幸と不幸

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幸と不幸

 目を覚ますと頭が二日酔いのようにズキズキする。  さっきのは夢だったのか、それとも現実なのか。目を閉じたままズキズキする頭の中を整理する。夢でなかったなら、私は死後の世界に一度足を踏み入れたことになる。  自称天使という男たちのミスにより私は地獄に落とされそうになった。寸前のところでミスだとわかり、地獄に落ちることは免れた。しかし、地獄に落ちるはずだった男が天国に行ってしまったため、私は天国に行くことが出来なかった。そこで天使たちは私を生き返らせることを提案した。天使たちは自分たちのミスをなかったことにするための苦肉の策で、怒りを覚えたが、自分が生き返ることは魅力的な提案だったので受け入れることにした。  夢を見ていた気もするが、夢とは思えないほど記憶にはっきりと残っている。地獄に落とされそうになった時は、何がどうなっているのか、わけがわからず、頭がおかしくなりそうだったので、正直、今はホッとしている。今のこの体の痛みさえ、生きていることが実感できて有り難く思う。  布団の中から手だけを出してみた。手にひんやりした空気が触れた。今度はその手を頬にもっていき頬を擦った。頬の肉がげっそり落ちたなと思った。 「せ、せ、先生、先生、ちょ、ちょっと見てください」  女性の声がした。興奮しているようだが、高く澄んだ心地よい声だった。 「う、うん、なんだ」  今度ははしゃがれた男の声がした。 「い、いま、患者さんが動きましたよ。布団から手を出して自分の頬を触ってました。意識が戻ったんじゃないでしょうか」  また女性の澄んだ声だ。あのベテランの看護師だろうか。気のせいか、死ぬ前に聞いた時より声が若々しくハリがある。そしてすごく興奮しているようだ。もう死んだと諦めていた患者の腕が動いたのだから、興奮する気持ちはわからなくはない。  私は意識が戻ったことを医者にアピールするため、しばらく頬のあたりを手のひらで擦っていた。 「お、お、おお、ほ、本当だ。手で顔を擦っとる。こ、これは信じられんことだ。この患者はもう助からんと思っとたのに」  男性の声が聞こえた。イケメンの医者の声だろうか。これも死ぬ前に聞いた声とは違い、しゃがれた声になっていた。話し方もあのイケメンの医者にしては年寄り臭い。  医者も看護師も、私が死ぬ前に聞いた時の声と違って聞こえるのは、二人とも私が生き返ったことに興奮しているせいだろうか。それとも私の耳がおかしくなっているのだろうか。  少し息苦しかったので、大きく息を吸った。消毒の臭いが鼻をついた。何度も深く呼吸をして、ゆっくりと目を開けた。天井が見えた。少し黄ばんでいた。死ぬ前に見た天井は真っ白だったように思ったが記憶違いだろうか。それとも病室が変わったのだろうか。 「せ、せ、先生、今、か、患者さんの目が開きました」  また澄んだ女性の声が聞こえた。声が上ずり、興奮度はさっきより増しているようだ。 「あ、あー、ほ、本当だ」  しゃがれた声が裏返った。  私はしゃがれた声の方へゆっくりと視線を動かしてみた。白髪頭の黒縁眼鏡をかけた白衣姿の男が目の前にいた。 「気がつきましたか?」  その白衣姿の男が、分厚い唇を動かして言った。しゃがれた声の正体はこの男のようだ。 「先生、良かったですね」  女性の澄んだ声がまた聞こえた。  澄んだ声の方に視線を向けると若くて愛らしい白衣姿の女性が目を大きく開いて私の方を見ていた。潤んだ瞳のなかの黒目が大きくて吸い込まれそうだった。  おかしい。死ぬ前と生き返った今と、なぜか医者も看護師も変わっている。私があの世に行っている間に、病室が変わり、医者と看護師も変わったのだろうか。重体の患者なのに、そんな急に変わるものなのかと不思議に思った。  それとも、私はもう助からないと判断して、前のイケメンの医者とベテランの看護師は、助かる可能性の低い私の治療を諦めて他の患者の所に行ってしまったのか。  いや、それもおかしい。やはり変だ。サウスという男は、私があの世に行っている間、現世では時間が止まっていると言っていたはずだ。そうなると医者と看護師が入れ替わる時間があるはずがない。  サウスが適当なことを言った可能性もあるが、やはりおかしい。後ろにいた沙知絵と柚菜はどこにいったのか。二人の姿を探そうと首を持ち上げ体を起こそうとした途端、首と背中に落雷のような激痛が走った。 「イター」と声が出た。出した声が自分の声ではない気がした。低くて渋い野太い声だった。 「ダメですよ。無理しないでください」  若い看護師が、起き上がろうとする私を押さえつけるように私の肩に手を当てた。 「起こしてもらえませんか」  痛みを堪えながら看護師にお願いした。 「ダメです。まだ安静にしておいて下さいね」  若い看護師が整った眉をハの字にして言ってから笑みをくれた。 「あっ、はい。わかりました」  可愛い看護師にどぎまぎし、布団を鼻までかけて、看護師の顔を覗きこんだ。彼女を見て下半身が勝手に反応した。下半身に手をやると自分のものとは思えないくらいに大きいものが手の感触に残った。  何かおかしい。そう思いながら、おとなしくベッドに横になったまま、ゆっくりと深い呼吸をし心を落ち着かせた。 「意識が戻って良かったですね」  可愛い看護師が布団の上から私の胸に手を置いて笑みを浮かべた。 「は、はい」  私はまた下半身を手で押さえた。やはり感触が以前とは違う。 「このまま回復に向かいそうですが、ただ、全身を強く打っていますのでね、一度、精密検査をしましょうかね。特に頭を強く打っていますからね」  しゃがれた声の医者が言った。 「わ、わかりました」  私は医者の顔を見て返事をした。 「この患者さんの容態は少し落ち着いたようだから、わしは他の患者のところに行ってくる。なにかあったらすぐに呼んでくれるかな」  白髪の医者がそう言って病室を出ていこうとした。 「はい、先生」  看護師が病室を出ていく医者の背中に向かって言った。看護師は病室を出ていく医者をドアまで見送ってから、こちらに体を向けた。後ろ手に手を組みゆっくりと歩いて私が横たわるベッドの前まで来て私を見下ろした。 「気分はどうですか。大丈夫ですか?」  看護師の黒い瞳が私を見つめている。その瞳を覗くと、彼女の瞳の奥に見知らぬ男の顔が映っていた。 「あ、はい。大丈夫です」 「それはよかったです」 「ところで、私の妻と娘はどこにいきましたか?」  沙知絵と柚菜の姿が見えないことが気になって訊いてみた。 「あなたの奥さんと娘さん、ですか?」  看護師がその問いに対して、首を傾げ私の顔を覗きこんだ。 「そうです。さっきまで、そこにいたと思うのですが」  私はそう言って、沙知絵と柚菜が立っていた辺りを指さした。 「やっぱり、頭を強く打ったからですかね」  看護師が眉をハの字にした。 「オザワさん、今はなにも考えずにおとなしく寝ていましょうね。怪我を治すことに専念しましょうか」 「オザワさん?」どこかで聞いた名前だ。  私は痛みを堪えて起き上がり、後ろを向いた。沙知絵と柚菜が立っていた場所だ。  しかし、そこには、沙知絵と柚菜の姿はなかった。病室の雰囲気も間違いなく変わっている。そして、この看護師は、私のことを今『オオサワさん』ではなく『オザワさん』と呼んだ。  無理して起き上がったので、首と背中に激痛が走った。 「イタタタ」私はそのままベッドにうっぷせた。 「だから、無理しちゃダメっていってるでしょ。もう」  看護師が少し声を荒げて、うっぷせた私の体に手を当てた。  一体、どういうことだ。私は確かにサウスの言う通りに生き返っている。しかし、変だ。今の自分は自分ではない気がする。私が息を引き取った瞬間の景色と今見ている景色は明らかに違う。真っ白な天井だったはずなのに、今見えている天井は黄ばんでいる。医者も若くてイケメンだったはずなのに、さっきまでいた医者は私より歳上に見える。ベテランの看護師だったはずが若くて愛らしい看護師に変わっている。そして沙知絵と柚菜がいたはずなのに、その姿が今はない。  さっきこの看護師は私のことを『オザワさん』と呼んだ。  おでこに手を当ててみた。包帯が巻かれているようだ。それは息を引き取った時と同じだ。頭を触ってみた。髪の毛がフサフサとしている。私の髪の毛は手が地肌に触れてしまうくらい薄かったはずだ。  鼻をつまんでみた。脂ぎった団子鼻ではなく鼻筋がスーッと通っている。目の辺りや頬に手を当ててみた。腫れぼったかったはずの目元は窪んでいる。肉付きのよかったはずの頬はこけている。触った感じは私のポッテリとした顔ではなく彫りの深い顔だ。  お腹に手を当ててみた。硬くて腹筋が割れている。触り慣れたブヨブヨした贅肉だらけのお腹ではない。 「オザワさん、さっきからなにゴソゴソしてるんですか? どこか痛いところとか痒いところがありますか?」  看護師が心配そうな顔をして、ベッドで横たわる私の顔を腰を折って覗きこんできた。 「あっ、い、いえ、だ、大丈夫です」 「そうですか。ならよかったです」  看護師は折った腰を伸ばした。 「あのー、私の名前はオザワって言うんですかね?」  恐る恐る看護師に訊いてみた。 「えっ、もしかして、オザワさん、自分の名前を忘れちゃったんですか」  看護師が右手を口に当てて目を大きく見開いていた。 「いや、ちょっと、どうだったかなと思いまして」  この看護師にどう説明すればいいのだろうか。 「事故の時に頭を強く打ったみたいですから、少し心配です」  看護師は心配そうな瞳で私を見下ろしている。 「ご心配をおかけして、すいません。ところでここはオカヤマ県ですか?」 「オカヤマ? いえ、ここはワカヤマですよ。和歌山県有田市です」 「和歌山でしたか」  私は、そう呟いて目を閉じた。「フゥー」と息を吐いて両手で顔を覆った。やっぱり何かおかしい。 「オザワさん、自分の名前も住んでいる場所も忘れちゃったんですか」 「いえ、ちょっと記憶が曖昧なだけです」 「本当に大丈夫ですか? 事故の時に頭を打って記憶が飛んでしまってるんじゃないですか」  看護師が澄んだ黒目がちな瞳で私の顔を覗きこんだ。 「いや、す、すいません。だ、大丈夫です」 「心配です。やっぱりちゃんと検査してもらいましょう」  若い看護師はそう言って、ベッドから出ていた私の右手を優しくさすってくれた。看護師の冷たい手が心地よかった。少し気持ちが落ち着いていくのがわかった。  彼女こそ白衣の天使だ。あの丸い顔のサウスと細面のバレーは自分たちのことを天使だと言っていたが、あの二人が天使なわけがない。あの二人の顔が浮かんだ。そこで、あの時のことを思い出した。最後に私を生き返らせるための手続きの時のことだ。バレーが私の資料を持って、生き返る手続きに行った。サウスはバレーに向かって、絶対に資料を間違えるな、間違えると大変なことになるからと言っていた。大変なこととはどういうことだ。もしかして、今、その大変なことが起こってしまっているのではないか。もしそうなら、あの二人のせいで私の人生はめちゃくちゃになっている。 「これから私はどうなってしまうのですか?」  この白衣の天使に訊いても仕方ないことかもしれない。 「そうですね。そこは先生に訊いてみないと、あたしからはなんとも言えません。オザワさん、自分の住所とか、生年月日は覚えていますか?」 「いえ、全く覚えていません」  ここは記憶を失ったことにしておくしかない。この看護師に、本当のことを話したところで信じてもらえないだろう。きっと、私の頭がおかしくなったと思うだけだ。 「やっぱり記憶を失っているみたいですね。先生にはこの事を伝えておきます。記憶が戻ってくれればいいんですけどね」  看護師が淡い色をした小さな唇を尖らせた。 「そ、そうですね」適当に相づちを打った。  もともと小沢勝己という男のことを何も知らないわけだから、記憶がもどるわけがない。小沢勝己について知っていることと言えば、過去に殺人を犯して、地獄に落ちるような凶悪な男だということだけだ。  私の体、というか小沢勝己の体はその後、順調に回復していった。体だけは退院できるところまできたんだけど記憶の方がねえ、と医者がしゃがれた声で言った。記憶さえ戻れば退院できるようだが、小沢勝己としての記憶がもどるわけがない。  小沢勝己に知り合いでもいればいいのだが、看護師の話だと、家族や親戚はいないようだ。職場の仲間や友人もいなかったのだろうか。  仕事は日雇いの仕事をしていたようで、他人との付き合いを拒んでいたのかもしれない。寂しい人生だなと他人事のように思ったが、その寂しい人生のバトンを私が受け取ってしまったのだと気づき、ずっしりと重い気持ちになった。  入院中に見舞いに来たのも事故を起こしたトラックの運転手の男と保険会社の人間だけだった。  父親を殺害した男だ。その後も傷害事件を起こしていると聞いた。そんな男が死にかけていても、誰も見舞いになんて来ないだろう。こんな男と関わりたくないと思うのも当然だろう。死んでくれた方がいいと思われていたのかもしれない。  もし、私が小沢勝己と間違われることなく、大沢勝男として生き返っていたら、私の見舞いに誰が来てくれただろうか。あれこれと友人や職場の仲間の顔を思い起こしてみた。高山と清水と店長くらいは来てくれたかもしれない。  沙知絵と柚菜は、私が生き返ったら喜んでくれただろうか。死ぬ間際の沙知絵と柚菜の顔を思い浮かべると、私が死のうが死ぬまいが興味がないような顔をしていた。考えると辛くなるので考えるのはそこで中断した。  一人で用を足せるようになり、トイレに行って、自分の今の姿を鏡でまじまじと見た。これが今の自分なのかと唖然とした。本当の自分、大沢勝男の姿とは似ても似つかぬ姿だった。本当の私、大沢勝男は背が低くてぽっちゃり。髪の毛は薄く、顔は丸顔。他人からは恵比寿顔で優しそう、癒されると言ってもらった。男前ではないので、そう言って褒めるしかなかったのだろう。  今の小沢勝己の姿は髪の毛はフサフサで黒々としている。鼻が高く頬はこけ落ちている。目は獲物を狙う猛獣のように鋭く光る。  鏡のなかに映るのは今の自分の姿だとわかっていても、目が合っただけで体が震え上がる。左の眉の上に五センチ程のひきつった白く光る傷が恐ろしさをいっそう際立たせている。  身長は本当の私より二十センチは高くて一八〇センチ以上はあるだろう。肉体労働をしていたからなのか筋肉隆々の鍛え上げられた体をしている。  強面で絶対にお友だちにはなりたくないタイプで、反社会的な人間だと言われても誰も疑わないだろう。これから先、この風貌で生きていかなければならないのかと思うと不安しかない。  小沢勝己という男はたくさんの人から恨まれていたのではないだろうか、反社会的な怪しい人間と付き合ってきたのではないだろうか。  私が退院してから小沢勝己を恨んで復讐したいと思っている人間や一緒に悪事を働こうと企てる人間、そんな輩が自分に近づいてきたら、私はどうすればいいんだろうか。  記憶を失ったということでやり過ごすしかないのだが、それが通用する相手ではない気もする。  小沢勝己はどんな所に住んでいて、どんな仕事をしていたのだろう。日雇い労働者というのは隠れ蓑で、違法なことに手を染めていたのかもしれない。  これから先、凶悪犯の男として生きていかなければならないのかと思うと鉛を飲み込んだような気分になった。  サウスとバレーに間違って小沢勝己として生き返ってしまったことを知らせる方法はないだろうか。大沢勝男として生き返るようにやり直しを頼むことは出来ないのだろうか。  その方法をあれこれと考えてみる。もう一度死んでサウスとバレーのいるあの場所まで行くしかないのか。だが、それはリスクが高すぎる。死んで、あの場所まで行ったのはいいが、サウスとバレーに会えずそのまま地獄に落とされでもしたら最悪だ。うーん、どうしたらいいんだ。考えても思い付かない。私はフサフサの髪をかきむしった。 『トントン』  乾いた音が静かな病室に響いた。私はベッドから体を起こしドアに視線を向けた。誰が来たんだ。 『トントン』二回目の音がして、ドアに向かって「はいっ」と声を張った。  小沢勝己の知り合いが来たのか。小沢勝己に恨みを持つ者なのか、それとも一緒に悪事を働いていた者なのか。私は体を硬くして身構えた。 『ギィー』という軋んだ音をたて、ドアがゆっくりと開いた。少しだけ開いたドアの隙間を覗きこんだ。ドアの向こうに男の顔が見えた。チラッと見えただけだが、反社会的な人間には見えなかった。どこにでもいる普通の年配の男だ。男は病室に入ろうとせずに、ドアの隙間から顔だけを覗かせていた。 「失礼しますよ」男の声は低く掠れていた。 「は、はい、どうぞ」私はドアの隙間から見える男の顔を覗いた。  男がこっちを見た。私と目が合った瞬間に男は満面の笑みを浮かべ、ドアを大きく開けた。 「小沢くん、大丈夫なのか?」  男はそう言って、私に向かってきた。眉をハの字にして心配そうな表情だ。 「え、ええ、だ、大丈夫です」  男から目を逸らさずに、そう返事してから身構え右拳を強く握った。人の良さそうな男に見えるが油断は出来ない。  男とはじめて会うはずだが、どこかで会ったことのある気がしてならない。どこで会ったのかは思い出せない。  男をよく見ると、男の髪の毛は不自然に浮いて歪んでいた。もみあげの辺りだけに白いものが目立つ。多分安物のかつらでも被っているのだろう。それが気になって、吹き出しそうになり、さっきまでの緊張した気持ちが解けていった。色の入った黒縁の眼鏡もあまり似合っていない。温厚そうな感じで目尻や額に深い皺が刻まれ、白い髭の間から覗く口元は綻んでいた。 「久しぶりだな」  男はそう言ってベッドの前に立ち、私を見下ろした。 「そ、そうですね」  私は適当に答え、握っていた拳を少し緩めた。 「大変な目にあったようだけど、命が助かっただけでもよかったよ」  男を見ると、綻んでいた口元を一文字にし唇を噛みしめていた。眼鏡の奥で皺に埋もれる瞳は潤んでいた。涙を堪えているように見えた。  この男とどこかで会ったような気がして気持ちが落ち着かなかったが、どこにでもいる年寄りの顔だから考えるのは止めた。小沢勝己の知り合いだ。小沢勝己とは縁もゆかりもなかった私が知っているはずがない。 「小沢くん、今回は本当に災難だったな」  誰だかわからないが、小沢勝己とどこかで繋がっている人物であることは確かなようだ。 「ご心配をおかけしてすいませんでした」  とりあえず、私はそう言ってベッドから出ようとした。 「いいよ、いいよ、無理しないで。わしに気をつかわずそのままゆっくりしていてくれればいいよ」  男は両手を前にだし私がベッドから出ようとするのを制した。 「はい。ありがとうございます」  私はそう言って、立ち上がるのをやめベッドの上に正座した。 「小沢くん、わしのことはわかるのか?」  男が自分の顔に人差し指を向けた。 「すいません。それが記憶がどうもあやふやでして」  頭を掻きながら、記憶喪失のフリを続けるしかなかった。 「そうか、さっき看護師さんから聞いたが、記憶が無くなっているというのは本当なんだな」  男は寂しそうな視線を私に向けた。 「申し訳ありません」  私はペコリと頭を下げた。 「小沢くんが謝ることないよ。今回はほんとに災難だったね。けど、命が助かっただけでもよかったよ」  男の瞳がまた潤んだ。  小沢勝己のような凶悪犯の男でも、心配してくれる人がいるんだと意外に思った。  一体目の前にいるこの男は何者なんだろう。小沢勝己とはどういう関係なんだろう。一緒に悪事を働いていた相棒だろうか。いや、この男からそういった悪人の臭いは感じない。どちらかと言えば善人の臭いがする。 「私は父親を殺しているんですから死んで地獄に落ちても仕方なかったかもしれませんけどね」  私は適当に言ってみた。  その時、男の眼鏡の奥の瞳が鋭く光った。 「あの事件のことは覚えているのか」  男の声は低く暗い闇に響くような声になった。 「え、ええ、覚えているというか、ふと、そんなことがあったような気がしています」  これまで見せなかった威圧感のある男の眼差しに圧倒され、目を合わすことが出来なくなり俯いてしまった。 「そうか。けど、わしのことは覚えていないか?」 「は、はい。すいません」 「記憶が無くなってしまっているのに、あの事件のことだけは覚えているなんて皮肉なもんだな」  男はそう言って唇を噛みしめた。  この男は小沢勝己の過去を知っているようだ。この男から小沢勝己のことを聞き出してみよう。 「もし、よろしければ、椅子におかけになって下さい」  私は病室の隅に立てかけてあるパイプ椅子に視線を向けた。 「そうだな、そうさせてもらおうかな」  男はそう言って、立てかけてある椅子を取り、ベッドの近くまで持ってきて椅子を広げた。男は椅子に腰をおろしてからフゥーと息を吐いた。短い腕を組んで私に優しい眼差しを向けた。 「私の過去について教えていただけませんか? 父親を殺した時のことが特に詳しく知りたいんです」  私が言うと男は私の目をじっと見つめてから視線を宙に向けた。口を尖らせて目を閉じた。しばらく沈黙があった。男は話すべきか悩んでいるように見えた。 「あんたにとっては思い出すのは辛いことかもしれんぞ」  宙にやっていた視線を私に向けてじっと見つめた。 「はい、それでも構いません。ぜひ聞いておきたいです。自分の犯した罪を知らないまま、この先、生きていくのは不安でなりません」  辛い過去なのかと思うと少し怖じ気づいたが、小沢勝己は、なぜ父親を殺してしまったのか、その後どんな人生を歩んできたのか。もし、このまま小沢勝己として生きていかなければならないなら絶対に知っておくべきだと思った。  男は組んでいた腕をほどき両膝に手を置いた。男の目はずっと潤んでいた。 「わしの名前は南蓮司だ。あんたはわしのことをいつも蓮さんと呼んでいたが、この名前にも記憶はないか?」 「すいません、思い出せません」 「そうか。わしとあんたが、初めて出会ったのは、忘れもせん。今から三十五年前のことだ。わしが三十五歳の時であんたは十五歳、まだ中学生だったかな」  その後の南さんの話は私にとって衝撃的なものだった。聞いていて辛くなった。小沢勝己の人生は私の想像を絶するものだった。  三十五年前、交番勤務の警察官だった南蓮司は、その日の夜もいつも通り巡回を終えて、一人日誌にペンを走らせていた。いつもと変わらない平和な一日で日誌に書く内容も平凡なことばかりだった。  田舎町で起こる事件といえば、野生の動物が出て田畑を荒らしたというくらいのもので、この日はそれすらも無かった。町の住人たちは、この平和な町で未成年による殺人事件が起ころうとは、微塵も思っていなかった。  南が日誌を書き終えて一息ついた時、交番のドアが、大きな音をたて勢いよく開いた。南がドアの方に視線を向けると、開いたドアの前に一人の少年が立っていた。  少年の姿を見た瞬間、南は息をつまらせた。ただ事ではない、何か大変なことが起こったと、すぐにわかった。 「ど、どうしたんだ?」  南はビックリして声が裏返った。  少年は肩で息をし、瞬きもせず、南をじっと見つめていた。大きく見開いた少年の目から出る光は、南がこれまでに見たこともない光だった。希望でもなければ絶望でもない。喜びでも悲しみでも怒りでもない。南に助けを求めているようにも見えるが、南を恐れているようにも見える。それらすべてが混ざった光なのかもしれない。  少年は額を怪我しているようで、額から血が流れ顔を赤く染めていた。 「喧嘩か? 誰かに襲われたのか? ちょっ、ちょっと待ってろ」  南が言っても少年は言葉を発することなく、ただ立ち尽くしていた。  南は奥にある畳の部屋に行って、押入れから布団を出してきて敷いた。 「とりあえず、そこに横になれ」  少年は無言のままフラフラしながら畳の部屋に上がり布団の上に崩れるようにして横になった。 「すぐに救急車呼ぶからな」  南は少年が布団の上に横になったのを確認してから、机の上の受話器をとり、電話をした。  救急車を呼んでから、引き出しからタオルを探し出し、給湯器のお湯で濡らして、少年の額の傷口を軽く拭いた。少年は苦しそうに顔をしかめた。額には、細かいガラス片が無数に刺さっていた。ガラスの瓶か何かで額を殴られたのだろうか。刺さっているガラス片を指で丁寧に取り除いた。救急箱から消毒液を出して脱脂綿に湿らせて少年の額に当てた。少年は顔をしかめる。 「何があったんだ?」  横たわる少年に訊いた。  少年は大きなショックを受けているのだろう。口がガクガクと震えるだけで、言葉を発しようとしなかった。誰かに襲われて、ここまで逃げてきたのだろうか。これは傷害事件だ。そうなると、応援をもらわなければならない。 「何があったんだ。おじさんに話せるか?」  少年を落ち着かせようと、南は、激しく上下する少年の胸に手を当て、優しい口調で訊いた。  ハァー、ハァーと、呼吸の音しか返ってこなかった。少年は南の方に顔を向けることなく、天井をじっと見ていた。南はあせる気持ちを抑え、少年が落ち着くまで待つことにした。  しばらくすると、少年の体の震えがおさまり、少年がゴクリと喉を鳴らした。顔を南の方に向けた。 「少しは落ち着いたか」 「……」  少年は声は出さなかったが、コクリと頷いた。 「そうか、おじさんに、何があったか話せるか?」  少年に優しく視線を向けた。 「父さんをバ、バットで……」  少年は喉の奥から引きつった声を絞り出した。 「バットでどうしたんだ?」南の声も引きつった。 「お、俺は、父さんをバットで殴り殺したんだー」  少年は雄叫びのような声で叫び、そこから、ウォーッと声を上げて泣き続けた。  救急車とパトカーのサイレンが静かな町に鳴り響いた。  私は南さんの話を聞きながら、話に出てきた少年が小沢勝己だとすぐにわかった。小沢勝己はなぜ自分の父親をバットで殴り殺したのだろうか。それについて南さんは話を続けて教えてくれた。  小沢家は父親の進、母親の佐和、そして長男の勝己の三人家族だった。進は父親らしいことは何もせず、毎日酒と博打と女に明け暮れていた。佐和は生活のために毎日朝早くから夜遅くまで働いた。  事件のあった日、佐和は仕事に出かけていた。夜の仕事といっても水商売ではなく、町にあるホームセンターの閉店業務と清掃の仕事だった。進は佐和が水商売をすることを嫌った。  妻の佐和が一日中仕事をして家を空けていることをいいことに、進はほぼ毎日香水の匂いをプンプンさせる化粧の濃い派手な女を家に連れ込んでいた。  勝己が学校から帰ってくる頃には女は姿を消しているが、たまに勝己が帰った時に、まだ女がいることがあった。勝己が家の引き戸を開けると香水の匂いが鼻をつき、家の中から獣のような女の声がもれてくる。勝己が足元に視線を落とすと、赤いハイヒールが三和土を我が物顔に占拠している。  その時勝己は、家の中には入らず、そのまま静かに引き戸を閉め、踵を返して、夜遅くまで家の近くをブラブラした。このことは絶対に母親には言えないと思いながら、暗い夜道を足が棒になるまで歩いた。  事件の日も勝己はいつも通り学校が終わって女がいないことを祈りながら自宅へと向かった。自宅の前の空地から草野球をする小学生の元気な声と打球音が響いていた。小学生たちが逃げていくボールを全速で追いかけていく。いつも目にする光景だった。  この小学生たちは、これから陽が暮れて辺りが暗くなるまで遊んで、遊び疲れた頃に母親たちが迎えにきて帰っていく。今日一日のことを楽しそうに話しながらあたたかい家庭へと向かい、風呂で汗を流してから家族みんなで食卓を囲むのだろう。勝己の頭にそんな光景が浮かぶ。勝己はそれが特に羨ましいとは思わなかった。自分とは別世界のことだと思っていたからだ。  勝己は、野球少年たちの楽しそうな姿を一瞥して家へと向かった。家の前まで来て、一つ息を吐いてから引き戸に手をかけると、家の中からいつもとは違う怒鳴り声が聞こえてきた。怒鳴る声の主はすぐに父親だとわかった。いつも聞こえてくる獣のような女の声はしなかった。  慌てて引き戸を開けると赤いハイヒールが倒れていた。その周りに母親の灰色に色褪せたスニーカーがひっくり返っていた。佐和が昼の仕事から帰ってきていたのだ。  普段、佐和は昼の仕事が終わると、家には帰らず、そのまま夜の仕事に向かうのだが、この日は昼の仕事が早く終わり、一旦家に帰ってきたようだった。そこで、進が連れ込んでいた化粧臭いハイヒール女と鉢合わせしてしまったのだ。  勝己が三和土に足を踏み入れると、化粧の臭いが鼻をついた。ちょうどハイヒール女が出てきた。勝己が女の顔を見ると、女は口元を歪め不貞腐れた表情で勝己を一瞥して、三和土に倒れていたハイヒールを立て足を入れた。そして勝己の胸を突き飛ばすようにして、引き戸が壊れてしまうかと思うくらいの激しい勢いで開け、飛び出していった。カツカツとヒールの音が勝己の耳に残った。  勝己は女の後ろ姿を睨みながら、開けっ放しになった引き戸を力いっぱいにバーンと閉めた。ここには二度と来るなと心で叫びながら。  家の中からは進の怒鳴り声と激しい物音が響いていた。勝己が家の中に入ると、鍋や食器、置時計やアイロン、掃除機、炊飯器まで、家にある、ありとあらゆる物が部屋中に散乱していた。その部屋の中央で、進が佐和に馬乗りになって、顔を平手で殴っていた。 『パン、パン』という鈍い音が部屋に響いた。 「殺されたいんか」と進が叫んでいる。  佐和は声を上げることもなく無防備の状態で殴られ続けていた。 「やめろー」  このままでは佐和が殺されると思った勝己は、急いで進の体を後ろから抱え、投げるようにして佐和の上から引きずり下ろした。そのまま進の体を上から押さえつけようとしたが、進の方が勝己よりはるかに力が強く、勝己は簡単に突き飛ばされ、タンスで後頭部と背中をぶつけた。  進が勝己を睨みつけた。 「なんじゃ、ガキのくせに親に歯向かう気かー」  進は大声で怒鳴り、手元に落ちていた置時計を手に取って、勝己に向かって投げつけてきた。置時計は勝己の頬をかすめ、タンスにぶつかり割れた。  進は立ち上がり勝己の前に立った。 「お前、誰のおかげでここまで大きなったと思とんじゃ」  進は勝己の胸ぐらを掴み、頬を思いっきり殴った。そして、今度は倒れた勝己の顔面を蹴り上げた。 「勝己には手を出さないで」  佐和が進を後ろか押さえようとしたが、佐和は進の右手一本で簡単に殴り倒された。 「こいつは、親に歯向かったんじゃ。ちゃんとしつけせんと、まともな人間にはなれん。お前が甘やかすから、こんなバカ息子になったんじゃ」  進は勝己を指差しながら、倒れる佐和に向かって怒鳴った。進はそれから勝己を殴り蹴り続けた。  勝己は両手で頭をおさえながら体を小さくして抵抗することなく、進の暴力にじっと堪えた。自分が進から暴力を受けている間は、母親は暴力を受けずに済むと思ったからだ。  進も殴り疲れてきたのか、手数が少なくなり、殴る力も弱くなってきた。進は肩で息をしはじめ、そして、ついに殴る手を止めた。 「お前らは、俺のやる事にいちいち文句言うな」  進は息を切らしながら佐和に向かって言って、そのまま奥の部屋へ向かい襖をバンと閉めた。  勝己は肩で息をしながら閉まった襖を睨んだ。佐和は立ち上がり勝己を背中から抱きしめた。  勝己は母親の息遣いを感じながら両拳を強く握りしめた。  その後、佐和はヒビの入った鏡台を覗きこみ、顔に出来た痣を化粧で隠し仕事へ行く準備を始めた。勝己は部屋に散らばった破片を拾い集めた。  襖の向こうからは進のグチグチとわめく声が漏れていた。また酒をあおっているようだった。 「勝己、お母さん、これから仕事に行くけど、一人で大丈夫?」  化粧を終えた佐和は心配そうに勝己の顔を覗きこんだ。顔の痣は淡くなっていたが、顔が腫れているのは隠せない。 「俺は大丈夫だけど、母さんこそ、怪我してるのに仕事行ける?」 「お母さんは大丈夫よ。それより、お母さんが仕事に行ってる間にお父さんが勝己にまた暴力振るわないかが心配だわ」  佐和が整った眉をハの字にした。 「きっと、父さん、このまま酔っぱらってすぐに寝てしまうよ」 「そ、そうよね。勝己、辛い思いさせてごめんね」  佐和が勝己の腕に抱きついた。 「母さん、仕事頑張って」  勝己は佐和を安心させようと笑みを貼り付けて、佐和に顔を向けた。 「うん。じゃあ、勝己、いってくるわね」  そう言ってからも、佐和はなかなか勝己の腕から離れようとしなかった。 「母さん、心配しなくても大丈夫だよ」  勝己の方から佐和の手をほどいた。 「本当に大丈夫?」 「俺、しばらく外に出て避難しておくから、心配しないで」 「わかった。じゃあ、本当に行ってくるわね」  佐和は、また勝己に近づき、腕を握って勝己を引き寄せた。 「母さん、早く行かないと遅刻しちゃうよ。母さんが仕事をクビになったら大変だよ。俺は、今から空き地で遊んでる小学生に、野球でも教えてくるから大丈夫だよ」  勝己はそう言って佐和の顔を覗きこみ、もう一度笑みを浮かべた。 「そ、そうね、じゃあ、行ってくるわね」  佐和はやっと勝己の腕から離れた。  佐和は、三和土に散らばったスニーカーを揃えてから足を入れた。 「やっぱり、今日は休もうかな」  佐和は、スニーカーに足を入れてから勝己の方に振り返り、また眉をハの字にして言った。 「俺のことなら大丈夫だよ。俺もう子供じゃないよ」  勝己は口角を上げた。 「そう。じゃあ、いってくるから、何かあったらすぐに電話して」  佐和が左手で、受話器を持つポーズを見せた。 「わかった。そうする」 「大丈夫よね、お母さんの仕事場の電話番号わかるわね」 「大丈夫。前に教えてもらって、ここに書いてるよ」  勝己は生徒手帳をポケットから出して、佐和の方に向けた。 「そうだったわね。うん、そうね。大丈夫よね」  佐和はひとり言のように呟いた。 「母さん、外までいっしょに出ようか」  勝己は三和土に下りて靴を引っかけた。 「見送ってくれるの?」  佐和は笑みを浮かべ、自分より少し背が高くなった勝己の腕に手を回した。 「うん、母さん見送ってから、野球やったり、どこかブラブラ散歩しとく」 「勝己に見送ってもらえるなんて、お母さん幸せだな」  佐和は勝己の二の腕に頬を寄せた。 「そう。よかった」勝己は左手で頭を掻いた。 「勝己、来年は甲子園にプロ野球、観に行こうか」 「急にどうしたの」 「勝己といっしょにどこか楽しいところに行きたいな、と思ってね。勝己、野球好きでしょ」 「うん、楽しみにしてる」  玄関のドアを開け、二人は恋人同士のように腕を組んで外に出た。  ひんやりした外の空気が勝己の頭を冷やし、あたたかい佐和の体温が勝己の心をあたためた。  空地から野球少年の声が冷えた空気にこだました。 「じゃあ、ちょっと空地に行って野球してくるよ」  勝己は空き地の方を顎でさした。 「わかった。お母さんは仕事行ってくるわね」  佐和は勝己の腕から離れた。もう一度勝己の手を握りしめてから、名残惜しそうに踵を返し歩きはじめた。  勝己は空地の前で佐和が歩く後ろ姿を眺めた。佐和は歩きながら、何度も何度も振り返り勝己の方に視線を向けた。角を曲がる手前で立ち止まり、くるりと勝己の方に体の向きを変えた。そして勝己に向かって大きく手を振った。勝己もそれにこたえ大きく手を振った。 「母さーん、頑張ってー」  佐和の姿が見えなくなって、勝己は急に寂しくなった。勝己は空地に行くのをやめて、家に戻ることにした。先に散らかった部屋をもう少し片付けておこうと思った。  家に入ると奥の部屋からテレビの音が漏れていた。そして、テレビの音の間を縫うように、「ヒャヒャヒャ」という甲高い笑い声が聞こえてきた。品のない人をバカにしたような笑い声だ。知らない女を家に連れ込んだり母親や自分に暴力を奮ったことを反省する様子など微塵もない笑い声だった。  進の笑い声を聞いた勝己の胸の奥底にはマグマのような怒りがフツフツとわき上がってきた。勝己の体は怒りで震えた。奥歯を噛みしめ両拳をギュッと握りしめた。  このままだと母さんが可哀想すぎる。いつか母さんはこいつに殺されるかもしれない。こいつは鬼だ。こいつは生きる資格なんてないんだ。  今、この家にいると、自分まで鬼になりそうだと思った。頭を冷やすべきだと、勝己はまた外に出ることにした。  最初の予定通り空地で遊ぶ野球少年に野球を教えることにした。しかし、すでに陽は傾きはじめていた。空地に入ると、野球少年たちは母親たちが迎えにきて、そろそろ解散するところだった。秋も終わりが近づき、風は冷たく陽が落ちるのも早くなった。家族と帰路につく少年たちの幸せそうな背中をぼんやりと眺めた。空地にいるのは自分一人になった。野球は諦め、頭を冷やすためにしばらく町をブラブラすることにした。  人通りのある商店街の方まで歩いた。そこで同級生の男子が家族四人で歩いているのを見かけた。父親がその同級生に向かって笑みを浮かべて話していた。同級生は頭を掻いて笑っていた。それを見てもやはり羨ましいとは思わなかった。その幸せそうな光景が自分には無縁のものだと思っていたからだ。  一時間ほど歩いてから、家の近くまで戻ってきた。完全に陽は沈み、街灯の無い町はひっそりとしていた。鬼の顔が頭に浮かぶ。家の中に入る気にはなれなかった。真っ暗な空地に足を踏み入れた。  野球少年もいなくなり、月灯りだけに照らされた空地は今日の役目を終えて眠っているようだった。勝己は空地の片隅にあるベンチに腰を下ろし、月の灯りで灰色に光る地面を眺めた。  空地の向こう側にある交番の灯りが見えた。痩せ細った犬がひょこひょこと歩いていた。犬に向かって口笛を吹き右手を差し出してみると、犬は勝己の方に体を向け首を傾げた。犬と勝己のちょうど真ん中に金属バットが転がっているのが見えた。さっきの野球少年たちが忘れて帰ったのだろう。犬はしばらく勝己を見ていたが、勝己がベンチから立ち上がると、慌てて逃げて行った。  勝己は踵を返し、灯りもなく闇に沈む自分の家を眺めた。あの家の中には鬼がいる。愛情の欠片もない冷酷な鬼だ。勝己はゆっくりとその鬼のいる家に向かって歩きはじめた。引き戸の前まで来て立ち止まった。昼間に赤いハイヒールの女がここから飛び出していった。ひとつ息を吐いてから、引き戸を開けた。  家の中は灯りが消えてシンと静まりかえっていた。キッチンの窓から漏れる月の明かりをたよりに足を踏み入れた。鬼はいるのだろうか。キッチンの蛍光灯をつけて部屋を見渡した。  襖の向こうから、地響きのような鼾が聞こえてきた。鬼は酔っ払って眠っているようだ。  勝己は襖の前に立って取っ手に手をかけて息を飲んだ。音をたてないように、こぶし一つ分だけ襖を開けて部屋の中を覗いた。  万年床に大の字になって横たわっている情けなく口を開いた鬼の姿が見えた。目を覚ましたらまた暴れだすかもしれない。母さんが仕事から帰ってきたらまた暴力をふるい出すかもしれない。暴れだしたら自分の力では母さんを助けることは出来ない。  しかし、今ならと思った。襖をゆっくりと開け、散乱する紙屑や空き缶を避けて部屋の中に足を踏み入れた。物音を立てないように足の裏に神経を集中させる。  眠っている鬼の前に立ち視線を落とした。情けなく口を開け大の字になった鬼は、全く無防備な状態だ。 「フッフッフッフッ」  情けない表情から笑みが漏れていた。その卑しい笑い声を聞いて体が熱くなった。  家族で出かけて幸せそうにしていた同級生の顔が頭に浮かんで消えた。野球少年が楽しそうに野球する姿が浮かんで、そして消えた。神様は不公平過ぎる。自分が何をしたというんだ。両拳をぎゅっと握りしめた。  勝己は音をたてないように一度部屋を出た。襖を開けたまま家を出て空き地へと向かった。空地にはさっきの犬の姿はなかった。金属バットだけが残され、月に反射して鈍く光を放っていた。  勝己はその鈍い光に吸い寄せられるように大股でゆっくりと歩いていった。足元に転がる金属バットに視線を落とした。その時のそれは野球のバットには見えなかった。鈍く光を放つ凶器のように見えた。勝己は腰を折り金属バットに左手を伸ばした。ひんやりした冷たい金属の感触が手のひらに伝わった。金属バットを拾いあげ、グリップの部分を左手で強く握り高く持ち上げ月に向けた。月の中に母親の笑顔が見えた。 「母さん」  呟いてから、金属バットを両手で握りなおしその場で何度も振った。金属バットを振りながら、「クソー、クソー、クソー」と何度も繰り返し声を上げた。父親への怒りが収まるまで振り続けるつもりだった。  しかし、それが収まることはなかった。 「クソー」と一段と大きな声を上げた。静まり返る空地に、その声がこだました。こだまする自分の声が悪魔の声に聞こえた。踵を返し金属バットのグリップを右手で握り、金属バットの先を地面に擦らせながら家の方へと夢遊病者のように歩き出した。カラカラと金属バットの先がアスファルトを擦る音だけが不気味に響いた。  家の前に立った。金属バットを強く握る。音をたてないようにそろりとドアを開ける。家に入ると、まだ奥の部屋から鼾が聞こえていた。玄関を上がり右手にバットを握りしめたまま奥の部屋へと向かった。部屋の前で一度呼吸を整えた。情けなく横たわる鬼の姿が見えた。  今ならいける。こいつに勝てる。勝己はそう思った。  進は布団の上で無防備に口を開けて大の字に眠ったままだ。空になった日本酒の一升瓶が大の字になった進の右手の辺りに横たわっていた。  母さんに暴力を振るっていた時の鬼の顔を思い出した。止めようとした自分も殴られた。起きている時の鬼には敵わない。いつも遊び呆けてるくせに、なぜか腕力だけはある。でも今ならいける。母さんを助けなければならない。  金属バットを両手で握りしめ頭の上に振り上げた。目を閉じ口を開けている情けない鬼の顔を睨んだ。鼓動が激しくなり胸が苦しくなった。息が荒くなるのをおさえるように息を止めた。 「こいつさえいなければ俺も母さんも幸せになれる」  頭の上に構えていたバットを目を閉じて一気に振り落とした。 『ガシャーン』という音が耳に届いた。  勝己は鬼の頭めがけて金属バットを振りおろしたが、戸惑いがあったためか、金属バットは鬼の頭から外れてしまい鬼の枕元にあった一升瓶を砕いた。  一升瓶の割れる音で、さすがに熟睡していた鬼も目を覚ました。鬼が体を起こした。勝己を見てから枕元で割れた一升瓶を見た。そして、また勝己の顔を見た。そこで目が合った。最初鬼は寝ぼけたような顔をしていたが、勝己と目が合った瞬間にその目がカッと見開いた。 「何しとるんじゃー」  鬼の怒鳴り声を聞いて勝己は後ずさりした。  鬼が立膝をついて割れた一升瓶の細い口の部分を握った。勝己はバットを頭上に振り上げた。鬼は割れた一升瓶の先を勝己に向けた。二人はその体勢で睨み合った。勝己の体はブルブルと震えだした。鬼はそれを見てニヤリと笑った。 「勝己、お前、父親に向かってそんなことしていいと思ってんのか」  鬼は勝己を睨み上げた。 「あ、あんたなんて、父親とは思ってない。あんたは鬼だ」  勝己の声は震えた。  鬼は、視線を外さず、勝己の顔に割れた一升瓶を向けたまま腰を上げようとした。そして、勝己に向けて右の口角だけを上げ「フン」とバカにしたように鼻を鳴らした。  勝己は、「ウォー」と声を上げた。立ち上がろうとする鬼の頭めがけて思いっきり金属バットを振り下ろした。  鬼は、同時に勝己の顔面めがけて、一升瓶を突き出した。勝己の額に一升瓶が刺さった。痛みは感じなかったが、目の前は真っ赤になった。  勝己の振り下ろした金属バットは、鬼の額をとらえていた。鬼の喚き声が部屋に響き、鬼はそのまま仰向けに倒れた。鬼の額から血が激しく吹き上がった。鬼の血が床を赤く染めていった。 「クソー」鬼が倒れたまま声を漏らした。ギロリと勝己を睨んだ。  勝己は倒れた鬼の顔面めがけて、もう一度金属バットを振り下ろした。 『グシャ』という音がして、鬼の動きが止まりぐったりとした。  勝己はそれでも手を止めることなく、何度も何度も金属バットを鬼の全身に金属バットを振り下ろした。鬼の頭に、顔に、胸に、腹に、腰に、足に、何度も何度も金属バットを振り下ろした。 「チクショー、チクショー」  勝己の声だけが部屋に響いた。  私は南さんの話を聞いて、鉛を飲み込んだような重い気持ちになった。 『忘れたい気持ちはわかります。その時はあなたも未成年でしたし、あなたに殺された男にも問題はありましたからね』  あの世でそんな話を聞いたことを思い出した。  小沢勝己がこの事件を起こした頃、同い年の私は、ここから遠く離れた岡山県でどんな生活を送っていたのだろうかと思い返してみた。  確か高校受験で悩んでいた頃だ。母親から『勉強しろ、勉強しろ』と何度も言われることがプレッシャーになり、うっとおしくて腹を立てていた。  勉強するのが辛くて苦痛だと感じていた。好きな女の子がいたが、全く相手にされずに悩んでいた。  今思えば、どれも大した悩みではない、平凡で、幸せな悩みだったんだなとつくづく思った。  父親は亡くなるまで家族のために毎日仕事をし生活費を稼いでくれた。母親はパートで働き、帰ってきてから、食事の支度や掃除や洗濯をしてくれた。  いつも朝食を家族三人で囲んだ時代もあった。父親が亡くなってから母親は女手一つで私を育ててくれた。有難く幸せなことだったと今になって思う。  小沢勝己が父親を殺すと決めて空地で金属バットを手にした同じ頃、私は平凡で幸せな悩みの中で、母親や友人に護られ生きていたのだろう。  もしかしたら小沢勝己が進に金属バットを振り下ろしたその時間、私は母親が忙しいなか作ってくれた夕食に小さなクレームでもつけていたのかもしれない。 「辛いこと思い出させてしまったかな」  南さんが話し終えた後、眉をハの字にした。 「いえ、大丈夫です。教えてもらえてよかったです。ありがとうございました」  私はベッドの上で正座をし、背筋を伸ばして南さんに向かって頭を下げた。  これから先、私は小沢勝己の壮絶な人生を引き継ぐことになったのだ。私はどのように生きていけばいいのだろうか。  その後、南さんは私のことを気にかけて、病院に何度も顔を出してくれた。記憶のないままの私はなかなか退院することができなかったが、南さんが身元引受人になってくれるということで、やっと退院できた。  小沢勝己はこれまで日雇い労働者として働いていたようだが、南さんは、定職に就けるよう、どこか紹介できそうな仕事を探してみると言ってくれた。  私の退院の日には、住んでいた場所すらわからない私のために、病院まで迎えに来てくれ、小沢勝己が住んでいたアパートまで連れていってくれた。  病院から電車に乗って十分、駅から歩いて二十分のところに小沢勝己の住んでいたアパートはあった。二階建ての築五十年くらいの色褪せたアパートだった。 「着いたぞ。ここがあんたの住んでいたアパートだ」  南さんがアパートに顎を向けてから私に視線を向けた。 「南さん、どうもありがとうございます」  案内してくれたことに礼を言って深々と頭を下げた。顔を上げると南さんと目が合った。眼鏡の奥の皺まみれの中にある小さな瞳が、今の私にとっては灯台の灯火のように思えた。 「礼なんていいよ。それより、どうだ、ここを見て、なにか思い出せそうか? 記憶を失うまで、あんたは毎日この景色を見ていたはずだ」 「ハ、ハア」  思い出すもなにも初めてくる場所だ。思い出しようがない。しかし、アパートを眺めながら腕を組んで記憶をたどるフリをして見せた。 「どうだ?」南さんが私の顔を覗きこんだ。 「すいません。やっぱり思い出せそうにありません」  私は首を横に振った。 「そうか。まあ、仕方ないな。とりあえず部屋に入ってみるかな。鍵は持ってるな」 「はい」  私は鞄のなかから鍵を取り出した。 「一階の一番奥の部屋だ。行こうか」  南さんはそう言って先に部屋の方へと歩き出した。 「はい」  私は南さんの丸い背中を追いかけた。 「ここだ」南さんはドアの前で立ち止まりドアをトントンと人差し指で叩いてから私に体を向けた。 「はい」私はドアに視線を向けた。  ドアは木目調で下の方は黒ずみ湿気のせいか、少し浮いていた。ドアの横に表札はあるが名前は入っていなかった。この中に入ることに戸惑いキョロキョロと辺りを見渡した。 「鍵を開けてくれるかな」南さんが笑みを浮かべた。 「は、はい」  ドアノブに鍵を差した。恐る恐るゆっくりドアを開けると『ギィー』と軋む音がした。ドアを半分くらい開けて部屋の中を覗きこんだ。 「あんたの部屋だ。遠慮せずに中に入ればいい」  南さんが私の背中をポンポンと叩いた。 「あ、はい。失礼します」  ドアをゆっくり開けて、三和土に足を踏み入れた。すぐ右手に台所があり、正面の奥に畳の部屋が見える。 「中で休憩しようか」  南さんが立ちつくしていた私の肩に手を置いた。 「あ、はい」  本当は赤の他人の部屋なので入るのに躊躇してしまう。靴を脱いで部屋に足を踏み入れた。足の裏に床の冷たい感触が伝わった。主を失い、時間が止まったような静かな部屋だ。  冷蔵庫のモーター音が急にガタガタと大きな音をたてた。今入ってきた男は、この部屋の本当の主ではないと抗議しているように聞こえた。  部屋の中は家具や荷物は少なく真ん中にテーブルがあり、その奥の台の上にテレビと置時計、写真立てがあった。乱雑な部屋をイメージしていたのできれいに片付けられているのは意外だった。  万年床で、床に酒の瓶が転がり、吸い殻が一杯になった灰皿と食べ残しのカップ麺、酒の入ったコップがテーブルの上に散乱している部屋をイメージしていた。  すぐに掃除でもしなければならないと思っていたので、きれいな部屋を見て少しほっとした。片付けなければならないのはベランダに干されっぱなしになって、風に揺れている洗濯物くらいだった。  本物の小沢勝己はあの洗濯物を干している時、まさかそれを片付けることなく、死んでしまうとは夢にも思わなかっただろう。人生なんて一寸先は闇だ。私もまさかこんなことになるとは思ってもみなかった。高山と清水と飲んで帰る時には、次の日も三人で仕事の休憩時間に喫煙所で飲み会の続きの会話をするのだろうと思っていた。  部屋に入ったが落ち着かない。腰を下ろす気になれず、部屋の中をうろうろと歩き、隅々まで見て回った。特に珍しいものはなかったが、テレビの横に置いてある写真立てが目に止まった。色白で清楚な女性が笑みを浮かべている。この写真を撮った人物に慈愛に満ちた眼差しを向けている。 「この女性は?」私は写真立てを手にとり南さんに向けて訊いた。 「あー、それが佐和さんだ。あんたのおふくろさんだよ。亡くなる一年くらい前の写真だ。きれいな女性だろ」  南さんが目を細めた。 「佐和さんは何歳で亡くなったんですか」 「うーん、たしか五十歳だったかな。ちょうど今のあんたくらいの歳だったな」  南さんは遠くを見つめるような目をしていた。 「まだ、若いのに」  私は唇を噛みしめた。そう、五十歳は死ぬには早すぎる歳だ。まだまだこれからだった。 「そうだな。若すぎたよ。いろいろと大変だったから、きっと心労が祟ったんだろうな」 「結婚した相手が悪かったですね。これだけ美しい女性なら、もっといい男性と結婚できただろうに」 「まあ、そうだろうけど、そうなってたらあんたはこの世に存在しないことになるけどな」 「まあ、そうですけど」 「佐和さんはあんたを生んだことが一番幸せなことだったはずだ。だから佐和さんは幸せだった」 「それにしても優しそうな女性ですね」 「ああ、優しい女性だった。あんたは、この写真をいつも眺めながら酒を飲んでたよ。もっと母親孝行がしたかったって言いながらな」 「そうでしたか」  私はじっと写真に映る女性を見つめた。 「昔はよくここでわしと酒を飲んだんだけどな」  そう言いながら南さんは床に腰をおろした。 「南さんと私、二人でですか?」  私もテーブルを挟んで南さんの前に腰をおろした。 「ああ、佐和さんが生きてる時は三人で飲んだこともあるがな。亡くなってからはいつも二人だったな。それも十年くらい前の話だ。懐かしいな」 「十年くらい前ですか?」  私はひとり言のように呟いた。十年くらい前から南さんは小沢勝己と会っていなかったのだろうか。なら、なぜ、今になって急に南さんは、小沢勝己の前に現れたのだろう。私が事故にあったので、心配になって会いにきてくれたのか。もし、そうなら事故のことを誰から聞いたのだろう。 「せっかくだから今日は久しぶりに軽く一杯やるか」 「いいですね」  この際、南さんからいろいろ話を訊いておいた方がいいだろう。もうしばらく一緒にいたい。 「じゃあ、今日はあんたの退院祝いということでわしが奢るわ。これから一緒に買い出しに行こうか。昔二人でよく行ったスーパーがある。今からそこへ行ってみよう」  南さんがしわくちゃの笑みを浮かべた。 「はい」  私も自然と笑顔になった。こんな笑顔になったのはいつ以来だろう。すごく幸せな気分だ。別人として生き返ってしまい、どうしようもなく不安なはずなのに不思議だった。 「当時、あんたがよく利用していたスーパーだ。二十分程歩かなきゃならんが、散歩がてらこの辺りの景色を見ておくのもいいだろう」  確かにその通りだ。私にはこの辺りの土地勘が全くないわけだから、南さんにこの辺りのことをいろいろと教えてもらっておいた方が今後のためになるだろう。  スーパーに向かいながら南さんは小沢勝己が利用していた銭湯や理髪店、ボリュームがあって安くて美味しいと評判の定食屋などの場所をいろいろと教えてくれた。 「十年前と変わってないなあ。田舎だが、意外と便利なところなんだよ。あっちの筋には商店街もあるしな。また暇な時にでも覗いてみるといい」 「そうします。これから行くスーパーを私はよく利用していたんですか」 「そうみたいだな。十年前にあんたと会う時はいつもそこで買い出しをして、部屋で飲んだよ。懐かしいな」 「南さんはお酒は好きなんですか」 「酒は好きだけど、弱いからすぐに酔っぱらっちまってな。あんたの部屋で寝ちまって気づいたら朝だってことがしょっちゅうだったな。あんたは酒が強くて全く酔っぱらわなかったがな」 「私は酒が強かったんですか?」 「ああ、強かったな。あんたはいつも焼酎を飲んでたけど、水でも飲んでるかのようにガブガブ飲んでた。今思えば何かを忘れたかったのかもしれんな」  南さんが宙に視線を向けた。 「何かを忘れたかった?」 「ああ、あの頃のあんたは苦しかったんだと思う。そういう意味では記憶が無くなった今の方があんたは幸せなのかもしれん」 「でも、記憶がないままでは不安です。自分の過去のことは知っておきたいです」 「そうだな」南さんは唇を噛みしめて私の目をじっと見て頷いた。 「はい」私は首肯した。  そこから二人は言葉を交わすことなくスーパーへと歩いた。 「今日も焼酎でいいのか?」  スーパーの入口に着いてから南さんが訊いた。 「いえ、今日はビールにします」  本当の私、大沢勝男は普段はビールばかり飲んでいた。 「そうか、じゃあ、わしといっしょだな。缶ビールで乾杯でもするかな」  南さんの口元がほころんだ。 「はい、そうしましょう」私も自然と笑みになった。 「わしはビールを買ってくるから、あんたは、つまみになりそうなものを、適当に好きなだけ選んできてくれ」  南さんはそう言って、そそくさと酒売場へと向かって行った。私はスーパーの店内をゆっくりと見て回った。  大沢勝男として、スーパーの肉売場で働いていた頃のことを思い出した。遠い昔のような気がして懐かしく思った。考えてみれば幸せだったなと思う。ちゃんと定職があって、少ないとはいえ、毎月決まった収入があった。沙知絵が朝食と夕食の準備をしてくれた。昼食の弁当を作ってくれることもあった。あの頃に戻りたい。そして沙知絵の手料理が食べたい。大沢勝男は恵まれていたんだと今改めて思った。  スーパーの店内にスタッフ募集のポスターが貼ってあるのを見つけた。パート、アルバイト募集とあり、その下に、レジ担当、食品担当、鮮魚担当とあり、そして一番下に精肉担当と書いてあった。ここで働けないだろうかとここで働く自分の姿を勝手に想像した。 「いらっしゃい。今日は牛肉の特売日ですよー」  肉売場の若い男性店員が手を叩きながら大きな声を出していた。店内には活気がみなぎっていた。冷蔵ケースの前でたくさんのお客さんが肉のパックを品定めしている。 「先週買ったすきやき肉、すごくおいしかったわ」  一人のお客さんが嬉しそうに、その男性店員に話しかけていた。 「そうですか。それはよかったです」  男性店員も嬉しそうな表情を浮かべていた。  その表情を見て羨ましいと思った。大沢勝男として働いていたあの頃が懐かしい。私は目を細めてそのままずっと、男性店員の働く姿に見入ってしまった。 「おい、なにしてんだ」  後ろから声がして振り向くと、南さんが立っていた。 「ああ、すいません」  南さんの持つ買い物カゴを見るとカゴの中一杯に缶ビールが入っていた。 「じっと、あの店員を見てたけど、どうしたんだ? 知り合いか」  南さんが肉売場の店員に視線を向けた。 「いえ、そんなんじゃないです。すごく楽しそうに仕事してるなと思いまして羨ましかったんですよ」 「そうだな。ここの店員はみんな愛想がよくて楽しそうだな。それよりこれ、適当に選んでおいたぞ」  南さんは買物カゴを持ち上げて私に見せた。 「ありがとうございます。すごい量ですね。重そうですから私が持ちます」 「いいよいいよ。それより、あんた、まだつまみは選んでないのか?」 「すいません、まだなんです」 「そうか、じゃあわしが適当に選んでくるから、ここで待ってろ」  南さんはまた店内の奥へと消えていった。私は肉売場の前で、もうしばらく立っていた。  愛想のよかった肉売場の店員が、私の存在に気づいて顔色が変わった。見た目の怖い中年男が買物もせずにボーッと立っているわけだから、顔色が変わっても仕方ないかもしれない。仕事の邪魔をしてはいけないと、その場から離れることにした。南さんを探すと、すでにレジを済ませ袋詰めをしている姿が見えた。 「すいません」  袋詰めしている南さんの横に立って声を掛けた。 「おう、やっと来たか。気が済んだのか」  南さんが袋詰めする手を止めて私に顔を向けた。 「はい、気が済みました」 「嘘つけ。まだ名残惜しそうな顔してるぞ」  南さんはそう言って空になった買物カゴをカゴ置き場に放り込んだ。 「そうですかね」私は首を傾げた。 「ああ、してる。自分もここで働きたいなー、て顔してるよ」  南さんはそう言ってスーパーの出口へと向かった。  南さんに自分の気持ちを見透かされていることに驚きながら、南さんの背中を追いかけた。  帰りは少し寄り道して商店街の中を歩いた。今時珍しいなかなか活気のある商店街だった。威勢のいい鮮魚店や鮮度の良い野菜が並ぶ八百屋を見て高山と清水のことを思い出した。二人は元気にしているのだろうか。  ソースのいい匂いがするなと思ったら、店頭でお好み焼きを焼いている店があった。美味しそうだった。沙知絵と食べたカキオコを思い出した。 「退院おめでとう」  部屋に着いてから、すぐに缶ビールで乾杯した。 「ありがとうございます」  私は南さんの持ち上げた缶ビールに自分の缶ビールを当てて一気に飲んだ。久しぶりに飲んだビールで喉を鳴らす。最高に旨かった。  ビールを飲み干してから南さんを見ると好好爺のような顔で私をじっと見ていた。 「つまみは適当に買っておいたぞ。あんたはキムチが好きだったから、それも買っておいたからな」 「私はキムチが好きだったんですか?」 「まあ、なんでもうまそうに食ってたけどな。特にキムチが好きだったな」  南さんがキムチのパックを開けながら言った。  南さんはキムチを指でつまんで口に放り込んだあとビールをゴクゴクと飲み、「ハァー」と息を吐いた。  南さんは胸ポケットからタバコを取り出しライターで火をつけた。「フゥー」と紫煙を天井に向かって吐いた。煙が旨そうだった。 「あんた、タバコ持ってなかったな」  南さんはそう言って私の前にタバコとライターを滑らせた。 「ありがとうございます」  箱からタバコを一本抜きライターで火をつけた。  それから、南さんはいろんなことを話してくれた。内容はほとんどが小沢勝己がどんな人間でどんな生活をしていたかということだった。  南さんの口から小沢勝己のことを悪くいうことはなかった。『本人?』を前にしていることもあるだろうが、南さんの話を聞いていると、小沢勝己は私が思っているような凶悪な男ではなく、本当は母親想いの心の優しい男だったように思えた。  父親を殺害してしまったことは絶対に許されることではないが、同情する余地はある。ただ、父親殺害以外にも小沢勝己は傷害事件を起こしていると訊いている。それについて南さんに詳しく訊いてみたくなった。 「私は父親を殺害した以外にも傷害事件も起こしたようなんですが、南さんはそのことは知っていますか」 「ああ、山崎信男の事件のことだな」  南さんは飲んでいたビールの缶をテーブルにコンと置いて、しわくちゃの目で私を見た。 「山崎信男さん、ですか」  南さんの口から全く知らない名前が出てきた。山崎信男とは一体何者なのだろう。小沢勝己の犯した傷害事件とどんな関わりがある人物なのだろう。 「そうか、山崎信男も覚えてないわけだな」 「え、ええ。初めて聞く名前です」  南さんがタバコを灰皿に押しあてて、ニヤリと笑った。 「そりゃそうだな」 「山崎信男という人のことと私が犯した傷害事件のことを詳しく教えてもらえませんか」 「どうしても知りたいか?」  南さんが次のタバコを箱から抜き取った 「はい、知りたいです」  南さんはしばらく「うーん」と唸っていた。 「お願いします」私は頭を下げた。 「仕方ねえな」  南さんはそう言ってから、持っていたタバコを口に咥えライターで火をつけた。思いっきり煙を肺に吸い込んでから私を見た。 「吸っていいぞ」南さんがタバコの箱をを差し出した。 「じゃあ、一本いただきます」  私は南さんが差し出したタバコの箱から一本抜きとった。南さんがライターの火を近づけてくれたので、タバコに火を点けて思いっきり煙を吸い込んだ。  その後、南さんは小沢勝己の起こした傷害事件について話してくれた。  小沢勝己は刑務所を出てから母親の佐和とこのアパートでいっしょに暮らしはじめた。  佐和は小柄で色が白く、年齢より若く見えた。そんな佐和に言い寄ってくる男も多かったようだ。  その中に山崎信男という男がいた。山崎は執拗に佐和に付きまとっていた。今でいうストーカーだ。二度と結婚するつもりがなかった佐和は交際を断り続けたが、ある日、山崎は部屋に上がりこみ無理やり佐和を自分のものにしようとした。抵抗する佐和の頬を殴り押し倒した。ちょうどその時に小沢勝己が帰宅した。  南さんはそれを「タイミングがよかったのか悪かったのか」と言っていた。  佐和の体にのしかかる山崎の姿を見た小沢勝己は頭に血がのぼったのだろう。後ろから山崎の首を掴み佐和から引き離した。そのあと山崎に殴る蹴るの暴行を加えた。佐和が必死で勝己を止めたが、勝己の力が強くて止めることができなかった。山崎は命こそとりとめたが、瀕死の状態で救急車で運ばれた。  「小沢勝己という男は母親の佐和さんのことが大好きで、彼女を守りたかったんですね」  話を聞いて胸が熱くなり、あえて『小沢勝己という男』と言った。写真立てに映る佐和の写真に視線を向けた。笑っているが、どこか寂しそうにも見えた。 「そうだな。あんたは佐和さんにはすごく感謝していた。だから佐和さんを守るためならなんでもしようとしたんだろう。ただ、それが……」  南さんはそこで言葉を呑み込んで天井を見上げた。 「それが、なんですか?」 「まあ、あんたには言いにくいが、やっぱりそういうやり方は間違っていた。それが、逆に佐和さんを苦しめることになった」   その後、南さんは俯いてしまった。暫く沈黙が続いてから南さんが一言「すまん」とだけ言った。  確かに南さんの言う通りだと思った。その状況で小沢勝己も冷静にいることは難しかったのだろうが、小沢勝己のとった行動は母親を苦しめる結果になったのは間違いない。 「いえ、確かに南さんの言う通りだと思います。暴力を振るってしまったことは良くなかったです」  私はそう言って唇を噛みしめた。  それから、私の今後について話し合った。私は、さっきのスーパーで働いてみたいので面接に行ってみると言った。南さんは少し渋い顔をしたが、頑張れ、とだけ言ってくれた。南さんはその日は酔いつぶれることなく帰って行った。  私は次の日の朝、目が覚めてからスーパーにアルバイトの面接がしたいと電話をいれた。二日後に面接に行くことが決まった。南さんに報告しようと思ったが、南さんの連絡先を聞いていなかったことに、その時気づいた。  肉売り場で働きたい。私はそう思っている。しかし肉を切ったことのない小沢勝己になった今の体は、それについてこれるのだろうか。大沢勝男として、頭では覚えているが体がついてこないかもしれない。そういう不安が少しあった。  柚菜が保育園の時に保護者の徒競走に参加したことがある。学生の頃は足にはそこそこ自信があった。  しかし、保護者の徒競走では、頭は学生の頃のつもりで足を動かしていたが、全く体がついてこなかった。気持ちだけが先走りし上半身だけが前につっこみ、ゴール手前で足が絡まり転んでしまった。  それを見ていた園児や保護者たちに笑われながらも立ち上がり足を引きずりながらゴールしたことを思い出した。  父親がみんなに笑われて、柚菜に恥ずかしい思いをさせたなと心配したが、柚菜は私の転んだ姿を見て一番笑っていたらしい。 「お父さん、ダルマさんみたいだったよ」  その日の夕食の時に柚菜はそう言ってニコニコしていた。あの頃は幸せだったなとつくづく思う。  南さんに面接が決まったことを伝えたかった。南さんに次はいつ会えるのだろうと思っていたら、チャイムが鳴った。玄関のドアを開けると、そこに南さんが立っていた。 「南さん」私の声は弾んだ。 「どうだ、ゆっくり眠れたか」南さんはニヤニヤ笑っていた。 「ええ、最初は不安で眠れなかったんですが、知らない間に眠ってしまいました」 「そうか、ならよかった。どうせ朝から何も食ってねえだろと思ってな。これでも食え」  南さんがコンビニの袋を私の目の前に差し出した。 「すいません、わざわざ買ってきてくれたんですか」  私はコンビニの袋を受け取り頭を下げた。 「たいしたもんじゃねえ。おにぎりとお茶だけだ」 「ありがとうございます。遠慮なくいただきます。どうぞ、上がってください」  私はテーブルの前に置いてある座布団をパンパンとはたいてから置き直した。 「ああ、遠慮なくお邪魔するよ」  南さんが部屋に上がり、座布団に腰を下ろすとすぐにタバコに火を点けて紫煙を吐いた。 「ちょうど南さんに報告したいことがあったんです。南さんに連絡しようと思ったら、南さんの連絡先を訊いてなくてどうしようかと思ってたところなんですよ」 「そうか」 「南さん、今後のために連絡先教えて下さいよ」  南さんの前に座り、紙とボールペンを差し出した。 「わしは携帯電話は持ってないし家に電話はないんだ。わしの方から、あんたにちょくちょく会いにくるから、報告することがあったら、その時に言ってくれればいい」  南さんはそう言って紙とボールペンを私の方に押し返した。 「そうですか。でも住所だけでも教えておいて下さいよ」  私はもう一度、紙とボールペンを南さんの方に差し出した。  しかし、南さんは「いや、いい」とだけ言って、タバコを灰皿に押し当てた。  南さんにもいろいろ事情があるのだろう。前科者の私と会っていることは家族に内緒にしているのかもしれない。そう思うと申し訳ない気持ちになった。  南さんにスーパーの面接が決まったことを伝えた。喜んでくれたが、面接の時に正直に過去の犯罪のことを話すつもりだと言うと、「大丈夫か」と不安そうな表情を浮かべた。  面接は午後二時からと決まっていた。電話に出た店長の声はおだやかで好感が持てた。南さんと買い物に行った時の店の雰囲気も良かったし、きっと働きやすい職場だと期待した。しかし、南さんが心配するように前科のある男をすんなり受け入れてくれるだろうかとも思った。  面接の十分前にスーパーに到着し、店内カゴを片付けていた中年の女性に面接に来たことを告げた。  女性が、「少々お待ちくださいね」と柔らかい口調で言って、カウンターに行き電話をしていた。私が面接に来たことを、店長か誰かに内線で伝えてくれているのだろう。電話が終わり、女性はカウンターから出て、穏やかな笑みのまま私の前まできた。 「お待たせしました。ご案内しますので、どうぞ」  そう言って右手を差し出して先を歩き出した。私は女性の背中について行った。野菜の売場を通り肉の売場を抜け、奥のドアの前で女性が立ち止まった。 「この奥になります。どうぞ」  女性はそのままスイングドアの奥へと入っていった。私も女性に続いて入った。急に視界が狭くなった。そこから先は店のバックヤードだ。明るい店内とは対照的に薄暗い。そのまま女性について両サイドに段ボール箱が積まれている通路を進んだ。奥に小柄な男性が立っている姿が見えた。男性の左横から灯りが少しもれていた。 「店長、面接の小沢さんを連れてきました」  女性は小柄な男性に向かって声を掛けた。  立っている小柄な男性が店長のようだ。男性の前まで来て、名札をちらっと見たら『店長 小林』と書いてあった。 「はじめまして、店長の小林です」  男性は背は低いが背筋をピンと伸ばし、両手を前に組んで深々と頭を下げた。電話のおだやかな感じそのままの人だ。 「はじめまして、小沢勝己です。今日はお時間をとっていただきありがとうございます。よろしくお願いいたします」  私は深々と頭を下げた。 「佐々木さん、ありがとう」  小林は案内してくれた女性に向けて笑みを浮かべて言った。 「はい。では、失礼します」  女性はそう言って踵を返して、その場を後にした。 「どうも、ありがとうございました」  女性に礼を言うタイミングを逃してしまい、女性の背中に向けて頭を下げた。女性は振り返り、ペコリと頭を下げてくれた。 「頑張ってくださいね」  女性はそう言ってから、踵を返し早足で歩いて行った。女性が去ったあと、店長の小林は私に向かってもう一度頭を下げた。 「今日はよろしくお願いします。では、中へどうぞ」  小林が灯りがもれる部屋のドアを開けた。  私は「失礼します」と言って先に部屋に入った。 「右側の椅子におかけくださいね」  小林が私の後ろから声をかけてきた。  部屋の広さは三畳程度だ。目の前にテーブルを挟んでパイプ椅子が向かいあって置いてあった。私は右側の椅子の前に立った。 「どうぞ、堅苦しくかならずに、遠慮せずおかけになってください」  小林がそう言って、笑みをくれた。 「は、はい」  面接なんて何年ぶり、いや何十年ぶりだろうかと緊張した。  椅子に座ってから部屋を見渡した。奥に事務机があった。机の上はスッキリと片付いていた。パソコンの画面に細かな数字が見えた。  小林はパソコンの画面を消してから私の前に座った。 「狭くて汚いところで申し訳ありませんね」  小林が部屋を見渡しながら苦笑した。 「いえ、そんなことありません。前に働いていた店に比べれば、本当にきれいです」 「小沢さんは、スーパーでの勤務のご経験はあるんですか」  小林が訊いてきて、「えっ、いえ、ま、間違えました」と慌てて否定した。  大沢勝男の記憶のまま話してしまった。何を間違えたのかと小林は変に思ったかもしれない。首を傾げていた。 「間違えましたか」小林がそう言いながら、背筋を伸ばした。 「こういう仕事ではありませんけど、これまで働いた職場に比べて、すごくきれいで、雰囲気のいい職場だなと思いまして」 「そうですか。ありがとうございます。お世辞でも嬉しいです」  お世辞ではない。本当にきれいに整理されている。狭いのは、どこのスーパーも同じようなものだろう。店内はできるだけ広くて明るくきれいにするためにお金をかけても、バックヤードにはお金をかけない。狭くて薄暗いのが普通だ。  きれいかどうかは、そこで働く人で決まる。整理整頓が出来ているかどうか。そういう意味では、ここのバックヤードは整理整頓されていてきれいだ。この部屋も無駄なものがなく整理整頓されていて好印象を受けた。思っていた通り働きやすい職場だと確信した。  それから、南さんといっしょに書いた履歴書を小林に渡してすぐに面接が始まった。小林からは勤務時間や時給のことなどの説明があった。私は自分のこと、小沢勝己の過去を包み隠さずに正直に話すと決めていた。  交通事故に遭って記憶を失っていることや、過去に父親を殺害したこと、傷害事件を犯したことについて包み隠さず話したが、驚いたことに小林は「その件に関しては承知しております」と平然と、そして少し笑みを浮かべながら言った。  どういうことだ。なぜ知っているのかと不思議に思った。そして、知っていて面接してくれたことに感謝した。 「どうして私が記憶を失っていることや殺人事件や傷害事件を犯していることをご存じなんですか」  私が訊くと、小林はにっこりと笑みを浮かべて教えてくれた。 「小沢さん、南さんて方をご存じですよね」  小林は椅子に座り直してから少し前のめりになって言った。 「あっ、はい。南さんにはよくしてもらってます」 「いい方ですよね。元警察官だそうですね」 「はい、そうみたいです」 「昨日、その南さんが私を訪ねてきて、あなたのことをいろいろと教えてくれました。あなたが殺人事件や傷害事件を犯した過去があることや、今記憶を失っていることなどです」 「えっ、そ、そうなんですか」 「小沢さんは昔犯罪を犯してしまってますが、本当はそんな犯罪を犯すような人間ではなくて、心の綺麗な人だと言ってました。自分が責任を持つから採用してやってほしいとのことでした。あまりに熱心にお願いするものですから、とりあえず採用させていただくことに決めてました」  小林はそう言って口元を綻ばせた。 「ありがとうございます」  額がテーブルにぶつかるくらいに頭を下げた。 「いろいろとご苦労されたんですね」  小林の声に顔を上げた。 「いえ、どんな事情があっても犯罪を犯してはいけなかったです」  私が言うと小林は何度も頷いた。 「但し、三ヶ月間は見習い期間ということでお願いします。もしトラブルを起こすことがあれば、その時は即刻辞めていただきます。そういう条件でよろしいですか」  にこやかな表情だった小林の顔が真顔になった。 「はい、雇っていただけるだけで有難いことです。感謝の気持ちしかありません」  心の中は目の前にいる小林に対する感謝の気持ちと南さんに対する感謝の気持ちであふれていた。また目頭が熱くなり涙がこぼれそうになった。小林に気づかれないように目頭を押さえた。  勤務は明日からと決まり、事務所を出る前に小林に向けて深々と頭を下げた。  アパートまで帰ってくると、アパートの前に背が低く丸い人影が見えた。南さんだ。南さんは私の姿を見つけると顔をしわくちゃにした。私はその顔を見た瞬間、母親の元に向かう保育園児のように南さんの元へと走って行った。 「南さーん」 「よう」  南さんは相好を崩したまま右手を上げた。その右手にはコンビニの袋がぶら下がっていた。 「南さん、ありがとうございます」  南さんの前に立ち、深々と頭を下げた。 「その様子だと、面接はうまくいったようだな」  南さんが頭を下げる私の肩をポンポンと叩いた。 「南さんのおかげです」  私は顔を上げて南さんの顔を見てからもう一度頭を下げた。 「就職祝いに一杯やろうかと思ってな」  南さんが踵を返して私のアパートの部屋の方へと歩きだした。 「はい」私は南さんの背中を追った。  部屋に入ってすぐに南さんが買ってきてくれた缶ビールで乾杯した。格別に美味い。  仕事は明日から行くことになったと言うと、じゃあ、今日は軽めにしておこうと南さんは言っていたが、私の仕事が決まったことを南さんは自分のことのように喜んでくれて、買ってきた缶ビールを全て空にしてしまい、最後には、そのまま横になり眠ってしまった。  鼾をかく南さんに布団を掛け、私も明日のために早めに寝ることにした。電気を消して横になった。流しの前にある窓から月明かりが差し込む。南さんの鼾が一定のリズムを刻む。なかなか眠れそうにない。目を閉じて明日から仕事をする自分の姿を思い浮かべた。大沢勝男として働いていた頃の情景が頭に浮かぶ。高山や清水と売上を競いあって、お互いに意見交換した時のことを思い出した。レジを打つ独身の頃の沙知絵のすらりとした姿が瞼の裏に浮かんだ。何時間、そうしていたのか、気がつくと、窓から射す月明かりが朝日に変わっていた。  首だけを持ち上げて南さんを覗き見た。鼾はしていなかったが、胸が大きく上下している。まだ眠っているようだった。南さんの寝顔に向けて「南さん、ありがとうございます」と呟いた。 「よかったなぁ」と聞こえたので、慌てて南さんを見た。南さんは口を開けて気持ち良さそうに眠っていた。寝言のようだった。  南さんには、いつか本当のことを話し、自分が小沢勝己ではないことを告白すべきだと思っている。これまで南さんと楽しく酒を飲んでいても、本当のことを隠していることが心の片隅に引っ掛かって、楽しく会話できなくなる。いつか本当のことを全て話して、南さんと朝まで思う存分飲みあかしたい。  アルバイトの初日、肉売場の責任者石原チーフを 店長の小林から紹介してもらった。南さんに連れられてはじめてこのスーパーに買い出しに来た時に肉売場に立っていた男性店員だった。 「小沢さん、今日からよろしくお願いします」  石原は溌剌とした声で右手を差し出してきた。その時の石原の表情は、はじめて石原を見た時のお客さんと楽しそうに会話していた時の表情と同じだった。石原は若そうだが店長の小林同様、信頼できる人間だと思った。 「こちらこそよろしくお願いします」  私も出来るだけ声を張り右手を差し出した。  初日の仕事は主に肉のパック詰めと値札をつける作業だった。石原はそれを丁寧に教えてくれた。最初はぎこちなかった私だが、徐々に感覚が戻ってきてすぐに慣れた。久々に肉を触った感触がたまらなく嬉しく、そして仕事していることが楽しかった。  石原からは「小沢さんは経験者?」と驚かれた。 「ええ、まあ。昔に少し」と適当に返事をした。 「小沢さん、あとですね」  石原はそう言いながら、少し悩むような表情をした。 「はい、何でしょう?」  石原の表情を見て、私の仕事ぶりに何かまずいことでもあったのだろうかと不安になった。 「小沢さんにはこれから仕事に慣れたら売場にも立ってほしいんですよ」  石原は少し遠慮がちに口を尖らせていたが、私は売場にも立ちたかったので、石原の言葉が素直に嬉しかった。 「はい、喜んで売場に立ちます」  私が声を弾ませると、石原は「あ、それです」と私の顔に人差し指を向けた。  石原の顔がパッと明るくなった。私はわけがわからず、首を傾げた。 「なんでしょうか?」 「小沢さん、年上の方にこんなこと言うと失礼かもしれないんですけど、さっきまでパック詰めしている小沢さんの真剣な表情はちょっと怖いんですよね。だから接客はどうかなと思ってたんですよ。でも、今の笑顔なら大丈夫です。売場では、その笑顔でお願いしますね」  石原がそう言って口角を上げた。 「わかりました。そうですね、気をつけます」  今の私の小沢勝己としての外見は確かに怖い。笑顔を心がけないとお客さんが怖がってしまうだろう。石原の指摘は有り難かった。これから小沢勝己として、ここで働いていくには、心がけておかなければならないことだ。 「じゃあ、いきなりですけどちょっと売場に立ってみましょうか」  石原は少し遠慮がちに言った。 「はい、頑張ります」  私は、取組前の相撲取りのように顔をパンパンと叩いてから笑顔を貼り付け、石原について売場に出た。 「いらっしゃいませ。今日は豚肉がお買い得ですよ」  石原が先に元気に声を張り上げた。 「いらっしゃいませ。豚肉お安いですよ」  私も石原に続いて少し緊張しながら声を出した。 「小沢さん、緊張せずにもう少し元気に声を出しましょうか」  石原が耳元で優しい口調で言った。  私は「はい」と頷いてから、深呼吸し、腹の底から声を張り上げた。 「いらっしゃいませ。今日は豚肉がお買得ですよ」  スーッと体の力が抜け、清々しく引き締まる思いがした。この感覚は久しぶりだった。 「小沢さん、その調子です」  石原がまた耳元で言った。 「あなた、新しい従業員さんなの?」  年配の女性のお客さんに声をかけられた。 「はい、今日から働いています。よろしくお願いします」 「頑張ってね。ここのお肉は安いし美味しいから、いつもここに買い物に来るの。これからよろしくね」  お客さんから声をかけられて嬉しくて涙が出そうになった。  仕事の初日は無我夢中で働いて、あっという間に時間が過ぎていった。すごく楽しかった。仕事がこんなに楽しいと感じたのはいつ以来だろう。  着替えを終えて更衣室から出ると、店長の小林が更衣室の前に立っていた。 「お疲れさまでした。小沢さん初日はどうでしたか?」 「小林店長、お疲れさまです。石原チーフにいろいろと教えてもらいながら、迷惑かけないように必死でした」 「疲れたでしょう」  小柄な小林が目を細めて私を見上げた。 「ええ、でも、楽しかったですし、清々しい気分です。採用してくれたことに感謝しています。本当にありがとうございます」  体が二つに折れるくらい頭を下げた。 「いえ、そんなに感謝されるようなことじゃないです。うちも人手がほしかったので助かります。石原も小沢さんが来てくれて喜んでましたよ」 「そうですか、それならよかったです」  他人から頼りにされ、自分の存在が喜ばれることが、こんなに気持ちのいいものなのかと、改めて感じた。  この先、ここで働きながら、小沢勝己としての人生をなんとかやっていけそうな気がした。  しかし、その考えは甘かったようだ。前科のある人間が普通に生きていくのはそんなに簡単なものではないことを、この後すぐに思い知らされることになった。  働き始めてから二週間が過ぎた頃だった。休み明けでいつも通り従業員入口から更衣室へ向かった。更衣室に向かう通路になぜか従業員が溢れていた。どうしたんだろうと思いながらも、みんなに向かって笑顔で挨拶をしながら、その中を歩いて抜けて行った。しかし誰も挨拶を返してくれない。目を逸らされたり訝しげな視線を向けられたりする。私に前科があることが従業員にバレてしまっていることは知っている。そういった噂はすぐに広まるものだ。  居心地の悪さを感じながら男子更衣室の前まで来たら、その奥にある女子更衣室の前に人だかりができていた。人だかりの一番手前に、小林が眉間に皺を寄せ渋い表情をして立っていた。これまでに見たことのない小林の表情だった。 「おはようございます」  私は取り敢えずその人だかりに向かって挨拶をした。小林がちらりと私を見て、無言で小さく頭を下げた。そのまま男子更衣室に入ると、ちょうど石原たちが着替えをしていた。 「物騒だよな」  副店長の山本が私を一瞥してから石原に言った。 「何かあったんですか?」  石原の横に立ちロッカーのドアの取っ手に手をかけながら石原に訊いた。  石原は私の顔を見た後、山本に視線を向けた。私もそれにつられ山本に視線を向けた。  山本は「ふん」と鼻を鳴らした。 「女子更衣室で盗難があったみたいなんです」  石原が私の耳元で囁いた。 「盗難ですか」私はつい大きな声を発してしまった。  石原が「しっ」と口の前に人差し指を立てた。 「す、すみません」体を小さくして頭を下げた。 「女子ロッカーが荒らされてたらしくて、今警察が来ています」  爽やかな石原らしくない苦い表情で口元を歪めた。 「そうなんですか」小林の渋い表情の理由がわかった。 「あんたじゃないだろうね」  背中から声がして振り向くと山本が睨めつくような視線を向けてきた。 「違います、違います」  私は顔の前で右手を何度も振った。 「従業員があんたが来てから、怖がってんだよね」  山本が吐き捨てるように言った。 「山本さん、小沢さんは真面目な人ですよ。仕事を覚えるのも早いですし、なんの根拠もなく疑うのは失礼ですよ」  石原が顔を赤くして山本に向かって声を荒げた。石原のこんな姿を見るのは始めてだ。 「けどさ、前科者でしょ。それも殺人と傷害だって噂だし。今は猫被ってるだけじゃないの」 「山本さん、小沢さんはそういう人じゃありません」  石原が山本に詰め寄った。 「そう人じゃないって、ちょっと一緒に仕事しただけのお前がこの人のことどこまでわかってんの」  山本が詰め寄り石原に鼻がぶつかるくらい顔を近づけた。私はどうすることもできず立ち尽くしていた。 「小沢さんといっしょに仕事したら、そういう人じゃないって、誰でもすぐにわかりますよ」  石原も興奮しているようで、山本に顔を近づけたまま喚いた。 「まあ、石原落ち着けや」山本が石原に圧倒されて後ずさりした。 「僕は落ち着いています」顔を赤くした石原の鼻息は荒かった。 「そういう人じゃなかったにしてもさ、みんながそう思ってるのは事実なんだ。この人が来てから働きにくいと思ってる従業員も多いんだよ。そこは、石原も社員として考えないといけないだろ」 「みんなの誤解を解くのが僕たち社員の仕事じゃないですか」 「はいはい、わかったよ。石原はお利口さんだからな。取り敢えず警察に早く犯人捕まえてもらうしかないわ」  山本はそう言って、両肩を上げ、私を一瞥して更衣室を出ていった。小林と石原、肉担当のスタッフ以外からは、私は受け入れてもらえていないようだ。  小林店長は、私が過去に犯した殺人と傷害事件について副店長の山本と石原にだけには話しておくが、他の従業員に広めないように二人には口止めしておくと言っていたのだが、ほとんどの従業員が知ってしまっているようだった。さっきの山本の歪んだ顔が頭に浮かんだ。  結局、警察が指紋などを調べたようだが、女子更衣室から外部の人間の指紋は見つからなかった。内部犯行でしょう、ということで警察の介入は終わった。  これまでこんなことがなかったのに、私が働き始めた途端にこんな事件が起こったと、山本と同じように私を疑う者は多かったようだ。 「なんの証拠もないのに、小沢さんを疑うなんておかしいです。小沢さん、気にしないでいいですよ」  石原はそう言ってずっと庇ってくれた。小林も同じく、私を庇うその姿勢を崩さなかったが、そうもいってられない事態になってしまった。  肉売場以外の多くのパートやアルバイトが、私が働き続けるなら退職すると小林の元に押しかけてきたのだ。  小林はみんなを必死に説得するが聞く耳をもってくれなかったようだ。小林も石原も、私を庇うせいで苦境に追い込まれているのがわかった。  ここは私が身を引くしかないと思った。年末を迎えたこの時期に大量の退職者が出たら店が回らなくなる。店にとって大切な時期だ。それくらいのことは私でもわかる。  これ以上、小林と石原にいらぬ負担はかけたくない。私が辞めれば丸くおさまるなら辞めるしかないと思った。私の代わりなら、ここならすぐに補充はできるだろう。  アパートに帰ってからテーブルの上を片付け、買ってきた便箋を広げた。大沢勝男の頃、仕事が嫌で退職願を何度も書こうとしたことはある。しかし、本当に書くのははじめてだ。暫くボールペンを手にしたまま広げた便箋を眺めた。  南さんは、私が面接に行く前日に私を雇ってほしいと小林に頭を下げてくれた。そのお陰で働けるようになった。小林と石原は私の過去のことを知りながら普通に接してくれた。お陰で短い期間だったが楽しく仕事ができた。勝手に涙が出てきた。辞めたくない。しかし、小林や石原にこれ以上迷惑はかけられない。私は辞めるしかない。ボールペンを握りしめて、封筒にまず退職願と書いた。  退職願を書き終えて、ボールペンを便箋の上に置いてそのまま横になった。薄汚れた天井を見ながら、大沢勝男だった頃のことを思い出した。あの頃が幸せだったことを改めて感じた。スーパーの肉売場で出世街道から外れて愚痴をこぼしながら過ごしたこと。沙知絵と柚菜との会話がほとんどなくなったこと。柚菜が生まれた日のこと。沙知絵と結婚してみんなから羨ましがられたこと。母親が亡くなって、この先どうしていいのかわからなくなった時のこと。父親が亡くなってしまった時の悲しかったこと。過去の記憶をどんどんと遡っていった。  しかし、思い出せたのは父親が亡くなった時までだった。それより昔のことを思いだそうとすると激しい頭痛がして思い出せなかった。  そしてどういうわけか、小沢勝己として過ごしていたことが鮮明に記憶に残っていた。私自身が経験したはずのない、父親を金属バットで殴った時の手の感触や母親の佐和を助けようとして山崎を殴った時の手の痛み。会ったことのないはずの進の鬼のような表情や母親の佐和の優しそうな表情が交互に出てきた。反対に私の実の父親の俊夫と母親の五月の顔が記憶から薄れていた。  どういうことだろうかと考えた。  今の肉体は間違いなく小沢勝己のものだ。もちろん脳も小沢勝己のものだ。ということは、今、脳にある記憶は小沢勝己のままということだ。大沢勝男としての記憶があるはずがない。このまま、小沢勝己として生きていくと、大沢勝男としての記憶はどんどん薄れていき、脳にある小沢勝己の記憶が膨らんでいくのではないだろうか。  そうなると、いずれは沙知絵や柚菜の記憶も消えてしまうのではないだろうか。それは絶対にダメだ。そうなると大沢勝男は完全に死んでしまったことになる。今の自分の存在は無くなってしまうのだ。  二人の記憶が無くなる前にどうしても沙知絵と柚菜に会いたいと思った。二人にとっては迷惑なのかもしれないが、会って話がしたい。大沢勝男は今、小沢勝己として生き返って、和歌山で過ごしていることを伝えておきたい。  仕事を辞めてから一度岡山に行ってみよう。南さんに本当のことを伝えてから、私は岡山へ行く決心をした。そして、大沢勝男として生きてきた人生を今のうちに小沢勝己の脳にしっかりとインプットしておきたい。  次の日の朝、私は小林と店長室で向かい合って座っていた。こうしていると、二週間前の面接の時のことを思い出す。たった二週間だが、ずいぶん昔のような気がする。あの時は小林に履歴書を渡したのだが、今回は退職願を渡した。小林はそれを受け取った時、無念そうに唇を噛みしめたが、止めようとはしなかった。小林の立場を考えるとやむを得ないだろう。  辞める時期は小林に任せたが、早い方がお互いのためだということで、すぐに退職することで決まった。最後に石原にだけは挨拶がしたいと言うと、小林はすぐに石原に内線をしてくれた。内線が繋がると、受話器に向かって私が今日で退職することを伝えていた。 「えーっ」という石原の声が受話器から漏れていた。  小林が受話器を置いて、私の顔を見てから、「石原はショックを受けてるようです」と言って目を伏せた。  すぐに石原が勢いよく事務所のドアを開けて入ってきた。 「店長、それはないですよ」  石原は事務所に入ってくるなりそう言った。 「決まったことなんだ」  小林は無念そうな表情を浮かべた。 「石原さん、いろいろと教えてくださりありがとうございました。せっかく教えていただいたのに、お役に立てず申し訳ありません」  私は立ち上がり石原に向けて頭を下げた。 「小沢さん、これからもいっしょにやりましょうよ。副店長の言うことなんて気にすることないですよ」 「すいません」  私はもう一度石原に頭を下げた。 「石原、新しい人は、また募集するから、小沢さんはあきらめてくれ」 「店長、そんな問題じゃないです。うちの人間関係の問題です」  石原が小林の座るテーブルに両手をついて訴えるように言った。 「石原さん、私が店長に辞めさせてほしいとお願いしたので、店長を責めないで下さい。辞めるのは私の身勝手な理由なんです」  私は石原の肩に手を置いた。石原が私の方を見て「小沢さん」と言って涙を浮かべていた。小林の目も潤んでいるようだった。  私は二人の涙を見て、ありがたい気持ちでいっぱいになった。最後に「ありがとうございました」と思いきり頭を下げた。  仕事を辞めたことを南さんにも報告しなければと思っていると、その日の夕方に南さんが両手に缶ビールとおつまみを持ってアパートに現れた。  南さんは「よお」と言って右手を上げ、自分の家に帰ってきたかのように部屋に上がり缶ビールをテーブルに置いて「どっこいしょ」と言って私の前に腰を下ろした。  南さんは私の方を見てくしゃくしゃの笑みを浮かべていた。  私は仕事を辞めたことを報告しなければならないかと思うと、いつものような笑みを返せなかった。せっかく南さんが小林に頭を下げて働けることになったのに、たった二週間で辞めてしまったのだ。南さんに申し訳ない気持ちでいっぱいだった。 「顔が暗いな。何かあったのか?」  南さんは缶ビールを口にしてから、タバコに火をつけて訊いてきた。  私は、仕事場でロッカー荒しがあったことが原因で仕事を辞めなければならなくなったことを伝えた。  南さんは「うーん」と唸ってから、暫く沈黙した。 「せっかく、南さんが店長の小林さんにお願いしてくれたお陰で働けることになったのに、申し訳ありません」  沈黙の続くなか、私は南さんに土下座をした。  南さんは辞めるべきじゃない。辞めたらロッカー荒しを認めたことになると言ってくれたが、小林や石原に迷惑をかけながら働き続けることはできないと伝えた。  南さんは「わかった」とだけ言って、缶ビールを飲み干した。  南さんからこの先、どうしていくのかと訊かれた。ここで本当のことを話しておくべきだと思った。  しかし、私は小沢勝己ではなく大沢勝男という人間で、交通事故にあって天国に向かう途中に二人が入れ替わってしまったことを説明して、南さんはそれを信じてくれるだろうか。 「どうした? まだ何か言いたそうだな」  南さんが怪訝な表情を浮かべた。 「ええ。実は南さんに隠していることがあります。いつかそれを話さなければならないと思ってました」  座り直し背筋を伸ばしてから南さんの顔をじっと見つめた。 「大事な話のようだな」  南さんも座り直し背筋を伸ばした。 「はい。今から私が話す内容は、南さんには信じがたいことかもしれませんが、最後まで聞いてください」 「わかった。話してくれ」  私はこれまでのことを包み隠さず話した。その間、南さんは口を挟むことなく、目を閉じたままじっと耳を傾けてくれた。  話し終えてから、南さんを見た。どんな反応をするのか気になった。  南さんが目を開けて私を見た。口角を上げた優しい笑みを浮かべていた。 「ふーん、そんなことがあったのか。不思議な話だなー」  南さんがあまりにもあっさり信用してくれたので、私は拍子抜けした。 「はい、不思議な話です。南さんはこの話を信じてくれるんですか?」 「そうだな。信じがたい話には違いないが、死後の世界なんて、わしらにはわからないことだらけだからな。それにあんたがわしに嘘つく理由もないしな」  南さんはタバコを取り出しライターで火をつけた。 「信じてくれてありがとうございます」 「て、ことは」  南さんが紫煙を吐きながら私の顔をじっと見た。 「は、はい、なんでしょう?」 「いや、いい。やめておく」  南さんはタバコを灰皿に押し付けた。 「なんですか、言ってください」  私は前のめりになって訊いた。 「いや、て、ことはだな」 「はい、何でしょう?」 「小沢勝己はあんたの代わりに天国へ行ったわけだな」 「そういうことのようです」 「そうか、天国か」  南さんは少し嬉しそうな表情をして天井に視線を向けた。 「はい、天国です」 「小沢勝己は天国で佐和さんに会えたのかな?」 「多分、会えたんだと思います」 「あいつ、今頃、母親孝行してるかな」 「どうでしょう。天国のことはわかりませんが、きっと母親孝行してるんじゃないですか」 「そうだよな。あいつ、本当は優しい男だからな」 「そうみたいですね」 「進は地獄に落ちてるよな」  南さんは私の顔をじっと見てきた。その目はさっきまでとは違い鋭くつり上がっていた。 「は、はい、そう思います」  私が言うと南さんは何度も首を縦に振った。 「あんたには悪いが、小沢勝己が天国に行けてよかったと思ってる」 「小沢勝己さんのことを、あなたからいろいろと教えてもらって、小沢勝己は天国に行くべき人だったということはわかりました」  複雑な心境だが、そう思ったのも確かだ。地獄行きの審判はコンピューターがやっていると言っていたが、コンピューターではなく、閻魔様がやっていたら、小沢勝己を地獄に行かせなかったのではないだろうか。閻魔様なら、小沢勝己が殺人を犯してしまった事情も汲んでくれたようにも思う。  私がもう一度死ぬ時には、いろいろな事情を汲んで審判してくれるようなコンピューターになっていることを期待したい。でないと、私は殺人犯の小沢勝己として地獄に落とされることになるかもしれないのだ。
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