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「高校時代の同級生に、あなたの小学校から来た子がいてね。小学校の同窓会名簿を入手して……」
鶴子の言葉で、俺は、回想から現実に引き戻される。
「……そこから辿って、何人も連絡して回って、あなたが今は一人暮らしってわかって。ようやく、この現住所まで辿り着いたのよ」
うふっという感じで、彼女は口元に笑みを浮かべていた。
「そうか。それは大変だったな……」
そこで止めるのが普通なのに、思わず俺は続けてしまう。今まで口にしたこともないような台詞だ。
「それにしても鶴子さん、綺麗になったね」
「あら、ありがとう。お世辞だとしても、嬉しいわ」
まるで「言われ慣れている」と言わんばかりの対応だった。でもこうしてサラリと流してくれた方が、俺としてもありがたく思う。
同時に俺の頭の中では、答えの出ない質問がぐるぐる回り続けていた。
このまま俺は、鶴子と部屋の前で立ち話を続けるべきなのだろうか?
それとも、一応は知り合いなのだから、部屋に招き入れるべき?
でも、それでは若い男女が部屋で二人きりになってしまう。しばらく会っていないから互いの人間性もわからないし、もしかしたら『若い男女が部屋で二人きり』を意味深に捉えるタイプかもしれない。いや、むしろ世間一般では、それが普通な気もするし……。
昔話の『鶴の恩返し』では、どうだっただろうか? 鶴が化けた美女を、主人公は簡単に家の中まで招いたっけ? そもそもあれは時代が違うから、参考にはならないかも……。
なまじ彼女の名前が『鶴子』なだけに、そんなことまで考えてしまう。
そうやって逡巡する俺に対して、鶴子は言い放った。
「あの頃の私は、小さな子供だから無理だったけど……。大人になった今なら、あなたを竜宮城へ連れて行けるわ!」
「えっ、竜宮城? 『鶴子』だから『鶴の恩返し』じゃないのか?」
それまでの考え事が影響して、俺は頓珍漢な言葉を口にしてしまう。
だが、これに対しても鶴子は真面目に対応してくれた。
「あら! 私、あの時も言ったわよね? あなたは私の……」
「『浦島太郎サマ』だろ?」
最後まで言わせずに言葉を被せたのは、少しは俺もアピールしたかったからだ。何をどうアピールしたいのか、自分でもよくわかっていなかったけれど。
「まあ、嬉しい! ちゃんと覚えていてくれたのね!」
鶴子はパッと顔を明るくしてから、同世代とは思えぬほどの、妖艶な笑みを浮かべる。
「それなら話が早いわ。私と一緒に、今から来てくれないかしら?」
そして。
連れて行かれた先で、目の前に御馳走を並べられて、たらふく酒も飲まされて……。
俺が意識を取り戻したのは、繁華街の路地裏だった。
ゴミ袋を枕にして、一人で寝っ転がっていたのだ。
まるで喧嘩でもしたかのように、体のあちこちがズキズキと痛む。頭がガンガンするのは、二日酔いだろう。
見上げれば、まだ青くなる前の空。美しい朝焼けが広がっていた。
時間を確認しようと、腕時計に目をやり……。
「ない!」
思わず叫んでしまう。
大学入学の記念として親からもらった、高価な腕時計。大学生のイメージには合わなくて、むしろ芸能人や野球選手の方が似合いそうな腕時計。
それが失くなっている!
「まさか……」
ふと気になってポケットを探ると、財布もなかった。
代わりに入っていたのは、一枚の紙切れだ。
「これは……」
手に取って眺めるうちに、だんだん記憶が蘇ってくる。
亀田鶴子が現在、ホステスとして働いていること。
俺は昨日、彼女の同伴出勤に付き合わされたこと。
指名料やら何やらで、法外な金額を要求されたこと。財布も時計も取り上げられて、それでも足りずに叩き出されたこと……。
全てを思い出した俺は、髪の毛が真っ白になるほどの恐怖で、全身が硬直。
キャバクラ『竜宮城』の請求書を手にしたまま、そこに書かれた数字を、信じられないような金額を、ただ見つめ続けるのだった。
(「鶴と亀が滑った」完)
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