大切な思い出

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 ゆっくりと古くなったキーケースを開ける。中から見慣れてもう使わない、1本の鍵を取り出した。ゆっくりと鍵穴に差し込むと、小さな軋みと共にドアが開いた。   「…大掃除しなきゃな。」  何年も住んでいない昔の箱庭。 かれこれ小学生の時に引っ越してきてから、社会人になってもここにいた。  俺のせいなのか、会社のせいなのか、母は鬱病を発症していた。いつからなっていたのか分からない。できる限りのサポートをしてあげていたつもりだった。あの愛猫のおかげもあって、寛解に向かおうとしていた。  愛猫が亡くなってから、家庭は静かになっていた。父が居ない、母と性別が違う俺、会話する内容は、なくなっていった。  亡くなった愛猫の話しか、することがなくなっていった。  母が治るよりも早く、俺は仕事のためにしばらくしてから引越した。  本当はもう少し、辛抱強くこの家を、守っていこうと心に決めていれば良かったと、今は後悔している。  親が亡くなってから、親戚とも縁のない俺の家系は、誰もここを掃除することがない。  今となって来ることが多くなっていた。 「こんなホコリっぽかったかな。前来た時こんなんじゃなかった気が…」  咄嗟に持っているマスクをつけて、昔使っていた自室に入る。  子供が使うには丁度の机と椅子。落ちないように柵が着いたベッド。タンス、引き出し、本棚。昔に使っていたもの全てが、あの時のままここに残されていた。  俺も、この愛猫が居た空間が好きだった。何も移動したくなかった。片付けたくもなかった。君が居た、君と過ごした時間のまま止めておきたかった。  部屋の中を歩いているうちに、ひとつのものに目がいった。A4の紙に両面印刷された文章。昔に自分が使っていたハンドルネーム。学生らしい文の書き方。  懐かしかった。小学生でこっちに引っ越してから1週間位で黒猫を拾った。ダンボールの中で丸まっているのを見捨てられなかった。拾った瞬間、母に怒られるかなと思いながら玄関を開ける。母は逆に大層俺の事を褒めてくれていた。命を助けてくれてありがとうと。  母に教えて貰いながら薄雪と名ずけた猫との生活が始まった。僕の部屋でずっと一緒にいる。宿題を破いたり、寝ている布団をかっさらっていったり、色々してくれたけれど、とても優しくて、可愛くて、人懐っこい子だった。 「なんで、薄雪、って名前にしたの?」  母に聞かれたことがあった。 「エーデルワイスの和名だよ」 「エーデルワイス?」 「そう。花言葉に惹かれたんだ」  薄雪が亡くなる直前から、俺の趣味は小説を書くことだった。ネットにただ上げるだけ。だけれど、それがとても楽しかった。誰かに見てもらいたいわけじゃない。自分の気持ちを正直に、母にも伝えられない思いを書き起こせる。それがとても楽しかった。  夢中になっている間、ずっと隣に薄雪は居てくれた。 「…懐かしいな。」  久しぶりに再開した気分になる。あの時の記憶が全てこの部屋に残っている。この部屋は、掃除機をかけるだけにしておこう。  少しだけ目を通し、大切に折れないように印刷された宝物をカバンに入れて、帰路に着いた。  どこかしらで、懐かしい鳴き声がする。  どこかで君は見てくれているのだろうか。
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