愛と憎

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愛と憎

 こんなに短くて緩やかな坂道だったろうか。もっと急で長い坂道だった気がする。道幅はもっと広かったようにも思う。坂道を上がりながら周りの景色を見渡した。その景色は記憶しているより小さく見えた。  小学生の頃に毎日通っていた道を大人になってから久しぶりに通ると、その景色が小さく見えることがあるが、今はそれに似た感覚だ。  小沢勝己として生まれ変わり、大沢勝男の頃より身長が二十センチも高くなったせいだろう。体力も強くなったせいか、この坂道を上るのも苦痛に感じない。  大沢勝男の頃、この坂道を上り切ると、喉の奥からゼェゼェと変な音がして、足は棒のようになっていた。家にたどり着いた時には完全に疲れ切っていた。  今は息切れもしていないし足は棒のようになっていない。身長は二十センチ高くなっているが体重はあの頃より軽くなっている。メタボだったお腹は見事に空気が抜けたようにペタンコになっている。ふくらはぎや太ももはゴツゴツした岩のように筋肉がもりあがっている。  私は坂道を上りきり、そのまま立ち止まることなく左に曲がっていった。三本目の角を今度は右に曲がり三軒目の家が、私が大沢勝男として過ごしたマイホームだ。  十八年前に沙知絵と結婚し、それから二年後に柚菜が生まれた。柚菜が小学生になる前にマイホームを手に入れようと十二年前に、思いきってこの地にマイホームを購入した。駅からは歩いて二十分以上はかかる。商店街やスーパーへ買い物に行くには十五分ほど歩かなければならない。  当時の給料でローンを組むには、これくらいの不便さは我慢せざるを得ないだろうと思った。  私の通勤には不便な場所だったが、幼い柚菜にとっては交通量も少なく空気もきれいな土地で公園も所々にあり良い環境だったと思う。  健康のために歩くのもいいのよ、と沙知絵は言った。私も毎日坂道を上り下りするからダイエットになるよと言ったはずだ。お互いにこの不便さをポジティブにとらえることができた。  ただ、私の体重はこの坂道を毎日上り下りしたにも関わらず増加する一方だった。今思えば、ただの幸せ太りだったのだろう。あの頃はその幸せに気づけていなかった。  歩みを止めて辺りを見渡した。引っ越してきた当時ニュータウンで若い家族連れが多く萌えた町も当時の姿が影をひそめ、少し枯れた町並みになっていた。  ゆっくりと歩きだし、一軒一軒の家を眺めた。ここから離れて一ヶ月ほどしか経っていないはずなのに、この地域で暮らしていた頃が遠い昔のように感じた。 『大沢』という表札があがる家の前にたどり着いた。小さな鉄製の扉の奥にプランターが二つ並んでいる。その奥に、いつもは沙知絵の自転車が置いてあるはずだが、今はない。ドアは固く閉まっていた。二階のベランダもひっそりとしている。  表札、鉄製の扉、プランター、ドア、ベランダの順に何度も視線を走らせた。こうして、この家を眺めていると、大沢勝男として過ごした記憶がお湯が沸騰したようにブクブクと湧いてくる。  この家に引っ越してきた日のこと、『大沢』という表札を見て誇らしげに思ったこと、プランターに朝顔やヒマワリの種を柚菜といっしょに植えた日のこと、家族三人でベランダから星を眺めた日のこと、どれもいい思い出だ。  今思い出した大沢勝男として生きてきた記憶を小沢勝己の脳にしっかりとインプットし頭の中に塗り固めておかなければならない。私は大沢勝男なんだ。この記憶を絶対に消してはならない。  出来るだけ多くの記憶をインプットしておこうと思ったが、ここであまり長居していると不審者に間違えられる恐れがある。今の私は、知らない人から見たら反社会的な人間にしか見えない。他人の目には注意しないといけない。特に噂好きでおしゃべりな隣の皆川さんの奥さんには注意が必要だ。  皆川さんに警察に通報でもされたら大変なことになる。そこそこのところで切り上げた方がいい。両隣の家と向かいに建つ家のベランダを見渡した。他人の目がないことを確認してからズボンのポケットからスマホを取り出しカメラモードにしてこの家に向けた。パシャパシャとスマホに映る我が家を数枚写真に収めた。この写真を後でゆっくり眺めよう。  実の父親と母親、二人の顔が記憶から消えて思い出せなくなっていることが心苦しかった。二人の写真を見れば記憶がよみがえるかもしれないが、あいにく二人の写真は手元にはない。この家のなかに入れば父親と母親の写真があるはずだ。この家の鍵の隠し場所は覚えている。しかし、勝手に家に入って不法侵入で警察のお世話になるわけにはいかない。諦めて踵を返した。  小沢勝己になって一ヶ月が経つ。その間に大沢勝男としての記憶は小沢勝己の脳から徐々に消えてしまっている。このペースだと来年を迎える頃には完全に大沢勝男の記憶を失ってしまうのかもしれない。  すべての記憶を失う前に、大沢勝男として生きてきた記憶の全てを上書きをしておかなければならない。私は長い坂道を下りながら次の目的地へと向かった。  鈍色の空が広がる高台から見える景色は霞んでいた。晴れた日には、海に浮かぶ船や釣り人の姿がよく見えるのだが今日は残念ながら見えない。父親の俊夫が海釣りが好きだったので、この地に墓を立てた時の記憶はまだ残っている。 『大沢家之墓』と書いた墓前に立ち、手を合わせた。花も線香もお供えも持ち合わせていないことと二人の顔を思い出せないことに申し訳ないと頭を下げた。  墓石の横には、すでに私の名も刻まれていた。享年五十才。本当の大沢勝男はすでに死んでいるのだと実感した。  それなのに天国にも地獄にも行けず、こうして小沢勝己の姿となって生きている。天国では、今頃どうなっているのだろうか。南さんは小沢勝己が天国で母親の佐和に会えただろうかと気にかけていた。  私の父親と母親は、私が天国に来ていないことで、慌てているのではないだろうか。今、墓石の前に立つ、この男が何者なのか訝しげに思っているのかもしれない。  大沢俊夫と大沢五月、私の本当の父親と母親の名前はまだ記憶に残っている。墓石の前で手を合わせながら二人の名前を何度も何度も繰り返し呟いた。大沢勝男としての記憶が完全に消えてしまう前に、俊夫と五月、二人の名前を新しい記憶として刷り込ませておく。  二人の顔を思い出そうと試みると、頭が刺すように痛み出した。あまりにも激しい痛みなので、墓前に手を合わせるのを中断し、両手の人差し指で左右のこめかみを思いきり強く抑えた。しばらくそのままでいると痛みがスーッと消えていった。痛みが消えるのと同時に男の顔が頭に浮かんだ。  それは会ったこともないはずの小沢勝己の父親の進の顔だった。じっと睨みつける進の表情から私に対する憎悪と侮蔑を感じた。何度も首を振って鬼の形相を追い出そうとした。  この男が小沢勝己と小沢佐和の人生を滅茶苦茶にしたのだ。この男の記憶を消し去りたい。しかし、消し去りたい記憶ほど頭にしっかりと刻みこまれ離れないものだ。  次に浮かんできたのは、これも会ったことのないはずの小沢勝己の母親の佐和の顔だった。切れ長な一重瞼の瞳から放つ光は柔らかく私を包んでくれた。しかし、それはすぐに消えてしまった。  享年五十才。死ぬにはまだまだ早すぎる年齢だ。人生はこれから先が楽しいのだ。やりたいこともたくさんあった。  大沢勝男として生きてきた人生でやりたかったことは何だったのかと自分に問いかけてみた。しかし何も出てこない。これまでの人生で私は夢や希望を持っていなかった。ダラダラと無駄に寿命をすり減らしていたんだと、今になってつくづく思う。限りある貴重な寿命を、あたかも無限にあるかのように勘違いして過ごしてしまっていた。  私は十一月十一日に亡くなっている。その前日十一月十日にトラックに跳ねられたのだ。  あの日、私は仕事が休みだった。柚菜が学校へ行き、沙知絵がパートに出掛けたあと、高山と清水と居酒屋へ飲みに行った。清水が離婚してから元気がないので、三人で飲みに行って、清水を元気づけようと高山が計画してくれた。私も清水のことが心配だったし、高山と清水と過ごす時間があの頃は一番楽しい時間だったので、二つ返事でオーケーした。  今ごろ高山と清水はどうしているのだろうか。清水は少しは元気になったのだろうか。あの二人にも会いたくなった。そこで次の目的地が決まった。    二階建ての建物を二車線の道路を挟んだ向かいの歩道から眺めた。建物の前にある駐車場にとまっている車はまばらだった。年々お客さんの数は減っていった。クリーム色だったはずの建物の壁は色を失っていた。所々、雨のしずくのような後が、灰色になっていて、この建物が涙を流しているように見えた。道路を横切りもう一度建物を見上げた。出入口の上に掲げてある看板の文字もくたびれ消えかかっている。こんなに傷んでいたのか。  考えてみれば、毎日のようにこの建物の中で働いていたにも関わらず、この位置からゆっくりとこの建物を見上げることなど、今までになかった。  いつもため息を吐きながら、背中を丸め俯いたまま建物の裏口から入り、帰る時も裏口から出て建物に振り向くこともなく、そそくさと帰っていた。  たまには、こうして遠くから眺めて、この建物に感謝の気持ちを伝えるべきだったなと思った。  出入口から店内へ入った。高山や清水の顔を忘れてしまう前に、新しい記憶として焼き付けておこう。  店内に入ると、大根が山積みされているのが、目に飛び込んできた。その横に小柄な男が立っていた。小さい目に大きな口。そしてやたらと声が大きい。 「今日は大根が安いよー」  高山が手を叩きながら声を張り上げていた。たくさんのお客さんが大根を手に取り買い物カゴに入れている。  その度に高山が「ありがとうございまーす」と笑顔で声を張り上げている。  出世街道から取り残されたと三人で愚痴をこぼしながらも、こうしてみんな一生懸命に働いた。特に高山はいつも楽しそうにハツラツと仕事をしていた。  大根の売場を眺めていると、高山と目が合った。高山が少し怪訝そうな目で私を見た。今の私の姿を見たら、やむを得ないかもしれない。食品スーパーの野菜売場には似つかわしくない顔だ。普通の買い物客には見えないだろう。クレームをつけにきたチンピラと思ったかもしれない。 「今日は大根が安いの」  笑みを貼り付けてから、思い切って高山に声をかけてみた。 「は、はい、今日は大根がお買い得ですし、他に白菜や椎茸もお買い得ですよ」  高山は、そう言って白菜や椎茸の並ぶ売場を手で指した。  買ってあげたいが、荷物になるので買ってやれない。何気なく大根を手に取ってみた。立派な大根だ。右手に力を入れて大根を握った。  私に異変が起きたのは、そのすぐ後だった。大根を握った瞬間に大根を持つ手がキリキリと痛みだした。続いて頭の中に鉛でもぶちこまれたのかと思うほど、頭がズシリと重くなった。視界が霞み、目の前に積まれた大根の山や高山の姿が歪んで見えてきた。船酔いでもしたように気分が悪くなった。  大根を持つつるりとした冷たい手の感触が、少しずつ変わり、ざらりとした細いものに変わっていった。  それは、小沢勝己が空き地で金属バットを拾いあげた時のあの手の感触だった。そして、小沢勝己が金属バットを拾った空き地の風景が目の前に広がった。私が経験したことのないはずの小沢勝己のドス黒い過去の記憶が、私の頭の中でどんどんと広がっていく。鼓動が激しくなり体が熱くなった。呼吸を整えようと大きく息を吸うが全く効果がない。その場に立っているのさえ苦しくなった。そのまま目を閉じてじっと堪えた。  気分の悪さはおさまらない。無意識に「ウォー」と大きな声を張り上げ、持っていた大根を思いっきり床に叩きつけていた。  そこで体がフッと楽になった。足元を見ると、叩きつけた大根が割れて、ハの字になって左右に転がっている。顔を上げると多くの視線が私に集中していた。  高山を見ると、あんぐりと口を開けていた。「あ、あ、あ、あ」と喉の奥の方から音を発していたが、言葉にはなっていない。  熱くなっていた私の体が一気に体温を失いガクガクと震え始めた。 「す、すいません。こ、これ、弁償します」  床に落ちて二つに割れた大根を左右の手で一本ずつ拾い上げて、高山に向かって頭を下げた。  高山は言葉を発することなく、歯をガタガタと鳴らし震えていた。 「お、お客様、お、お買い求めいただかなくても、け、結構です。そ、それより、お、お怪我はございませんか」  高山の口からやっと出た声は震えていた。私への配慮をみせるところは、やはり優しくて思いやりのある高山だと思った。 「私は大丈夫です。それより、これ、申し訳ないことをしました」  割れた大根を左右の手に持ったまま、もう一度、詫びた。 「ほ、本当に大丈夫ですので、お客様、お気になさらずお買い物をお続けください」  高山がそう言いながら、恐る恐るといった感じで私から大根を受け取ろうと両手を差し出した。 「本当に申し訳ないことをしました」  私は高山に割れた大根を手渡した。  大根を渡す時に高山の顔をじっと見た。高山の方は、私と目を合わそうとせずに割れた大根に視線を落としていた。 「高山、これまでいろいろとありがとうな。お前のおかげで楽しかったよ。これから元気で頑張れよ」  大根を渡しながら心の中で、そう呟いた。  高山は割れた大根を持って、私に一礼しバックへと消えて行った。  高山の背中に向かって「ごめん」と手を合わせ、野菜売場から離れた。  店内を歩いていると、私が大根を投げつけた騒動のせいで、買い物客が私から距離を置いた。災いに巻き込まれたくないといった感じで、遠くからチラチラと冷たい視線を向けている。その視線が私の体に次々と突き刺さっていく。すぐにでもこの場から離れたい心境だが、どうしても清水の顔を見ておきたかった。  冷たい視線を向ける人の中には常連の買い物客で、私がこれまでに何度も接客し、見知った顔もあるが、向こうからすれば、今の私は不審人物にしか見えないのだろう。  とりあえずメイン通路からお客さんの少ない中の通路へと避難した。醤油やソースなどが並ぶ売場に挟まれた通路で一度深呼吸した。さっき私に起こった異変は何だったのか。大根を握った瞬間に意識が朦朧となり、小沢勝己のドス黒い過去の記憶が、まるで私が経験した記憶のようによみがえってきた。  小沢勝己は生きている間、ずっとこんなドス黒い記憶と闘い続けてきたのだろうか。これからは、私がそのドス黒くて耐えがたい記憶と闘っていかなければならないのだろうか。  そう思うと「ハァ」と重い息が出た。  お客さんの少ない通路を歩きながら気持ちを落ち着かせた。ふと、先を見ると通路を抜けた先に豚肉のトレイが並んでいるのが見えた。  私が一ヶ月前まで働いていた肉売り場だ。私がいなくなってからはどうなっているのかと思い、ゆっくりと豚肉売場に吸い寄せられるように足を向けた。  通路を抜けると肉の売場が目の前にパッと広がった。冷蔵ケースの棚に豚肉が並ぶ。右に視線を向けると鶏肉が並び左に向けると合挽肉、牛肉が並ぶ。眺めているだけで目頭が熱くなった。しばらくその場から離れられなくなり、目の前に広がる肉売場を眺めた。  白衣を着た女性が、「いらっしゃいませ」とお客さんに声をかけながら豚肉のトレイを並べていた。パート従業員のリーダー的存在の西崎さんだ。まさか後ろに立っている怪しげな男が、一ヶ月前まで一緒に働いていた大沢勝男だとは夢にも思わないだろう。  相変わらずお客さんの視線が私を突き刺してくるが、ここからすぐには離れたくなかった。じっと見ていたい。  作業場から背の高い若い男が出てきた。私の部下として働いてくれていた遠山だ。几帳面で真面目な男、白衣姿よりスーツ姿の方が似合う風貌だ。遠山は売場に並ぶ商品を順に指差しながら西崎さんに笑みを浮かべ話していた。 「わかりました。チーフ」  遠山が話し終わると、西崎さんは口元を綻ばせながら言った。  その後、遠山は「お願いします」と言って笑顔でペコリと頭を下げた。楽しそうだった。私がいなくなったことなんて、すでに遠い過去のことになってしまったのかもしれない。  私の後継として、この若い遠山がチーフに昇格したようだ。私の部下として働いていた頃より、遠山の目は生き生きしている。頼りない部下だと勝手に思っていたのに、こうして見ると仕事の出来る切れ者の男に見える。  遠山にとっては私がいなくなってよかったのかもしれない。ここには私のいる場所はもうない。名残惜しいが、私は肉売り場を後にした。  清水は出勤しているのだろうかと、そのまま隣の鮮魚売場へと足を向けた。出来るだけお客さんや店員に視線を向けず、商品の並ぶ冷蔵ケースを見ながら歩いた。  今日はブリがお買い得のようだ。正月用の数の子やごまめも並んでいる。これからが一年で一番忙しい時期になる。みんながピリピリと神経を尖らせる季節だ。あの頃はそれが嫌で嫌でしかたなかったが、今思えば懐かしい。  鮮魚売場を見ながら清水の姿を探した。売場に清水の姿は見えなかった。清水は人見知りで職人気質な性格だ。高山とは違い、あまり売場に出て、お客さんに声をかけて売り込むことはしなかった。店長に売場に立って売り込めとよく注意されていたのを思い出す。今日もこの奥で黙々と魚を捌いているのかもしれない。しばらくここで待ってみることにした。 「いらっしゃいませ」と弱々しい声が背中から聞こえた。  聞き覚えのあるその声は清水の声だとすぐにわかった。慌てて振り向くと、そこには清水がぼんやりした表情で立っていた。 「清水」一瞬声が出そうになった。清水の肩に手を置きそうになった。上げた手をすぐに引っ込めた。  清水は鮮魚担当のなかではめずらしくおとなしい性格だ。鮮魚の担当者は比較的気性が荒くて、声が大きいのだが、清水の声は冷蔵ケースのモーター音にかき消されそうなくらいに小さい。  清水が若い頃、当時のチーフから『鮮魚は威勢が大事だ。もっと元気な声を出さねえと、魚の鮮度まで悪く感じるじゃねえか』と怒られていたのを思い出した。  怒られている時の清水は肩をすぼめて小さくなり、『はい』と、これまた小さな声で返事をしていた。その小さな返事を聞いたチーフは顔を赤くして怒っていた。  結局清水は変わることなく、今でも鮮魚売場に立っている。清水はブリの切り身の補充をはじめた。  私は清水の横に立ちブリの並ぶケースを覗きこんだ。 「いらっしゃいませ」  清水は相変わらずの声で、私の方に顔を向けることなく声を出した。 「今日はブリが安いね」  ブリの切り身を手に取って声をかけた。 「ええ、お買い得ですよ」  清水は一瞬こっちを見たがすぐに目を逸らした。 「でも、今日はブリはやめておくわ。申し訳ない」 「いえ」  清水は私に目を合わすことなく短く答えた。 「じゃあ、清水、元気でな」  つい、『清水』と口に出してしまった。  さすがの清水も驚いて私に顔を向けた。 「はい?」と言った清水の顔は怪訝そうだった。目の前にいる不気味な男がなぜ自分の名前を知っているのかと思ったのだろう。  私は苦笑いを浮かべ清水の肩を叩いて、その場から立ち去った。  とりあえず、高山と清水二人の元気そうな姿が見れてよかった。二人の姿を今の私の記憶にしっかりと刷り込んだ。  あとは柚菜と沙知絵に会いたい。二人は私が死んでから、どんな生活を送っているのだろうか。一家の主を失い途方に暮れているのか、それともこれまでと変わらず過ごしているのだろうか。まずは柚菜に会いに行ってみよう。  バスを降りてから辺りを見渡した。まっすぐ伸びる長い坂道の向こうに緑に埋もれた薄茶色の建物が見えた。 「あれか」  私は白い息と共にそう呟いて坂道の方へと向かった。今年の春から柚菜はこの高校に通い始めたが、私がここに来るのは今日が初めてだ。結局大沢勝男としては一度も来ることがなかったわけだ。入学式に柚菜は父親の私に来てほしかったのだろうか。  柚菜がここを受験したいと言った時のことを思い出した。  夕食の片付けを済ませてリビングに腰を下ろした沙知絵の横に正座した柚菜は学校案内の資料を沙知絵の前に広げた。 「ここの制服はかわいいし、ここを受験しようと思ってるの。お母さん、どう思う?」  柚菜はそう言って沙知絵の顔を覗きこんだ。  沙知絵の前に座っていた私は沙知絵の様子を伺った。沙知絵は柚菜が広げた学校案内の資料に視線を落としていた。 「ふーん」と言いながら沙知絵は何度も首を縦に振り資料を見続けていた。 「学校は制服で選ぶもんじゃない、もっと将来のことを考えて選ぶべきだろ」  私が沙知絵より先に口を開いた。  沙知絵が資料から私に視線を向けた。そして私の目をじっと見た。目が合うと、沙知絵は口元に笑みを浮かべた。そして言葉を発することなく、視線を資料に戻した。  柚菜に視線を向けると口を尖らせて、私の視線を避けるように遠くを見ていた。そこで家族の会話は途絶えた。  結局、私の意見は、その後遠くに追いやられたようだ。沙知絵と柚菜でこの高校を受験することに決めていた。  長い坂道を登りきると、左手にテニスコートが見えた。右側に視線を向けると、広いグラウンドが広がっている。テニスコートとグラウンドの真ん中に一本道が走り、その向こうには薄茶色の校舎がそびえ立つ。近くで見ると重量感のある壮大な建物だ。  柚菜はここでどんな高校生活を送っているのだろうか。楽しめているのだろうか。今もこの建物のどこかにいるのかと校舎を見上げながら一本道を歩いた。傾きかけた太陽の光が校舎の窓ガラスに反射し目に刺さった。  眩しくて視線を下げると、校門の前に体格のいい男が立っていた。短髪で黒っぽいジャージを着たその男はこちらを睨むように見ていた。右手には竹刀が握られている。パンパンと威嚇するように地面を叩いていた。  男の醸し出す雰囲気からして、この学校の厳しい体育教師か生活指導の教師といったところだろう。きっと私のことを不審者だと思って睨みつけているのだろう。  私は教師と目を合わさないようにして、校門の前を抜け、そのまま体を左に向けて歩いていった。右後方から教師の視線を感じる。しばらく歩いて教師の視線が届かないところで立ち止まった。この位置なら教師から私の姿は見えないが、校門から出てきた柚菜を見つけることができない。  そこでチャイムが鳴った。授業が終わったようだ。しばらくすると、さっきまでシンとしていた校舎からザワザワとした声が漏れはじめた。時おり張りのある甲高い声がこだまする。  教師に見つからないように校門に近づき、学生が出てくるのを待った。すぐに学生たちがゾロゾロと校門から吐き出されてくる。教師は学生たちの群れに気を取られて私に気づいていない様子だ。この隙に柚菜を見つけ出さなければならない。教師の目に注意を払いながら学生の流れる群れに慌ただしく視線を巡らせ柚菜の姿を探した。  出てくる女子生徒全員が柚菜が可愛いと言っていた制服を着ている。その上柚菜は背が低いので見つけるのは大変だ。私は学生の流れる群れに必死で視線を走らせた。  柚菜の身長は私に似て低めだが、やせ形で整った顔立ちは沙知絵に似てくれて良かったなと思う。  学生の群れは途切れ途切れになる。ずっと目を凝らしていたが、ついに、群れはぱたりと途切れた。さっきまでのザワザワした慌ただしさが嘘のようにひっそりとしてしまった。  私は顔を上げ天を見上げた。せっかくここまで来たのに柚菜を見つけられなかった。  さっきの教師が校門の外に姿を見せた。鋭い視線であたりを見渡している。そこで目が合った。こっちにギロリと睨みをきかせている。ヤバイなと視線を外し体を小さくして、そそくさとその場から離れた。  テニスコートとグラウンドを両サイドに見ながら歩いた。名残惜しくて歩くスピードは遅くなった。  テニスコートから元気な声が激しく飛び交う。柚菜と同世代の女の子たちのハツラツとした表情が見える。それを横目に歩いた。この中に柚菜がいないかと見渡したが居そうにない。柚菜がテニス部に入ったとは聞いていないから当たり前だ。しかし、私の知らないところで部活に入ってるかもしれない。  もう少し待ってみようかと、足を止め校門の方へ振り向いた。すると、あの教師が竹刀を肩に担いでこっちをじっと見ていた。彼は私の姿が見えなくなるまであそこに居座るつもりだろう。仕方なく踵を返しバス停へと向かうことにした。重い足取りのまま来た坂道を下っていった。 「キャッハハハハ」  後方から耳をつんざくような高い笑い声が聞こえた。振り向くと、学生数人のグループが歩いてきた。私は端に寄り足を止めて学生たちの姿に目を凝らした。この中に柚菜がいるかもしれない。こっちへ向かってくるグループは三つある。先頭のグループは男ばかりだ。彼らは早足でプロ野球の話題で盛り上がりながら、私の前を通り過ぎて行った。すぐに二つ目のグループが近づいてくる。女子が三人いる。この中に柚菜がいるかと一人一人順に目で追いかけたが残念ながら柚菜の姿はない。彼女らはお互いのスマホの画面を見せあいながらキャッキャッ、キャッキャッと高い声を発しながら私の存在を気にすることもなく過ぎて行った。  三つ目のグループが近づいてきた。男子学生が一人先を歩いて、そのすぐ後ろに女子が二人並んでついている。男子学生の影になっている女子学生に視線を向けた。左側の女子の姿が見えたが、髪の毛の色で柚菜でないことはわかった。右側の女子は男子の陰になってみえない。  男女の三人組と私の距離が近づいたところで男子の後ろに柚菜の姿を見つけた。 「柚菜」と声が出そうになったが、グッと堪えた。今の私は大沢勝男ではない。  三人が私の横を抜けていく。柚菜の姿を目で追って、私は三人のすぐ後ろについて歩き出した。柚菜の隣を歩く女子学生は柚菜の肩に手を回している。  二人の前を歩く男子学生は柚菜のところまで行き、柚菜の頭に手を置いて、柚菜の耳元で何やら言葉をかけていた。そして空に向かって笑っていた。女子学生の方は柚菜に顔を近づけニタニタと嫌な笑みを浮かべていた。  この男女二人と柚菜とは、見た目も雰囲気もだいぶ違う。柚菜は黒くて長い髪の毛を後ろで一つに結びポニーテールにしている。髪を短くすれば若い頃の沙知絵にそっくりだ。高校生なので、もちろん化粧もしていないし髪の毛も染めていない。親の私が言うのもなんだが、清楚で可愛い女子高生だ。私は柚菜が幼い頃から他のどの子供よりかわいいと思っていた。  今、柚菜と一緒に歩いている女子高生は紅い唇をして化粧をしている。髪の毛も赤く染めている。女子学生は相変わらず柚菜にもたれかかるように肩に手を回している。ずっと耳元で柚菜に話しかけながらニヤニヤと笑っている。柚菜は俯き加減で目を伏せ唇を噛みしめていた。友達と一緒にいて楽しそうにしているようには見えない。  男子高生の方は金色の髪をしてだらしなくズボンを低くずらしている。柚菜と女子学生が歩く少し前をフラフラと蛇行するように歩いた。時々振り返り、二人に向かって何か言葉を発していた。はっきりとは聞き取れないが、嫌な予感しかしない。私は三人の後をそのままついていった。  三人はダラダラと蛇行しながら坂道を下っていった。あまりにも歩くスピードが遅いので、それに合わせて歩くのに苦労した。たまに立ち止まり、三人との距離を空けてからまた後ろをついていった。  やっとバス停のところまで来た。柚菜と女子高生がベンチに腰を下ろした。男子学生は柚菜の座る前に腕を組んで仁王立ちした。柚菜に向かって何やら声を発してから柚菜の頭をくしゃくしゃと撫でていた。その姿に優しさは感じない。  私はバスを待つふりをして、柚菜の座るベンチの横に立って、三人の話し声に耳を傾けた。三人は私の存在を気にする様子もなく話を続けていた。  柚菜がチラッと私の方を見た。柚菜と目が合った。私にSOSを送っているように見えた。 「大沢さー、これからもあたし達が、西原のバカから守ってあげるからねー」  女子学生が柚菜に向かって言った。 「さ、沢原さん、きょ、今日はどうも有難うございました」  柚菜は俯いたまま、前を走る車の音にかき消されそうな声で言った。 「任せといて、真也さんが味方についたら、この学校で怖いもんなしだかんね」  女子高生は前に立つ男子学生に向けて笑みを浮かべ親指を立てた。男子学生も笑みを浮かべて親指を立てた。 「まっ、俺に任せとけ」  男子学生が柚菜の頭をポンポンと叩いた。 「あたしと真也さんは大沢のボディーガードだかんね。安心して。西原がまた苛めてきたらいつでも言ってねー」  女子学生が紅い唇の両端をキュッと上げた。 「今日は本当に助かりました」  柚菜がペコリと頭を下げた。  柚菜は西原というやつに苛められているのか。この二人が柚菜をその苛めから助けてくれたのだろうか。 「でね、そのかわりに大沢にお願いがあるんだけど」  女子高生が柚菜の肩に手を回して顔を近づけた。 「な、何ですか?」  柚菜は相変わらず俯いたままだ。 「あたし、どうしても欲しいものがあるの。それをね、マルナカからもらってきてくれない?」 「マルナカからもらってくるんですか?」  柚菜が初めて女子高生の方に顔を向けた。怯えているように見えた。 「そう。マルナカからもらってくるの」 「もらってくるって、どういうことですか?」 「もうー、とぼけないでよ。わかってんでしょ。これ以上言わせないでよ」  そう言って人差し指を曲げて見せた。そして柚菜の耳に口を近づけて何かを言った。それを聞いた柚菜の背筋がピンと伸びて、少し震えはじめた。柚菜は何度も首を横に振った。  何を言われたのだろうか? 「えー、嫌なの?」  女子学生が紅い唇を尖らせた。 「そんなの無理です。許して下さい」  柚菜は訴えるように言った。 「チェッ、使えねえなー」  男子学生が椅子を蹴った。 「すいません」  柚菜が男子学生に頭を下げた。 「じゃあ、これから西原に苛められても助けてあげないよ。反対に西原以上に、あたしと真也さんが大沢を苛めちゃうかもしれないよ。あたしたちの方が西原より危険だからね。それくらい、大沢もわかってんでしょ。それでもいい? 真也さんを怒らせること思ったら万引きなんてチョロいもんだよ」 「でも、万引きは嫌です」  柚菜がまた俯いて何度も首を横に振った。 「それは虫がよすぎるんじゃなーい? あたしたちだって、あんたを助けたから西原と揉めちゃうはめになってるのにさー。大沢だけがリスク無しなのは不公平だと思うけどなー」 「お母さんがマルナカで働いてるから、見つかるとお母さんに迷惑かかるから」 「そうなんだ、おふくろさんが働いてんのか。じゃあさー。おふくろさんにも協力してもらえば」  男子学生が柚菜に顔を近づけて言った。 「ムリです」  柚菜の声はさっきまでとは違い、悲鳴のような大きな声を出した。 「まあいいわ。大沢万引きはやらなくていい」  男子学生が柚菜と女子学生の間に体をねじ込むようにして座った。 「すいません」柚菜が頭を下げた。 「うそー」女子学生が不服そうな声を上げた。 「大沢、そのかわりさー、俺にやらせてくれよ」  男子学生が柚菜の肩に手を回して体を引き寄せた。右手が柚菜の太ももを撫でている。 「イヤーン」女子学生が嬉そうに両頬に手を当てる。  聞いていられない。私の体が熱くなった。柚菜は苛めにあっている。さっき校門に立っていた教師は何のためにあそこに立っているのだ。生徒が苛めにあっているのを見抜けないのか。怒りが一気に込み上げてきた。一度目を閉じて深呼吸し、冷たい空気を吸い込んだ。少し自分の感情を落ち着かせてから柚菜の方に体を向けた。 「大沢柚菜さんだよね?」柚菜に声を掛けた。  三人が同時に私の方に視線を向けた。 「は、はい」柚菜が不安そうな目で私を見上げた。  男子学生と女子学生も私の方を見てから柚菜に視線をやった。 「お、大沢さんの知り合い?」  女子学生が柚菜に訊いた。そして柚菜に回していた手をほどいて姿勢を正した。 「え、えーと」  柚菜が私の顔をじっと見ている。私が誰なのか記憶を辿っているようだが、柚菜が今の私を見て誰だかわかるはずがない。  男子学生と女子学生を見ると彼らの表情から笑みが消えていた。私を見る目は怯えているようだった。 「柚菜さんは知らないでしょうけど、私は柚菜さんのお父さんの知り合いです」 「は、はあ」女子学生が頼りない声を出した。 「だから、ちょっとだけいいかい?」  低くドスのきいた声を出し、男子学生と女子学生の二人を睨みつけた。  男子高生は直立不動になり、女子高生も慌てて立ち上がり赤い髪の毛を手で整えた。柚菜は座ったままぐったりとしていた。 「な、なんでしょうか」女子学生が訊いてきた。 「今、話していた、柚菜さんが苛められているのは本当なのかな?」 「え、ええ、は、はい。そ、それで今日は、あたしたちが大沢さんが苛められているのを、見るに見かねて助けたんです。か、彼が、大沢さんを苛めていた子に、弱い者苛めはダメだと注意してやめさせてくれたんです」  女子学生が男子学生の肘を握りながら答えた。 「そうなんだ。君が助けてくれたの」  私は男子学生に笑みを貼りつけながら訊いた。 「は、はい」男子学生の喉仏が上下する。 「そう、柚菜さんを助けてくれてありがとう」  私は男子学生に向けて頭を下げた。 「そ、そんな、お、お礼なんていいです。当たり前のことをしただけです。あたしたちは大沢さんの、し、親友ですから。ねっ、ねえ、大沢さん」  女子学生はそう言って、同意を求めるよう柚菜に顔を向けた。 「そうか。君たちは柚菜さんの親友なんだ」男子学生女子学生二人の顔を交互に見た。 「はい、あたしたちは親友です」女子学生が頼りない笑みを浮かべた。 「さっき、親友の柚菜さんに、何をさせようとしてたのかな」  女子学生にきつい視線を向けて訊いた。 「えっ、べ、別になにも」  女子学生はとぼけるように口を尖らせながら首を傾げてみせた。 「まさか柚菜さんに万引きをさせようとしたわけじゃないよね。さっき、万引きしなければ、もっと危険な目に合わすみたいなこと言ってなかったかな?」 「ま、まさか。俺たち、そんなバカなこと言ってません」  男子高生の方が慌てて右手を何度も横に振り否定した。 「そう。それならいいんだけど。私は柚菜さんのお父さんにお世話になってたんでね。お父さんから柚菜さんのことをよろしく頼むとお願いされているから、柚菜さんに何かあったら、亡くなったお父さんに申し訳ないんだ」  そう言ってから、目を見開いて男子学生をぎゅっと睨みつけた。男子学生の顔色が白くなっていくのがわかった。さすがに小沢勝己の外見は、いきがっただけの男子学生には迫力があり恐ろしいのだろう。 「だ、大丈夫です。僕たちはいつも大沢さんと仲良くしています」 「そう。それなら良かった。これからも仲良くしてやってくれ」  私はそう言って右手を出した。  男子学生が、「あ、はい」と言って青白くて細い右手を出した。 「絶対に頼むよ」  男子学生の目をじっと見て、男子学生の右手を握った。 「いて」  少し右手に力を入れると男子学生は痛がった。面白くなって、もう少し力を入れると、「いたーい」と言って顔を歪めていた。小沢勝己の握力は思った以上にすごいようだ。 「もし、柚菜さんに何かあったら、私もカッとなって頭に血が上ってしまいそうなんだ。昔の血が騒ぎだしたら、自分でも止められなくなって、何するかわからない。また刑務所に戻ることになるのも嫌だから、柚菜さんを苛めてる友達にも、そのことを伝えておいてくれるかな」  私は指をボキボキと鳴らした。  男子学生と女子学生の体が震えているのがわかった。柚菜に対していきがっていたさきほどまでの姿とは別人だ。視界の片隅でバスが向かってくるのを確認した。私がバスに視線を向けると男子学生と女子学生もバスの方に振り向いた。 「は、はい、わ、わかりました。ぼ、ぼ、僕たちは、も、もう帰っていいですか?」  男子高生の方が胸の前で両手を合わせた。 「ああ、いいよ。お疲れさま。今日は柚菜さんを助けてくれてありがとう」  私は男子学生の肩に手を置いた。 「じゃ、じゃあ、僕たち、あ、あのバスで帰ります」 「じゃあ、気をつけてな」  男子学生の細い肩を強く握った。男子学生がビクッと震えた。 「大沢さん、あたしたち先に帰るわね」  女子学生が柚菜に向かって手を振って笑みを浮かべた。バスが停留所にとまった。  男子学生と女子学生はお互い顔を合わせてから私に向かって、「で、では、失礼します」と同時に言って深々と頭を下げた。  そして踵を返しそのままバスに飛び乗った。バスのドアが閉まる。バスのドアの窓に二人の背中が見えた。こっちに振り向く気はなさそうだ。二人の肩がガクンと下がるのが見えた。  やはり小沢勝己の外見はいきがるだけの高校生を威圧するには充分すぎるようだ。私が大沢勝男の姿のままなら、あの男子学生は、「うるせえんだよ。このおっさん」とか言って、食って掛かってきただろう。  しばらく走り去るバスを眺めた。バスが小さくなっていき、カーブを曲がったところで柚菜に視線を向けた。柚菜はベンチに座ったまま俯いていた。  私は柚菜の前に立った。柚菜は顔を上げようとはしなかった。 「大丈夫?」  力なく垂れ下がるポニーテールに向かって声をかけた。柚菜は俯いたままだった。 「おじさん、おせっかいだったかな」  私がそう言うと、柚菜はゆっくりと顔を上げた。柚菜の黒い瞳が微かに揺らいでいた。 「助けていただいて、有難うございました」  柚菜は蚊の鳴くような声を出し、小さく頭を下げた。体は震えていた。私の知っている元気な柚菜の姿ではなかった。 「学校で苛められてるの?」  柚菜の横に腰を下ろして訊いた。  柚菜は俯いたまま、小さな声で「はい」と言った。それを聞いて胸が締めつけられる思いがした。 「いつから?」 「えっと、半年くらい前からです」 「そ、そう」  半年前ということは、高校に入学してすぐではないか。柚菜が苛められているなんて全く知らなかった。私と沙知絵に相談できないで苦しんでいたのだろうか。それとも沙知絵には相談していたのだろうか。 「誰かに相談とかしなかったの?」 「母親に相談したことがあります」 「そう、お母さんに」  沙知絵は知っていたのだ。なぜ私に相談してくれなかったのか。それほど私は頼りにされていなかったのか。そう思うと鉛を飲み込んだようなずっしりと重い気持ちになった。 「お母さんはなんて?」 「義務教育じゃないんだし、嫌なら学校を休めばいいって言ってくれました。学校を辞めてもいいとも言ってくれました」 「けど、学校は続けてたんだ。辛かったね」 「ええ、まあ」 「お父さんには相談しなかったの」  私には相談してくれなかったことはわかっているがとりあえず、話の流れで訊いてみた。 「はい、相談したことはあるんですが……」  柚菜がそこで言葉を詰まらせた。  今、柚菜は私に相談したことがあると言った。私は相談された記憶はない。どういうことだ。 「本当にお父さんにも相談したの?」  もう一度訊いてみた。 「はい、相談しました。でも父は仕事のことで頭がいっぱいそうで、とりあえず頑張れとだけ言ってそれっきりでした。たぶんですけど……」  柚菜はそこで言葉を詰まらせた。 「たぶん、どうしたの?」私は俯き加減の柚菜の顔を覗きこんだ。 「たぶん、父はあたしが苛めにあおうがどうでもよかったんじゃないかなと思います。相談したこともすぐに忘れちゃったみたいですし。母にそのことを話したらすごく怒ってました。あなたのことは、わたしが何とかするって言ったので、それからは私も母も父に相談しなくなりました」 「そ、そう」  頭を鈍器で殴られた気分だ。苛めにあって悩んでいると柚菜から相談された記憶が全くない。なんと情けない頼りにならない父親だろう。 「父は、私がこの高校に行くことをよく思っていなかったみたいだったから、もしかしたら、ざまあみろ、とでも思っていたのかもしれません」  柚菜が唇を噛みしめている。  柚菜、それは誤解だ。苛めの相談を聞き流してしまったことは申し訳なく思う。しかし、娘が苛められて、ざまあみろ、と思う父親がいるわけないだろ。その時、ふと、小沢勝己の父親の顔が浮かんだ。あいつならそう思うのかもしれない。小沢勝己はそんな父親と中学生までいっしょに暮らしていたんだ。  柚菜が苛めにあってSOSを出しているのに完全に無視した私と母親の佐和を助けるために二度も罪を犯してしまった小沢勝己。本当はどっちが地獄に落ちるべき人間なのだろうか。私は気分が悪くなり、頭を抱えた。 「だ、大丈夫ですか?」柚菜が私の顔を覗きこんできた。 「あ、ああ、だ、大丈夫だ」  柚菜が私の落ち込む様子を見て心配して声をかけてくれた。柚菜から見れば、今の私は赤の他人のはずなのに、なんと優しい娘なんだろう。 「父のお知り合いの方でしたよね。父のことを悪く言っちゃってごめんなさい」  柚菜が前を向いたままペコリと頭を下げた。 「いや、それはお父さんが悪いと思う。父親なら娘をしっかりと守ってやるべきだと思うよ」 「でも、死んじゃったから、もう守ってもらえない」  柚菜の声が震えた。柚菜を見ると、目から涙が溢れ頬を伝っていた。柚菜は私が死んでしまったことで泣いている。私まで目頭が熱くなってきた。 「そ、そうだね、急だったしね」 「ほんとに、急すぎるよ」  柚菜が私に顔を向けた。顔をくしゃくしゃにして泣いている。こんなに泣いている柚菜の顔を見るのはいつ以来だろう。柚菜の幼い頃の泣き顔を思い出した。 「でも、苛めから守ってもくれないような父親だったから、死んでもそんなに悲しくなかったんじゃないかい?」  私がそう言うと、柚菜の泣き顔がスーっと消えて能面のようになった。  柚菜が能面のような表情を私に向ける。整った眉尻がきゅっと吊り上がる。黒目の大きい瞳から放たれた光は冷たく私を突き刺した。 「実の父親が死んで、悲しくないわけないですよ」  声は凶器のように尖っていた。 「そ、そうだね、おじさん、失礼なことを言っちゃったね」  今の私は柚菜からすると、全くの赤の他人なんだ。そんな男から、実の父親が死んでも悲しくないでしょ、なんて言われたら腹が立つのは当然だ。完全な私の失言だ。  柚菜の幼い頃、休日でもほとんど遊びに連れていけなかった。学校の行事にも参加出来なかった。そして、苛めの相談も無視した。そんなどうしようもない父親でも、柚菜は私が死んだことを悲しんでくれていた。 「おじさん酷いこと言ったね。申し訳ない」  私は椅子から立ち上がり柚菜に向かって頭を下げた。 「いえ、こちらこそ、すいません。ちょっと感情的になってしまいました」  柚菜が顔を上げて小さく首を横に振った。 「お父さんが亡くなって辛かったんだね」 「はい、もう一日中泣きました。悲しくて、寂しくて、辛くて、今も父のことを思い出すと涙がでます」  柚菜の目からまた涙が溢れ頬を伝った。 「そ、そう」  意外な答えに私は慌てた。私は胸がつまり次の言葉が出なかった。柚菜の顔を見て黙って何度も頷いた。 「でも、あたしより、母の方が辛かったと思います。母は、今でも毎日父の写真を見て泣いています。だから、今は苛めのことを母にも相談出来なくなっちゃいました」  沙知絵は、私が死んだことで泣いているのか。私がいなくなって、せいせいしていると思っていたのに。そして、柚菜は学校での苛めにあい一人で苦しんでいる。助けてあげたい。今、目の前にいる我が娘を幼い頃のように力一杯ぎゅっと抱きしめてやりたいと思った。  しかし、今そんなことすれば痴漢だと勘違いされるだろう。今の私は父親の大沢勝男ではないんだ。グッと堪えてから、柚菜に向かって頑張れ、と視線を送った。  こうして柚菜と話していると、沙知絵にも会いたくなった。沙知絵には、姿は変わってしまったが、大沢勝男はまだ生きているんだと伝えたい。そして、少しでも沙知絵の力になりたい。 「お母さんは今もパートに行ってるの?」 「はい、毎日暗くなるまで働いています。おじさんは母を知っているんですか」 「いや、会ったことはないんだけど、沙知絵さんとあなたのことはお父さんからよく聞かされていたから」 「そうなんですか。父が母やわたしのことを他の人に話してたなんて意外です」  柚菜に笑顔が戻った。 「そうかい。自分にはもったいない、すごくいい妻と娘だと言ってたよ」 「おじさんとお父さんとはどういう知り合いなんですか?」 「えっ、ああ」  返答に詰まってしまった。こんな展開になるとは考えてもいなかったから答えは準備していなかった。 「そ、そうだね」そこまで言ってから頭の中を整理しようと思ったが、なかなかまとまらない。 「お父さんには、仕事のことですごくお世話になったんだよ」とだけ言ってごまかした。 「おじさんは、お父さんと同じ会社で働いていたわけですか?」  柚菜がどんどん質問をぶつけてくる。頭を整理する余裕がない。 「いや、お父さんとは昔の知り合いでね」 「学生の頃とかですか?」 「う、うん、まあそうだね」 「おじさんも岡山の人ですか」 「そ、そうだね。む、むかしは岡山に住んでたんだけど、えっと、今はね、あれだ、わ、和歌山に住んでいるんだ」 「へぇー、和歌山ですか。今日はわざわざ和歌山から来てくれたわけですか?」  柚菜の表情が怪訝そうになった。私の話しぶりから私が嘘をついてると感じとったのかもしれない。 「そ、そう。今日はお父さんのお墓参りをするために来たんだよ。そ、それでお父さんから柚菜さんのことをよろしく頼むって言われてたの思い出したから、一度会ってみようかなと思って、ここまで来てみたんだ」 「おじさんは、さっき、わたしが大沢柚菜だって、すぐにわかったんですか? わたしの顔を知っていたんですか」  柚菜が警戒心を強めている。警戒心が強いことはいいことだ。けど、ここは柚菜の警戒心をとらなければならない。 「え、ま、まあ、写真をね、お父さんから見せてもらったことがあるから、それで校門のところであなたの姿を見つけて、似てるなと思ったからついてきたんだ。それで、さっきの二人が大沢さんって言ってたから、間違いないと思って声をかけてみたんだ」  柚菜の疑いの視線が突き刺さる。汗がどっと吹き出てきた。 「へえー、そうなんだ」  柚菜は口を尖らせた。完全に疑っている。 「ほ、ほんと、ほんと、ほんとに、そ、そうなんだ」 「あたしと母のことをお願いしますって、お父さんがおじさんに言ったわけですか」 「ま、まあ、そうだね。そんな感じのことをね」 「もしかして、お父さんは、自分が死ぬことがわかっていて、おじさんにわたしたちのことをお願いしたんでしょうか? もしかしてお父さんは自殺だったとか?」  柚菜の話が飛躍していく。まずい展開だ。 「いやいや、違うよ。実は、お父さんは、沙知絵さんとあなたをおじさんに紹介したいと言ってくれてたんだよ。だけど、その前にあんな事故にあってしまったから、私が勝手にあなたたちのことを心配してるだけなんだ」 「ふーん、そうですか」  柚菜はどこまで信用してくれているのだろうか。柚菜は沙知絵に似て勘がいい。私を怪しい人物だと思っているのかもしれない。 「そう、あなたのお父さんは、あなたや沙知絵さんのことをすごく愛してたから、きっと今ごろ天国で心配してるんじゃないかとおじさんが勝手に思って、あなたに会いにきたんだよ。お節介でごめんね」 「お父さん、あたしのこと愛してくれてたのかな」  柚菜が宙に視線をやった。 「うん、それは間違いない。すごく愛してたよ。それはおじさんが保証する」 「それならよかったです」  柚菜が私に視線を向けて小さく微笑んだ。  次のバスが向かってくるのが見えた。すると、柚菜が立ち上がった。 「おじさん、今日はありがとうございました。父のことがいろいろ聞けて、あたし少し元気になりました」 「そう。それならよかった。おじさんもあなたに会えてよかったよ。これから嫌なことがあっても一人で抱えこまないようにね」 「わかりました。あたし、あのバスで帰ります。おじさんは?」  柚菜が向かってくるバスに視線を向けた。 「おじさんは、もう少しここにいるよ」  もっといっしょにいたい。いっしょにバスに乗りたかったが、そこは我慢した。 「そうですか。今日は本当にありがとうございました」  柚菜がペコリと頭を下げた。  バスが入ってきて、柚菜は私に背を向けてバスに乗り込んだ。 「柚菜、元気でな」  バスに乗り込む柚菜の背中を見ながら心の中で呟いた。柚菜がバスに乗り込んでから、私にふり返り手を振ってくれた。柚菜が幼い頃に公園の滑り台を滑りながら、私に向かって手を振ってくれた時の姿を思い出した。  バスのドアが閉まり発車した。バスの中にいる柚菜に視線を向ける。柚菜もこっちを見ている。柚菜に向かって頭を下げた。柚菜もペコリと頭を下げた。バスが走り出した。バスの中に見える柚菜の姿を目で追いかけたが、ドンドン小さくなっていきバスがカーブを曲がり完全に見えなくなった。  これで、もう二度と柚菜に会えないのだろうか。いや、また会える。どうしても会いたい。今別れたばかりなのに、今すぐ柚菜に会いたい。  柚菜がいなくなった途端、気温が一気に下がった気がした。体をブルブル震わせて、一人、バス停のベンチに腰を下ろした。肩を竦めてこの先どうするかを考えた。  振り返ると柚菜の通う高校の薄茶色の校舎が見えた。窓ガラスが赤く反射している。野球部員が私の前を白い息を吐きながら走り過ぎていく。  柚菜と久しぶりに話が出来た。話が出来て嬉しかった反面、ショックも大きかった。柚菜は高校に入学してから苛めにあい苦しんでいた。沙知絵もそのことで苦しんでいた。私は何も知らなかった。いや、仕事が忙しいとかまけて知ろうとしなかったのだ。私はそんなどうしようもない父親だったのだ。  暖簾をくぐり右手で引戸を開けると中の暖かい空気が顔に当たる。同時にソースの焼けたいい匂いが鼻に届いた。一気に食欲がわく。  一歩足を踏み入れると「いらっしゃい」と掠れた大将の声がした。  店内を見渡すとテーブル席に若いカップルが一組、サラリーマン風の男が二人座っている。鉄板の前に座る中年の男は一人ビールを注いでいる。鉄板の上にはジュージューと音をたてるカキオコが並んでいた。牡蠣の磯の香りと香ばしいソースの匂いのせいで、私の口の中は唾液で溢れた。  カキオコは大沢家の思い出の食べ物だ。沙知絵とはじめてデートして食べたのがカキオコだった。沙知絵と付き合うようになってからも月一回のペースでここに食べにきた。柚菜が生まれてから家族三人ではじめて来たのは柚菜が幼稚園の頃だった。小さかった柚菜は牡蠣が苦手だったのでエビ入りのお好み焼きのエビオコを食べさせた。小学校の高学年になると柚菜も牡蠣が食べられるようになった。中学生の頃にはカキオコは柚菜の大好物になっていた。  今日は一人でテーブル席につき、生ビールとカキオコを注文した。大将が私を見て少し怯えるような表情を浮かべた。以前は大沢勝男が来ると、すぐに生ビールを準備してくれていたが、大将にとって今の私は一見の強面の客だ。  まずは生ビールのジョッキがテーブルに運ばれてきた。今日は忙しく充実した一日だったなとジョッキを持ち上げた。  まず大沢勝男として住み慣れた自宅に行って、それから父親と母親、そして大沢勝男が眠っていることになっている墓に行った。墓石に自分の名前が刻まれているのを見て、なんとも言えない気持ちになった。  高山と清水にも会いに行った。高山を驚かせてしまって申し訳ないことをした。  柚菜の通う学校にはじめて行った。柚菜が苛めを受けていると聞いてショックを受けた。しかしそれ以上に、生前の私が沙知絵と柚菜からその事について相談をうけていたのに、無視してしまっていたことの方がショックが大きかった。  それが原因で、私に対する沙知絵の態度が冷たくなっていたのだと今頃になって知った。バカな夫でまぬけな父親だ。  柚菜も沙知絵も私が死んだことで悲しんでいると柚菜が言っていた。それが本当なら嬉しい気もするが、悲しむ二人を残して死んでしまったことに辛い気持ちにもなった。複雑な心境だ。ビールを飲み干して二杯目を注文した。 「おまたせしました」という声とともに焼きあがったカキオコが私の目の前の鉄板に置かれた。  上にのっている牡蠣の表面が黄金色に香ばしく焼けていて食欲をそそられる。ゴクリと唾を飲み込んでから、テーブルの隅に置いてある銀色の容器をとり、刷毛で牡蠣の上からソースをべったりと塗った。ソースが鉄板にこぼれ、ジューと音を立て湯気が立ち上がる。ソースの匂いが鼻を刺し、また生唾が口の中に溢れた。この匂いだけでビールがすすむ。まず生唾といっしょにビールを胃に流し込む。黄金色に焼けたプリプリの牡蠣を一粒だけ箸でつまみ口に放り込んだ。咀嚼すると口の中に牡蠣のミルキーさと焼けた香ばしさが口に広がり、後でソースのスパイシーさが押し寄せてくる。やはりこの地域の牡蠣は、粒が大きくミルキーで最高に旨い。咀嚼を続ける。飲み込むのがもったいない。  しっかり味わった後、口の中に残る微かな牡蠣の旨味をビールで流し込んだ。カキオコにビール、最高に贅沢で幸せな組合せだとあらためて思った。  沙知絵と柚菜と私、家族三人でカキオコを食べに来た頃のことを思い出した。あの頃は本当に幸せだった。また家族三人でカキオコを食べに来たいと思う。  しかし、沙知絵の夫、柚菜の父親としての大沢勝男は、もうこの世にはいないのだ。三人でカキオコを食べに来たいという私の願いは絶対に叶わない。  最後の一切れを口に放り込んだ。沙知絵と柚菜のことを思い出しながら何度も何度も咀嚼した。次はいつ食べられるだろうか。カキオコが口の中から消えてビールを飲み干した。ぼんやりと宙に視線をやった。目から涙が溢れてくるのがわかった。気付かれないように人差し指と中指で目頭をおさえた。  目を覚ましてベッドから立ち上がる。窓の前に立ちカーテンを開けると曇った窓ガラスから朝日が差し込んだ。窓ガラスに人差し指で『サチエ』『ユナ』と書いてみた。書いた文字から水滴が涙のように垂れていった。  昨日柚菜に会った後、すぐにでも沙知絵に会いたくなった。和歌山には戻らず、近くの安いホテルを探しこのビジネスホテルに一泊することにした。  沙知絵がパートで働くショッピングセンターマルナカは自宅から自転車で十五分くらいのところにある。ここのホテルからだと電車で三十分くらいで行けるだろう。  これまで一度も沙知絵の仕事場に顔を出すことはなかった。柚菜が小学生になって、少し時間に余裕ができたのでパートを始めたいと沙知絵から言ってきたのは十年も前のことだ。  将来のことを考えると少しでも貯金があった方がいいし、将来何が起こるかわからないので反対する理由などなかった。将来何が起こるかわからない、まさか自分が死んでしまい、こんなことになるなんて、あの時は思ってもみなかった。せいぜい、私が職を失うか柚菜の学費などで思った以上に出費がかさむかもしれないというくらいのものだった。 「いいんじゃないか」  あの時、私は即座に沙知絵にそう言った。 「ほんと、じゃあ、ここで働こうかなと思ってる」  沙知絵はすぐにアルバイトの情報紙をテーブルの上に置いた。私に向けてニッコリと笑みを浮かべてから付箋が挟んであるページを開いて私の方に向けた。  沙知絵が開いたページを覗きこむと、そこにはもうすぐオープンするショッピングセンターのスーパーのレジの募集が載っていた。  あれから十年が経つ。沙知絵はずっと働き続けている。働きはじめた頃は、午前中だけで、週三、四日ほどの勤務だったが、柚菜が中学生になってからは朝から夕方まで週五日働くようになった。時給はドンドン上がっていった。職場では重宝されているようだった。独身の頃の沙知絵の仕事ぶりを思えば、それも頷ける。  ベージュ色の外壁には看板が競うように縦横に並んでいる。食品スーパー、ホームセンター、ドラッグストア、百円均一ショップ、衣料品店、家電ショップ、ペットショップ、ファーストフード、ラーメン屋、うどん屋にコーヒーショップ、どの店も誰もが知っている有名なチェーン店ばかりだ。  平日にも関わらず屋外の駐車場はすでに満車状態だった。それでもゲートが開く度に次から次へと車が入ってくる。入って来た車をガードマンたちが忙しなく奥に建つ四階建ての立体駐車場へと誘導していた。  ここのショッピングセンターがオープンしてから、私が働いていたスーパーシンヨウの売上は大きく下がった。売上が落ちた分だけ人件費は削られた。 「売上が下がってる分経費が減らされるのは当たり前だろ」店長や本社の人間は冷たく突き放す。  パートやアルバイトの人数を減らされた皺寄せは私たち社員にきた。休みがとれなくなり残業も増えた。だからといって給料が上がるわけではない。沙知絵は私の給料が上がらないので、ここでの勤務時間を増やさざるをえなくなった。  駐車場を横切って建物の中に入る。入ってすぐが沙知絵の働く食品スーパーだ。入口には今日のお買い得商品や店長おすすめの商品が載った広告が貼ってある。広告の見出しを見ると、おかげさまで十周年と書いてあった。  店内に足を入れる。白菜や白ネギが山積みになってある売り場が目に飛び込んだ。売り出しだけあって、どれも安くて鮮度がいい。白菜も白ネギも艶々と輝いている。それらを品定めしながら買い物カゴに放り込んでいるお客さんの後ろを抜けて奥へ向かう。ミカンが山盛りに陳列してあった。これが今日の店長おすすめ商品のようだ。ミカンの産地は小沢勝己の生まれ故郷の和歌山県有田市だった。そのミカンを一袋手に取った。そのまま買い物カゴに放り込んで、肉のコーナーへと向かった。  肉の売場を見ていると、つい肉の品定めをしてしまう。いい肉が破格値で販売していることに驚いた。この店が十年間ずっと繁盛していたのも頷ける。鮮魚コーナーを抜ける。産地直送の魚が氷の上に並んでいる。その横で魚屋の威勢のいい声が飛び交う。そこから惣菜コーナーへと向かう。海老フライやトンカツなどの揚げ物がズラリと並んでいる。そのとなりに、たこ焼き、焼そば、お好み焼が並んでいる。どれも旨そうだ。通路の真ん中にある売場にはお弁当が山盛りに積んであった。その中から一番たくさん並んであった二百八十円の海苔弁当を手にとり、買い物カゴに入れた。  さて、これで買い物は終わりだ。これからが本番だ。私は「フゥー」と息を吐いてからレジの方に視線を向けた。沙知絵はいるだろうか。  十台以上あるレジはどれもたくさんのお客さんが並んでいる。手前のレジから順番にレジ打ちする人を確かめていった。  五番目のレジにスラリと背の高い姿を見つけた。あの姿は間違いなく沙知絵だ。 「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」と柔らかくて明るい声が耳に届いた。  沙知絵は手際よく商品をレジに通している。その姿は二十年前と変わらない。お客さんへの挨拶や声かけも完璧だ。沙知絵の自然な笑顔につられお客さんも笑顔になっている。  独身だったあの頃、店長をはじめ誰もが沙知絵の仕事ぶりを認めていた。沙知絵は将来を嘱望された若手社員だった。当時の上司たちは、彼女が、まさかうだつの上がらない肉を切ることしか能がない男と結婚して、退職するとは思ってもみなかっただろう。  久しぶりに沙知絵が働いている姿を見た。イキイキして、若々しい。笑顔もいい。二十年前のあの時の姿と全く変わらない。  心臓をバクバクさせながら、五番レジの列に並んだ。レジに並んでからも沙知絵の姿を覗き見た。  今日は十周年セールのポイント3倍ディで、レジに並ぶお客さんのカゴは商品がこぼれ落ちそうなくらい満杯だ。そのためレジも時間がかかっているようだった。  私のすぐ前に並ぶ男は、待ち時間が長いのが気にくわないようで、何度も首を伸ばし、レジの方を覗きこんでは舌打ちをしていた。  男の持つ買い物カゴの中に視線を落とすと、中にはカップ入りのお酒が数本とスルメとピーナツが入っていた。これから一杯やるつもりなのだろうか。男はそれからもずっと舌打ちを繰り返しイライラした様子だった。 「おい、まだかよ、早くしろよ」  男がついに切れてレジの方に向かって怒鳴った。他のお客さんの視線がこっちに集まった。怒鳴った声の主を確認しようとしている。なかには私が声の主だと思っている者もいるようで、私に訝しげな視線を向けてくる人もいた。私は知らぬ顔をして下を向いた。  この男のせいで、沙知絵の姿を見てワクワクドキドキした気持ちは、泡のようにスッーと消えてしまった。  沙知絵は手早くレジをして丁寧に接客を続けている。 「いらっしゃいませ。大変お待たせいたしました」  沙知絵が私の二人前に並ぶ年配の小柄な女性に笑みを浮かべ頭を下げる。あと二人で私の番だ。  年配の女性の買い物カゴの中を覗きこむと、白菜や醤油などが満杯に入っていて重たそうだった。年配の女性は買い物カゴをカートから持ち上げられない様子だった。手を貸そうかと思ったが、その前に沙知絵がスッと女性の方に回り、カートからカゴを持ち上げレジの台に置いた。  私の前に並ぶ男は、それが気に入らないようで、「チェッ」と舌打ちをし急かすようにコツコツと足で床を鳴らしはじめた。  沙知絵は男に向かって「もうしばらくお待ち下さい」と会釈してから、レジにもどり年配の女性のレジをはじめた。相変わらず手早く、そして商品を一つ一つ丁寧に扱っている。 「高岡さん、四千八百三十三円です」  沙知絵が年配の女性に笑みを浮かべて言った。  年配の女性が財布から千円札四枚を取り出し「これ、四千円」と言って沙知絵に渡した後、財布の中に入っている小銭を全てバサッとレジ台の上に吐き出した。  沙知絵は千円札四枚を受け取ってから、レジ台に吐き出された小銭を丁寧に分けながら残りの八百三十三円を取り分けていた。  その様子を後ろで見ていた男は一段と大きく舌打ちし、「うあー」と雄叫びを上げながら、買い物カゴをドーンと大きな音をたてレジの台に置いた。そして、「早くしろよー」と沙知絵に向かって怒鳴った。 「お待たせして、申し訳ございません。お客様、もうしばらくお待ちくださいませ」  沙知絵が男に向けて頭を下げた。 「クソババア、チンタラすんな」  男は年配の女性客を睨みつけた。 「お兄さん、ごめんなさいね。この歳になると目が見えにくくてね。いつもこのレジのお姉ちゃんに助けてもらってるのよ」  女性は申し訳なさそうに眉をハの字にした。 「自分で金も出せないのに買い物なんか来るな。周りが迷惑なんだよ」  男が年配の女性に顔を近づけて怒鳴った。 「ごめんなさいね」  年配の女性が男に向けて深々と頭を下げた。 「さっさとしろよ」  男は吐き捨てるように言ってレジの台を思いっきり蹴った。  私の体が熱くなり震えてきた。ギュッと両拳を握りしめた。せっかく沙知絵に会えたのに、なんという気分になってしまったのだろう。 「お客様、もうしばらくお待ちくださいませ」  そう言う沙知絵の表情を見ると、緊張して顔を強ばらせながらも、必死で笑みを貼り付けていた。女性客の体は小さく震えていた。  年配の女性の精算が終わり、男の番になった。この男の精算が終わるまで、私は落ち着かなかった。嫌な予感がした。何もなく無事に終わってくれと祈った。  沙知絵が男のカゴの中のお酒とスルメ、ピーナツをレジに通して、男に代金を告げた。 「お客様、千八百五十二円でございます」  沙知絵が男に告げる。  男は尻ポケットから財布を出し千円札二枚を抜き出した。  沙知絵が千円札を受け取りレジに入れる。レジから出てきた釣銭とレシートを男に手渡した。男は不機嫌そうな表情のまま釣銭とレシートを沙知絵の手から奪い取るように取り、そのままズボンのポケットに突っ込んだ。  なんとか男のレジが終わって私の番になった。フーッと息を吐いてから、買い物カゴを台に置いて沙知絵の顔に視線を向けた。沙知絵と目が合った。笑みを浮かべている。心臓が破裂しそうになった。 「いらっしゃいませ。大変お待たせいたしました」  沙知絵が私に向かって頭を下げた。澄んだ声を聞いて破裂しそうな心臓が口から飛び出しそうになった。荒くなった呼吸をおさえるために思いっきり息を吸い込んだ。 「おい」  そこで低くドスのきいた声がした。吸った息を吐き出して、声のする方に視線を向けた。沙知絵も同時に声の方に顔を向けた。すると、さっきまで私の前に並んでいた男が戻ってきて立っていた。  男は眉間に深いシワを寄せて顎を突き出して沙知絵を睨んでいる。 「お客様、もうしばらくお待ち下さいませ」  沙知絵が私の方に顔を戻して申し訳なさそうな表情を浮かべた。  私は笑みを浮かべて首肯した。 「申し訳ございません」  沙知絵は私に頭を下げてから、男の方に体の向きを変えた。 「はい、どうされましたでしょうか?」 「どうされましたでしょうか、じゃねえわ。これ、おかしいやろ」  男はレシートを勢いよく沙知絵の顔の前に突きだした。  沙知絵が目の前でヒラヒラと揺れるレシートに目を凝らした。少し困った表情を浮かべて首を傾げた。 「わかんねえのか。よう見ろや」  男はレシートを沙知絵の顔に付くくらい前に突き出した。 「は、はい」  沙知絵が顔を背ける。 「おい見ろや、ここ。ピーナツの値段や。これ、なんぼやねん」  男がレシートを指さしながら言った。  沙知絵が男が指さすところを見る。 「ご、五百円ですが……」  沙知絵が少し戸惑い気味に言った。 「なんで、そんな高いんや。お前、ぼったくる気か」  男は台に両手を置き、沙知絵を下から睨め上げるように見た。  これまで笑みを絶やさなかった沙知絵の表情も完全に強張ってしまった。 「何黙ってんねん。ピーナツの値段が違うやろ。三百九十八円違うんか。そう書いとったぞ。そやから買うたんや。なんでそれが五百円になってんや」 「も、申し訳ございません。すぐにお調べしますので、しばらくお待ちいただけますか」  沙知絵が深々と頭を下げた。 「調べるって、お前は客の言うこと信じてないわけか」 「いえ、そういうわけではございません。申し訳ございません」  沙知絵がもう一度深々と頭を下げた。 「ほんならどういうわけやねん」 「申し訳ございません」 「謝ってすむか。お前は、もういらん。すぐ責任者を出せや。お前みたいに客をバカにするやつは辞めさせたる」  沙知絵は、レジの台の下にある受話器をとった。内線で店長を呼んでいるのだろう。  それから、レジに並んでいる私たちに向けて、「申し訳ございません」と言って、台の上に、『レジ休止中』の札を置いた。  私の後ろに並んでいた人たちは、「えー」と不平の声を漏らしながら列から離れ、他のレジの列へと並びに行った。私はここから離れる気にはなれない。  あの事件のことを思い出した。そう、沙知絵と親しくなるきっかけになったあの事件だ。  しばらくすると黒縁メガネをかけた気の弱そうな華奢な男がやってきた。 「お客様、お待たせして申し訳ございません」  華奢な男は、揉み手をしながら男の前に立った。 「あんた、責任者?」  客の男は華奢な男の胸に人差し指を向けた。 「は、はい、店長の深山と申します」 「これ」  客の男が深山の目の前でレシートをヒラヒラさせた。 「はい?」  深山がそのレシートを手に取った。 「ピーナツの値段、この女がわざと間違えたんや。レジはトロいくせに値段まで間違えやがって。お前、どんな教育しとるんや」  男は沙知絵を睨みながら言った。 「さようでございますか。それはそれは申し訳ございませんでした」  深山は七三に分けた頭を深々と下げた。 「この女、客から余分に金取って懐に入れてんちがうか。こんな女が働く店やと安心して買い物も出来んわ」 「いえ、それは違い……」  沙知絵が言葉を挟もうとしたが、深山が右手を出して遮った。 「価格を間違えて、お客様から余分に代金をいただこうとしたことは、大変申し訳なく思っております」 「この女がわざと間違えたんやろ」 「わざとかどうかにつきましてはこれから調査いたします。しかし、理由はどうあれお客様にご迷惑をおかけしたのは事実でございますので、今後、このようなことのないようにしっかり教育させていただきます」 「ふーん、なんか腑に落ちへんな。お前、このままごまかして終わらすつもりやろ」 「いえ、そんなことはございません。しかし、今回はご返金ということでお許しいただけませんでしょうか」 「お前なー、今の話やと、この女は辞めさせないってことか。俺に金だけ返して、なかったことにしようとしてるわけか」 「いえ、そういうわけではございません。しっかり調査して、彼女がわざと現金を着服しようとしたのがわかりましたら、それ相応の処分はいたします」 「そしたら、その処分が決まったら、俺に連絡してくれるか」 「連絡、ですか?」深山が渋い表情を浮かべた。 「そう。俺被害者やし、それくらい聞く権利あるよな」 「わ、わかりました。そうさせていただきます」  私は沙知絵の顔を見た。俯いている。唇を噛みしめている。きっとこれは沙知絵のミスではない。ピーナツのバーコードに値段を登録する時に間違えたのだ。だから、沙知絵が間違ったのではなく、ピーナツの値段を登録した人間の間違いなのだ。もちろん沙知絵が自分の懐に現金を入れるつもりなど絶対にない。深山もそのことをちゃんと説明しろよ、とマグマのような感情がフツフツとわき上がってきた。私は我慢の限界だった。黙って聞いていられなくなった。 「まだ、終わらないの?」  私は出来るだけドスをきかせ低い声で言った。  三人が一斉に私の方を見た。目が合った瞬間、深山の顔がひきつるのがわかった。また、厄介な客が現れたとでも思ったのだろう。 「お客様、大変申し訳ございません。このレジはただいま休止しておりますので、他のレジへおまわりいただけますか」  深山が揉み手をしながら私に言った。 「いや、このまま、ここで待つ。待たされるのはどうでもいいんだ。それより……」  深山と男を順に睨みつけた。出来るだけ怖い表情を作った。 「は、はい?」深山の背筋が伸びるのがわかった。 「こういう風にイチャモンつける男が許せないだけだ。この男はいつまでこのレジの人にわけのわからないイチャモンつけるんだ。それがいつ終わるのかを訊いてるんだ」  私は男を顎で指しながら言ってやった。 「わ、わたしのこと、ですか?」  男の声は裏返っていた。ポケットに手を突っ込み顎を上げ気だるそうにしていた男だったが、慌ててポケットから手を出し背筋を伸ばし顎を引いて私に体を向けた。 「そう、値段間違ってんのは、このレジの人だけのせいじゃないでしょ。それにこの人が懐に入れるなんて、そんなのイチャモンもいいとこだ」 「お客様、あちらのレジが空いてきましてので、あちらのレジへどうぞ」  深山は私をこの場から遠ざけようとする。 「いや、いい。レジはここで待つ。だから、お前が早く終わらせろ」  男を睨みつけた。 「す、すいません。シャ、シャチョー」  男が私に深々と頭を下げた。 「店長、これは、レジのこの人の間違いじゃなくて、値段を登録した人の間違いですよね」  私は深山に向かってそう言った。 「あ、は、はい。その可能性が高いかと」  深山はポケットからハンカチを取り出して、何度も額に当てている。 「だから、この人ばかりを責めるのはおかしいでしょ」  私は沙知絵に視線を向けた。沙知絵は俯いていた。 「はい、さようでございます」 「それをちゃんと説明しなさいよ。それとあんたも、さっさとお金だけ受け取って帰りなさいよ」 「は、はい。シャチョー、す、すいませんでした」  男はペコペコと頭を下げて、沙知絵から差額分のお金を受け取りこの場を去った。  私は、男の後ろ姿に向かってフンと鼻を鳴らした。 「お待たせして、申し訳ございませんでした」  深山が私に向けて深々と頭を下げた。私は口を歪め違う方向に視線をやった。 「お待たせして申し訳ございませんでした」  沙知絵が私のレジを始める前に私に向かって頭を下げた。 「大変なお仕事ですね。けど頑張ってください」  私は沙知絵に笑みを向けた。 「ありがとうございます」  沙知絵の目が潤んでいるのがわかった。  ありがとうというセリフはこっちのセリフだ。これまで本当にありがとう。甲斐性のないダメな夫をずっと支えてくれてありがとう。こんな私と結婚してくれてありがとう。柚菜を生んでくれてありがとう。 「こっちこそありがとう」  つい、言葉が漏れてしまった。  沙知絵は「えっ?」と言って首を傾げていた。 「いや、なんでもないです。一人言です。すいません」  私は苦笑いを浮かべた。もう少し沙知絵と話したいと思ったが、買い物を済ませ、そのままそそくさとその場を後にした。 「そうか、奥さんと娘さんの顔を見るだけとか言ってたけど、話も出来たんだな。そりゃーよかったな」  そう言って、南さんは二缶目の缶ビールのプルトップを開けた。  沙知絵の働くスーパーを出たあと、そのまま和歌山まで帰ってきた。アパートに着くと、アパートの前に立つ南さんの姿を見つけた。南さんは私と目が合うとコンビニの袋を持ち上げ笑みを浮かべていた。  岡山での二日間を南さんに報告したいと思っていたので、ちょうどよかった。南さんの連絡先は知らないが、いつも報告したいことがあると、どういうわけか南さんは私の前に姿を現す。不思議な人だ。 「けど、二人ともいろいろと大変そうでした」 「そりゃあ、一家の主を失ったわけだからな。本当に辛いと思うよ。本当に可哀想なことをした」  南さんが私の目をじっと見ていた。その目が潤んでいた。別に南さんのせいではないのに、可哀想なことをしたと言うのは違うだろ。 「でも、もし私が生きていたら、本当のところどうだったんでしょうかね」 「本当のところってどういうことだ?」 「もし今、私が大沢勝男として生きていたら、私は柚菜が苛められていることに、今でも気づいていなかったでしょうし、沙知絵とも必要最小限の会話しかしてなかったんじゃないですかね。家族を顧みないダメな夫でしたから。あのまま生きていても、いずれ沙知絵から離婚届を突きつけられたかもしれません」  私はタバコに火をつけながら言った。 「あんたら夫婦は二十年寄り添ってきたんだろ。そんな簡単に夫婦の関係が崩れるわけないよ。そりゃあ、あんたが娘さんの相談を軽く聞き逃したことについては、奥さんも娘さんも腹が立って愛想をつかしたのかもしれない。しかし、あんたがいなくなって喜んでるはずはない。今はすごく辛くて悲しんでるんだと、わしは思う。きっと娘さんの言うてた通りだと思うぞ」 「そうですかね」  私はタバコの煙を吐いて紫煙を目で追いながら沙知絵と柚菜の顔を思い浮かべた。  南さんも箱からタバコを一本抜き取った。 「家族ってそんなもんだよ」  そう言って、タバコの先を私の方に向けてから、タバコに火をつけた。  南さんはタバコの煙を味わうように深く吸って、胸を大きく膨らませた。その後、宙に視線をやってから天井に向けて勢いよく紫煙を吐いた。 「そんなもん、ですかね?」  私は南さんが吐き出した紫煙が消えていくのをぼんやりと眺めながら言った。 「奥さんに本当のことを話してみたらどうだ」  南さんが宙に視線を向けたまま言った。 「本当のこと?」 「そう。わしに打ち明けたように、本当は自分が大沢勝男だと告白してみるんだ」  南さんが私の目をじっと見た。 「信じてもらえますかね」 「わからん。けど、このままにしておくより、価値はあると思うがな」 「そうですかね」私は首を傾げた。 「それとも、黙ってこのまま二人の前から姿を消しちまう気なのか、二人とは一生会わないつもりでいるのか」 「いや、それは辛いです」 「だろ」  南さんは紫煙を吐きながら言って、タバコを灰皿に押し付けた。 「びっくりするでしょうね」 「そりゃあ、びっくりするよ。けど、奥さんは喜ぶと思うよ。きっと喜ぶ。あんたも、そこから先に新しい道が開けるかもしれないし絶対に告白した方がいい」  南さんが熱心にすすめてくるのでその気になってきた。南さんのおかげで覚悟ができた。 「じゃあ、もう一度岡山まで妻に会いに行って、本当のことを告白してみます」  南さんの目をじっと見て言った。 「ああ、それがいい。そうと決まったら今日は思いっきり飲もうか」 「そうですね」  それから二人で飲み続け、家にあるビールをすべて飲み干してしまった。 「ビールが足らんな。わし、コンビニで買ってくるわ」  南さんが立ち上がろうと膝を立てた。 「いえ、私が買ってきます。南さんはゆっくりしていてください」  南さんを制して私が先に立ち上がった。 「じゃあ、いっしょに行こうか」  南さんが私を見上げニコッと優しい笑みを浮かべた。  南さんと並んでコンビニまでの夜道を歩いた。アルコールで熱くなった体が冷やされて気持ちよかった。 「南さん、本当にいろいろとありがとうございます」  空に浮かぶ三日月を見上げながら南さんに礼を言った。 「礼なんていいよ。わしは、あんたとこうして酒が飲めて楽しかったからな。昔、小沢勝己と過ごした頃のことを思い出したよ」 「南さんは本当の小沢勝己に会いたかったんですよね」 「うーん、会いたかったのかな。自分でもよくわからんなー」 「でも、私を本当の小沢勝己だと思ってわざわざ病院まで会いにきたわけでしょ」  私は南さんの顔を覗きこんだ。 「まあ、そうだな」南さんは私から目をそらし空を見上げた。 「ところで、南さんは誰から聞いたんですか?」 「何をだ?」 「小沢勝己が交通事故に遭って入院していることです。小沢勝己は家族はいないですし、生前付き合いの深い人間もいなかったようです。誰が南さんに連絡したのかなと思いましてね」  私は前から疑問に思っていたことをぶつけてみた。 「ああ、昔の警察仲間が教えてくれたよ」 「昔の警察仲間ですか。その方は今どうしてる方なんですか」 「まあ、いいじゃねえか。そんなこと聞いても仕方ないだろ」 「まあ、そうですけど」 「きれいな三日月だな」  南さんが空を見上げた。 「私が本物の小沢勝己じゃないと聞いてショックだったんじゃないですか」  南さんは「フン」と鼻を鳴らした。 「なぜ、小沢勝己に会おうと思ったんですか」 「……」 「なぜですか」 「うるせえな。そんなこといいじゃねえか」 「いいことないです。気になりますから、教えてください」 「まあ、そうだな、わしの生きている間にあいつに何もしてやれなかったことを後悔しているからかな」 「生きている間、ですか?」私は不思議に思い南さんの顔を見た。 「あ、ああ。いやいや、あいつとは長く会えなかったからな。そういう意味だ」 「長く会えなかったって、どれくらいですか?」 「もう、いいだろ。刑事の尋問みたいに訊くなよ。さっさと酒買って飲み直そう」  南さんは足早にコンビニの中に消えて行った。私は南さんの背中を追いかけた。  その日、南さんは酔いつぶれて、私の部屋で眠ってしまった。南さんの寝顔を見た。かけていた色つきの眼鏡が右耳からはずれて床に落ちそうになっていた。壊れるといけないので、南さんを起こさないように、顔から眼鏡をそっと外した。眼鏡をテーブルに置く前に覗いてみた。度が入ってないことに気がついた。南さんは近視でも老眼でもないようだ。南さんの寝顔を見る。変装する必要などないのに、変なかつらを被り、度のない眼鏡をかけているのは何故だろう。変装しなければならない理由でもあるのだろうか。小沢勝己と会っている姿を誰かに見られたくないからなのか。南さんの寝顔をもう一度見る。どこかで見たことある気がしてきた。  今の季節は午後五時を過ぎると陽が落ちてあたりが一気に暗くなる。ショッピングセンターマルナカのクリスマスを飾るきらびやかなイルミネーションが華やかな光を放ち浮かび上がっている。このイルミネーションがなければこの辺りは真っ暗だろう。マルナカができるまではこの場所は誰も足を踏み入れない山の中だった。  派手なイルミネーションを横目に、建物の横を通り抜け裏口へと回った。イルミネーションの明かりが無くなり急に薄暗くなる。表とは違い建物の裏は殺風景なものだ。右の端に白く小さな灯りが見える。灯りの下には鉄製のベージュ色のドアがある。そこが従業員の出入り口だ。腕時計で時間を確認する。あと五分もすれば、あのドアから沙知絵が出てくるはずだ。一時間くらい前にレジに立つ沙知絵の姿を確認した。今見に行った時にはレジに沙知絵の姿はなかった。仕事は五時までのはずだから、今ごろは着替えているころだろう。  もうすぐあのドアから沙知絵は出てくるはずだ。緊張する。タバコを吸いたくなったが、この場所で吸うわけにいかない。我慢してタバコの煙の代わりに思いっきり冷たい空気を吸い込んだ。  従業員用の出入口のドアが頻繁に開くようになった。沙知絵と同じように五時で仕事が終わる従業員が多いのだろう。ドアが開く度に黒い人影に目を凝らし続けたが、シルエットを見ただけで沙知絵でないことがわかる。  腕時計に視線を落とすと長針が下を向いている。待ち続けて二十分が過ぎた。腕時計から視線を上げた時、背が高く細身な人影が見えた。緊張が高まり鼓動が早まった。私は従業員用出入口へと近づいて行った。地に足がつかず体がフワフワと浮いた感じがした。  近くまで来て、その人影が沙知絵であることを確認した。足を止めてゴクリと生唾を飲み込んだ。激しくなった鼓動を押さえるために胸に手を当て深呼吸した。  沙知絵は私の存在に気づくことなく歩いて行った。沙知絵の後ろに続いて歩いた。沙知絵はコンクリートがむき出しの従業員用駐輪場に入って行った。私は駐輪場の出入口の前で足を止めた。なんと声をかければいいのだろう。昨日いろいろと考えていた言葉は、頭が真っ白になり頭から全て消えてしまっていた。  駐輪場の入口から顔を覗かせると、沙知絵が荷物を自転車の前カゴに入れポケットから自転車の鍵を取り出しているところだった。自転車の後輪の鍵穴に鍵を差し込むとカチャンという音が駐輪場内に響いた。沙知絵が自転車を押して駐輪場から出てくる。私は首を引っ込め、駐輪場の外で待った。  沙知絵が駐輪場から出てきた。自転車に跨がりペダルに足をかけた。早く声をかけないとこのまま帰ってしまう。なんと声をかけるべきなのか、言葉が出ない。 「あ、あのー」やっと白い息といっしょに言葉が出た。  そこで沙知絵が振り向いた。 「は、はい」沙知絵は私を見て怪訝な表情を浮かべた。 「すいません」頭を下げてから沙知絵の方へ一歩足を踏み出した。 「あ、ああ、あなたは」  そこで沙知絵が目を見開いた。跨いでいた自転車から降りて、少し柔らかい表情を浮かべた。 「先日は助けていただいてありがとうございました」  この間のレジでのトラブルのことを覚えていたようだ。しかし、沙知絵の表情には警戒の色がまだ残っている。 「いえ」と言って、沙知絵にもう一歩近づいた。 「で、なにか?」沙知絵が自転車のハンドルを強く握り首を傾げた。 「あなたにお話があります。少しお時間よろしいですか」  いきなり私は大沢勝男だ。君の夫なんだと言っても信じてもらえないだろう。しっかりとこれまでに私に起こった不思議な出来事を伝えるだけの長い時間がほしい。 「娘が待ってますので、すいません」  沙知絵は私を一瞥して、自転車に跨がろうとした。 「すぐに終わらせます。話を聞いてください。お願いします」  私の声がこだました。 「遅くなると娘が心配しますので、すいません」  沙知絵が私に背を向け自転車のペダルに足をかけた。 「娘さんは大沢柚菜さんですよね」  そこで沙知絵の背中が固まった。沙知絵がゆっくりと首だけを私の方に向けた。そこで目が合った。その目は今まで以上に警戒の色が強くなっていた。そこから沙知絵は自転車から降りて私に体を向けた。 「なぜ、娘の名前を知ってるんですか?」  私を尋問するような強い口調だった。  柚菜の名前を出したのは逆効果だったかもしれない。しかし、沙知絵を止めるには柚菜の名前を出すくらいしか思い浮かばなかった。 「柚菜さんは学校で苛められてませんか。元気にしてますか」  沙知絵は「えっ」と、口に手を当ててから続けた。 「も、もしかして、先日、学校に来て、柚菜を助けてくれたという男性はあなたですか?」 「あ、あ、そ、そうです。助けたわけではありませんが、柚菜さんにも先日会わせていただきました」 「柚菜から、聞きました。その節はありがとうございました」  本当にありがたいとは思っていない様子に見えた。どちらかというと警戒心の方が強い。 「い、いえ」 「柚菜から聞いた話では、亡くなった主人の知り合いで、和歌山に住んでいると聞いておりますが」 「え、ええ、まあ、そうです。柚菜さんには、そう伝えました」 「主人からは、和歌山に知り合いがいるという話を聞いたことがないんですが、あなたのお名前をおうかがいしてよろしいですか?」  沙知絵は完全に警戒している。 「私は、小沢勝己と言います。私と亡くなったあなたのご主人との関係については、すごく複雑な話になります。すぐに理解してもらえるかわかりませんが、あなたにはどうしても話しておかなければなりません。だからあなたとゆっくりお話がしたいんです。どうかお時間をとっていただけないでしょうか。お願いします」  私は深々と頭を下げた。自分の足元を見つめながら沙知絵の返事を待った。  しばらく沈黙が続いた。ずっと頭を下げて沙知絵の返事を待った。顔を上げたら沙知絵はその場からいなくなっているんではないかと思うくらい長い時間だった。少し目線を上げた。沙知絵の足元が見えた。 「お願いします」もう一段深く頭を下げた。   沙知絵は「うーん」と唸った後、「わかりました」と仕方ないなといった感じで返事した。 「本当ですか」  私は顔を上げて沙知絵を見た。眉を八の字にしている。 「あまり長い時間は困ります。三十分でいいですか」  沙知絵が腕時計に視線を落として言った。 「ありがとうございます」  私はもう一度頭を下げた。 「では、ここではなんですので、二階にコーヒーショップがあります。そこでいいですか」 「はい。ありがとうございます」  沙知絵は自転車を駐輪場にとめなおした。 「それじゃあ行きましょう」  沙知絵はそう言って先を歩きだした。私は沙知絵の背中を追いかけた。沙知絵の後ろ姿は肩をいからせ、緊張している様子だった。  エスカレーターは使わず、階段で上がった。コツコツという沙知絵の足音を聞きながらついて行った。階段を上がってすぐ右手にコーヒーショップがあった。チェーン展開している有名なセルフサービスの店だ。このチェーン店は自宅近くにもあり沙知絵とは何度か行ったことがある。沙知絵が注文するのはいつもブレンドコーヒーだった。 「ブレンドコーヒーでよかったですね。私が注文しておきますので、座って待っていて下さい」  奥の席に視線を向けて言った。  沙知絵は「は、はい」と言って奥の席に向かった。  私はブレンドコーヒーを二つ注文して、支払いを済ませコーヒーができるのを待ちながら、席に座る沙知絵に視線を向けた。沙知絵は落ち着かない様子で、視線を宙にさまよわせていた。それから鞄からスマホを取り出して、何やら操作を始めていた。柚菜に遅くなるとでもメールを送っているのかもしれない。 「お待たせしました」  その声に振り向くと、柚菜と同世代の女の子がにこやかな表情を浮かべていた。目の前にブレンドコーヒーが二つトレイに置いてあった。  沙知絵はいつもコーヒーをブラックで飲んでいた。私用の砂糖とミルクをひとつずつ取りトレイの上にのせて沙知絵の座る席へと向かった。  席に向かいながら沙知絵を見ると前をじっと見つめ口を真一文字にしていた。沙知絵も緊張しているのだろう。 「お忙しいのに、お時間をとっていただきありがとうございます」  席についてすぐに、テーブルに額が当たるくらい頭を下げた。 「で、あなたと主人との関係を教えていただけますか?」  沙知絵は、私の目をじっと見つめた。その瞳は、私が何者なのかを見極めようとしているように鋭く光っていた。  私は緊張をほぐすためにコーヒーにミルクと砂糖を入れてコーヒーを口に含んだ。沙知絵もコーヒーを口にした。 「まずは、大沢勝男さんについてです」  私はコーヒーカップを置いて背筋をピンの伸ばした。 「主人について、ですか?」 「ええ、今から私が話す内容は、普通では信じられないような話です。が、最後まで是非聞いてください。お願いします」 「はい、わかりました」  それから、自分があなたの夫の大沢勝男であることを伝え、これまでに起こった不思議な出来事を全て話した。  交通事故で死んだ後、三途の川を渡りそこから小沢勝己と間違われて地獄に落とされそうになったこと。地獄に落とされる寸前で人違いだとわかり、生き返ることになったこと。生き返ったのはいいが、そこでも小沢勝己と間違われたこと。それからしばらくは小沢勝己として生きてきたこと。  自分で話しながら、不思議な出来事だなと改めて思った。沙知絵は私が話している間、口を挟むことなく、じっと私の目を見つめ、一語一句聞き逃さないように頷きながら唇を噛みしめて聞いてくれた。  私の話が終わってから、しばらく沈黙が続いた。沙知絵は頭が混乱して、どう返していいのかわからなかったのだろう。私は沈黙に耐えられなくなり、先に口を開いた。 「以上が今日あなたに伝えたかったことです」  そう言ってから沙知絵の言葉を待った。沙知絵は目を閉じ唇を噛みしめていた。 「そんな作り話、信用できません」  沙知絵は目を開けてゆっくりと首を横に振った。沙知絵のキリッとした目は私を睨めるように見ていた。 「本当です」私は体を前のめりにして訴えるように言った。  沙知絵は私を無視して壁にかかる時計に視線をやった。鞄から財布を出し、そこから五百円玉を取り出しテーブルにカチッと置いた。 「自分のコーヒー代はお支払いします」  沙知絵はバッグを持ち立ち上がった。すぐにでも帰るつもりだ。バカバカしい話には付き合いきれないと思ったのかもしれない。確かに信じられない話だろう。こんな話を簡単に信じる方がどうかしている。しかし、それを信じてもらうしかないのだ。 「ま、待ってください。確かに信じられない話です。私も不思議でしかたありません。でも、本当なんです。私は本当に大沢勝男なんです。あなたの夫なんです。柚菜の父親なんです。トラックに跳ねられて天国に行く予定だったんですが、天国に行く寸前で間違えられて、全く違う人間、今のこの小沢勝己として生き返ってしまったんです。本当です。信じてください」  私はテーブルに両手をつき、頭を下げた。 「そう、言われましても……」  沙知絵は首を傾げて、眉をハの字にし少しあきれた表情を浮かべて私を見下ろした。  ここで沙知絵に帰られてしまうと、二度と沙知絵にも柚菜にも会えなくなる。 「どうか信じてください」  椅子から立ち上がり頭を下げた。大男が勢いよく立ち上がったことと興奮した私の大声のせいで、コーヒーショップにいた他のお客さんたちが不審な表情で私たちのテーブルの方に顔を向けた。 「あの、少し冷静になってもらえませんか。他のお客さんが驚いています」  沙知絵がこちらに視線を向けるお客さんに向けて小さく頭を下げた。 「すいません。興奮してしまいました」 「あなたがそこまで、言うのでしたら、あなたにいくつか質問させてもらってよろしいでしょうか?」  沙知絵はそう言いながら椅子に腰を下ろした。 「はい」  私も椅子に腰を下ろした。今度は注意して声のトーンをおさえて返事した。そこで沙知絵がはじめて私に向けてクスクスと笑った。 「なにか、可笑しかったでしょうか?」  沙知絵が笑った理由を、また声が大きくならないように注意して訊いた。 「いえ、あなたの声が急に小さくなったものですから、それが可笑しくて。笑ったりしてすいません」  沙知絵がペコリと頭を下げた。 「いえ」私は小さく首を横に振った。 「そういうところは、確かに主人とよく似ています」 「そういうところとはどういうところでしょうか?」 「わたしが、あなたに声のトーン落としてくださいと言った途端に、あなたはわたしにも聞こえないくらいの小さな声になったところです」  沙知絵は口に手を当て、笑うのを堪えているようにしていた。 「そ、そうですか」 「はい。主人は人の話を素直に聞く人で、心優しくて実直な人でした。そういう主人がすごく好きでした」  沙知絵の目が少し潤んでいるように見えた。 「ありがとうございます」声が震えてしまった。  それから沙知絵は頬に手を当てて何か思考している様子だった。私はじっと沙知絵の言葉を待った。 「もし、あなたの話が本当なら」  沙知絵が私の目をじっと見た。 「本当です」  私も沙知絵の目をじっと見た。 「でしたら、今から家族しか知らない質問をします。あなたはそれに答えられますよね」 「はい、大丈夫です。答えられます」私は胸を張った。 「じゃあ、質問しますね。いいですか」  沙知絵が腰を浮かして椅子に座りなおした。 「はい」私は背筋を伸ばした。 「わたしと主人との出会いについて教えてもらえますか?」  私は、「はい」とこたえてから一呼吸おいて話した。 「私とあなたは、スーパーシンヨウという食品スーパーで働いていました。あなたはレジを担当し、私は精肉を担当していました。私はあなたに一目惚れしましたが、美しくて仕事が優秀なあなたと出世街道から取り残され、背が低くて小太りな私とは不釣り合いだと思って話しかけることもできませんでした。でも、先週、ここで起こったことと同じような事件が起こり、お客さんがあなたに詰めよっていました。私はお客さんを止めようとしましたが、そのお客さんに殴られぶっ倒れて鼻血をだしてしまいました。それがきっかけであなたと話せるようになりました」  私がそう言い終わった後、沙知絵はしばらく沈黙し、じっと私を見ていた。 「確かに当たっています。どこで調べたんですか」  沈黙のあと、冷たくそう言った。 「調べたんじゃありません。私は本当に大沢勝男なんです」 「そうですか」  沙知絵はまだ信用していない様子で、口を尖らせていた。そして次の質問をぶつけてきた。 「わたしたち家族の誕生日はわかりますか?」 「あなたの誕生日と柚菜さんの誕生日は同じ五月二日です。いつもいっしょに誕生日のお祝いをしました。私、大沢勝男の誕生日は八月十日。そしてついでに言えば、結婚記念日は十一月二十ニ日、いい夫婦の日にしようと二人で決めました。それから私は幸せでした。柚菜が生まれてから一段と幸せになりました。三人でカキオコを食べに行った頃のことを思い出して、先日その店に行ってきました」 「それも確かに当たってますが……」  少し沙知絵の様子が変わってきた。椅子の背もたれに背中を預け、宙に視線をやっていた。しばらくして私の顔をじっと見た。 「本当に、あなたは勝男さんなの?」  少し前のめりになって訊いてきた。 「は、はい、本当です。私はあなたの夫で柚菜の父親の大沢勝男です。しかし、父親だと偉そうに言える資格はないのかもしれません。柚菜が苛めにあってることを、あなたや柚菜が私に相談してくれていたのに、私は無視してしまいました。柚菜のことは、あなたに任せっきりにしていました。今思えば、最近朝食がシリアルに変わったのは、柚菜が苛めにあって、食欲がなくなってたからだったんですね。柚菜に朝食くらいは食べてほしいと思って、あなたが変えたんですよね。そんなことも気づかずに、朝食は米が食べたいのにと文句を言ってしまった自分が情けないです。本当にどうしようもない夫で父親です。死んでよかったのかもしれない。このまま小沢勝己として、あなたの前に姿を見せずに生きていけばよかったのかもしれない。しかし、私はあなたに謝りたかった。そして、ありがとうという気持ちだけは伝えたかった。本当に申し訳ありません。そして結婚してくれてありがとう。柚菜を生んでくれてありがとう。幸せな家庭をありがとう」  頭を下げた勢いで額がテーブルにぶつかった。涙が溢れてきた。テーブルにポタポタと涙がこぼれ落ちた。 「頭を上げて下さい」  沙知絵の声が後頭部から聞こえる。  しかし、頭を上げることができなかった。唇を噛みしめ、溢れる涙を堪えようとした。しかし、涙は止まらなかった。 「あなたの話を聞いて、あなたが私の主人の勝男さんかもしれないとは思いました」  沙知絵のその言葉を聞いて、涙でグシャグシャになった顔を上げた。 「本当ですか。信じてもらえますか」 「うーん」  沙知絵は唸るような声を出して口を尖らせた。 「でも違うんです。あなたと勝男さんは違います」  沙知絵は首を横に振った。 「そうですか。やっぱり信じてもらえませんか」  私は上げた首を折った。涙で濡れてしまったテーブルに視線を落とした。 「はい、今の段階ではまだ信じられません。何故だかわかりますか?」 「いえ」下を向いたまま首を横に振った。 「信じられない理由をお話ししますので、少し顔を上げて下さい。でないと話しづらいです」  私は涙を拭ってからゆっくりと顔を上げた。 「泣いたりして、すいません」 「いえ、主人も涙脆かったので、慣れています」  そう言って沙知絵が笑みを見せた。 「信じてもらえませんか」 「あなたが今おっしゃったことは、確かに大沢家の人間しか知らないことばかりです。わたしと柚菜と亡くなった勝男さんしか知らないはずです」 「はい」 「ですから、わたしはあなたが本当に勝男さんなのかもしれないと思っています」 「そうです。私は大沢勝男です」 「でも、勝男さんとあなたには全く違うところが一つあるんです」 「全く違うところですか? 外見は確かにこんな姿になってしまいましたが」  私は自分の体に視線を向けた。 「はい、外見については間違って生き返ってしまったのが本当なら仕方ありません。でも、それ以外に違うところがあります」 「外見以外に違うところ、ですか?」 「はい、全く違います。わかりますか?」 「いえ」 「教えましょうか」 「は、はい」 「それはですね、勝男さんは、いつもわたしを呼ぶ時、サチエと呼んでくれてました。それも、とても優しく愛情を込めて呼んでくれました。でも、今のあなたからは一度もサチエとは呼ばれていません」 「あ、ああ、で、でも、それはですね」  私は前のめりになりながら言い訳しようとした。 「わかります。だから、もし本当にあなたが勝男さんなら、わたしのことを今サチエと呼んでみて下さい」 「えっ、呼んでいいんですか?」 「本当にあなたが勝男さんなら、呼んでほしいです。他人行儀な話し方もやめてほしいです」 「じゃ、じゃあ呼びます」 「はい、呼んでください」  私は胸に手を当て、深呼吸した。それからゆっくりと口を開いた。 「サ、サチエ驚かせて悪かったな。こんな姿になっちまったよ」  少し戸惑ったが思いきって昔のように言ってみた。沙知絵はにっこりと笑みを浮かべてくれた。 「あなた、おかえりなさい。凄い姿になっちゃったわね」  沙知絵の顔は笑っていたが、目から涙がボロボロとこぼれていた。  その後、沙知絵は私が大沢勝男だと完全とは言えないが信じてくれた。そしてこれからどうするかを、少しだけ話してコーヒーショップを後にした。  二人で駐輪場まで肩を並べて歩いた。こうして歩くのはいつ以来だろう。 「あなた、じゃあね」 「サチエ、ありがとう。柚菜によろしくな」 「ええ。柚菜もびっくりするでしょうけど、きっと喜ぶと思うわ」 「そ、そうか。それならいいんだけど」 「うん。きっと喜ぶ」  沙知絵が自転車の鍵を開けた。カチャンという音が闇に消えていく。 「サチエ」 「なに?」  沙知絵が自転車の前カゴに荷物を入れてから振り向いた。 「また、会えるよな?」 「さっき、約束したじゃない。あなたが本当に勝男さんなら、これから柚菜と三人で決めないことがいっぱいあるんだから」 「そ、そうだよな」 「連絡待ってるから」  沙知絵は自転車に跨がった。 「わかった。連絡する」 「じゃあ、行くね」  沙知絵は私に向けて手を振ってから自転車のペダルを踏んだ。自転車が走り出し、私は沙知絵の背中を見送った。  沙知絵の姿がドンドン小さくなる。そして角を曲がり見えなくなった。もっともっといっしょにいたかった。名残惜しい。しかし、大きく前に進んだ充実感はある。  腕時計に視線を落とすと、最終電車には間に合いそうだった。今日中に和歌山に帰ろう。私は駅へ急いだ。沙知絵と話ができて、私が大沢勝男だということを少しは信じてもらえたことが嬉しくて駅へと向かう足取りは軽かった。  完全には信じてもらえなかったが、簡単に信じられる話ではない。逆の立場なら私も信じないだろう。簡単に信じる方がどうかしている。  そういえば、この信じられない話を簡単に信じた人物がいた。そう、南さんだ。南さんはなぜ、この話をあんな簡単に信用してくれたのだろうか。それになぜ、私を助けてくれたのだろうか。そしてなぜ、連絡先を教えてくれないのだろうか。なぜ、私の前に、いや小沢勝己の前に急に姿を現したのだろうか。  南さんには感謝しているが、不思議な人で、少し不気味に感じてしまうことがある。彼は一体何者なのだろうか。  そんなことを考えながら歩いていると、あっという間に駅に到着した。そしてふと視線を上げ駅の看板を見た。 『南口、south gate』と書いてあった。 「こっちは南口か」と一人呟いた。  そして南口の文字の後ろに続く『south gate』の文字に視線が釘付けになった。 「サウスゲート」と、その文字を読み上げた。  そこで私の体は固まり、しばらく駅の看板を見上げていた。そしてあることを思い出した。遠い昔のことのような気がするが、あれから、それほど日は経っていない。  もしかして、そういうことなのか。だから、なのか。彼の顔を思い出す。あいつと似ている気がする。すぐにでも確かめたい気持ちになり、私は電車に飛び乗った。  沙知絵に会ってから三日が過ぎた。そして夕方に南さんがいつものようにコンビニの袋をぶら下げてアパートの玄関に姿を見せた。やっと南さんが現れた。 「奥さんに本当のこと話せたのか」  南さんはそう言って、部屋に上がって腰を下ろし袋から缶ビールを取りだした。 「ええ。早く南さんに報告しないといけないと思っていたんです」 「そうかい、そりゃよかった」  南さんは缶ビールを私の前に置き、ピーナッツの袋の封を開けた。缶ビールで乾杯してから南さんに訊いておかなければならないことを頭のなかで整理した。 「南さん」ビールを一口飲んでから正座して背筋を伸ばした。 「なんだ」南さんはいつもとは違う私の様子に気づいたのか、いつもの笑みが消えた。 「南さんは一体何者なんですか。何故私の前に姿を現したんですか」 「いきなりどうした?」  南さんが睨むような目で私を見た。 「南さんは私に嘘をついてますよね。それも重大な嘘を」 「嘘? なんのことだ。わけがわからん」  南さんは私と目を合わせようとせずタバコに火をつけた。 「南さんはなぜ、私に親切にしてくれるんですか」 「それは、最初はあんたが小沢勝己だと思ってたからだよ。わしにとって、小沢勝己は一生忘れられない存在だったからな」 「小沢勝己とあなたの関係については、最初に聞かせてもらった話で理解できます。でも、私は見た目は小沢勝己ですが中身は大沢勝男です。あなたとは、全く縁もゆかりもない男です。それがわかってからもあなたは変わらず親切にしてくれました。ここまで親切にしてくれる理由がわかりません。それに、私が小沢勝己ではなく大沢勝男だと告白した時も疑うことなくあっさりと信用してくれたことも、今思えばすごく不思議です」 「ハハハ、なるほどな。そう思うか」 「はい。絶対、不思議です」 「お節介な年寄りで申し訳ないな」 「そんなことありません。これまで良くしていただいたことには感謝しています。ありがとうございます」  私は南さんに頭を下げた。 「大したことはしてないけどな」  南さんは伏し目がちに言った。 「それより南さんはヘビースモーカーですよね。いつも鞄にいっぱいタバコを入れているんじゃないですか」  脇に置いてある南さんの鞄に視線を向けた。 「そうだな。長生きしたいから、そろそろ健康のためにもタバコは控えないとな」 「その必要はないんじゃないですか」 「なぜなんだ?」 「南さんは長生きするためにタバコを控える必要なんてないですよ。あなたはもうすでに死んでいるんですから」  目をそらさず南さんの顔をじっと見た。 「わしが死んでるってか。失礼な男だな。わしはこうしてピンピンしてるじゃねえか」  南さんは自分の胸をパンパンと叩いた。 「少し前に、私は南さんと同じように鞄の中にタバコをいっぱい入れている人に会いました。でも、その人はすでに死んでいる人でした」  南さんは私から目を逸らした。唇を尖らせて宙に視線を向けた。  私はしばらく南さんの様子を伺った。南さんから言葉が返ってこない。視線は宙をさまよい口は閉ざしている。南さんの様子を見て、私の思っていることが当たっているのだと確信した。 「南さん」  長い沈黙が続いた後、私から声をかけた。やっと南さんが顔を上げた。 「もしかして、あんた、気づいてしまったのか」  南さんがボソリと言った。 「はい、たぶん、そうじゃないかなと思ってました。そして南さんの今の態度を見て、それが間違いないと確信しました」 「そうか、ついに気づかれてしまったか」  南さんはそう言ってから、目を閉じ唇を噛みしめた。そこから、またしばらく沈黙が続いた。南さんの呼吸する音と冷蔵庫のモーター音だけが聞こえていた。 「南さん、本当のことを話してもらえますか」  私が言うと、南さんはカッと目を見開いた。そして、眼鏡をとり、かつらをはずしてこたつの上にバーンと置いた。そして、こたつから出て正座をし、床に額をこすりつけた。 「本当に申し訳ない」南さんの声は震えていた。 「やっぱりそうだったんですね」 「あんたには、本当に迷惑をかけた」 「南蓮司さん、失礼を承知で、あなたについて、いろいろと調べさせていただきました」  そこまで言ってから南さんを見た。頭を下げたままだった。 「南さん、顔を上げて下さい。私に悪いと思うなら私の顔を見て下さい」  私が言うと、南さんは「ああ」と言ってゆっくりと顔を上げた。 「南さん、あなたのことを調べてわかりました。あなたは十年前に癌で亡くなっていました。あなたはもうこの世にいないはずなんです」 「短期間でよく調べたもんだな」  南さんは宙に視線をやった。 「私は最近あなたに似た人に出会ったことを思い出しました。それは人といっていいのかわかりませんが、私の地獄行きの審判に立ち会った人です」 「……」 「確か、その人はサウスと名乗ってました」 「ああ」 「そのサウスが南さん、あなたですよね」 「そうだ」 「もしかして、あの時小沢勝己を天国に行かせるために、わざと私と小沢勝己を間違えたわけですか」 「本当に申し訳ない」  南さんは、また額を床にこすりつけた。 「やっぱり、そうだったんですか」 「あんたの言う通りだ。わしは十年前に死んでいる」 「なぜ、そんなことを」  右拳を握りしめこたつの天板をドンと叩いた。体の震えが止まらない。 「申し訳ない」 「どうしてですか、どうしてこんなことを。ちゃんと説明してください」 「わしは十年前に癌で命を落とした。そして天国に行って佐和さんに会った。佐和さんは小沢勝己のことをすごく心配していた。わしはどうしても小沢勝己と佐和さんを天国で会わせたかった」 「それで、あんなわけのわからない計画を立てたわけですか」 「最初は、閻魔様のところに行って、小沢勝己が死んでも地獄に落とさないでほしいとお願いに行った。閻魔様は約束は出来ないが、考慮はすると言ってくれた。閻魔様は恐ろしい方だが、情には厚い方だから、なんとかなると思った」 「それが、地獄行きの審判を閻魔様がやるのではなく、コンピューターがやることになってしまい、あなたは慌てたわけですね」 「そういうことだ。わしはコンピューターには情状酌量というものが期待できないと思った。これで殺人を犯している小沢勝己は地獄に落とされると失望した」 「コンピューターが審判したら、そうなるでしょうね」 「そんな時にある広告を見た。それは亡くなった人間の天国行きか地獄行きの審判のアシスタントのボランティアを募集する広告だった。これでなんとかなるかもしれない、わしはそう思い今回の作戦を思いついた」 「そのとばっちりを私が食らったわけですね」 「あんたには、本当に申し訳ないことをした。ちょうどあんたが、いいタイミングで、同じ時間に小沢勝己と同じような事故で亡くなった。それも年齢まで同じで名前も似ている。住所までもワカヤマとオカヤマと似ている。天がわしの味方をしてくれた。呑気で不真面目なバレーなら簡単にごまかせると思った」 「いいタイミング……、私にとっては最悪のタイミングですよ」  南さんの勝手な言い分に怒りがわき上がった。 「本当に申し訳ない」 「で、どのタイミングで私と小沢勝己を入れ替えたんですか?」 「最初の仕分けが終わり、三途の川を渡る前に、わしとバレー二人で最後のチェックをすることになっていた。本来は二名体制でダブルチェックしなければならないが、バレーに、わしが一人でやるから休憩してこいと言うと、あいつは喜んで休憩に行ってしまった。そして、そこであんたと小沢勝己のデータを入れ替えてしまった」 「なるほど、あの時ですね」  三途の川の手前で私ともうひとつの青い玉がなかなか動き出さなくなったことを思い出した。 「本当なら、その後、あんたを大沢勝男として生き返らせて終わる計画だった。それがあろうことか……」  そこで南さんは声を詰まらせ唇を噛みしめた。 「もしかして、あの時のバレーですか」 「そうだ。あの時だ。バレーが、蘇生受付にあんたと小沢勝己の資料を間違えて提出してしまった。肝心なところをあいつに任せたわしの誤算だ」 「そうですね。バレーのことをあなたは信用していなかったわけですから、そんな大切なことをバレーに任すべきではなかったです」 「悔やんでも悔やみきれない」 「それで、あなたは慌てて私の入院している病院に姿を現したわけですか」 「あんたが、小沢勝己として生き返ったと知って、わしは慌てた。頭が混乱した。何とかしなければいけない。あんたを大沢勝男に戻すことはできないかといろいろと考えた。しかし、どうすることもできなかった」 「どうすることもできないんですか」  私は南さんがあの時のサウスだと気づいてから、期待していたことがあった。サウスなら私を大沢勝男として生き返らせることが出来るんではないかと思っていた。しかし、今、南さんの話を聞く限り、それは無理だということだ。これで一縷の望みが絶たれた。 「ああ、どうすることもできない。それで、せめてあんたには、この先の小沢勝己としての人生を幸せに生きてもらおうと思った」 「幸せになれそうにありませんよ。それに隠さず最初に話してほしかったです」  私は吐き捨てるように言った。一縷の望みを絶たれて気分は最悪だった。 「……」  南さんは無言で項垂れていた。  私は南さんに言いたいことが山ほどある。なぜ、私がこんな目にあわなければいけないんだ、この先、どうなるんだ、責任とってくれ、そんな南さんを責める言葉が頭の中を渦巻いていた。だが、南さんの様子を見てると、なかなか言葉に出せなかった。  そして、やっと出た言葉は全く違うものだった。 「小沢勝己は天国で佐和さんと会えましたかね」  項垂れていた南さんが顔を上げて私を見た。少し驚いたように目を見開いていた。口元を震わせて私の顔をじっと見ていた。 「小沢勝己は佐和さんと会えたんですか」  言葉を発しない南さんにもう一度訊いた。 「あ、ああ、そのようだ」  そこで南さんの顔に少しだけ笑みがのった。 「それは、よかったです」 「その代わり、わしはあんたの人生をめちゃくちゃにしてしまった」  南さんがまた項垂れた。 「もう済んだことです。それに、どうせ死んで天国に行くだけでしたし、小沢勝己として生き返れてよかったのかもしれません。いろんなことに気づかされましたから」 「いろんなことに気づかされた?」 「ええ。私は小沢勝己の姿になって、はじめて家族の絆に気づいた気がします。だから、これからは、沙知絵と柚菜の二人を幸せにするために生きていきます。天国に行って父と母に会うのはその後でも十分です」 「ありがとう。あんたが、そう言ってくれるとわしは救われる。いつかあんたがあの世に来た時には、絶対に天国に行けるようにするから。お父さんとお母さんに会えるようにするからな」 「お願いします。けど、ズルはいけませんよ。私もこれから先の人生、天国に行けるような生き方をしますから」 「じゃあ、わしは戻るな。バレーを長い時間一人にしておけないから」 「バレーに伝えておいて下さい。コーヒーは美味しかったです。けど、サボりすぎないようにと」 「わかった。たまに会いに来るから、困った時はなんでも言ってくれ」  南さんはそう言うと、足元から順に体が霞のように薄くなり、そして消えてしまった。テーブルの上の 飲みかけの缶ビールと吸殻のたまった灰皿だけが残っていた。  真っ白なウェディングドレスに身を包む姿は、百合の花のように美しい。花嫁は最初のうちは緊張していたが、今は来賓者に手を振って笑みを浮かべる余裕ができている。たまに花婿と見つめあう表情は、これまで見た中でも一、二を争う幸せそうな表情だった。  花嫁姿を私は一人で一番遠く離れた席から眺めていた。席は一番離れているが、彼女への愛情は誰よりも強い自信がある。幸せそうな彼女を見ているだけで涙が勝手に頬を伝う。涙を拭うことも忘れ、彼女の花嫁姿を見続けた。この涙は嬉しいからなのか、寂しいからなのか、自分でもよくわからない。沙知絵はきっと、柚菜を新郎に奪われた悔し涙だと言うだろう。  私のテーブルにいっしょに座る人たちは、この場には似つかわしくない男が涙するのを見て、怪訝に思っているのかもしれない。式が始まってから、誰も私に話しかけてこなかった。それでもいい、こうして柚菜の花嫁姿を見ることができたのだから。  海パン姿の若かりし日の大沢勝男に抱かれる幼い柚菜のスライドが映し出された。柚菜をはじめて海水浴に連れて行った時の写真だ。次にスーツ姿の沙知絵と背丈が沙知絵の腰あたりまでしかない柚菜がスライドに映る。小学校の入学式の写真だ。入学式前日、興奮してなかなか寝つけない柚菜を沙知絵が必死で寝かしつけていたことを思い出した。勝手に涙が溢れてくる。  それからもスライドは続いた。柚菜が中学生の時の部活の写真、ディズニーランドに家族三人で旅行した時の写真、次々と映し出されるスライドを見て、どれも昨日のことのように思い出す。  花嫁の父親の知り合いということで、今日はこの席に座っている。花嫁の父親の席には、大沢勝男の遺影が置いてあった。あの席に座り、柚菜が読み上げる両親への感謝の手紙をあの席で聞きたかった。  しかし、それは叶わなかった。花嫁の父親の大沢勝男は五年前に交通事故で亡くなっているのだ。  沙知絵に本当のことを告げてから、私は小沢勝己として、沙知絵と柚菜の住む岡山で暮らした。周りの目もあり、彼女たちと私との関係は亡くなった大沢勝男の知り合いということにした。なので、少し距離を置いた付き合いになった。それでも彼女たちが近くにいることだけで、私は充分に幸せだった。  大沢勝男として生きてきた記憶がドンドン消えていく現象は、岡山で暮らし、沙知絵や柚菜と頻繁に顔を合わせるようになってから止まってくれた。小沢勝己のどす黒い過去の記憶も顔を出さなくなった。  沙知絵と柚菜とは家族に戻れなかったが、三人でお茶をしたり、カキオコを食べにも行ったりして幸せな日々を過ごせた。  柚菜の結婚が決まった時は、嬉しいというより、嫉妬する気持ちの方が強かった。沙知絵から柚菜に恋人が出来たと聞いた時は、すごく不機嫌になってしまった。  その姿を見て沙知絵は笑いながら言った。 「やっぱり、あなたは柚菜の父親ね。外見は小沢勝己でも中身は大沢勝男に間違いないわ」  それを聞いて喜ぶべきだったろうが、私は憮然としてしまった。  式の最後に柚菜が両親への感謝の手紙を読んだ。 「お母さんへ、お父さんが亡くなってから、お母さんも辛くて悲しくて大変だったのに、わたしを今まで育ててくれてありがとう。わたしが悩んでいる時はいつもわたしの味方になってくれて、自分のことよりわたしのことばかり考えてくれてました。なのに、わがままばかり言ってごめんなさい。これからはわたしのことより、お母さん自身の人生を楽しんでください」  柚菜は手紙に落としていた視線を上げて沙知絵にはにかむような笑みを向けた。沙知絵を見ると溢れる涙をハンカチでおさえていた。  柚菜はしばらくそんな沙知絵の姿をじっと見つめていた。そして、大きく深呼吸してから手紙に視線を落とし続けた。 「お父さんへ、わたしが高校一年の時、交通事故で死んでしまって、すごくショックで悲しかったです。お父さんに二度と会えないんだと思うと寂しかった。でも、お父さんはいつもわたしとお母さんを近くで見守ってくれていたんだよね。それがわかってから、わたしはどんなに辛いことや苦しいことがあっても、お父さんが近くにいると思うと乗り越えることができました。これまで本当にありがとう。これからわたしは、知也さんと共に助け合いながら生きていきます。お父さん、だからこれからはお母さんのことをもっともっとよろしくお願いします」  私は一番後ろの席で涙が堪えきれなかった。厳つい大男が一人涙を流す姿を周りの人たちは怪訝な表情で見ていた。そんな目を気にすることもなく、私は涙を流しながら、最後に「ウォー」と声を上げた。  柚菜が大きく目を見開いて私を見た。沙知絵も私を見た。二人はウンウンと頷いた。私はまた「ウォー」と声を上げた。  柚菜の結婚式から数日後に沙知絵から連絡が入った。 「二十年前にあなたと買ったマイホームは、わたし一人だと広すぎるの。私たち、そろそろ次の人生にステップアップしない?」と沙知絵は電話口で言った。
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