3 トリック・オア・トリート

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3 トリック・オア・トリート

 マスターは静かに頷いた。神妙な顔つきからして、嘘ではないのだろう。常識的に考えてマスターが、客にこんな嘘をつく必要もないのだから。紗季は急に酔いが醒めて恐ろしくなり手が震えた。  男は青褪めて舌打ちをすると、代金を投げつけるようにテーブルに置き、カウンターを降りて、足早に店を出ようとした。  しかし、すでに入口で警備員が二人ほど待ち構えていて、口論しながら連行されて行った。現場にすぐ駆けつけられるよう、警備員に連絡していたのだろうか。 「本当に、ありがとうございました」 「被害届を出すなら、僕の知り合いの刑事を紹介するよ。――――僕は、佐伯那央人(さえきなおと)。犯罪心理学者だ。普段は大学で教壇に立っているけれどね」 「は、はい。佐伯さん……犯罪心理学者なんですか。私は、那珂川紗季と申します」 ✥✥✥  ――――佐伯那央人。三十五歳。  どこかで名前を聞いた事があると思っていたが、彼の父親は、取引先の某大手電子部品メーカーの社長だった。  そう言えば、ご子息は経営に興味がなく、アメリカに留学して、なにかの学者になったと噂では聞いていたが、まさか目の前に現れたのが犯罪心理学者になった、かの有名な佐伯グループの御曹司とは思わなかった。 「あんな事があった後なのに、本当に僕についてきて良かったのかな?」 「終電、逃しちゃったので……。佐伯さんとなら美味しいお酒を飲み直せそうだったから」 「そうか。それは光栄だが君は人を簡単に信じすぎるようだな」  佐伯は、口元に笑みを浮かべた。  あれから、二人でバーで飲み直して興味深い話を色々と聞いた。佐伯との会話は飽きる事がない。  彼は、某出版社から新たに犯罪心理学の本を出すらしく、このホテルの最上階をスイートルームを何日間か借り、缶詰になっていたようだ。佐伯は自室やホテルを渡り歩いては、環境を変えて執筆に取り組んでいるのだという。  部屋で飲み直すかい、と尋ねられて紗季は彼の誘いを快く承諾した。  詩音と別れるまで、どこかで泊まる事を想定していなかった紗季だが、下着とストッキングの変えは、常時持ち歩いているし、このスイートルームには、高級アメニティグッズも揃っている。  お互いに入浴を済ませると、佐伯は用意されていたウェルカムシャンパンと、ワインの中から何故か迷わずシャンパンを選ぶと、グラスに注ぐ。  そして、アロマキャンドルに火を付けた。  キャンドルは佐伯の自前のようで、こうして夜になるとその日の気分で、アロマを焚いて心身ともに、リラックスするのが彼の習慣のようだった。  ベルガモットのアロマの香りが、紗季の心をリラックスさせ、穏やかにさせる。   「君は、ワインよりシャンパンの方が好きなんじゃないか?」 「佐伯さん、凄い。どうして、そんな事まで分かるんです?」 「僕は人の心を読むのが他の人より得意だからね。会話や行動で、おのずと好みも分かるんだ」 「佐伯さん、絶対モテるでしょ?」 「そうだね。セックスの時は喜ばれるよ。それじゃ、トリック・オア・トリート」  シャンパングラスが、カチンッとぶつかり合う音がした。乾杯の合図はトリック・オア・トリート。今まですっかり忘れていたけれど、今日はハロウィンの夜だ。  高級シャンパンの華やかな味わいが、紗季の口の中に広がる。
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