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明日はせっかくの休みなのに、朝から夫のタクミと喧嘩をした。理由なんてもう分からない。思い出せないくらい些細なことだったのだ。
昨日はタクミが、「明後日のお昼、一緒にお好み焼き作らない?」
なんて言うから、嬉しくて私も、
「いいね! それじゃ、ちょっといいお肉買っておく」
なんて言って笑ったのに。
小さな幸せが台無しだ。イライラしながら仕事に行って、帰りにひとりで、日の傾きかけた駅前をブラついた。
私はいつもこうだ。不器用で率直で、堪え性がなくて。直そう直そうと思っているのに、いざとなると自分を甘やかしてしまう。
ため息をついて駅前の広場に出た。
見慣れない中年の男がギターの弾き歌いをしている。洋曲? 多分そうだ。くたびれたジャンパーに、履き潰されたデニム。なんだかパッとしない人。
普段なら一曲くらいは聞いたかもしれない。でも今は全く気分じゃない。
興味ない風をして通り過ぎると、ふいに音が止んだ。空気が変わって、違うメロディーが流れ始まる。
どきりとして足が止まった。
エーデルワイス。
父の十八番だった歌だ──。
原曲は英語。でも私に分かるようにと、父はときどき日本語の方でも歌ってくれた。
エーデルワイス エーデルワイス
かわいい花よ
白いつゆに
ぬれて咲く花……。
耳にするのはあんまり久しぶりのことで、うっかり道端で泣いてしまいそうになる。
エーデルワイスは祖国への思いを描く歌だ。けれど、父はこの歌を歌って母にプロポーズしたらしい。いかにも学者肌で、色恋に疎い父らしいエピソードだ。
英語の教師だった父は、お腹が出ていて博識で、古代ギリシャの、そうプラトンに似ていた。
かつて女優のように美しかった母は、晩年は病気と薬の影響で体がぽっちゃりとして、自慢の髪は、みな抜け落ちてしまった。
私が結婚する二年前、余命幾ばくもない母が、父に言った。
「私が死んだら、後添えをとってね」
すると父は細い目をもっと細めて、
「とるわけないだろう? なに言ってるんだよ……」
囁いて母の手を優しく取った。
そうして眠る母の傍らで、父はやっぱりこの歌を歌った。
翌年に母は他界し、その四年後に父も逝った。
悲しい、けれど、こんな夫婦になりたいと心から思った。
肉体は消えても、あの日の二人は私のなかに永遠に輝く。
遥かな思い出。エーデルワイス。
私も、そんな夫婦になれるだろうか。
こんな些細なケンカをしていて、本当に……?
エーデルワイス、エーデルワイス、
ほほえむ花よ。
悲しい心
なぐさめる花……。
懐かしいメロディーを口ずさむ。すると温かな思いが胸に溢れた。
ああ、きっと。きっと大丈夫。
この歌をお守りに、この気持ちを忘れなければ、私はきっと何度でもやり直せる。
すうっと息を吸い込んで、深く吐き出した。
「……よし!」
私は漫然と動かしていた足を、駅ビルのスーパーに向けて歩き出した。
無論、ちょっといいお肉を買うために。
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