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悟りを開いた王太子
王都一の歌劇場は着飾った貴族や平民達で賑わいを見せていた。人気劇作家の初回公演ということもあって、いつもより多くの人が詰めかけ、期待と興奮で高揚している。そこへ王族専用馬車が静かに停止すると、人々の耳目は否が応でも集まった。
「まぁ、王太子殿下だわ……!」
ここ数年全く見かけなかった王太子の姿に、詰めかけていた人々の注目はさらに集まり出す。
「あのご令嬢は……?」
カイザーが丁寧にエスコートする美女に、人々は忙しなく囁きを交わす。
「どこかで見かけたことがあるような……」
「すげー美人だな……おまけに……」
「もしかして、テンべラード家の……」
こそこそと囁かれる噂話に、サリースは不安げにカイザーを見上げた。カイザーは注目されることに慣れきっているのか、全く気にする様子はなくまだ熱心にサリースを見つめている。見過ぎ。
「あの、カイザー様……」
「殿下、お待ちしておりました。支配人のマルコス・コラッドと申します。お席にご案内いたします」
「……ああ」
カイザーは支配人の挨拶にも上の空の様子で歩き出した。サリースばかり見つめるカイザーは、ちょっと足取りがおぼつかない。お願いだから前を向いて欲しい。
エスコートはエスコートしてるカイザーにこそ必要そうな様子に、サリースはハラハラしながらマルコスの先導についていった。囁き合いながら注目してくる野次馬達の視線に、サリースの胸に不安が湧き上がる。
「あの……カイザー様、大丈夫でしょうか?」
「ん? 何がだろうか?」
支配人自らの案内を受けて王族専用席に腰を落ち着けると、サリースはまだうっとりとガン見してくるカイザーにおずおずと不安を口にした。
劇場正面を陣取る特等席。絶妙に奥まった観覧席は集まる視線を緩和させてくれているが、光より早く噂が広がるデルバイスのことだ。もう噂話は劇場全体に広がってしまっているだろう。
VIP席より豪奢な王族席で身を縮めて、サリースは今更ながら何も考えずに観劇にきたことを後悔していた。
「……どんな噂になるか」
心配そうに俯いたサリースに、カイザーは動きを止めてしょんと肩を落とした。
「すまない……やっぱり迷惑だったろうか……」
「迷惑なんて! そうではなくてカイザー様にご迷惑が……私は……その、あまり評判がよくないので……」
配役はいつだって悪い魔女のサリース。魔女に誑かされた王太子などと噂されて、カイザーの評判に傷がつくかもしれない。不安げに瞳を揺らしたサリースに、カイザーは嬉しそうに笑顔を浮かべた。
「真っ先にそっちの心配をしてくれるのだな」
「え……?」
「誰かの耳に入ることより、俺の評判を心配をしてくれる」
「あ、の……」
窺うように覗き込まれて戸惑うサリースの視界の先で、赤金の瞳が輝きを増したように見えた。
「わざとなんだ」
「カイザー様?」
「わざと歌劇を選んだんだ。噂になればいいと思って。サリーはとても綺麗だから。王太子の恋人だと噂が流れたら、ライバルが減るんじゃないかと思って。わざと歌劇を選んだ。もしそう言ったら、サリーは怒るだろうか?」
「あ……わ、私は……」
ゆるゆると目を見開いたサリースは、ゆっくりカイザーの言葉を咀嚼した。嘘のない響きの言語が、ギフトを通して染みてくる。わざと注目される場に。サリースを隠そうとしないカイザーの言葉に、とくりと心臓が鼓動を刻む。
ああ、そうか。自分との噂が立つことよりカイザーは、サリースが誰かの耳に入ることを気にするかもしれないことを心配してくれていたんだ。
『サリー、誘いを受けてくれてありがとう。歌劇の誘いは断られるかもしれないと思っていたから』
迎えにきてくれたカイザーが不思議なほど嬉しそうだった理由。少し前の自分だったら真っ先に思い浮かべていたはずの人物。でも今一番最初に浮かんだのは目の前の王子様。丁寧にまっすぐにサリースに向き合ってくれる、優しい人の評判を自分のせいで傷をつけてしまわないか。そっちのほうがずっと不安で。
『俺を好きになりかけていたのに失望したから君は怒った』
あの日、ホテルで言われた言葉が蘇る。咄嗟に否定できなかったいくつもの言葉。あの時は勢いに押されていたかもしれない。でも今はもう、確かに否定しきれない自分がいる。
「私は……カイザー様に迷惑がかからないのなら、平気です……」
「サリー、よかった……」
そっと囁くように返事をしたサリースに、カイザーが眩しそうに瞳を細めた。ゆっくりと近づく気配に、サリースは自然と瞼を閉じかける。重なると思われた唇から、急にカイザーの気配が離れた。
「あ、そ、その、喉が渇いてはいないか? 飲みやすい甘口を準備させたが、好みに合うだろうか?」
「え? あ、は、はい……大丈夫です」
ぱちっと目が覚めたように、サリースは慌てて差し出されたグラスを受け取る。完全にカイザーからのキス待っていたことに気づいて、サリースは真っ赤になって狼狽えた。当たり前のように口付けを待っていた自分に恥ずかしくなる。
ぎこちなくグラスをカチリと重ね、一口飲み下したタイミングで開演のブザーが鳴り響く。舞台に視線を向けたカイザーの横顔をそろりと見つめ、不思議にざわめく感情に小さく吐息を漏らす。
(カイザー様は本当に誠実で優しい方だわ……)
安易に触れない距離感は片思いしている自分を気遣ってのこと。それが嬉しいはずなのに、どこか物足りなくて寂しく感じる。堂々と自分をエスコートしてくれて、こんな豪奢な観覧席で歌劇を鑑賞している。その扱いはまるでお姫様のようだ。それなのにきちんと返事もしていないまま、物足りなく思っている贅沢な自分に苦笑し、サリースは舞台へと意識を向けた。
※※※※※
(あぶ、あぶなかった……)
カイザーは一心に舞台を見つめながら、バクバクとうるさい心臓と呼吸が静まるのを必死に願った。思わず口付けそうになったところを、なんとか堪えられた自分を褒めてやりたい。鼻息とか荒くなってないよね。
(何度も誤魔化せないもんな……)
舞台とか本当はどうでもいい。評判の女優より隣のサリースの方が何倍も美しい。あのままキスしてしまいたかったが、その先をどうするのか。カイザーの息子さんは絶賛思春期真っ只中なのだ。
ホテルではなんとかなったが、そう何度も誤魔化せるわけがない。サリースと触れ合うのは息子さん問題の、解決の糸口を掴んでからだ。カイザーは全く頭に入ってこない歌劇を諦め、そろりと隣のサリースを盗み見る。
(綺麗だなぁ……)
見てるだけで幸せ。気の強そうな華やかな美貌も、スレンダーでスラリとした体躯に迫力の胸元も。まるでカイザーの理想と好みを具現化した女神のようだった。
見た目通りロイドと対等にやり合う強さの反面、繊細で恐る恐る恋をする臆病さ。理想の見た目に備わった内面に惹きつけられて、いつの間にか取り返しのつかないほど深く恋に落ちていた。
(俺を好きになってくれたらいいのに……)
観劇に夢中なサリースを邪魔しないように、カイザーは気配をできるだけ消しながらガン見し、うっとりとため息をついた。
『殿下、サリーに誠実だとか言われてましたよね? 多分本命童貞丸出しで本音ダダ漏らしにしてるんですよね?』
ロイドの言葉が不意に蘇り、そうなのかもしれないと妙に納得しながら小さく頷く。
別に過去の恋人が好きじゃなかったわけでも、不誠実に付き合っていたわけでもない。当時の自分なりにちゃんと想いを抱いていた。でも本命童貞というロイドの言葉に反発心は湧いてこない。妙にしっくりくる。
今サリースに向ける想いは、過去抱いた想いのどれとも違う。止めようもなく本音がダダ漏れになってしまう。曲がりなりにも王太子として取り繕うことに長けたはずの自分が。
今、昔のようにエイデンがトラブルを起こして呼び出されとしたら、サリースと一緒に過ごすこの席から立ち上がれるだろうか。
(……無理だな)
離れたくない。どうしても置いていかなければいけないのなら、いっそ一緒に連れて行く。
(……ああ、そうすれば良かったのか……)
今までその選択肢を考えることすらしていなかったことに、カイザーは気がついた。エイデンを選ぶのか、恋人を選ぶのか。意識せずに自分は選んでいた。エイデンの後始末に向かうことを。離れたくないなら連れて行けば良かったんだ。一方を優先したりしないで。
恋人と人嫌いのエイデンの仲を取り持つ努力を、過去のカイザーはそもそも考えすらしていなかったことに気づく。国の至宝を手放すことはありえない。何度もそうしてエイデンを優先し続けた。恋人との先の未来までは、考えてはいなかったと態度に出ていた。
(確かに振られても仕方ないな……)
静かに苦笑し、サリースをそっと見つめる。今だけではなくその先の未来も共に。カイザーに未来を意識させた、初めての人。だからこそ、息子さんは縮こまってしまうのかもしれない。
全然頭に入ってこない舞台を諦め、頬杖にこめかみを乗せてサリースを見つめた。
(なんか……もうこのままでもいい気がする……)
吐き出せない熱がこもってもどかしい。キスをして抱き合って、サリースと熱を分け合いたい。でも隣でサリースを見つめていられるだけで、もう何もかもがどうでも良くなるほどに満ち足りている。
サリースが隣にいて笑ってくれるなら、抱き合うことでそれが壊れてしまうくらいなら、息子さんは引きこもったままでもいいのかもしれない。
本命童貞の巨乳好き王太子は女神に見惚れながら、恋に浸るあまりにとうとう悟りを開き始めた。
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