ちになった。それが朝食だとは認められなかった。不味いとはいわないが、おやつのようにしか思えない。  つい最近までの大沢家の朝食は私の好きな和食だった。それが急にシリアルに変わってしまった。たぶん、和食は作るのが面倒なのと、沙知絵が年頃の柚菜の好みに合わせたのだろうと思った。  確かに朝から和食を作るのは大変だとは思うが、娘を優先する前に一家の主である私に一言相談があってもいいだろうと思う。私は白いご飯に焼き鮭、それと味噌汁にお新香、そんな和の朝食が大好きだ。それを家族揃って食卓を囲んで食べるのが理想だ。沙知絵もそれを知っているはずなのに、全く相談もなくある日突然変わってしまっていた。  一ヶ月ほど前、目を覚ますといつもの味噌汁の香りがしなかった。おかしいなと食卓を見ると、シリアルの入った深めの皿がテーブルの上にポンと置いてあるだけだった。 「えっ、なんだこれ?」  私はシリアルの入った深めの皿を見ながら沙知絵に訊いた。 「朝御飯、今日からこれにしました」  沙知絵が平坦で無機質な声で言った。 「俺に相談も無しにか」と私が言うと、沙知絵は言葉を発することなく、大きくため息を吐いてから私を睨んだ。私は次の言葉を飲み込むしかなかった。  私が子供の頃、母は和の朝食を毎日のように作ってくれた。メニューは焼き鮭やだし巻き卵、明太子、ひじきの煮物、酢の物、納豆、焼き海苔、梅干し、沢庵など、日によっていろいろと変わった。  その頃の朝食はいつも父親の拓三と母親の五月と私の三人で食卓を囲んだ。裕福な食卓ではなかったかもしれないが、贅沢な食卓だった。母親の作る朝食は本当に美味しかったし、両親と過ごす朝のその時間が幸せだった。  その朝食のおかげで、一日を元気にスタートできる気がした。学校で嫌なことがあっても朝食を食べると元気になれた。しかし、そんな幸せだった子供の頃の朝食の時間も突然無くなってしまった。それは私が十二歳の時に父親が重い病に倒れ、そのまま亡くなってしまったからだった。  父親が亡くなってから母親はめっきり元気を無くしてしまい、朝食は食パンを焼いたものと牛乳だけに変わってしまった。そんな母親も私が二十五歳の時に父親と同じ重い病に倒れた。  それからの私は一人で暮らした。一人で暮らすようになってから私の生活から朝食は無くなった。私にとっての朝食は家族の幸せの象徴みたいなものなのだ。  沙知絵は自宅から自転車で十五分くらいのところにあるショッピングセンターマルナカというスーパーでレジの仕事をしている。週に五日、午前九時から午後五時まで長い時間働いている。こんなに働かなければならないのは、私の給料が安いからだと嘆いているのかもしれない。  それにしても沙知絵はなぜこんなに私に対して冷たくなってしまったんだろうか。いつ頃から私たち夫婦はこんなに冷めてしまったんだろうか。  こうなってしまったのは、ここ最近のはずだ。柚菜が高校に入学するまではこんなことはなかった。これまでもお互いに不平不満をぶつけ合うことはあったが、今のように刺々しく冷めた感じではなかった。喧嘩することはあったが、知らない間に仲直りしていた。今は喧嘩しているわけではないので仲直りのしようもない。強くはないが非常に冷たい風が二人の間に吹いている。沙知絵が私に愛想をつかせ冷めてしまったようだが、なぜ愛想をつかせてしまったのか、その理由が全くわからない。  シリアルを食べ終えて、沙知絵と柚菜が帰宅する前に家を出た。職場の後輩の高山に誘われ、もう一人の後輩の清水と三人で飲みに行く約束をしていた。  私と高山、清水の三人は同じ食品スーパーで働いている。高山は野菜売場を担当し、清水は鮮魚売場を担当している。二人とも歳は私より五つ年下だ。  私は精肉売場を担当し、毎日肉を切りパックをして冷蔵ケースにそれらを並べる。お客さんから昨日買った肉が美味しかったと言われるとすごく嬉しい気持ちになるが、仕事の喜びはその一瞬だけだ。お客さんに喜ばれたからといって給料が上がるわけでもない。  反対にお客さんからクレームが入ると頭を下げ、酷い時は、お客さんが本社に連絡を入れて、同期入社のイケメンの部長が真っ赤な顔をして店に現れる。部長は言いたいことだけを早口で捲し立て、私の評価を下げて現場を後にする。部長はあの時沙知絵と噂のあった店長だ。この部長と沙知絵が結婚していたら、沙知絵の人生はどうなっていたのだろう。部長なら沙知絵を幸せにしていたのだろうか。  私と高山と清水は職場からも家族からも見放されて毎日愚痴を言い合う三人組だった。だから私たちはよく三人で飲みに行く。思いっきりビールを飲んで、ゲロといっしょに嫌なことを全て吐き出すのだ。  私は入社して二十八年になるが役職は未だにチーフだ。同期の連中のほとんどが現場から離れ課長や部長になってバリバリと会社のために働いている。私だって会社のために真面目にバリバリと働いてきたつもりだが、上からの評価は同期の中では下の下の下だ。  人事の評価なんて結局は上司の好き嫌いで決まってしまうものだと、出世することを諦めてからどれくらいの年月が経つのだろうか。  入社した日のことを思い出す。あの頃は希望に満ちあふれ、精肉の担当者としてやりがいがあった。しかしそのやりがいは日に日に削ぎ落とされて、今ではほとんどなくなってしまった。  この日は高山と清水と三人で盛り上がった。最後のジョッキを空にしてから居酒屋を後にした。  まだまだ話し足りなかったが、清水がハイペースで飲み過ぎて、体調が悪くなったのでお開きすることにした。居酒屋を出て、駅へと抜けるシャッター街を三人横一列に並んで歩いた。シャッターが風で揺れ、我々の心のような鈍い金属音を響かせていた。  清水がフラフラと鈍い金属音に引っ張られるようにシャッターの前に立つ電柱に体を預けた。三人の中で一番アルコールの弱い清水が今日はハイペースで一番量を飲んでいた。 「清水、大丈夫か?」  私が声をかけたら、清水は電柱に額を当て左手を上げた。  清水は、「だい、……」と言ったところで言葉を切り、「じょうぶです」という言葉の代わりに、「ゲボッ」と喉の奥から音を出して電柱に額を当てたまま思いっきりゲロを吐いた。  私は慌てて清水の元まで行き、清水の背中をさすった。 「おい、大丈夫か」  清水の顔を覗きこんだ。清水の体は痙攣していた。清水の背中を上下にさする度に清水の口からゲロが温泉がわき出るように噴き出ていた。清水の口からゲロがボタボタと地面に落ちて足元にゲロの島ができている。清水の口から次々と吹き出るゲロが島の上に落ちて、島がドンドン大きくなっていく。それを見て私まで気分が悪くなり吐きそうになった。  清水は胃の中が空っぽになってゲロが出なくなっても、まだ「オエー、オエー」と喉の奥から音を出していた。  清水の横顔を覗きこむと、目から涙が溢れ出ていた。涙は清水の目から次々と落ちて、街灯に反射しキラキラ輝きながら、清水の吐いた足元のゲロの島の上にポタポタと落ちていった。  清水は先月離婚した。これまで飲みに行く度に奥さんの愚痴をこぼしていた。さっさと別れて自由になりたいと言っていたはずなのに、離婚してからの清水はめっきり元気を失っていた。  清水から離婚することになったと聞いた時、私は、「自由になれるから良かったな」と言ってしまった。  清水はその時、目尻が上がり、キッと私を睨んだ。 「良いわけないですよ」  大人しい清水がめずらしく声を荒げて唇を尖らせた。 「えっ、そ、そうなのか」 「当たり前です。離婚して良いわけないです」 「す、すまん。お前、奥さんと別れたかったんじゃなかったのか」 「本気で思ってるわけないでしょ」 「そ、そうだよな。すまん」  私はもう一度、謝って俯いた。  自分も沙知絵のことを愚痴ってはいるが、本当に別れるとなるとこうなってしまうのだろうかと思った。  しかし、沙知絵の方は早く別れたいと思っている。目の前の清水の姿は、近い将来の自分の姿なのかもしれない。清水は、その後、俯いたまま何も言葉を発しなかった。  この飲み会は清水を元気づけようと高山が計画をしたものだった。私もなんとか清水を元気づけたいと、高山の計画にのった。  しかし、清水の背中をさすりながら目から落ちる涙を見ていると、私と高山の計画は効果が無かったように思えた。  清水が少し落ち着いたので、また三人で駅へと向かって歩いた。夜空を見上げると三日月が涙目のように見えた。  駅まで着いて、そこからは三人の帰る方向はバラバラだ。高山は駅からは徒歩で帰る。私と清水は電車に乗って帰るのだが、帰る方向は逆だ。  駅に着いてから高山が清水はタクシーで帰らせた方がいいんじゃないですか、と言ってきた。意識はしっかりしているように見えたが、私もその方が安心だ、と同意した。  清水をタクシーに乗せるために駅のロータリーにあるタクシー乗り場へと三人で向かった。高山が清水を抱え、私は駅前で待つタクシーの運転席側に回りドアの窓を叩いた。 「すいません」  俯いていたタクシーの運転手が気付いて顔を上げ私に視線を向けてから窓を開けた。 「はい」 「彼を自宅までお願いできますか?」  高山が抱える清水に視線を向けて言った。  運転手は後ろのドアの前に立つ二人を見てから眉間に皺を寄せて、「抱えられてる人?」と私に訊いた。 「はい、そうです」 「大丈夫なの? 中で吐かない?」  運転手が口元を歪めた。 「大丈夫です。胃の中の物は全部出しちゃってるから」  私はそう言って財布から五千円札を抜き取り、運転手の目の前に出して行き先を伝えた。運転手は渋々といった感じで五千円札を受け取り、「フゥーン」と不満そうな息を吐いてから後ろのドアを開けた。  高山が清水を後ろの座席に押し込んで、運転手に向かって「すいません」と頭を下げた。  私も「すいません、お願いします」と頭を下げた。 「清水、大丈夫だな。気をつけて帰れな」  高山がタクシーを覗きこんで言った。 「有難う。迷惑かけたな。もう大丈夫だ」  清水は右手を上げて高山に言った。 「清水、お疲れ」  私が言うと、清水は、「大沢さん、今日はありがとうございました」と言って鼻をすすりだした。 「いいよ、いいよ」  清水の意識はしっかりしていたようだ。少し安心した。 「じゃあ、運転手さん、お願いします」  運転席を覗きこんで、運転手にもう一度頭を下げた。  運転手は私を一瞥してすぐに車を出した。走り出したタクシーの赤く光るテールランプを見ながら、高山と同時に「フゥー」と息を吐いた。 「清水、大丈夫ですかね?」  高山が私の横に立って訊いた。 「大丈夫だろ。酔いはさめてたんじゃないかな。電車でも帰れたかもしれない」 「いや、そっちじゃなくて」 「えっ?」  高山に視線を向けた。 「離婚の方ですよ。離婚してあんなに落ち込むとは思ってなかったんですけどね」  高山が両肩を上げ首を傾げた。 「そうだな。清水も奥さんのこと愚痴ってばかりだったからな。早く別れたい、なんて言ってたもんな。離婚が決まってスッキリしたのかと思ってたんだけど、本当に別れるとなるとやっぱり違うんだろうな。本心は新婚の頃ような関係に戻れることを期待してたのかもな」  そう言ってから自分はどうなんだろうかと思った。 「大沢さんは、どうなんですか? 大沢さんも別れた方がスッキリするって言ってましたけど、本心は奥さんと新婚の頃のように戻りたいんですか?」  私の心を読んだかのような高山の質問に、私は苦笑いを浮かべるしかなかった。 「いやー、どうなんだろうな? わかんねえな。けど、今のままだと別れた方が嫁さんも娘も幸せな気がするけどな。いっそ死んでほしいと思われてるかもな」  今の私は自宅に帰っても寛げる場所はない。沙知絵の私を見る視線は、ここ数ヵ月、日を追うごとに冷たくなっているように感じる。柚菜も年頃になったせいもあるのだろうが、私とは目も合わせようとしない。自宅に私の居場所など全くといっていいほどなくなってしまった。  自宅は三十年の住宅ローンを組んで買った。郊外に買ったばかりに三十分だった通勤時間は二時間近くになってしまった。職場で辛い思いをしても、ローンの支払いのことを考えると、グッと我慢して働かなければならない。そんな思いをして買ったマイホームなのに、寛ぐ場所がないなんて本当にやりきれない。何のために私は生きているのかと思った。死んだ方が幸せなのかもしれない。  高山は私たち三人の中では一番幸せそうに見える。普段奥さんとの会話が無いが、たまに口を開けば愚痴ばかり言われると話していた。  でも、高山には私や清水のような陰鬱な感じがない。高山になぜそんなに元気なのかと訊いたことがあるが、高山は「まっ、お互い様だから」と言って笑っていた。  仕事の愚痴を一緒にこぼしても、高山だけは笑い話のように話す。そして、仕事の評価が低くても、「俺の場合はちゃんと仕事してないから、仕方ないですけどね」と笑う。  私から見れば高山の仕事ぶりはちゃんとしている。いつもお客さんのことを考え、お客さんに愛想よく振る舞っている。私たち三人の中では一番頑張っていると思う。 「大沢さん、今日は有難うございました。清水を元気にできませんでしたけど、俺はすごく楽しかったです」  高山が別れ際にそう言って笑みをくれた。 「俺も楽しかった。また清水を元気づけてやろうな」  そうは言ったものの、清水を元気づけるほど、自分自身に元気がない。高山といっしょにいる間はいいが、高山と別れた途端、うつな気分になる。 「そうですね、人生はまだまだこれからですよ。楽しみましょうね」  高山が溌剌とした声で言った。 「そうだな」  私の声は風にかき消されるような小さな声になった。  高山は私に向かって右手を高く上げ大きく振りながら私が駅の改札に向かうのを見送ってくれた。高山はいつも元気で、落ち込まない。あいつは強いなと思った。  高山と別れて駅のホームに上がるとすぐに電車が入ってくるのが見えた。このままホームから飛び込めば楽になるのだろうか、天国に行けば、早くに死別した父親と母親と天国で幸せに暮らせるのかもしれないと、ふと思った。でも、この時は飛び込む勇気はなかった。  自宅の最寄り駅に着いた。ここから二十分かけて急な坂道を上らなければ自宅にはたどり着かない。自宅に着いた時の沙知絵の表情が頭に浮かんだ。また、深くて重いため息が出た。吐いた息が宙で白く濁って消えていった。  居場所のない自宅へとなかなか足が向かない。このまま帰りたくない気分だ。信号が青に変わったが、進まずタバコに火をつけた。周りは足早に信号を渡って行く。タバコを吸っているうちに信号が赤に変わった。吸殻を地面に捨てて踏みつけた。その時に体が車道側にふらついた。 『キキキキキッー』急に耳をつんざくような音が聞こえた。目の前にトラックが向かってくるのが見えた。 『バァーン』と鈍い音がして頭と胸の辺りに強い衝撃を感じた。  目を開けると白い天井が見えた。蛍光灯の白い光が目に刺さり視界が少しぼやけた。瞬きを繰り返し明るさに目が慣れると視界の端に白いものが見えた。視線をゆっくりと天井から移動させると白衣姿の男が立っていた。  男の顔を覗きこむ。年齢は私よりだいぶ若そうだ。三十代くらいだろうか。ボリュームのある黒々とした頭髪の下に小さくて白い細面の顔が覗いていた。細いフレームの眼鏡の奥の切れ長な目がじっと私の顔に向けられている。薄い唇は真一文字のままで平坦な表情をしている。  男は医者のようだ。その隣に看護師らしき女が立っていた。女の背丈は隣の医者の肩くらいまでしかないが横幅は医者の倍ほどある。鼈甲の眼鏡から覗かせるギョロリとした目と気だるそうに首を折る仕草にベテランの貫禄を感じた。  二人の顔を交互に見てから、今の状況を考えてみた。確か高山と清水と三人で飲みに行ったあと、二人と別れて帰路についた。その後、駅に着いてから信号待ちでタバコに火をつけた。その後だ。体がふらついてトラックが向かってきたのだ。  きっとトラックに跳ねられてここにかつぎ込まれたのだ。自分の体はどうなっているのかと、恐る恐る首を左右に動かしてみた。意外とスムーズに動く。首に痛みは全く感じない。起き上がろうと首を少し枕から持ち上げた。スッと持ち上がる。大丈夫そうだ。次に腹筋を使い体をゆっくりと起こしてみた。やはり痛みもなく簡単に体を起こすことができた。  以前より体が軽くなった気がする。これまでなら寝ている体勢から脂肪だらけのブヨブヨとした体を起こすのに腹筋だけでは無理で後ろ手に両手をつかないと起き上がれなかった。今は簡単に、ヒョイッと起き上がることが出来た。自分の体とは思えないくらいに軽い。  一体ここはどこの病院なんだ。このイケメンの医者に訊いてみようとイケメンの涼しそうな目を覗き込んだ。 「あのー、すいません」  イケメンに向かって声を発した。イケメンは私の声が聞こえていないのか全く反応せず平坦な表情のままだった。それに、私はベッドの上で体を起こしているというのに私の方に視線を向けることなく、じっと枕元を見ている。  おかしいなと首を傾げた。普通の医者なら、患者の意識が戻り起き上がったら、『起き上がらないでもう少し安静にしていて下さい』だとか、『意識が戻りましたか? それは良かったです』だとか、声を掛けそうなものだ。イケメンは私に顔を向けることなく、ずっと、平坦な表情で枕元に視線を向けている。  隣のベテランの看護師を見ると、医者と同じく私の存在を無視するかのように、じっと手元の資料に視線を落としている。 「あのー、ここはどこの病院ですか?」  二人に訊いてみたが、全く反応がない。  背中に人の気配を感じたので、後ろに首を回した。すると沙知絵と柚菜が立っていた。 「沙知絵、柚菜、来てくれてたのか」  沙知絵と柚菜に向かって言ったが医者と同じように私に気付かない様子でずっと俯いていた。 「サチエ」病院の中だが、大きい声で呼んだ。  それでも、沙知絵からは何の反応もなく、下を向いたままだった。柚菜も同じだ。医者も看護師も反応がない。 「死んじゃった?」  沙知絵の隣に立つ柚菜が呟くように言った。  柚菜が『死んじゃった?』と言ったのは、どういう意味だ。私はこうして意識が戻り生きているじゃないか。 「柚菜、お父さんは死んでないぞ。意識を失っていただけだ。今さっき意識も戻ったぞ」  柚菜の顔を覗きこんだ。柚菜は私の言葉を無視して、口を尖らせて気だるそうな表情を浮かべていた。 「おい、柚菜」と呼んでみたが同じく全く反応がない。 「どうなってんだよ」  私は少し苛立ち、枕元に視線を向けた。  そこで、「うげっ」と喉の奥から変な声が勝手に出た。 「どういうことだ」  枕元から視線をそらし、天井を見上げて深呼吸した。 「意味がわからん」  もう一度、枕元に視線を向けた。  ベッドには私自身が横たわっている。頭に包帯が巻かれていて、顔は腫れているが、私に間違いない。今私はこうしてベッドから起き上がり座っているのに、ベッドに横たわり眠っている別の私がいる。  ベッドから出て、立ち上がり、ベッドで横たわる私ををよーく見る。やっぱりベッドで眠っているのは私だ。  沙知絵、柚菜、医者、看護師を順に見た。四人とも、私の存在に気付いていない。四人ともベッドに横たわるもう一人の私を見ていた。  そしてイケメンの医者がベッドに横たわる私に顔を近づけて瞳孔を確認してから腕時計に視線を落とした。 「十一月十一日、午前十一時五十八分、今お亡くなりになりました」  イケメンはそう言って沙知絵と柚菜に向けて頭を下げた。 「あなた」  沙知絵がベッドに近づき横たわる私に声を掛けた。 「お父さん」  柚菜もベッドに横たわる私を覗きこんだ。  沙知絵の顔を見た。口元が綻んでいるように見えた。 悲しんでいるようには見えない。柚菜の顔を見た。気だるそうにして首の後ろを掻いていた。悲しんでいると言うより面倒臭いといった感じだ。  ベッドの上で今息を引き取ったのは私なのか。そうなると今のこの私は一体誰なんだと自分の体に視線を向けた。すると自分の体が透けていることに気がついた。 「サチエー」と叫んでみたが、沙知絵の耳には届かないようだ。ベッドに横たわる私に視線を落としたままだった。 「ユナー」と叫んだが、やはり同じだった。  二人は涙を見せることもなく、表情を変えることもなく、ただ、こけしのように立って、ベッドの上で魂の抜けた私の体を眺めていた。そして、最後にイケメンの医者に向かって頭を下げた。なぜか私も二人に倣って医者に向かって頭を下げていた。  急に激しい風が吹いた。屋内だというのに台風並の強さだ。風速二十メートルくらいの立っていられないほどの風だ。体を低くして辺りを見回すと、病室の窓もドアも閉まっている。どこからこの強い風が吹きこんでいるのか全くわからない。  沙知絵や柚菜は大丈夫なのかと見てみると、不思議なことにさっきまでと変わらず平然と立っている。風を受けている様子はない。医者と看護師も同じだ。病室にある物全て、私以外は整然としている。  風が一段と激しくなった。そして、ついに私の体は宙に浮いた。手足をバタバタとしてベッドの手すりに手を伸ばすが掴めない。浮いた体は、そのまま風に飛ばされ病室の窓に向かって突っ込んでいく。このままだと私は窓に激突して、割れた窓ガラスで全身血まみれになる。恐怖に怯え窓にぶつからないようにと手足のバタバタを繰り返し必死で抵抗した。空中で平泳ぎのようなポーズをとった。しかし無駄な抵抗のようで、体はドンドン窓に向かっていく。必死で平泳ぎを続けるが全く効果がない。グォーと音を立て一段と強い風が吹いた。体がひっくり返り窓ガラスが目の前に迫る。ぶつかる瞬間に両手で頭を抱えて目を閉じた。ガッシャーンと激しく窓ガラスが割れるかと思いきや窓が割れることはなかった。  目を開けると私の体は窓ガラスをすり抜けて病院の外に飛び出していた。  四階の病室から飛び出た私は引力に逆らい、そのまま風の力に押されて風船のように舞い上がっていく。  私は顔面に風を受けながら、また平泳ぎを続け抵抗してみるが、全く効果がなく、体はどんどんと空に向かって上昇していく。  さっきまで私のいた病室の窓がみるみる小さくなっていく。病院の屋上が見えた。屋上には数人の人影があった。その人影もあっという間に米粒のようになり病院の駐車場に停まる車も豆粒ほどになった。病院の周りの田畑が碁盤の目のように見える。私の体は止まることなく上昇していく。すでに抵抗する体力は残っていない。体を風に任せると、上昇するスピードがドンドンと増していく。  青く輝く瀬戸内海に小さな島が浮かぶのが見え、瀬戸大橋も見える。瀬戸内海の向こうには四国の山や街並みが広がる。視線を左に向けると淡路島に六甲山も見える。  それでも止まることなくまだまだ上昇していく。淡路島の形がはっきりわかる高さまで上昇した。大阪湾も見える。関空も見える。その向こうが和歌山県だ。まるで飛行機から見る景色だ。  和歌山県の上空に青く輝く強い光を見つけた。UFOだろうか。その光は私と同じくらいの速度で上昇している。しばらくその青い光を目で追った。  突然視界が真っ白になる。雲の中に突入したようだ。風の勢いが増し上昇するスピードが一気に加速する。  雲から抜けたのか、真っ白だった視界が急に藍色に変わった。そこでピタリと風が止まった。青い玉も同じく止まった。辺りを見渡すと足元には白い雲が広がり、それ以外は藍色の世界が広がる。ここは死後の世界なのか。  見渡す限り藍色一色。足元に幅一メートル位の水色の道が出来た。その水色の道は、眼前に広がる藍色の空間へオーロラのように曲線を描きながら伸びていった。青い玉にも同じく水色の道が伸びていた。  足元の水色の道をよく見ると、小さな氷の粒が敷き詰められていた。私の体は自分の意思とは関係なく、水色の道を氷の上を滑るソリのように滑りはじめた。  私は転ばないようにバランスをとり半身に構えた。スケボーを滑るような体制だ。これまでスケボーの経験など全くなかったのに、意外と転ぶことなくスムーズに滑っていった。  滑りながら周りを見ると、藍色の世界に無数の水色の道が走っている。水色の道は次から次へと現れ、藍色の空間に伸びていく。他の水色の道の上には青い玉が勢いよく滑っていた。  水色の道の上を適度なスピードで振動もなく滑っていく。本当にスノボーを滑っているような感覚で、それもかなりのスノボー上級者のような感じでなかなか心地がいい。  ただ、この先私は死に向かっているのだと思うと複雑な心境になる。私が病院のベッドで息を引き取った瞬間の沙知絵と柚菜の表情を思い出すと、この先、生きていても仕方ない人生だとは思った。早くに死別した父親と母親のもとに行った方が幸せなのだと思った。  しかし、やはり死にたくはなかった。もう一度、沙知絵と柚菜と家族三人で幸せに暮らしたい。しかし、死んでしまったのでもう叶わない。まあ、生きていても叶わないのかもしれないが。  しばらく滑っていくと、先の方に大きな川が見えた。水量は溢れるほど多く流れは早い。ゴォーゴォーと音を立てている。川の水の色は赤錆色に濁っていた。もしかして、あれが三途の川なのか。  前を走るほとんどの青い玉たちは川の手前まで着くと一旦停止したあと、水色の道が一気に川の向う岸まで伸びて、そのまま川を渡っていった。  しかし、なかには川の手前で止まったまま水色の道が伸びないものもあった。それらの青い玉は、しばらく止まった後、そこからバックして戻っていった。バックする青い玉は、死に際で助かり生き返ることができた人たちかもしれない。九死に一生を得た人たちだ。  私はどうなるのだろうか。三途の川を渡ってしまうのか、それとも引き返すことが出来るのか。三途の川が近づくにつれて心臓の音が激しくなった。  三途の川が目の前に見えた。そこで急ブレーキがかかりピタリと止まった。ここから水色の道が向う岸まで伸びるのか、それとも伸びないのか、私は祈るように両手を合わせた。やはり死にたくはない。右端に三途の川と書いてある立て札が見えた。  私はここから戻って生き返れるだろうか。もし、生き返れるなら、私は生き返りたいのだろうか、それとも、このまま天国に行きたいのか、自分に問いかけてみた。  私は生き返ってやりたいことはあるのか、生き返って喜んでくれる家族はいるのか。答えはノーかもしれないが、やはり生き返りたい。いい人生じゃなかったかもしれないが、生き返ったらやり直すことができるかもしれない。  私は祈り続けた。長い時間が経った気がする。そのまま何も変わらない。じっと止まっている。手に力を込め、目をぎゅっと閉じた。そして生き返らせて下さい、と神様に祈った。  まだ動かない。他の青い玉と明らかに違う。他の青い玉たちが三途の川の手前で止まっていた時間は数秒程度だったはずだ。私は一分くらいそのままだ。後からくる青い玉はドンドンと私を抜かして三途の川を渡っていく。ただもう一つ私と同じく止まったまま動かない青い玉があった。  たくさんの青い玉に抜かされた。このまま生き返られるのではないかと期待した。  しかし、期待した瞬間に、私の前に水色の道が三途の川の向こう岸まで一気に伸びていった。隣で止まっていたもう一つの青い玉も同じように三途の川の向こう岸まで水色の道が伸びていった。そして二つ揃って三途の川を競争するように同時に渡った。これで私の死が確定したのだ。 「沙知絵、柚菜、高山、清水、みんな、ありがとう。さようなら」  三途の川の上を渡りながら後ろを振り返り、手を振った。  三途の川を渡ってから五分程まっすぐに進んでいった。周りの景色がずっと同じで飽きてきた所で、私の前を走る水色の道が右にカーブしてから、滝を昇る龍のように勢いよく上昇して伸びていった。それに乗る青い玉もそのまま水色の道に沿って次から次へと右へとカーブして上昇していった。その先を見上げると、宙に『天国』という文字が浮かんでいる。あの先に天国があるのだ。私もこれから右にカーブして上昇し天国へと向かうのだ。  ところが、これまで水色の道の上をスムーズに滑っていたのが、急に悪路にでも入ったかのように左右に大きく揺れだしてスピードがガタンと落ちた。足元を見ると、氷の粒が溶けて滑らなくなってきた。私だけが今にも止まりそうな徐行運転になってしまった。  足元の氷は完全に溶けてしまい、真っ赤な液体が流れはじめている。足元がドンドン熱くなってきた。そして、水色の道が消えて私は真っ赤な液体とともに宙に放り出されまっ逆さまに落ちていった。 「ウワーッ」と声が出た。その声がこだまする。そして意識が遠のいていった。
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