Cheerr!!! (full ver.)

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 白球が大きく浮き上がった。低めのボール球に手を出してしまった。バットを放り投げ、一塁へ向かう。全力で走ったが、視線を上げることはできなかった。  案の定、高く上がったフライはセンターのグラブのなかにおさまった。足を緩め、天を仰ぐ。  ファームの応援席はがらがらだったが、それでも熱心なファンの団体が観戦にきていた。重い足取りでベンチに向かう奥の背中に、無遠慮な野次が飛んだ。 「てめえ、奥、いい加減にしろ!」 「おまえなんかいらねえよ。田舎に帰れ!」  これでもう9打席連続無安打である。いい返す言葉もなかった。  噛んだ唇がわななく。チームメイトの田所が無言で肩を叩いてくれた。気持ちは嬉しかったが、心が晴れることはなかった。  宮崎の名門高校のセカンドとして春夏甲子園に出場、3年の夏にはキャプテンとしてチームを優勝へと導いた。卒業後はドラフト2位でプロ入りするも、1年目の途中で左太腿を痛め、見る見るうちに調子が落ちた。高校時代に無理を課した体はもう後戻りできない状態にいなっていた。2年目と3年目はほとんどの試合を二軍で過ごし、4年目の今年も、一軍に上がる見込みはなかった。 「一軍は勝ったらしいぜ」  慰めるつもりか、田所が柔和な笑顔で声をかけてきた。 「我妻が完封だってよ。やっぱり、すごいな、あいつは。奥、同期だろ」  奥は曖昧に頷いてみせた。返事を期待していたわけではないらしい。田所はジャージの襟を立てて、グラウンドに視線を戻した。  目を細めて外野を眺める田所の横顔が急激に老けた気がして、奥は思わずぎくりとした。  田所は今年で39になる。他の競技と較べてすこしは長くプレイできるスポーツとはいっても、40になるまで現役でいられる選手は一握りだ。奥が子供の頃は、3年連続2桁勝利をあげ、テレビのなかのヒーローだった田所も、今では二軍ですらベンチをあたためるだけの選手となってしまった。たまに一軍に上がっても、ろくに抑えることもできず、敗戦処理に励むのが精一杯だ。  一抹の寂しさをおぼえつつも、こんなふうに終わるのはまっぴらだという怯えもある。しかし、田所でさえ、一時はチームのローテーションを支える剛腕の持ち主だったのだ。今のままでは、奥はだれの記憶にも残らないまま、消えていってしまうだろう。そう思うと、奥の背を冷えた汗がつたい落ちるのだった。  奥たちのチーム神奈川ヴェルヴェッツ一軍は名古屋遠征のはずだった。相手は昨年リーグ優勝した強豪チームだったが、若手エースの力投で快勝したらしい。だが、奥には田所のように素直に喜べない事情があった。  我妻は奥と同じ年齢で、高校時代は何度も対戦した。選抜決勝では接戦の末に奥たちが勝ち、奥は我妻からタイムリーを打った。泣きながら砂をかき集める我妻の丸まった背中を、今でも思い出すことができる。  我妻も奥のことをおぼえていた。奥は2位、我妻は4位だったが、偶然にも同じチームに入団することになった。我妻はなにかというと奥を頼り、奥も悪い気はせず、人見知りで口数もすくない我妻に積極的に声を掛けていた。  先にレギュラーの座を獲得したのは奥のほうだったが、プロになってから変化球をおぼえた我妻はめきめきと腕を上げた。プロ初登板で6回を1失点に抑え、2度目の先発出場では三振の山を築いて完投勝利を収めた。その後もすくないチャンスを確実にものにした我妻はあっという間に先発ローテーションに名を連ねるようになった。  1シーズンもたたない間に、同期のふたりの立場は逆転した。甲子園のヒーローだった奥幸成の名前をおぼえているものはなく、反対に、我妻は一躍エース候補に名乗りを上げた。端整なルックスも手伝って、テレビや雑誌にも頻繁に登場するようになり、たちまち野球少年たちの憧れの的となった。  最後のバッターの打球は当たりこそよかったものの、セカンドライナーにとどまり、9回裏が終了した。  帽子を被りなおし、ベンチを出ようとする奥を、コーチの大滝が呼び止めた。視線はあわない。どんな話をされるのか、そのときすでに、奥にはわかっていた。 「不倫だって。妊娠までしちゃったなんて、信じられないよね」 「狭山さんってさ、広報の高桑さん狙いじゃなかったんだ」 「そっちはカモフラージュで、本命は染谷Pだったんでしょ」 「なるほど。それで“ミュージック・ジャンゴ”のMCに抜擢されたわけね」 「うわ、きったねえ」 「でも、流産で長期休みとって、けっきょくそのまま降板でしょ。染谷さんとも切れたらしいし、もう戻るとこないんじゃない」  真由子はアナウンスルームに入ることなく踵を返した。強張った顔を俯けて、テレビ局の廊下を大股に歩く。  いわせておけばいい。乗り込んでいって弁解したところで、よけい惨めになるだけだった。噂のすべてが間違いだともいえない。現実に、真由子はプロデューサーの染谷の子供を身ごもり、流産した。  染谷には妊娠を告げていなかった。堕胎するようにいわれるのは目に見えていたからだった。ひっそりと出産し、ひとりで育てていくつもりだった。しかし、仕事を休むこともできず、無理をして働いているうちに、倒れてしまった。病院に運ばれ、目が覚めたときにはすべてが終わっていた。  後輩のアナウンサーたちがいうように、真由子の戻る場所はなくなっていた。レギュラーの番組には後釜がすでに居座り、それなりの視聴率を記録していた。同時に、染谷とのスキャンダルが週刊誌に掲載され、まだ入院しているうちに、見舞にきた局部長から自主退社を勧められた。女子アナなどは掃いて捨てるほどいるのだといいたげな、冷ややかな口調だった。  真由子は精一杯そつのない顔で頷いてみせた。衰弱した姿を見せるわけにはいかなかった。それくらいの自尊心はかろうじて残っていた。  ゴールデンの人気番組の司会進行役に抜擢されたのは、染谷とのこととは無関係であると、真由子は今でも信じている。入社8年目でようやくつかんだチャンス。死にもの狂いで働いた。不慣れなバラエティ番組にも挑戦し、出演者の信頼も大いに勝ち得ていたはずだ。  そんな苦労も、たったひとつのスキャンダルで泡と消えてしまった。染谷とも連絡が取れずにいる。おそらく、このまま真由子との関係を清算するつもりなのだろう。  べつにかまわないと思った。一時は本気で染谷に溺れ、妻子を捨てて結婚してくれればと願ったが、流産をきっかけに、なにもかもどうでもよくなってしまっていた。  真由子の目尻から涙がこぼれたのは、テレビ局を出て地下鉄に乗り込んだときだった。荷物の入った袋は、頼りないほど軽かった。超難関といわれる入社試験を勝ち抜き、ようやく入ったアナウンス室に、彼女の痕跡はもうない。  午前中の地下鉄車内は比較的空いていて、濡れた頬を好奇の目に晒さずに済んだ。声をころしたまましばらく俯いているうちに、ようやく落ち着いた。ファウンデーションのコンパクトを開き、軽く頬を押さえる。  顔を上げて、思わず苦笑いが漏れた。降りる駅を乗り過ごしてしまっていた。しかたなく、次の駅で降りる。  見覚えのあるホームだった。しばらく考え、思い出した。入社したばかりのとき、スポーツニュースの取材で訪れたのだった。新人だったので、社用車を使わせてもらえず、自宅から電車を乗り継いでやってきたのだった。  ここからなら15分ほどでスタジアムに行くことができる。なんとなく、真由子は足を進めた。  電車を乗り継ぎ、駅に着くと、電光掲示板を今日のスターティング・メンバーの名前が滑っていた。番組を担当していたのはほんの半年で、もともとスポーツへの興味が薄い真由子には、メジャーな選手以外さっぱりわからない。それでも、売店や飲食店の店頭に並んだフラッグやタオルのロゴには、なんともいえない懐かしさを感じた。あの頃は、まだ染谷と深い関係になっているわけでもなく、ただ純粋に、憧れの職業に就けた喜びと向上心で胸を躍らせていた。  何度も紙袋を持ち直しながら、スタジアムへの道を歩く。ハイヒールの爪先が痛んだが、ここまできて引き返すのは癪だった。  昼前のスタジアム周辺は閑散としていたが、熱心なファンがチケット売り場の前にたむろして、名前を書いたボール紙をせっせと地面に貼りつけている。視線があっても、真由子に気をとめるものはなかった。  安堵と失望が綯い交ぜになった妙な気持ちをもてあましながらぶらついていると、ひそやかな話し声が耳に入ってきた。 「なあ、あのひと、どっかで見たことないか」  ぎくりとして振り向いたが、レプリカ・ユニフォームの集団の視線は真由子を通り越していた。  彼らの目線を追うと、ひとりの男と視線がぶつかった。濃紺のジャージを着た若者はすぐに顔を背け、早足で歩き出した。  すぐには気づかなかったが、サポーターたちが素っ頓狂な声を上げて名前を呼んだので、真由子は口を開けた。 「奥選手!」  若者の足どりは早く、とても追いつけそうになかった。走り出しかけた真由子の手から紙袋が落ち、取材資料やタブレットが散乱した。  真由子は舌を打ち、屈んで私物をかき集めた。俯くと、また涙が零れ落ちそうになった。歪みかけた視界に、無骨な手の甲が映った。  顔を上げる。真由子を手伝って紙束を整える鬱然とした表情は、彼女にひとちがいの予感さえ感じさせた。しかし、プロのスポーツ選手としてはやや貧弱な童顔は、身間違えようがなかった。 「わたし、狭山真由子です。去年取材させていただいた、KTVのアナウンサーです」  奥が顔を上げる。警戒するような瞳には、かつての輝きは一片も見つけることができなかった。その眼を見た瞬間、真由子は奇妙な連帯感をおぼえた。どれほどぶりだろう、彼女の顔に、安寧の笑みが浮かんだ。  大滝の話の内容は、ほぼ想像したとおりだった。球団はもう奥を必要としていない。覚悟していたとはいえ、残酷な現実に、奥は打ちのめされた。  放心状態のまま、無意識に足がヴェルヴェッツのホーム・スタジアムに向かっていた。入団してすぐの頃、チームの一軍メンバーとして立った人工芝。喚声が轟き、打席に立った奥を包み込んでいた。  しかし、今、我妻の背番号を背負ったファンたちは、ペナントレースの行方について熱心に語りあいながら、奥のそばを通り過ぎていくだけだった。目立たないよう帽子とマスクをしているとはいえ、それほどまでに選手としてのオーラが消えているのかと、すくなからずショックを受けていた。  くるのではなかったと後悔していると、背後に視線を感じた。明らかに奥の噂をしているのがわかり、咄嗟に振り向いた。視界に入ったのは、噂をしているユニフォームの集団ではなく、その少し手前に立っていたスーツ姿の女だった。  視線を逸らし、その場を立ち去ろうとしたが、女はハイヒールの踵をかつかつ鳴らせて追ってきた。名前を呼ばれ、背すじが冷えた。女は奥に気づいていた。もう選手ではないといいたかった。足を早めようとしたとき、重い音がした。  ため息を吐きながらも、奥は女に手を貸して散らばった荷物を集めはじめた。その間も、女の視線を常に額に感じていた。いたたまれなさに耐えきれず、表情を歪める奥に、女は遠慮深げに自己紹介した。  名前を聞いても、すぐには思い出せなかった。なにしろ、大型新人といわれた奥のもとには、毎日のように各メディアが押しかけ、いちいち全員の顔をおぼえてもいられなかった。  それでも、真由子の話を聞いているうちに、なんとなく記憶が甦ってきた。自分も新人なのだと照れくさそうに話したアナウンサーの印象と、今の真由子の疲れたような表情がなかなか一致しなかった。とはいえ、他人のことをえらそうにいえる身分ではない。 「いい天気ね」  沈黙に耐えかねたのか、真由子がぽつりという。いつの間にか敬語が抜け、親しげな口調に変わっていたが、高圧的な印象はなかった。 「そうですね」  真由子のさりげない誘いに応じて散歩に付き合ったのは、しかし、懐かしさのためではなかった。もちろん、美人の誘いに乗ったからといって、下心があるわけでもない。新人の頃は先輩に連れられて夜の店や食事会にも参加したが、最近はそんな気にもならなかった。  真由子の顔に浮かんだ笑顔。2年前に仕事で言葉を交わしたきりだというのに、重苦しいほどの親近感があった。異国で同郷の人間に偶然出会ったときのような、心底ほっとしたような表情に、心を揺らされた。彼女なら、奥の苦しい胸の裡を理解してくれるかもしれない。ぶざまな期待があった。  おそらく、真由子が大切そうに胸に抱えている紙袋の中身を知ってしまったからだろう。奥の質問を待たずに、真由子は自分から苦笑いしてみせた。 「会社、辞めちゃったんだ」  弱々しい笑いだった。奥の記憶の片隅にある真由子の笑顔は、自信に満ち溢れていた。たった2年の間に、なにがここまで彼女を変えてしまったのだろうか。まるで鏡を突きつけられているような錯覚に陥り、奥は真由子の視線を追った。  大通りに面した小さな広場では、だらしのない服装に身を包んだ若者たちが、ポータブル・プレイヤーのヒップホップにあわせてブレイクダンスを踊っている。22歳の奥よりもさらに年下に見えた。目標もこれといった取り得もなく、ただ緩慢に生きるだけの同世代の若者たち。以前までは理解不能だった。蔑視していたといってもいいかもしれない。しかし、唯一の生き甲斐だった野球を失ってしまった今の奥は、彼らとなにも変わらない、無気力なただの男だった。 「ぼくも」 「え?」 「ぼくも、実は、今季限りで」 「うそ」  真由子は大きな目を見開いたが、すぐにその目を伏せた。 「それで……」  ふたりを強烈に結びつけたシンパシーの正体に納得したかのように、真由子は深く頷いた。 「お互い、つらいね」  多少投げ遣りではあったが、天気の話をしたときとほとんど変わらない長閑な口調。自分の立場も忘れて、奥は思わず噴き出した。 「笑ってる場合じゃないでしょ」 「すみません」  憮然とした表情を緩めて、真由子も笑う。ひとりでは、決して笑うことなどできなかっただろう。奥と真由子は、仲のよい姉弟のように、せり立ったアスファルトのうえに並んで腰を下ろした。ダンサーもどきのステップを眺めながら、真由子がいう。 「それで、どうするの、これから」  大滝にも同じことを尋ねられたが、明確な答えを返すことはできなかった。このときもやはり、奥は曖昧に首を傾げてみせた。 「拾ってくれるところがあればいいんですけど、ちょっと難しいでしょう。実業団に入るか、すっぱり引退するか……それか、就職でもしますかね」  就職の2文字を口に出したとたん、形容しがたい不安が奥の脊椎を駆け抜けた。大仰でなく、野球しかしたことのない人生だ。アルバイトの経験さえない。今更社会に出て、通用するとは思えない。たいした記録を残したわけでもない元プロ野球選手の肩書きに価値を見出してくれるほど世間は甘くないだろう。  ここまできてもなお、野球にこだわり続ける自分も、無視することはできなかった。奥の心中を察したかのように、真由子が眉を顰めた。 「野球、続けられるといいね」  奥は眉を上げてみせるにとどめた。返事の代わりに、聞き返す。 「狭山さんは、どうするんですか」 「わたし?」  今はじめて思いついたというように、真由子は目をしばたたいた。 「わたしは……そうだなあ、また地道に就職活動かな」 「結婚はしないんですか?」  奥としてはなにげない会話のひとつとして口にした言葉だったが、真由子の顔からはさっと血の気が引いた。 「すみません。よけいなお世話ですよね」  奥が慌てて身を乗り出し、真由子は手を振ってみせた。 「いいのいいの。どうせ、貰い手がいないんだから」  そんなことはないでしょうといいかけた口元を引き締める。一見涼しげな真由子の横顔には、慰めの言葉のいっさいを拒絶する強さがあった。  沈黙。真由子は奥から目を逸らすように、若者たちの烈しいダンスを見つめていた。自然と奥の視線もそちらの方向に向いた。 「巧いよね」 「ダンス?」 「あの子」  真由子が示した先には、縮れた金髪の少年。地面に両手をついて逆立ちに近い体勢をとると、眩しいほど白いタンクトップが胸までまくれ上がった。 「ものすごく練習しているんじゃないかなあ。ずば抜けてる」 「やってたんですか」 「ヒップホップじゃないけどね」  真由子は照れたように肩を竦めた。 「イメージ的には、社交ダンスっぽいですけど」  奥が正直にいうと、真由子はますます照れた。軽い調子で否定した。 「ちがうちがう。チア」 「チアですか」  神奈川ヴェルヴェッツにも、「Vシスターズ」なる専属チア・ガールの集団が所属している。スーツに包まれた真由子のバランスの取れた見事なスタイルは、現役の彼女たちにも決してひけをとらなかった。 「あの頃はよかったなあ」  真由子が遠くを見る。呼びかけられているのか独白か、判然としなかったので、奥は無表情でいた。  ふだんなら、内心で笑い飛ばしていたはずの、感傷的にすぎる言葉。しかし、今は、それこそ他人ごとではない。  こんなはずではなかった。奥と真由子の間を、同じ思いで沈んだ空気が流れた。 「そうだ」  突然、真由子が顔を上げた。 「奥くん」  よそよそしい敬称をつけるのは躊躇われたらしい。親しげな口調で、真由子は奥にいった。 「チア、やらない?」  残暑の厳しい日だった。鬱陶しい日差しから避難するために、国分智彰は友人たちと連れ立って、コンビニエンスストアに飛び込んだ。日に焼けた肌にエアコンの風が絡んで、思わず年齢に相応しくないため息が漏れる。  新製品の菓子を物色していると、棚の向こうで、喜多嶋旬が素っ頓狂な声を上げた。 「見て、これ」 「なに」  雑誌コーナーに回ると、喜多嶋が広げた雑誌のページを突き出してきた。よくある週刊誌のゴシップ記事。野球選手と女子アナの熱愛を報じる白抜きのキャプションが躍っていた。モノクロの男女の写真はだいぶ遠くから撮られたもので、画質も粗かったが、よく目を凝らせば、じゅうぶんに顔のつくりを確認することができた。 「超ショック。マジかよ、おれの奈々ちゃんが」  喜多嶋が大袈裟に顔をしかめる。  杉内奈々は朝のニュース番組やバラエティ番組によく出演する人気アナウンサーだった。まだ2年目の新人だが、あどけない顔立ちと、ぼうっとしていてどこか放っておけない雰囲気から、主に男性視聴者の厚い支持を得ている。 「しかも野球選手ってのが、またむかつくよな。だれだ、この我妻って」 「神奈川ヴェルヴェッツのピッチャーだよ」 「詳しいじゃん、トモ」 「ガキの頃、やってたからな、野球」  喜多嶋の眉が意外そうに持ち上がる。口を滑らせてしまったことを後悔しながら、国分は深めに帽子を被った女の写真に見入った。無意識に、声を上げた。 「なんだよ」 「いや、この前さ、踊ってるとき、ギャラリーがいただろ」 「たくさんいるからわかんねえよ」 「入口んとこにカップルっぽいのがいたじゃん。1週間ぐらい前」 「ああ」  予想していたよりもあっけなく、喜多嶋が頷いた。 「あれもいい女だったよな。男連れじゃなかったら、絶対声かけてた」 「馬鹿。狭山真由子だぜ、あれ」 「狭山真由子?」 「KTVのアナ。“ミュージック・ジャンゴ”とか、出てたじゃん」  喜多嶋は首を捻っている。どうやら自分の好みにあわない女には興味を持てないらしい。  国分としては、計算高そうな杉内奈々よりも、自立した大人の女という印象の狭山真由子のほうに魅力を感じたが、驚いたのはそのことではなかった。 「いっしょにいた男も野球選手だった」 「マジかよ。見たことないぜ」 「全然テレビ出ないもんな。甲子園ではけっこう活躍してたけど」 「ふうん。やっぱ女子アナはみんな野球選手に取られんだな」  喜多嶋は悔しそうに唇を窄め、漫画誌を取り上げた。野球や選手に興味を示す様子はない。  国分のほうにも、それ以上説明する気はなかった。野球の話なんか退屈なだけだし、鬱陶しい奴だと思われてしまうだろう。そもそも、野球のことに頭が向くのも、滅多にないことだった。  野球をやっていたのは小学校まで。リトルリーグに所属して、休日には父親とキャッチボールもした。しかし、中学に上がってすぐ両親が離婚し、自棄になって煙草を吸っているところを見つかって、チームを辞めさせられた。高校には進学せず、時折思い出したようにアルバイトをして稼いだ小遣いを酒や煙草に変えていた。公園でダンスを踊るのは楽しかったが、とくべつ才能があるとは思わないし、身分不相応な夢を持っているわけでもない。緩慢な日々を消化していくうちに、いつの間にか18歳になっていた。喜多嶋やほかの友人たちと、もうトシだなどと冗談めかした愚痴をこぼしあっているが、いまだにこれといった生き甲斐も目標もない自分には、つくづく失望していた。焦りはすでに諦めに変わって、苛立ちすらも感じることはない。  この数年でもっとも心弾んだのは、母親の実家がある九州の高校が、甲子園で優勝したときだった。  母はろくでなしだが、死んだ祖父には可愛がってもらっていた。小学生の頃、祖父や父とキャッチボールをして、帰りの田舎道を歩いた記憶は、国分にとって、なにものも冒されない特別な思い出だった。  国分は狭山真由子と並んで座っていた男の顔を思い浮かべた。  奥幸成は、当時の主力選手のひとりだった。甲子園では3割を越える打率と成績を残し、卒業後すぐにプロ入りした。2歳年上なだけの才能と環境に恵まれた少年を僻みながらも、内心ではひっそりと応援していたものだ。故障したと聞いて胸を痛めもしたが、テレビや新聞で名前を見かけなくなるにつれ、忘れてしまっていた。  一時期は戦力外ともいわれていたが、まだチームにしがみついているのだろうか。実物を拝んだのははじめてだったが、想像していたよりも小柄に見えた。しかし、すぐにプロ野球選手だと気づかなかったのは、見た目の印象のせいだけではなかっただろう。  奥はどことなく沈鬱な面持ちで俯き、狭山真由子との会話も、ぼそぼそとした声ばかりで、風にかき消されて聞き取れなかった。週刊誌に載るほどの大物ではないにしろ、我妻と杉内奈々のような関係なのだろうか。しかし、少し話したあと、どうも喧嘩別れをしたようだったし、隣りあって座ってはいても、ふたりの間には微妙な距離があったような気がする。  コンビニエンスストアのガラス窓が、反対側から叩かれた。漫画雑誌から顔を上げると、ダンス仲間がにやにやしながら手を振っていた。  喜多嶋と視線を交換しあってから、国分は音を立てて雑誌を閉じた。  自動ドアを押し分けて外に出ると、たちまち強烈な陽光に肌を刺された。凍らせたペットボトルをわき腹に圧しつけて、国分は仲間たちとともに歩き出した。地元の元ヒーローと年を取ったアナウンサーのことはすでにほとんど頭から消えていた。  テレビのワイドショーを見るともなく眺めながら、真由子は缶ビールを傾けた。脹脛から爪先にかけて、鬱然とした重みがあった。ハイヒールにスーツで一日中歩き回ったのだから、しかたがない。  ソファに体を預け、ストッキングの上から膝裏を指圧する。もう若くはない。即座に化粧を落とし、丹念に化粧水と乳液を擦り込んでおかなければと思ったが、疲れきった体はなかなか動いてくれなかった。  明朝は早くから地方ロケに行かなければならない。本当は前乗りしておきたかったのだが、今夜の仕事が時間どおりに終わるかどうか怪しまれた。スケジュールにはかなり厳しかったが、フリーランスになったばかりの真由子のような女性アナウンサーは、多少の無理も喜んで受け容れなくてはならない。  目を擦りたいのを耐えて、代わりに眉間を揉んでいると、テレビ画面に見知った顔が映った。  局アナだった頃の後輩にあたる杉内奈々のゴシップだった。相手は前途洋々たるプロ野球選手。分割された画面のいっぽうに映し出された顔は、試合中のものだろうか。チームのロゴが刺繍された帽子をかぶって、なかなか男前だった。  ノーコメントをとおしているらしい奈々の愛らしい顔を見て、真由子は苦笑いした。奈々は女子大を出て入社した時期から、キャリア志向とは縁がなく、常に目を光らせて玉の輿を狙っているタイプの現代的な女の子だった。真由子にはよくわからないが、キャスターが説明するところによると、我妻洋司という相手の選手は名実ともにチームを代表する剛腕投手のようだし、うまくやったというところだろうか。  奈々の顔が消え、代わりに我妻が登板した試合のVTRが流れた。画面いっぱいに長身が映り、ユニフォームの文字を確認すると、真由子はちょっと眉を上げた。  どこかで見たことがあると思ったが、そういえば、あの奥幸成も、同じ神奈川ヴェルヴェッツの選手ではなかったか。  奥の顔を思い出すと、懐かしさと同時に、自嘲めいた苦笑いが浮かんだ。  広場で若者たちのダンスを眺めながら、真由子はつい昔を思い出し、無神経なことを口ばしってしまった。  チアダンスをやろうだなんて、本気にするはずがない。奥は驚きながらも、女ではないからなどといって、やんわり身を退いた。それでも真由子が諦めず、今は混合もあるし、それなりのやり甲斐はあるとなおも勧めたので、少し気分を悪くしたようでもあった。クビになって落ち込んでいるときに、ダンスを踊るような気になれないのも、当然といえば当然だった。しかも奥は男で、馘首の憂き目に遭ったとはいえ、まだプロのアスリートという立場だ。  真由子は子供の頃から活発な性格だったが、同時に思い込みが激しく、愚直なところがあり、気持ちが高揚すると、冷静に周囲の反応を見たり他人の心情を推し測ったりということができなくなる。そんな単純な性格だからこそ、染谷のような男に溺れ、けっきょくは弄ばれてしまったのかもしれない。  まだ半分以上も残っているビールをテーブルに置いて、真由子は嘆息した。ひとりでいると、つい思考が卑屈なほうに向かってしまうようだ。  いい加減に洗面台に向かおうと、重い腰を上げかけたとき、バッグのなかで携帯電話が震えた。 「はい」  相手に見られるわけではないが、だらけた姿勢を隠すように、ことさら取り澄ました声をつくる。 「あ、どうも、奥です」 「はあ……」  外出先からかけているのだろう。回線の向こうは話し声や車の騒音などといった雑音にまみれていて、聞きとりづらかった。真由子が黙っていると、相手が改めて名乗った。 「奥幸成です」 「ああ」  つい素っ頓狂な声を上げてしまった。 「どうも。お久し振りです」  渡した名刺には携帯電話の番号も刷られていたが、機嫌を損ねてしまったので、かかってくるとは思っていなかった。真由子はソファに座りなおした。 「この間はごめんなさい、変なこといっちゃって」 「いえ、いいんです。気にしてないですから」  そうはいったものの、奥の声は微妙に強張っていた。 「あのう、今、ご自宅ですか」 「ええ。どうして?」 「よかったら、いっしょに飲まないかと思って」  予め用意していたような口調だった。真由子が迷っていると、慌てて重ねた。 「あ、でも、ふたりじゃないですよ。おれの友達もくるんで。もしあれでしたら、真由子さんも、だれか連れてきてもらってもいいし」  奥が早口にまくし立て、真由子は噴き出した。 「行きます」 「ほんとですか」  奥がほっとしたようにいう。なんとなく、放っておけないタイプの男だ。しかし、本人の言葉どおり、下心のようなものはないだろう。そんなちがいに気づかないほど、真由子も子供ではない。  簡単に店の場所を聞いてから、電話を切った。嵌めたままの腕時計に目を落とす。もうすぐ日付が変わろうかという時間になっていた。  明日の仕事のことを考えると憂鬱になったが、思いがけない奥の誘いは単純に嬉しかった。かといって、真由子のほうにもまた、他意があるわけではない。男なんて、しばらくは考えたくもなかったし、奥はどことなく田舎の弟を思わせ、よくも悪くも、男性として意識することはなかった。  奥のほうでも、同じだろう。同僚の成功と華やかなゴシップに、やっかみ半分、祝福半分で飲みたい気分なのかもしれない。それならそれで、できる限りは付きあってやろうと思った。  化粧を落とさずにいたのは、結果的には正解だった。鏡を覗いて少し顔をなおしてから、真由子は玄関に向かった。パンプスに爪先を差し込もうとして、ちょっと思案する。奥に会うのに、わざわざ気取ることもあるまい。ヒールがほぼないに等しく、見栄えは悪いが楽なシューズを履いて、マンションを出た。  ドアに設置されたカウベルを鳴らしながら真由子が現れると、安堵と後悔が混在した妙な気持ちになった。  ボックス席から手を振って合図すると、真由子はすぐに気づいて、大股に歩いてきた。長い体を奥の向かいの席に滑らせて、息をつく。 「すみません、急に」 「いいの、どうせ暇してたから」  真由子が脚を組むと、小ぶりのテーブルの下からシューズの爪先が覗けた。きっちりとまとまったパンツスーツにはあっていない。仕事を終え、帰宅してすぐに出てきたのだろう。奥は申し訳なくなり、真由子のほうにメニューを押し出した。 「ありがとう」  真由子は少し迷ってから、シャンディーガフを注文した。メニューを閉じ、ようやく奥を見る。 「お友達は?」 「今からきます」  真由子はそれ以上聞かずに、カウンター席のほうを眺めはじめた。彼女を呼んだことを後悔しかけていた。真由子がくるまでの1時間弱を、携帯電話をいじくりまわして過ごしていたのだ。  チアダンスがどうしたというような話をあらためて持ち出してくるような子供じみた女ではないが、心配なのはむしろ、真由子よりも友人のほうだった。  乾杯をしてすぐにタンブラーを口に持っていく真由子の伏せた顔を、奥はそれとなく見つめた。  切れ長の目と真っ直ぐにとおった鼻梁が涼やかだ。美人ではあるが、テレビで愛想を振り撒くにはすこし無機質な顔立ちだった。「連れ」として他人の目に触れさせるには、じゅうぶんすぎる相手。しかし、この店にきてすぐに真由子のことを思い出したのは、彼女の顔でもスタイルでもなく、職業のせいだった。  カウベルの軽やかな音。振り返った真由子が目を見開いたが、我妻はもっと驚いていた。 「よう、久し振り」  雑に手招きする。我妻は真由子から視線を離すことなく、奥の隣にかけた。Vネックの黒いシャツにデニムといったラフなスタイル。どこにでもいるふつうの若者といった服装ではあるが、盛り上がった胸筋がシャツの生地を圧し上げ、鍛えられた腕がシャツの袖から伸びている。 「こちら、狭山真由子さん」 「知ってる」  真由子を見た一瞬は表情を強張らせたものの、奥の紹介を聞く頃には、我妻はとっくに如才ない笑みを取り戻していた。 「“ミュージック・ジャンゴ”、見てました」 「ありがとうございます」  真由子も穏やかに微笑した。 「わたしも、テレビでよくお見かけしてます。奥くんと同じチームの……」  奥の顔に視線をはしらせ、真由子が不自然に言葉を切る。奥は聞こえていないふりをした。 「知り合いだったなんて、聞いてないぞ」  我妻が奥の腕を突く。おどけた声や表情ではあったが、痛かった。 「この間知り合ったんだよ。球場の前で、偶然」  奥と真由子が頷きあうのを、我妻は顎を逸らして眺めている。  ひととおりの自己紹介と近況報告が済むと、案の定、会話は途切れがちになった。野球の話も異性の話も控えざるをえないとなると、共通の話題はほとんど皆無にちかい。やはり真由子を同席させたのは間違いだったかとも思うが、我妻とふたりよりはましだ。いつからだろうか。彼といると、心底気詰まりでならない。  たぶんそれは、我妻のせいではなく、奥のせいだろう。変わったのは我妻ではなく、奥のほうだった。真由子も今では、なぜ電話が鳴ったのかに気づいているだろう。  我妻と真由子の世間話を、奥は捻れた思いで見守っていた。氷の融けかかった水割りを一気に飲み下す。酒の味をおぼえたのは、プロに入ってからだった。そのプロの世界にも、今季限りしかいられなくなりそうだ。  明後日には一軍監督がファームを見にくることになっている。練習をしなければならない。練習を……  舟を漕ぎはじめた奥を見て、真由子は笑いを噛み殺した。視線に気づいた我妻も、肩を竦めてみせる。  夜更かしに慣れていないのは我妻も同じだろうが、奥の目を盗んでさっきからウーロン茶ばかりを飲んでいる。全身から若々しさを漲らせているが、分別も弁えている。男選びに関してはシビアな杉内奈々が合格点を出したのにも、じゅうぶん頷けた。  こんなことなら、もうちょっと気を遣ってくるべきだったと、シューズの爪先を見下ろして、真由子は冗談半分に思った。しかし、我妻は奥以上に真由子に興味を示さない。気さくに話はするが、最低限の距離は守るつもりらしく、真由子にはそれがかえって気楽に思えた。 「我妻、酒」 「もうないよ」 「新しいの入れりゃいいじゃん。儲かってんだろ」  我妻の表情が曇る。酔いがすすむにつれ、奥の口は滑らかになり、多すぎる禁句にまで気を配っていられなくなったらしい。とくに我妻に対しては、あからさまに尖った言葉を投げつけ、そのたびに真由子も居心地の悪さをおぼえた。 「明日も練習じゃないのか」 「うるせえ、馬鹿」  壁によりかかりながら、奥が暴言を吐く。子供じみた口調だった。我妻が同意を求めるように向けてくる苦笑いを、真由子はやわらかく受け止めた。 「おい、ガッツ。真由子さんを口説くなよ」  我妻の笑みが強張る。真由子も視線を逸らすしかなかった。 「真由子さんは、おれとチアダンスするんだから。ね、真由子さん」 「ああ……そうだよね」  曖昧に頷いてみせ、真由子は内心ため息をついた。我妻が眉を寄せる。 「チアダンス?」 「あ、いえいえ、なんでもないんです」  奥はテーブルに突っ伏して、すでに眠りに落ちかけているようだった。真由子は首を傾げて、奥の寝顔を見つめた。無邪気なものだ。プロ野球選手とはいっても、まだ20歳やそこらの子供である。いや、プロの選手だからこそ、世慣れしていないのかもしれない。  人気アナウンサーとの熱愛が報じられた我妻に対抗するつもりで真由子を呼んだのなら、それはあまりに浅はかな行為だ。実際に、我妻も、真由子を見た一瞬こそ驚いた顔を見せたものの、とくに気にしている様子はない。そのことには、奥だって気づいているだろう。うしろめたさが、奥に深酒をさせているのだった。  自己嫌悪に陥るぐらいなら、はじめからしなければいいのにとは思うが、不思議と真由子は嫌悪感をおぼえなかった。奥に悪意があったわけでないことはわかっていたし、稚拙な計略には不潔感がなかった。 「寝ちゃいましたね。飲みすぎかな」 「あ、おれ、送って帰りますよ」 「だいじょうぶですか」 「酒は飲んでません」 「でも、明日、早いんでしょ」 「ホームのナイトゲームですから。狭山さんこそ、お仕事があるんじゃないですか」 「ええ、まあ……」  正直、これ以上睡眠時間を削ると、翌朝の仕事に差し障りが出る。眠りこけている奥にそっと視線を向けた。奥が身動きするのに合わせてテーブルのグラスを退けたり、冷えたおしぼりを首の後ろにあてがったり、我妻は甲斐甲斐しい手つきで気を遣っている。仲のいいチームメイト同士ということだし、心配することはないだろう。 「じゃ、お先に失礼します」  バッグを取り上げ、真由子は席を立った。 「またね、奥くん」  眠っている奥の頭に軽く触れ、我妻に一礼してその場を辞去した。  奥の作戦に気づいたときには、さすがに自尊心を傷つけられたが、我妻は思ったよりも好青年だった。あの杉内奈々と付き合っているというから、たいした男ではないだろうと思っていたが、甲斐性もあるようだ。さすがに面と向かって質すことはできなかったが、あの報道も、案外あてにならないかもしれない。  自分の知らない野球の話にもそれなりに興味が持てたし、若い男に囲まれて、心なしか肌の艶もよくなったようだ。心のなかの独白に、真由子はタクシーのなかでつい笑ってしまった。  体が大きく揺れて、奥は目を覚ました。伸ばした脚が車体にぶつかり、眉を寄せる。 「蹴るなよ。新車なんだぞ」 「いい車じゃん」  返事があるとは思っていなかったらしい。運転席の我妻が驚いて隣の奥を見た。 「起きてたのか」 「今起きた」  倒れていたリクライニングを戻して、奥は首を鳴らした。 「気持ち悪い」 「プロならちゃんと体調管理しろよ。明日も試合だろ」 「どうせ出番ないもん」  車が急停車して、奥はつんのめりかけた。シートベルトに胸を締めつけられ、吐き気が増した。 「わかった、悪かったよ。マジで吐くぞ」 「あれが返事なの」 「なにが」  胸元を掌で擦りながら、奥はため息をつく。我妻のほうを見ずにいると、いきなり腕をつかまれた。 「なんだよ」 「あれが返事だったのか」 「だから、なにが」  深夜の筋道は、車どおりもほとんどなかった。沈黙の車内に、ウインカーの規則的な音が響いた。 「狭山さんと、どうやって知り合った」 「だからいっただろ。この前、球場の……」 「すごい仲よさそうだったじゃん」 「いいだろ、べつに。だいたい、おまえだって」 「おれのは誤解なんだって、昨日いっただろ」  やぶへびを悟って、奥は舌打ちした。  雑誌やテレビで知るよりも先に、我妻から電話がかかってきた。奥にとっては、多少は羨ましく思ったとしても、そこまで気にすることではない。しかし、我妻は必死になって弁解した。  杉内奈々との写真が載ると思うけど、嘘だから。ほかの友達もいっしょだったのを、ふたりだけ撮られただけで、全然なんにも関係ないから。絶対信じるなよ。  そういって、我妻は切迫した口調で、今夜の約束を半ば無理矢理取り付けたのだった。 「それはもういいよ。なんでいちいちおれにいいわけすんだよ」 「もうわかってんだろ」 「なにを」 「わかってて、わざと狭山さんを連れてきたんだろ」 「はあ?」 「おれにいわせないように、牽制したんだよな」 「ちょっと待てよ。おれはただ、おまえとふたりでいるのが嫌だったから真由子さんにきてもらっただけで、べつに……」 「おれといるの、嫌なんだ」 「……」 「おれのこと、嫌い?」 「嫌いとか……そういうんじゃないだろ」  我妻が片手でシートベルトをはずす。軽い金属音がいやに大きく響いて、奥はぎくりとした。なんだ、これは。つまらない酒になるだろうとは思っていたが、こんな雰囲気は想像もしていなかった。  我妻が左手を助手席のシートに引っ掛けて、上半身を乗り出す。奥は目を逸らしていたが、視界に入らずとも、我妻の視線を感じていた。居心地の悪さに、思わずシートの上で尻をずらす。 「奥……」  低く名前を呼ばれ、背すじが粟だった。様子がおかしい。酔いが一気に醒め、笑いがぎこちなく歪んだ。 「なんだよ、おまえ……ちょっと気持ち悪いぞ」  冗談めかした言葉でごまかしたつもりだったが、我妻の顔は薄暗い車内でもはっきりとわかるほど青褪めた。 「気持ち悪いか」 「我妻」 「おれのこと、気持ち悪い?」 「いい加減にしろよ。酔ってんじゃねえの」 「酔ってない」  我妻の手に肩をつかまれ、奥は全身を強張らせた。並みの若者とは握力がちがう。脇に指先が食い込み、思わず顔をしかめる。 「ひとりで帰るわ、おれ」  尋常でない我妻の勢いに気圧され、奥はロックを解除して助手席のドアを開けた。夏の終わりのぬるい夜風が頬を叩くが、冷静にさせるには力不足だった。 「待てよ。まだ話終わってない」 「離せ」  渾身の力をこめて腕を振り払うと、奥は逃げるように体を車外に出した。 「奥!」  我妻が追いすがってくるとは思ってもみなかった。外に体を向けたまま、奥は咄嗟に力いっぱいドアを閉めた。  背後でいやな音がして、奥は硬直した。弾かれたように振り向くと、ドアは開いたまま、大きくバウンドして左右に揺れていた。 「我妻……」  上半身を屈めて車内を覗き込む。我妻は運転席から助手席に身を乗り出した体勢でうずくまっていた。 「今の音、なんだよ……」  震える声で叫ぶ。我妻は返事にならない呻き声を漏らし、起き上がろうとしていた。落ちた右肩を庇うように、体を捻っている。形容しがたい寒気が、奥の脊椎を痺れさせていた。 「見せてみろ。腕、見せろ」 「なんでもない」 「なんでもないことないだろ!」 「なんでもないんだよ!」  青褪めた顔を背け、我妻は勢いよくドアを閉めた。 「悪いけど、タクシーで帰ってくれ」  圧しころした声とともに、我妻はエンジンに火を入れた。奥の制止を聞かず、急発進させる。  去っていくテールランプを見つめながら、奥は茫然自失だった。  身間違えようがない。我妻は左手でイグニッションを回したのだ。  ふだんは和やかな雰囲気のロッカールームだったが、この日ばかりは不穏な空気に満ち、ざわめいていた。  監督の吹田が直々に訪れ、練習と試合をチェックしていったことももちろんあったが、会話の多くを占めていたのは、昨朝発表された我妻の登録抹消のニュースだった。 「お疲れさん」  ベンチに深く座り、かいてもいない汗を拭っていた奥に、田所が声をかけた。 「我妻のこと、残念だな」  同期の奥が胸を痛めているものと思ったらしい。田所は固い表情で首を振った。 「復帰まで3か月はかかるって。リーグ優勝したとしても、間に合わないな」  奥は頷きもせずに、黙っていた。田所は無言で奥の背中を叩き、その場を離れた。大きな掌には言葉以上の熱がこもっていたが、奥の心は慰められなかった。  我妻の骨折は、彼の不注意によって車のドアに挟んだためのものと報道された。しかし、それが事実でないということは、奥にはよくわかっている。  あのとき、すぐに我妻を病院に連れていけば、残りのシーズンを棒に振ることはなかったかもしれない。いや、そもそも、奥がもっと気をつけていれば。  津波のように押し寄せてくる後悔よりもさらに恐ろしいのは、自分でも意識していない深層心理だった。  満足のいく結果を残すこともできずにチームを追い出される自分とは反対に、めきめきと実力を上げていく我妻を、心のどこかで羨んではいなかったか。その醜い嫉妬心が、無意識にあのような行動をとらせたのではないか。本当に事故だったといいきれるのか。そう考えると、奥の背すじを冷たいものが走りぬけるのだった。  練習には身が入らなかった。試合の成績も、4打数無安打と、最低に終わった。とうぶん出番はないだろう。当然の報いだ。  ロッカールームからひと気がなくなっても、奥はベンチから立ち上がることができなかった。  肩を揺さぶられ、国分は呻いた。起こそうとする手から逃げるように体を引っ繰り返して、ブランケットをかき集める。 「なあ、起きてくれよ、頼むから」 「うるせえな……」  緩慢な動きで枕の周辺をまさぐり、携帯電話をつかむ。手を伸ばしたまま、ディスプレイを見て、国分は舌打ちした。 「勘弁してよ。まだ6時じゃん。おれ、寝たの5時だぜ」 「そんな時間まで飲んでたのか」 「あんたも飲んでたでしょ」  奥は居心地悪そうに掌で顔を覆った。顎にはだらしなく髭が浮いて、プロの野球選手にはとても見えない。もっとも、昨晩公園で会ってから今朝まで、国分の目に奥が現役選手らしく見えたことは、ただの一度もなかった。  しかし、それがかえってほかの連中にも好意的に思われたらしい。はじめのうち、興味を持ちながらも、やはり多少は嫉ましい目で見ていた悪友たちも、思ったより早いうちに奥を受け容れ、ほかの友人と同じように接していた。  生活のリズムや習慣が正反対とはいっても、同世代である。いっしょに呑めば、ある程度は理解しあえるというものだ。  遊び人ばかりが集まる店に奥を連れていくのは、さすがに躊躇われたが、酔って気が大きくなったせいか、もの珍しげに見回ったり、客たちとはしゃいだりして、案外楽しそうにしていた。ひと眠りして酔いが醒めた今は、さすがに表情を曇らせていたが。 「けっこうテンション上がってたけど、ちゃんとおぼえてる?」  仕方なく半身を起こして、国分は欠伸を噛みころした。 「あんた、公園でぼけっとしてて、おれらは呑みに行くとこで」 「ナンパされた」 「ナンパかよ」  フローリングに直接胡坐をかいて、奥が苦笑いする。見た目ほど酩酊していたわけではなさそうだった。少量のアルコールで無理矢理ハイになってしまう気持ちは、国分にもよくわかる。それも、そうとうに忘れたいことがあるときはなおさらだ。  しかし、だとしても、どう見ても怪しげな若者の集団に、のこのこついてくるものだろうか。 「ファンにはやさしいんだよ、おれは」  おどけたような言葉には、自虐的な色が見え隠れしていた。野球選手という人種にはもっと溌溂としているようなイメージを持っていたが、そうではないらしい。 「おれも、まさか、奥幸成がうちに泊まりにくるとは、思ってなかった」  自尊心をくすぐるためにいったわけではなかったが、口に出すと、よけいに不思議な感じがした。  いつものように公園で暇をつぶして、踊って、軽く缶ビールの数本も空けていた。場所をあらためて呑もうと腰を上げかけたとき、喜多嶋がこの間の野球選手がいるといい出したのだ。  公園の裏の小さな自動販売機で買いものなどしている奥に、国分は即座に声をかけた。  ファンだとは多少大仰ないいかたではあったが、そのへんの社交辞令は奥も承知しているようだったし、奥が地元のスターだったことには間違いない。 「でもさ、あんまりおれらみたいのと遊んでちゃ、よくないんじゃない。プロ野球選手ってイメージが大事だろ?」 「べつにいいよ」 「投げ遣り。だめだよ、そういうの」  国分はそっけなくいった。よけいなお世話だと怒鳴られるかもしれないと思ったが、奥は案外素直に頷いた。 「だけど、朝早いのはさすが、アスリートだね。今日、休みだっていってたのに」  皮肉めいた言葉に、奥が思い出したように顔を上げる。 「ちがうって、携帯。携帯がないんだよ」 「携帯?」  国分は不承不承ベッドを出て、床に落ちたブランケットを捲った。 「たしか、この辺に……あったあった」  奥が頻繁に落としてしまうので、預かっておいたのだった。了承は得たはずだが、忘れているらしい。 「超いっぱい着信あるよ」  奥は予想済みだというように曖昧に頷いた。着信表示を見ただけで、もちろん履歴まで開こうとはせずに、国分は奥に携帯電話を渡した。 「ちょっといいか、電話」  どうぞと肩を竦めて、国分は再びブランケットにくるまった。こっちはプロのアスリートというわけでもなければ、健康おたくでもない。できることなら、いつものように昼まで寝ていたかった。 「あ、奥だけど。ごめん、着信、気づかなかった」  おくだけど、という言葉のニュアンスが、苗字だとわかっていてもなんだか滑稽で、国分はこっそり笑った。ブランケットから腕を伸ばして、煙草を捜し求める。 「なにいってんだよ。帰れっていったのはそっちだろ」  低くしてはいるが、奥の声に苛立ちが混じっているのはすぐにわかった。もしかすると、女かもしれない。我妻洋司と杉内奈々のゴシップ記事を思い出して、国分は唇の端を歪めた。本人がきっぱり否定したということを奥から聞いて、喜多嶋は歓喜していた。記事がガセネタだったからといって、喜多嶋にチャンスが巡ってくるとも思えないが。そんなことよりも、煙草が見当たらない。 「ねえ、おっくん。おれの煙草、取ってないよね」 「ちょっと待てよ」  携帯電話に向かってことわってから、奥が首を捻る。 「取るわけないだろ。おれ、煙草吸わないもん」 「だよねえ。ごめん、ごめん」  奥の耳から離れた受話口から、男の声が漏れ出た。どうやら、スキャンダルではなかったようだ。 「え? ……友達だよ。いいだろ、べつに」  回線の向こうへ届けられる奥の声は疎ましげで、国分は息をひそめた。ベッドの下に落ちていた煙草とライターを拾い上げ、そっと部屋を出る。  早朝の住宅街はひっそりとしたものだ。冷たくなりはじめた風が、まだ少しアルコールの残った頭を冷ましていく。  数週間前に見かけたものの、言葉を交わしたのは、昨日がはじめてだった。地元が同じで、年齢も近いが、住む世界があまりにもちがう。  しかし、順風満帆とはいえずとも、野心と夢に満ち溢れているはずだと思っていたプロ野球選手は、実際には、国分たちとそれほど変わらないように思えた。なにがあったのかは知らないし、いちいち質す気もないが、おそらくは奥も、自分の居場所を探しあぐねているのだろう。今はどこでなにをしているとも知れない実の父親が、息子の将来にプロ野球選手の夢を抱いていたらしいことを思い出しながら、国分は短くなった煙草を階下に放り投げた。 「悪い。もういいぞ」  ドアが開いて、奥が顔を出す。国分は両腕をさすりながら、部屋に戻った。 「心配されてんじゃないの。やだよ、おれ、誘拐犯にされんの」 「そんなんじゃねえよ」  奥は笑ったが、表情はぎこちなかった。 「奥さん」 「やめろってば、それ」 「じゃ、奥選手」 「奥でいいよ」 「おっくん」  半分以上床に落ちたブランケットを爪先にひっかけながら、国分はいった。 「おっくんはさ、野球が好きで、プロになったのよね」 「まあ、嫌いじゃやらないよな」 「それにしちゃ、あんまり楽しそうじゃないね」  奥ははっとしたように国分を見つめた。深い意図があったわけではない。国分は慌てて手をかざした。 「よけいなお世話か」  7畳のワンルームを奇妙な沈黙が漂った。国分は軽く首を捻って、いった。 「今日、練習休みなら、もうちょっと遊ばない」 「なにして」  国分は肘を浮かせ、上半身を揺らしてリズムをとった。さすがに断るだろうと思ったが、奥は苦笑いを浮かべた。 「メシ食って、ジョギングしてからだな」  まさかおれもやらせようというのではないだろうなというようににらみつけたが、奥は涼しい顔だった。国分は大仰にため息をついて、着替えを取り出すためにクローゼットを開けた。  広場に設置した即席の小型音響システムから流れる重低音は、ざらつき、ひび割れていた。背後の道路を行き来する車のエンジン音とぶつかりあい、奥の耳を無遠慮に侵す。  奥は顔をしかめ、暇つぶしにでもやってきたことを後悔しかけたが、スピーカーをいじる国分の憔悴しきった顔を見ていると、怒りは薄れた。  国分の疲労は、おそらく奥の比ではない。奥よりも若いはずだが、アルコールや煙草のせいだろう、少し走っただけで息を切らし、5、6キロ走ってマンションに戻ってきた頃には、息も絶え絶えだった。 「プロが素人相手になにマジになってんだよ」  奥がにやけているのに気づいた国分が、唇を尖らせる。おとなびた格好をして粋がってはいるが、まだ子供だ。奥は拳を噛むようにして笑い、謝った。  国分がなにかいいかけようとしたところに、喜多嶋が手を振りながらあらわれた。 「おー、早いじゃん。なに、おっくんもいっしょかよ」 「昨日はお疲れ」 「お疲れーっす。やばい楽しかったね。おっくん、体育会系ノリじゃなかったからさ、安心した」  野球選手なんてろくなものではないといっていたくせに、噂の真相を知ったとたん、調子のいいことだ。  男子のほとんどが一度は夢見るプロ野球選手だからといって、羨望の眼差しで見られることはない。しかし奥は、実に自然に国分たちの輪に溶け込んでいた。  なんの理由もなく他人に不快感を与える人間もいれば、反対に、とくに善行をおこなわずとも、無条件に好かれる人間もいる。野球の才能はなかったかもしれないが、奥は貴重な美点をちゃんと持っていた。 「聞いてくれよ。おれ、ジョギングさせられたんだぜ、朝っぱらから」  国分が哀れっぽい声を出すと、喜多嶋は声を上げて笑った。 「いいじゃん、健康的で。おれも走ろっかな」  思ってもいないことをしゃあしゃあといって、喜多嶋は大きく体を伸ばした。 「みんな、まだこないだろ。先にやっとくか。BEPの新譜持ってきたからよ」  喜多嶋の手から受け取ったCDをコンポに挿入して、国分も軽く跳ねる。準備運動はじゅうぶんだろう。イントロを待たずに、体を揺らしはじめた。  音楽に疎い奥でさえも聞いたことのあるメロディ。しかしリズムはかなりアップテンポである。それにあわせて、国分がステップを踏む。少し距離を置いて、喜多嶋も全身でリズムを取っている。奥の視線はまるで意識していない。  目で追うのが困難なスピードで国分が旋回をはじめ、掌をアスファルトにつき、右手一本で体を支える。ワイヤーアクションのように下半身が宙に浮き、Tシャツが首まで捲れ上がった。  国分の体が反転して着地するのとほぼ同時に、喜多嶋が中央に割り込んだ。左脚を軸に720度回転して、両腕を捻り、解放した。両爪先だけで微前進し、そのまま後ろ向きに反転して地面に手をつく。ブリッヂの姿勢から右手を挙げ、さらに前進。その背後にリズムを取る国分の機械じみた動きが重なり、まるで大掛かりなサーカスのようである。  曲が一時停止するのと同時に、ふたりが無理な姿勢のまま硬直する。完璧なタイミングで、再び覚醒する。国分が前に出て、もはやふたつの楽器に近い痩身が同じステップを踏む。国分がはじめに見せたものよりも数倍速いスピードで旋回したのち、ふたりはストリップ嬢のように股間を突き出した体制で静止した。曲が終了するのと、数秒のずれもなかった。  オートリヴァースに設定してあるらしいコンポは、さらにイントロを流しはじめたが、さすがにもう1曲かます余裕はないらしい。国分は息を切らしながら、停止ボタンを押した。 「どう?」  喜多嶋も汗を拭いながら、歯を見せる。 「すごかった。やるなあ」  正直に感嘆する。喜多嶋は無邪気に首を振った。 「見られてると緊張しちゃってだめだな。ミスっちゃった」 「ひとのせいにすんなよ。左はべた足だっつってんだろうが。おんなじとこばっかり間違えやがって」 「うるせえな。おまえだって、またモタってたじゃねえかよ」 「ありゃわざとずらしてんの。余韻だよ、余韻」  なんの話をしているのかさっぱりわからない。なんとなく疎外感をおぼえて、奥は首の裏を掻いた。  どうにも居心地がよくない。おそらくは、奥のひとりよがりにすぎないだろう。国分も喜多嶋も、実に楽しそうに踊って、爽やかな汗をかいている。しかし、奥たちの汗とは種類がまるでちがう。 「国分」 「はいはい」 「おれもそうだけど、おまえらもだよな」 「なにが」 「楽しそうだけど、でも」  奥は曖昧な笑みを浮かべて、両腕を腰にあてた国分を見上げた。  彼らはいったい、なんのために踊るのか。とはいえ、そんなところに問題を見出すほうが、無粋なのかもしれない。考えすぎを悟って、奥は言葉を切ったが、国分の表情はかすかに強張った。 「なにいってんだよ。そんなら、おっくんも、やってみない」  喜多嶋が邪気のない声を上げて、奥の前にしゃがみこむ。 「無理無理。できるわけないって」  慌てて両手を掲げたが、喜多嶋は聞かなかった。奥の手を引いて、半ば強制的に立たせる。 「楽勝だって、ほら」 「いや、ほんと無理だから」 「だいじょうぶ。だれも見てないしさ」  たしかに、平日の夕方にわざわざ公園に足を運ぶ人間はほとんどなく、舗道を歩く通行人の歩調も早い。しかし、そういう問題ではなかった。ダンスなんて、考えたこともない。奥は必死になって抗った。 「怪我したらまずいだろ」 「さっきはべつにいいっていってたじゃん」  ここぞとばかりに、国分があげあしをとる。 「それは、だって、おまえ」 「だいじょうぶだって。プロ野球選手なんだから、軽いアイソレーのひとつやふたつ、楽勝だろ」  また意味不明な単語が出てきた。奥の背を押す国分の言葉には、揶揄するような色が混じっていた。気がひけているようだった国分もすぐにおもしろがり、いっしょになって奥をセンターに立たせようとする。逆らえそうになかった。奥は諦めて手を振り払った。 「じゃあ、ちょっとだけな、ちょっとだけ」 「わかってます」 「教えろよ」 「任せんしゃい」  したり顔の喜多嶋が国分に向かって顎をしゃくってみせ、奥はふたりに両側から挟まれた。 「まず、爪先を軽く開いて立って」 「こう?」 「そうそう。で、右足は踵、左足は爪先を軸にして、膝を内側に入れる」  説明に沿ってというよりも、国分と喜多嶋の動きにつられるように、奥は体重を移動させた。クラブステップとはとてもいえないようなぎこちない動きだったが、脇の国分にうまいじゃんなどと褒められ、つい照れ笑いなど浮かべたりする。 「次、逆ね。膝、外にして」  喜多嶋のあとを継いで、国分がレクチャーをはじめる。 「はい、繰り返し。外、内、外、内」 「外、内、外、内」  案外世話焼きなのかもしれない。国分はていねいに解説しながら、奥の足元に視線を向けている。 「おー、なんか、楽しくなってきた」 「でしょ。爪先は“ハ”の字に開いてね。上半身はずれないように……」  奥の背中と鳩尾のあたりを両手で支えて、国分の指導にも熱が入る。もともと、集中力はあるほうだ。徐々に没頭しはじめた奥のシャツを、喜多嶋がそっと引いた。 「なに」 「いや、なんか、こっち見てる奴いて」  球場に近い公園だ。知り合いや、奥のことを知るファンが通りがかってもおかしくはない。奥は慌てて振り返った。 「あれって、おっくんの友達だろ」  さすがの喜多嶋も言葉を選んだが、興味津々といった様子が見え見えだった。 「べつに、友達ってわけじゃない。ただの同僚だよ」  律儀に訂正しながら、舌を打つ。咄嗟に顔を伏せたが、遅かった。視線がぶつかり、奥の顔を確認すると、我妻は球団関係者が運転しているらしい車の後部座席のドアを開け、大股に近づいてきた。  奥の気も知らず、喜多嶋と国分はテレビのナイター中継にもよく登場する有名選手を観察しながら、顔を寄せあってはしゃいでいる。  地元が同じである国分はともかく、マイナー選手の奥のことはだれも知らなかったくせに、調子のいいものだ。思わず苦笑いしたが、それどころではなかった。  奥の前に立った我妻は、表情を強張らせていた。大袈裟にギプスを嵌めているわけではないが、ジャージの袖からのぞく右腕には、手首から指の関節にかけて包帯が痛々しく巻きついている。 「なにしてんの」 「ちょっと……」 「試合ないからって、遊んでる場合かよ」  我妻の言葉は冷ややかだったが、いい返せなかった。 「遊んでたんじゃなくて、踊ってたんす」  ふたりの間に体を割りいれるようにして、国分が口を挟む。気を遣ったつもりかもしれないが、逆効果だった。我妻は国分を見下ろし、また奥を見た。 「友達?」  奥は鷹揚に頷いた。 「朝、いっしょにいた?」  奥が頷くのを待たずに、我妻はため息をついた。 「なにやってんだよ、奥。おまえ、自分の今の立場わかってんのか」  来期の目処がたたない奥を心配しているのか、それとも自分に怪我をさせておいて、のうのうと遊び惚けている奥に腹を立てているのか、判然としない。どちらにせよ、俯くしかなかった。 「あんた、我妻さんだよね」  黙りこむ奥の代わりに、国分が反論した。 「チームの仲間に、そんないいかたないんじゃないの。試合がない日にちょっと羽根伸ばしたって、いいじゃん、べつに」  喜多嶋も横で頷く。我妻は怒りを抑えるように、左手で眉間を揉んだ。 「踊ってたって?」  思い出したようにいって、我妻は奥をにらんだ。 「この間いってた、チアダンス?」  喜多嶋がブレイクダンスだといおうとするのを遮って、我妻はさらにまくしたてた。 「おれの応援でもしてくれるってわけ。そんなことしてほしいって、おれが思ってると思うか」 「そうじゃないけど」  勘違いをしているといいたかったが、代わりに口をついて出たのは、いいわけのような言葉だった。 「昨日、見舞いに行ったときは、迷惑そうだったし」 「だからって、あんなすぐ帰ることないだろ」 「おまえが帰れつったんだろうが」 「おれんとこにくるぐらいなら、練習したほうがいいっていったんだ」 「嘘つけ。おれの顔見たとたん、あからさまに嫌そうな顔したじゃねえかよ」 「そんなことない」  我妻が声を荒げる。 「ただ、おまえの顔見ると、つい思い出すから」  搾り出すような声に、奥の胸は詰まった。  我妻は球団にもマスコミにも奥の名を出さなかった。あくまでも自分の不注意による怪我だと貫きとおした。だからといって、感嘆に割り切ることができるはずがない。奥と同じように、我妻も、野球が人生のすべてである。責任を負わせるつもりがなくとも、奥の顔を見るのはつらいだろう。  我妻を待って道路脇に駐車した車が、クラクションを鳴らした。 「とにかく」  我妻はため息混じりにいった。 「ダンスなんて絶対にやめろよ。おまえも野球選手なんだから、プライドを捨てたりするな」  懇願に近い助言だった。奥は小さく頷いた。しかし、それで終わらなかった。 「待てよ、イケメン」  踵を返しかけた我妻を、国分が呼び止めた。 「ダンスのどこが恥ずかしいんだよ」 「やめろよ、馬鹿」  喜多嶋の制止も聞かず、国分は我妻に向かって足を踏み出した。不穏な空気が流れる。 「べつに、ダンスがだめだっていってるんじゃない」  冷静さを取り戻した我妻が、とりなすようにいう。 「ただ、こいつがチアダンスをやるのはゆるさないっていってるんだ」 「なんであんたに許可取らないといけないんだよ」 「おまえな」  我妻は車のほうに向きかけていた体を戻して、国分を見下ろした。 「友達だったら、わかるだろ。奥は応援するより、応援されるほうの人間だって」 「おれらとちがって?」 「そうはいってない」 「今のはそう聞こえたぜ。なあ」  我妻から視線をはずすことなく、国分が顎で喜多嶋の同意を求める。喜多嶋は曖昧な苦笑いを浮かべただけだった。国分の怒りの源を把握できずに、戸惑っている。それは奥も同じだった。彼が奥の名誉のために我妻に噛みついているわけではないということはわかっていたが、真意はまったくつかめなかった。 「付きあってられねえよ」  吐き棄てるようにいって、我妻は奥の腕をつかんだ。 「行こうぜ。こんな奴らに構ってる暇ないだろ」 「こんな奴らってなんだよ、おい」 「落ち着けよ」  我妻につかみかからんとする国分を抑え、奥は声を張り上げた。我妻に向き直って、腕をつかむ手を振り払う。 「おまえもだよ、我妻。らしくないぞ。なにキレてんだ」 「おまえのせいだろ!」  我妻に怒鳴りつけられると、奥も沈黙する以外にない。怪我で残りのシーズンを棒に振ることになれば、気が立つのは当然だし、そうなったのはほかならぬ奥のせいだった。しかし、我妻の真意はそこにはなかったらしい。 「ちょっとはおれのこと心配してくれてると思ってた。今頃、責任感じて落ち込んでるんじゃないかと思って心配してたのに、呑気にダンスなんかやってるから」  奥は眉を顰めた。そんな子供じみた言葉が我妻の口から出るとは、思ってもみなかった。いつも穏やかで、試合中は強気でも、マウンドを降りればどちらかというと物静かで地味な性格の我妻が声を荒らげるのを見るのははじめてだった。 「なにいってんだ、おまえ。ちょっと落ち着けよ」 「うるせえな、触んなよ!」  咄嗟のことで、気を配る余裕もなかったようだ。怪我をした右手で奥の胸を押して、反対に我妻が顔をしかめた。奥は青くなった。 「だいじょうぶか」 「ほっとけよ、もう。そいつらとダンスでもなんでもやってりゃいいだろ。知らねえからな、おれは」  なにをいっても無駄だった。我妻は右手を庇うようにして体の向きを変えると、きたときと同じように、大股に車に戻っていった。さすがに、国分も今度はいちゃもんをつけることなく、黙って見送っていた。 「なんだ、ありゃ」  小さくなっていく車のテールランプを眺めながら、喜多嶋が首を傾げる。テレビで見るスター選手のイメージとはほど遠かったらしいが、無理もない。奥にしても、あれほどまでに取り乱す我妻を見たことはなかった。利き腕の故障が彼にどれだけショックを与えているのかと思うと、胸を痛めずにはいられなかった。 「舐めやがって。プロ野球選手がなんぼのもんだっつんだよ」  ただひとり、国分だけがしつこく悪態をついていた。奥も同じ野球選手であることも忘れて、アスファルトに唾を吐いている。 「おっくんには悪いけど、おれ、あいつは嫌いだな。調子こいててさ」 「いつもは、あんな奴じゃないんだけどな」 「どうかねえ」  国分はまだ怒って、それでも風向きを見極めながら奥から少し離れて煙草をくわえる。 「未成年だろ」  冗談はやめろというように、国分が手を閃かせる。奥は苦笑いを浮かべて、喜多嶋とともに地面に直接腰を下ろした。 「この間、怪我しちゃってさ、あいつ」 「マジ?」  喜多嶋が目を見開く。国分は無反応だが、話を聞いてはいるようだった。 「それで、ちょっと荒れてんだよ。悪かったな」  さすがに気が咎めたのか、国分は曖昧に頷いてみせた。 「でも、だからって、おっくんにあたることはないよなあ」  喜多嶋の言葉には、国分も頷いた。奥は少し迷って、しかし、けっきょくため息をついた。 「実は、おれのせいなんだよ」 「おれのせいって、怪我のこと?」  喜多嶋が顔を上げる。国分は半分も吸っていない煙草をバスケットシューズの底で踏み潰した。即座にもう一本を取り出したが、唇に挟んだまま、奥が話し終わるまで、吸おうとはしなかった。  我妻に怪我を負わせた夜のことを一部始終話してしまうと、奥は全身で息をついた。後悔と畏怖とは、意識しているよりもずっと深く、心を侵食していたらしい。昨日会ったばかりの年下の少年たちに打ち明けることで、まるで教会で牧師を相手に懺悔したような安堵をおぼえた。もちろん、そんな経験はなかったが。 「そんなにすごいの」  聞き終えると、国分は火のついていない煙草を握りつぶして、いった。 「そんなにすごいピッチャーなの、あいつ」  一貫性のない国分の態度に当惑しながらも、奥は頷いた。 「すごい。たぶん、あと数年もしたら、メジャー行くんじゃないかな」  嫉妬心さえ湧かなかった。スタートこそ奥のほうが順調だったとはいえ、今となっては、差は埋めようがない。 「そんじゃあさ、応援しなくちゃじゃん」  いかにも呑気な国分の口調に、奥は眉を寄せた。 「応援って、おまえ」 「ダンスだって、たいへんなんだぜ、それなりに。おっくんだって、そう思ったでしょ」 「まあ……」 「そのこと、あいつにもガッツリわからせてやりたいじゃん」  そういった国分の顔からはすでに怒気は消え去り、代わりに年齢相応の無邪気な笑みが浮かんでいた。 「おまえ、発想がぶっとびすぎてるよ」  隣で喜多嶋がため息をついたので、奥も思わず笑ってしまった。どうやら、国分の性格をまだ、わかっていなかったらしい。 「だいたい、チアダンスなんて、やったことないだろ」 「そうだなあ」  国分は首の裏をかいて、奥を見た。 「だれか、教えてくれそうなひと、いない?」  奥や我妻と酒をともにした翌朝、真由子はあやうく遅刻しかけた。気を緩めていたつもりはなかったが、久し振りに仕事以外で外出して、多少浮ついていたようだ。  慌てて出かけたので、テレビどころか、新聞にすら目をとおすことができなかった。  我妻の怪我を知ったのは、偶然にちかかった。ロケバスの運転手が野球好きで、世間話として教えてくれたのだった。  ほんの数時間話をしただけだったが、我妻がそんな不注意をしでかすとは思えなかった。詳しく知りたくて、奥に電話をかけたが、奥は電話に出なかった。  電話がかかってきたのは、それからさらに1日たった夕方だった。 「もしもし、奥くん?」  メイクをしていた手を止めて、真由子は携帯電話に飛びついた。 「よかった。わたしからも、また電話しようと思ってたんだ。この間のこと、気になってて……は?」  田舎の両親が聞いたら顔をしかめそうな素っ頓狂な声を上げて、真由子は鏡のなかの惚けた自分の顔を見つめた。 「チアダンス?」  我妻の穴は、中継ぎで活躍していた埜波が埋めた。監督が目を止めたファームの試合で3回を無失点に抑えた田所が一軍に上がり、ヴェテランらしい安定した試合運びを見せた。  このまま一軍定着かともいわれたが、田所は今季限りでの引退を表明した。年齢による体力の限界が理由だった。絶頂期を過ぎ、数年を二軍で過ごした田所にとっては、結果的に、これ以上ないとはいえないまでも、現時点では最適な引き際といえた。  神奈川ヴェルヴェッツは最後まで優勝争いに名を連ねたものの、我妻をはじめとする故障者を多く出したことが影響し、Bクラス止まりでシーズンを終えた。  我妻の手首の手術は無事成功し、リハビリをつづけてはいたが、けっきょくシーズンには間に合わず、来季開幕戦からの復帰が期待されていた。  奥はチームとの契約延長を勝ち取ることはできなかった。自由契約をいい渡され、他球団の入団テストを受けることにしたが、いっこうに調子の上がる気配はなく、これもまた狭き門だった。  そして冬が訪れ、奥のいないヴェルヴェッツの新しいシーズンに向けたキャンプがはじまった。  真新しいマンションの部屋を出たところで、携帯電話が振動した。ダウンジャケットのポケットをまさぐっているうちに振動は途切れ、舌打ちする。  着信履歴のディスプレイに浮かんだ名前を見て、奥は少し迷った。ただでさえ遅刻は間違いない。急用ならメールででも連絡を入れてくるだろう。携帯電話をポケットに戻し、エレヴェータに乗り込んだ。  休日の東武東上線は混みあっていて、奥は扉の脇に体の側面を圧しつけるようにして立った。  真由子から借りたCDは、前夜のうちにMP3に変換しておいた。それを聴きながらぼんやりと景色を眺めていると、また携帯が鳴った。  反射的に受話ボタンを押すと、我妻の神経質な声が聞こえてきた。 「久し振り」 「あ、悪い。ちょっと、今……」 「取り込み中?」 「電車乗ってんだよ」  それで諦めてくれるだろうと思っていたが、我妻はしつこかった。 「どこ行くの」 「ちょっと。なあ、あとでかけるからさ」 「変な友達と遊んでるわけじゃないよな」  縋るような口調だった。 「チアダンスなんか、やってないよな。な、奥」 「なにいってんだよ」  周囲の視線が全身に刺さって、奥は苛立った。 「この間から全然会えてないだろ。気になって、練習に集中できなくて……」  責めるような口調だった。謝りたいというなら、そのぐらいは聞いてやってもいいと思ったが、そんなつもりはないようだ。奥はため息を吐いた。 「とにかく、今はまずいから、かけなおす」  早口にいって、返事を待たずに電話を切る。渋面をつくるサラリーマンに向かって目礼をすると、自分でも意外なほど惨めな気分になった。  簡単な謝罪と、調整の進行のほどを尋ねる社交辞令的なLINEを送ると、数分と待たずに電話がかかってきた。そのときにはすでに降車してはいたが、奥は無視した。付きあっていられない。  我妻の怪我はすでに完治し、沖縄で行われている春季キャンプにも参加していた。怪我の後遺症とブランクを考慮され、チームとは別メニューが組まれているらしい。  来季以降のことを考えれば的確な判断であり、じっくり調整をしていくべきだったが、我妻は目に見えて焦っていた。シーズンの半分ちかくチームから離れ、試合の感触もつかめずにいるのだ。しかし、いくら不安だとはいっても、なにかにつけて電話をかけてくる神経が、奥には理解できない。  怪我で前線を離れていたとはいえ、いまだチームの主力のひとりである我妻に頼られることに悪い気はしないし、故障の原因をつくったのはほかならぬ自分なのだから、愚痴に付きあってやるくらいの義務は負わなければならないとも思う。しかし、いくら電話だけとはいえ、我妻と話をするのは、奥にとって、苦痛以外のなにものでもなかった。  以前はこうではなかった。結果が出ずに悩んでいる奥を我妻は気遣ってくれたし、連絡先は知っていたが、電話やメールを寄越すことも、ほとんどなかった。  チームを去った奥の現状を心配しているのか、怪我の原因である奥の謝罪が足りないというのか、それとも、国分たちのような連中と付きあっている奥に憤りをおぼえているのか。あれ以来、我妻はろくに用もないのに、しつこく奥の近況を聞いてくる。キャンプに発ってから、よけいにひどくなっているようだ。  奥のほうも、はじめのうちは適当に聞き流していた。しかし、今では疎ましく思っているのを隠すことも困難だ。怒りよりもむしろうしろめたさのほうが大きかった。放っておいてくれれば。しかし、突き放そうとすればするほど、さらに執拗に迫ってくる。 「おっくん」  振り向くと、モスグリーンのパーカーを着た国分が駆け寄ってきた。 「よかった。おっくんも遅刻組か。また真由子さんに怒られちゃうね」  ちっとも急いでいない様子で、国分が肩を竦める。奥も苦笑いを返した。 「ねえ、タンブリングの練習してきた? おれ、いい加減、下の部屋の浪人生に刺されちゃいそうでさあ」  弾むような足どりで奥の先を行きながら、国分が無邪気にいう。奥は曖昧に頷きながら、国分のあとに続いて改札を抜けた。  駅から歩いて15分の市営体育館。2階の隅の卓球場では、すでに10人余りの仲間たちがストレッチをはじめていた。 「遅い、ふたりとも」  身を縮めるようにして入ってきたふたりを見て、真由子が顔をしかめる。 「もうはじめるとこだよ。早く準備して」  ジャージ姿の真由子は、それでもじゅうぶん魅力的だったが、眩しく思う気持ちは、とうに消え去っていた。奥は苦笑いしながら、国分とともに上着を脱いだ。 「鬼だよね、真由子さんって」  荷物を置きながら、国分がそっと耳打ちしてくる。  確かに、真由子の指導は日に日に厳しさを増していった。  ストレッチをしている若者たちの動きも緩慢だ。国分と喜多嶋のダンス仲間は、最初のうちこそもの珍しげにダンスを楽しんでいたが、徐々にやる気を失い、不満を漏らしはじめていた。  真由子は決して悪い女ではないが、完璧主義にすぎる。少しは気遣ってやらなければ、不平不満は募るばかりだった。  忙しい間を縫ってきてくれるのはありがたかったが、全員に同じだけのやる気を持たせるには、監督する立場の人間が率先して気を抜くことも重要だ。遠まわしにでも、そのうち、いっておかなければならないと思いながら、奥は手早く身支度を整えた。  国分からやや遅れて練習場に出ていくと、すでに全員がそれぞれの位置についていた。慌てて中央に体を割り込ませる。左右に国分と喜多嶋。半年ちかく練習を重ね、それなりに上達してもいるが、センターを陣取るには、やはり技術はあまりに心許ない。真由子や国分にうまくいいくるめられて、柄でもないリーダーなどを張ってはいるが、できることなら、端に引っ込んでいたかった。 「じゃ、はじめるよ」  真由子が声を張り上げ、ステレオが軽快なリズムを吐き出す。弾けるような掛け声とともに、全員が一斉に跳びあがった。両手足をいっぱいに広げ、左脚を軸に回転する。  全国大会用の難しい振りである。たった2分半とはいえ、かなりの体力を消耗する。後半の失速を考慮して、大きなモーションのなかにも、余裕を持って動いた。  ポジションを変更し、スタンツに移ろうとするところで、唐突に音楽が止まった。 「だめだめ、ストップ」  真由子が二度手を叩いて、苛立たしげに首を振る。 「そんな緩慢な動きじゃ、なにも伝わってこないよ。もう一回、頭から」  再び同じくだりを踊る。今度はさっきよりも早く、真由子が制止してきた。 「どうしてこんなとこでへたっちゃうの。やる気ないんじゃない?」  棘のある口調だった。奥が口を開くよりも先に、メンバーのひとりがため息をついた。 「勘弁してくれよ。おれらだって、ちゃんとやってんだからさ」  鼻にピアスをとおしたその男の言葉が引き金になり、不満が爆発した。 「そうだよ。いちいち止められちゃ、やる気も出ねえだろうがよ」  とても止められるものではなかった。だれもが口々に文句を垂れ、座り込んでしまうものもいる。 「だいたい、おれら、べつに、チアダンスなんか、どうしてもやりたいわけじゃねえし」 「そうそう。女子アナ紹介してくれるっていうから、しかたなくきてやってんのによ」  真由子の顔から血の気が引く。鋭い視線に、奥は慌てて顔を伏せた。口を滑らせた鼻ピアスも、まずいという表情で舌を打つ。  辞めると駄々をこねるメンバーたちを引き留めるための約束。真由子にはいっていなかった。たちまち空気が澱んで、沈黙がはしる。 「そういうことか」  皮肉めいたため息をついて、真由子は目を閉じた。 「いい。わかった。そんな気持ちでやってるんだったら、もう辞めたら」 「真由子さん、いくらなんでも、そういういいかたは……」  とりなそうとしたが、遅かった。 「いわれなくてもやめてやるよ。ばぁか」 「おれも」 「おれもやめた。めんどくせえ」  鼻ピアスを先頭に、数人が荷物を手に出て行ってしまう。奥や国分が止めたが、無駄だった。  14人いた仲間は、あっという間に8人にまで減ってしまった。真由子は憤然とした表情で、腕を組んでいる。 「ちょっと、もう、勘弁してよ、真由子さん」  喜多嶋が呆れて肩を竦める。 「わたしのせいなの。わたしはちゃんとやることやってるでしょう」  にらみ返され、喜多嶋は諦めたように両手を挙げた。  たしかに、真由子はただひとり仕事を持っている身でありながら、だれよりも早く練習にきて、熱心に指導に打ち込んでいる。しかし、それだけではだれもついてきてはくれないのだ。リトルリーグの頃から、幾人もの監督のもとで厳しい練習に打ち込んできた奥には、そのことがよくわかっている。しかし、プロの世界で挫折に喘いでいる現状で真由子に提言するのは憚られた。 「だいじょうぶ。8人いれば、ぎりぎりなんとかなるんだから」  自分にいい聞かせるように強い口調でいって、真由子は手を叩いた。 「さあ、練習再開しよう」  しかし、だれも微動だにしない。空気が捩れ、張り詰める。  ドアが開く音が沈黙を破り、だれもがはっと顔を上げた。 「お邪魔だったかな」  ワイシャツ姿の田所が、居心地悪そうに立っていた。 「ここのスタッフと、仲がよくてさ」  清涼飲料水のペットボトルを弄びながら、田所は長閑にいった。 「やめてくださいよ、そういう嘘は」  即座に切り返す。奥も俯き、田所と視線をあわせずにいた。 「我妻に頼まれたんでしょ」  田所は参ったとでもいうように頭を掻いた。形容しがたい怒りがこみ上げてきて、奥は唇を噛んだ。  いったいなんの権利があって、つきまとうのだろう。確かに、奥には我妻に怪我をさせた負い目があるが、だからといって、チームを去った今も、私生活にまでうるさく口を出されるのはたまらなかった。 「心配してるんだよ、おまえのこと」 「大きなお世話です」  奥は吐き棄てるようにいった。田所に罪があるわけでないことはわかっていたが、まるで共犯者ででもあるかのように冷ややかな態度をとってしまう。 「コロさんも、またずいぶん暇なんですね。せっかく引退して自由の身になったんだから、なにか趣味でも見つけたらどうですか」  田所は相変わらず長閑な微笑を浮かべたまま、曖昧に頷いている。その横顔をちらりと見て、奥はため息をついた。 「すんません。八つ当たりでした」 「いや、いいよ。暇なのは本当だしな」  奥の口から出れば、卑屈にしか聞こえない言葉も、田所がいうと、不思議と穏やかに響く。ヴェテランとして若手選手のいい相談役を買って出ていた田所の現役時代を思い出すと、強烈な自己嫌悪に襲われた。 「ほんと申し訳ないです」 「いいから、気にすんなって」  眼鏡を持ち上げながら、田所がいう。黒い縁を押し上げる指先には、いかにも固そうな肉刺がまだくっきりと残っていた。 「おれは、べつにさ、いいと思うんだよ。我妻から聞いたときは、まさかって思ったけどさ。ダンスなんてイメージないしな。でも、もともとおまえ、野球以外に趣味らしきもんがなかっただろう。他のやつみたく、賭けごとやら株やらに手出してるわけじゃあるまいし、女もいないし。周囲がどうのこうのいうようなことじゃないと思うんだな」  独特のゆったりとした語りくち。思いがけず胸が熱くなり、そのことを気づかれないために顔を背けなければならないほどだった。  国分たちの誘いに乗るかたちで、気晴らしにでもなればと軽い気持ちではじめたダンスだったが、だれよりもうしろめたさや羞恥心を感じていたのは、奥だった。我ながら単純だと思いながらも、田所の言葉に、奥は救われたような気持ちになった。 「でもな、我妻の気持ちもわかってやれ。あいつにとっては、もどかしいんだよ。同期でずっといっしょにやってきた仲間だし、ライバルだったんだからさ」 「それは、わかりますけど……」  言葉を濁しながらも、奥は素直に頷いた。 「まあ、あいつもひとのこと気にしてる場合じゃないんだけどな。おまえだって、野球やめるつもりはないんだろ?」 「そりゃ、もちろん、おれだって、できればつづけたいですけど」  チームを去った今も、野球は奥にとってすべてだった。国分たちと踊っているのは楽しかったが、やはり野球には換えられない。 「でも、今更どうにもならないんじゃないかって」 「なにいってんだ」  田所はあきれ果てたように眉を上げて、奥の背を突いた。 「まだ若いじゃねえか。これからだろ」  田所の掌は相変わらず手加減を知らず、奥は思わずつんのめったが、不快ではなかった。 「とにかく、我妻にはおれがうまいこといっとくからさ。ダンスもいいけど、野球のことも、ちゃんと考えろよ」 「わかってますよ」  無意識に語尾が伸び、甘えるような口調になってしまった。立ち上がったときには、これまでにないほど体が軽くなっていた。 「じゃ、おれはこれから娘と映画見に行く約束あるから」 「もうそんなに大きくなったんですか」 「9歳。マセガキなんだわ」  苦笑いを浮かべているが、田所は幸福そうだった。 「また見にきていいか」 「勘弁してくださいよ」  奥は照れ笑いを浮かべたが、だめとはいわなかった。  真由子は畳まれた卓球台にもたれて窓から外を眺めていた。奥が戻ってきたことにもすぐには気づかず、声をかけられて、慌てて姿勢を正した。 「みんなは?」 「帰った」  短く答える。奥はふうんと息を漏らしただけで、それ以上はなにもいわなかった。 「ごめんなさい」  再び外の景色に視線を移して、真由子はため息混じりにいった。 「わたしが悪かったわ。あんないいかたしたら、怒らせちゃうのはあたりまえだよね」 「気にしなくていいよ」  思いがけず、奥は穏やかに頷いた。 「おれも、真由子さんにばっかり悪役を押しつけるみたいにしちゃってたし。やめた奴らも、たぶん、放っといても、長続きはしなかったと思う」  首を振りながら、真由子は自分でも驚くほど安堵していた。てっきり、奥にも愛想をつかされたと思っていたのだった。 「奥くん」  奥が顔を上げる。視線を動かさないまま、真由子は独白のようにいった。 「チアはね、ほんとはもっと楽しいし、やりがいもあるの」  奥の視線をこめかみに感じながら、真由子は目を細めた。 「だから、やめないでね」  奥は無言だった。もともと返事を求めていたわけではない。 「お願い」  落ちかけていた太陽が、真由子の頬を焼いていった。  国分と喜多嶋に支えられた奥の体が大きく撓り、空中で回転して、着地した。端のメンバーが膝をつき、全員の動作がぴったりとあって、ポーズを決める。ラストのドラムラインと微妙なずれがあったが、なんとか曲が終わった。  やや大仰にすぎる拍手があって、奥が息をつく。全員が立ち上がり、汗を拭いはじめても、田所は拍手をやめなかった。 「すごいなあ。まさか、ここまで本格的にやっているとは思わなかった」  感嘆の息をつきながら、田所がいちばん興奮している。奥は恥ずかしそうに肩を竦めた。 「コロさんに見られてると、なんか、調子出ないですよ」 「いいじゃない。ギャラリーがいたほうが、盛り上がるでしょ」  脇でチェックしていた真由子も、嬉しそうに微笑んでいる。彼女を満足させるだけの演技ができたとは思えないが、小言をいう気配はない。以前の練習でほぼ半数のメンバーに抜けられたのがよほどこたえたのか、最近では真由子の要求も多少厳しさをひそめていた。 「なあ、コロさん、おれのバック宙、すごかったべ?」 「おまえ、この間やっと着地できるようになったばっかじゃねえかよ」  真由子のいうとおり、たったひとりでも見てくれる人間がいるというのは、踊っているほうにとってもいい刺激になったようだ。喜多嶋を先頭に、だれもが休憩を取るのも忘れ、我先にと田所に迫る。息子ほどの年齢の不良たちに馴れ馴れしい口をきかれても、まるで気を悪くする様子も見せず、田所はうんうんと頷いている。 「いや、みんなすごいよ。おれなんか、でんぐりがえりもまともにできないもんな」 「嘘だろ。元野球選手なのに?」 「そんなたいした選手でもなかったからなあ」 「でも、うちの親、コロさんのこと知ってたよ」 「うん、まあ、どっちかというと、親御さんの世代だろうなあ」 「うちのも。コロさんきてるっつったら、サインもらってこいって。まともにしゃべんのも2年ぶりぐれえなのに、調子こいてんよなあ」 「サインぐらいだったら、いくらでも書いてやるぞ」 「マジかよ。じゃ、これに書いて、これに」 「あ、おれも」 「おまえら、おれには全然サインねだらなかったじゃねえか」  喜多嶋たちを小突きながら、奥も楽しげだった。一時は解散寸前かというほどに暗雲たちこめていた空気も、いつの間にか、実に和んだものに変わっていた。  田所を中心にほのぼのとしたやりとりを続けている仲間たちを横目に見ながら、国分は舌打ちした。正体不明の苛立ちを持て余し、無意識に煙草のパッケージをさぐる。 「こら、国分」  真っ先に見咎めたのは、田所だった。 「館内は禁煙だぞ」 「わかってるよ。くわえてるだけだって」  田所を見もせずにいって、マルボロのフィルターを噛む。 「気にすんなよ、コロさん。あいつ、野球選手アレルギーだからさ」 「聞こえてんぞ」 「なぜかおっくんだけは平気みたいだけどね」 「おっくんは、ほら、地元のスターってやつだから。なあ」  突然矛先を向けられて、奥が困ったような微笑を浮かべる。プロ野球選手でなくなった奥がジレンマとコンプレックスを抱えているのだということはよくわかっている。国分の苛立ちは募っていくいっぽうだった。 「聞いたよ」  いつの間にか、田所が傍らに立っていた。 「我妻とぶつかったんだってな」 「べつに」 「あいつも悪い奴じゃないからさ。大目に見てやってくれよ」 「だから、なんもねえっつってんじゃん。おっくんと同じこといってんじゃねえよ」  フィルターがぼろぼろになった煙草を手のなかで握りつぶして、国分はため息をついた。 「そういう仲間意識みたいのって、うぜえと思わねえの。謎の上から目線って、すげえむかついちゃうんだよね、おれ」  空気が尖る。まずいと思ったが、止められなかった。 「べつに、チアなんか遊びだから。体育会系のノリにはついてけねえの。あんま世話焼かないでくれっかな」 「おい、ブー。そりゃねえだろうがよ」 「うっせえな。このひとだって、暇持て余してきてんだよ。どうせ野球以外はなんもできねえんだろうしよ」 「やめろ、国分」  奥が圧しころした声で咎める。 「マジでぶん殴るぞ」 「はいはい。同じ元選手同士、せいぜい傷なめあってれば。おまえらも」  表情を固めている喜多嶋たちを一瞥して、国分はいった。 「こんなおっさんに簡単に取り込まれやがって、情けねえ。少しはプライド持てよな」  草だらけになった手を田所のジャージになすりつけて、国分は大股に練習場を出た。  少しもいかないうちに、背後に足音が聞こえた。奥か真由子か。振り向いたが、予想とはちがっていた。 「なんだよ」  声を尖らせる国分に、田所は手に持っていたボールを差し出した。 「サインなんかいらねえよ」 「ちがうちがう」  手のなかでボールを器用に回転させながら、田所は穏やかに微笑した。 「キャッチボールでもしないかと思ってさ」 「はあ?」 「練習見てて思ったんだけど、ずば抜けてるよ」 「ダンス?」 「それもそうだけど、身体能力がさ。もったいねえな。野球やらせりゃ、ものになったかもしれん」  頬に熱が昇り、国分は顔を逸らした。 「それで機嫌とってるつもりかよ」 「まあ、ちょっとそっち行けって」  国分の言葉を聞こうともせず、田所はさっさと距離をとる。予告もせずに、ボールを放ってくる。国分は反射的に胸の前で受け止めた。 「小さいとき、親父さんとやっただろ、キャッチボール」  田所が掌を閃かせて、返球を促す。どす黒い感情が下腹から湧き上がってきて、国分は指先が白くなるほど強くボールを握りしめた。渾身の力をこめて投げ返す。ボールは田所の足元で大きく跳ね上がった。 「おれに親はいねえ」  それだけを吐き棄てて、国分は踵を返した。一度も振り返ることなく、階段を駆け下りていった。  マンションの階段を降り、駅までの道をいつもどおりに歩こうとした足が止まった。  奥に気づいた我妻が、ガードレールにもたせかけて組んでいた長い脚を解く。 「久し振り」 「久し振り……」 「出かけんの」 「いや、べつに」 「じゃ、ちょっといい」  嫌とはいえなかった。練習場所の体育館では真由子たちが待っているはずだったが、そのことを我妻にいえるはずもない。迷いながらも、従うしかなかった。先を立って大股に歩いていく我妻の後を追いながら、奥はそっと携帯電話を弄った。 「電話?」 「うん、ちょっとな」  予定があるのかとは、二度と聞かなかった。近所のカフェに入ると、メニューも見ずに、我妻は身を乗り出した。 「元気だったか」 「まあ」 「連絡つかないから」  返答に困ったところに、店員が注文を取りにきた。コーヒーもアルコールも、ふたりとも口にしない。オレンジジュースを注文すると、また沈黙が流れた。 「キャンプは」 「いっただろ、別メニューだって」  追い出されたんじゃないのかとからかってやってもよかったが、それで空気が和むとは思えなかった。 「そっちはどうなんだよ」 「なにが」 「ダンス」  舌打ちをこらえる。うまくいってくれるはずの田所は、我妻になんと伝えたのだろうか。 「楽しくやってるよ」 「遊びなんじゃなかったのか」 「遊びだよ」 「なら、なんでそこまで進んでんだよ」 「そこまでって」 「開幕戦」  飲みものが運ばれてくる。店員が去るのを待って、我妻が言葉を繋ぐ。 「試合前のイベントに出るそうじゃん」  奥は絶句した。そんな話は一言も聞いていない。 「聞いてないわけないだろ。コロさんが球団に掛けあって、もう本決まりにちかいらしいじゃん」  いわれてみれば、思い当たることがないでもない。最近、真由子と田所が密かに話をしているところを見かけることも多かった。自分に了解ひとつ得ることもなく、そこまで話を進めてしまったふたりに対しての憤りを抑え、奥は目頭を揉んだ。 「もしそうなるとしても、おまえには関係ない」 「ふざけんなよ。おれの立場も考えろよ。おまえのそんな姿見せられて、集中してマウンドに立てると思うのかよ」 「投げんの?」 「まだ決まってないけど。おれが投げないとしても、気にはなるだろ」 「なんでだよ。気にしなきゃいいじゃん」 「そんなわけにいかない」 「恥ずかしいのか」  自分でも不可解なほど、厳しい口調になった。我妻が詰まる。 「そういうわけじゃないけど」 「嘘つけ。恥ずかしいんだろ。おれなんかとライバルだなんていわれてたのが」 「なにいってんだ、そんなこと……」 「悪いけど」  目の前のオレンジジュースに口もつけないまま、奥は立ち上がった。 「おれ、練習あるから」 「ダンスの練習か」 「今更野球の練習してどうなるんだよ」 「幸成」  思いがけず名前を呼ばれて、奥は面食らった。我妻も居心地悪そうに視線を逸らす。いいわけのようにいう。 「おまえの友達は、おまえのこと、おっくんって呼ぶだろ」 「だからなんだよ」 「同じように呼ぶのは嫌なんだよ」 「だからって、なんで」 「嫌か」 「嫌っていうか」  奥は眉を顰めて、他人を見るような目で我妻を見下ろした。 「おまえ、なんか、前とちがう」  かろうじてそれだけをいうと、奥は逃げるようにその場を去った。我妻は追ってこなかった。右手の様子を尋ねるのを忘れたと思ったが、引き返す気にはなれなかった。 「ごめんなさい。今日、いうつもりだったの」  真由子に悪びれた様子がないことに、奥は愕然とした。 「コロさんから話を聞いたのも、ついこの間だったし、練習の成果を発表するには、これ以上ない場だと思ったから」 「オッケーしたの」 「まだちゃんと返事したわけじゃないけど、でも」 「なんでそういうことするんだよ」  怒りで目が眩んだ。自制できなかった。奥は真由子につかみかからんばかりの勢いで詰め寄った。 「おれが完全に野球を忘れられたと思ってたの。元チームメイトが見てる前で、ダンスなんかできると思ってたの。応援なんかする気になれると思ってたの」 「もちろん、相談して決めるつもりだった」 「じゃあ、今すぐ断ってくれ」 「でも、せっかくコロさんが」 「どうしてもやるんなら、おれ抜きでやってくれよ」 「だめよ。最低でも8人いないと、フォーメーションが」 「なんとかなるだろ、そのぐらい」 「無理いわないで。野球だって、9人いなくちゃ試合はできないでしょ」 「野球といっしょにするな!」  拳で床を叩く。地面までもが揺れたような振動があって、真由子が硬直する。 「恥ずかしいんだ」  さっきまでの勢いは消え失せ、力のない声で真由子がいう。 「奥くん、チアやってるのが恥ずかしいんだ。どうしても、チアを健全にとらえられないんだ」 「健全でないのはどっちだよ」  奥は卑屈な笑いを浮かべた。 「開幕戦には、毎年各局の取材が押し寄せるよね」 「……だから?」 「そこで話題になれば、真由子さんも、前みたいに、女子アナとして第一線で活躍できるようになるんじゃない」  真由子の顔から血の気が引く。 「なんの話?」  ほぼ同時に、振り向いた。珍しく決められた時間よりも早くきていた国分が、ガムを噛みながら立っていた。  奥の様子がおかしいことには、すぐに気づいた。真由子とメンバーの間を取り持ってきたはずが、突然怒りを露にした。なにがあったのか知らないが、国分が間に入らなければ、取り返しのつかないことにもなりかねなかっただろう。  国分の差し出したミネラルウォーターのペットボトルを受け取って、奥は頭を抱えている。 「おっくん」  体育館の出入り口。うなだれる奥の隣に座って、国分は切り出した。 「ガッツ我妻と会ったでしょう」  奥が目を見開く。その表情があれば、返答は必要なかった。 「ガッツ我妻って、どんな奴」 「どんなって……すごい投手だよ」 「野球のことじゃなくて、人間的にさ」  奥は迷っているような顔つきになった。 「高校時代から知ってるんでしょ」  奥が我妻のことを実はよく知らないのだということには、すでに気づいていた。国分が我妻を悪しざまに罵れば、やんわりと宥めはするが、具体的に例を挙げて庇うことはなかった。 「高校のとき、あいつ、彼女とか、いた?」 「いや……いなかったと思う」 「もてそうなのにね」 「本当だよな」  ようやく笑いらしきものが顔に浮いたが、力はなかった。それどころではないらしい。かまわなかった。やっぱりなと口のなかで呟いて、国分は額を掻いた。 「おっくん」 「なに」 「おれ、おっくんのことが好きだよ」  神奈川県にあるホームスタジアムでは、ヴェルヴェッツの公開練習がおこなわれていた。揃いのレプリカのユニフォームにプラカードを持ったファンの群れが外野席にひしめきあい、グラウンドでボールを追いかける選手たちに声援を送っている。 「ガッツ我妻あ!」  声援が鳴り止む頃合いを見計らって、ひときわ甲高い声を張り上げた。キャッチボールに励んでいた我妻が振り向く。如才のない笑みがかき消えた。  出待ちをしていたファンの輪に混ざり、根気よく待った。幸い、無職の身に時間はそれほど貴重なものではないい。1時間ほどして、選手たちが出てきた。我妻のもとには数えきれないほどのファンが群がった。国分も決して野球に明るいわけではなかったが、奥の賛辞が大袈裟なものでないことは、すぐに納得できた。  国分の姿を目ざとく認めると、我妻はさりげなく顎をしゃくった。小さく頷いて、ファンの行列を離れた。  我妻の車は国分でさえ名前を知っている高級車だった。素直に讃えたが、我妻は嬉しそうな顔ひとつ見せなかった。国分を乗せ発進させると、すぐに口を開いた。 「奥から聞いた」 「よく会ってもらえたね」 「電話したんだ」 「しつこく?」  我妻は答えずに、ステアリングを握りしめた。 「ちゃんと謝った?」 「聞いたのか」  あっけないほど簡単に食いついてくる。我妻がいかに有能な選手であったとしても、しょせんは野球しかやったことのない世間知らずだ。年齢こそ国分のほうが下だが、人生経験では負けていない自信があった。内心ほくそ笑みながら、国分は曖昧に肩を竦めた。 「愚痴に付きあってあげただけだよ」 「おまえに迫られて困ってるっていってたぞ」 「嘘、嘘」  余裕綽々といった態度をとってみせると、我妻は目に見えて苛立った。 「本気なのか」 「おっくんのこと?」 「ほかにあるか」 「どうでしょうか」 「いっとくけどな」  信号が赤に変わるのと同時に、我妻は焦れたように身を乗り出した。 「おれはおまえなんかよりずっと前からあいつのことが好きなんだよ」  沈黙。信号が点滅する。決定的な言葉を、我妻はなんの躊躇もなく堂々といってのけた。燃えるような眼で国分をにらみつけた。 「あいつに手出したら殺す」  短いが、強烈な印象を与える宣言だった。国分は思わず口のなかに溜まった唾液を飲み込んだ。ふざけ半分に絡もうとしたことを後悔した。高級な革製のシートの感触が突然心地の悪いものに感じられた。  信号の色が変わると、我妻はなにごともなかったかのように正面を向いて車を発進させた。国分は無言で腕を組んだ。無意識に貧乏揺すりをしていた。  我妻がなぜエースと呼ばれているのかわかった。窓の外に視線を向けながら、運転席の男を舐めてしまっていたことを後悔した。奥もとんでもないのに好かれたものだ。同情する。  シューズの爪先で小刻みに車の床を叩きながら、奥はさりげなくため息をついた。早く車が停まってくれることを祈った。  電話が鳴ると憂鬱になる。我妻からなら、チアを辞めろといわれるし、真由子からなら、辞めないでくれといわれる。どちらにせよ、楽しい話を聞けるような期待は抱けない。しかし、ディスプレイに浮かんだ名前は、そのどちらでもなかった。 「大滝ですが」 「奥です。お久し振りです」 「おう、元気か」  打撃コーチとして2年間面倒を見てくれた大滝の野太い声が妙に懐かしく感じられて、奥の胸は熱くなった。 「今、なにやってるんだ」 「家にいました」 「そうじゃなくてだな」  相変わらずだと軽口を叩いて、大滝はいきなり本題に入った。 「どこかのチームに入ったのか」 「いえ、まだ……」 「そうか。実はな、こんど、栄ロークスのテストがあるんだけどな」  心臓が大きく跳ね上がる。大滝は以前とまるで変わらない力強い声でつづけた。 「受けてみないか。話だけは、いちおう、してみたんだが」  携帯電話を握る手に、じっとりと汗が浮かんだ。  真由子の話が終わるのを待たずに、喚声が沸き起こった。 「マジかよ。プロ野球の開幕戦?」 「なに、それってすげえの?」 「すげえだろ、そりゃ」 「ヴェルヴェッツとロークスだったら、テレビでもやるんじゃね」 「マジか。テレビ映っちゃうか!」 「やべえ、髪染めなおさなきゃ!」 「おれタトゥやべえかな? 湿布貼っといたほうがいい?」  呑気にダンスをつづけていた喜多嶋たちが、一斉に色めきたつ。同じ踊るのでも、狭い体育館で練習するのと、大勢に見られるというのとでは、意識がまるでちがう。目標があるのとないのとでも同じだ。  隅で腕を組んでいる田所も、保護者のような目で彼らを見つめていた。しかし、真由子のほうはポーカーフェイスを保ってはいられなかった。 「ちょっと、最後まで聞いてよ」 「なに、なに」 「女子アナもくるでしょ。奈々ちゃんもくる?」 「そうじゃないの」  弱々しい苦笑いを浮かべて、真由子は若者たちを抑えた。 「実は、もうひとつ、重要な話があるの」  中央で黙りこくっていた奥の背を、冷たい汗がつたった。 「奥くんは、その試合に出られない」  高揚が泡となり、練習場が静まり返る。 「出られないって」 「試合には出るけど、みんなと踊ることはできないの」 「意味わかんねえ。どういうことだよ」  喜多嶋の問いに答えられずにいる奥の代わりに、田所が口を開いた。 「奥は来季からロークスに入団するんだ」  沈黙がざわめきに変わる。 「マジかよ」 「7人じゃ、フォーメーションも組めねえじゃん」 「それは……なんとかなるよ」  真由子の助け舟も、喜多嶋たちの耳には入らなかった。 「おれら、当然、ヴェルヴェッツの応援すんだろ。おっくんは敵ってことかよ」 「なんだよ、それ」  喜多嶋が奥のシャツの襟をつかむ。抵抗しがたい力がこもっている。半年前、国分に付きあうようにして、なんの思想も目標もなくチアをはじめたニートのものとは思えない勢いだった。 「それってさあ、俗にいう裏切りってやつじゃねえ」 「そうだろ。チアが話題になったから、他のチームから声がかかったんじゃねえの」  真由子に向けていった罵声は、そのまま奥の身に戻ってきた。  奥は短期間で体をつくり、ダンスの練習の合間を縫ってトレーニングに励んで、入団テストに臨んだ。その結果、ロークスへの入団資格を勝ち取った。しかし、そのことが喜多嶋たちにとって意味のあることとは思えなかった。裏切りとみなされてもしかたがない行為であることは、奥がもっともよくわかっていた。 「ふざけんなよ。おれらのこと利用したのかよ!」  メンバーのひとりが口ばしった言葉が、あっという間に伝染して、たちまち広がった。 「やっぱな。そういうことか」 「おかしいと思ったぜ。プロ野球選手がおれらと遊んでプラスになることなんかなんもねえもんな」 「きったねえの、おとなって」  悪しざまに罵られ、奥は唇を噛んだ。なんの取り得も生きる目標もないニート風情になにをいわれても、なにも感じないはずだった。しかし、心が今にも粉砕されかねないほど軋んでいる。 「いい加減にしろ、おまえら」  喜多嶋の腕をつかんで、国分が鋭い声を上げた。 「おっくんは自分の力でテストに受かったんだよ。なにが話題だ。調子に乗ってんじゃねえ。まだ試合にもテレビにも出てないおれらのこと、プロ野球のえらいひとが知ってるわけねえだろうが」  だれもが口を噤む。国分は喜多嶋の手を振り捨てて、奥の背を押した。 「だいたい、最初っから、おっくんとおれらとでは、住む世界がちがうんだよ。そんぐらい、わかっとけよな」  国分の言葉は、奥の胸に深く突き刺さった。国分の手を遮って、奥は全員に向きなおった。 「心配すんなよ」  真由子と田所のほうを見て、奥ははっきりといった。 「おれはロークスにはいかない」  だれもが唖然とした。かまうことなく、奥は微笑んだ。 「もともと、おれは学生のときからヴェルヴェッツひとすじだったんだ。ロークスのテストを受けたのは、自分の自信を取り戻すためだった。そんだけだよ」  国分がなにかいいかけるのを制して、奥はもう一度宣言した。 「おれはおまえらと踊るよ」 「そんなのだめよ、奥くん!」 「いいんだって、真由子さん」  視線が絡む。奥は深く頷いてみせた。 「もう決めたんだ。おれは踊る」  田所が目を瞑るのが視界に入ったが、見えていないふりをした。国分の喚く声も耳から締め出してしまうと、なにも感じなくなった。  壁に衝突し、跳ね返ってきたボールを受け止める。握りを確認して、もう一度投げる。今度はさっきとはちがい、回転しながら戻ってくる。 「上手じゃない」  振り返ると、ジャージからパンツスーツに着替えた真由子が立っていた。 「フォークなんてどこで習ったの」 「いいじゃん、どこでも」 「わたしにも教えてよ」  真由子が近づいてくる。国分は不承不承ボールを差し出して、握りかたを示してやった。  教わったとおりに真由子も投げるが、ボールはまったく回転せずに床をバウンドした。 「やっぱだめだ。才能ないわ、わたし」  背後で様子をうかがっていた国分を振り返って、真由子は肩を竦めた。 「ブーちゃんって、奥くんのことが好きなの?」 「そうだよ」 「嘘」  壁の対角にまで転がっていったボールを拾い上げ、背中を向けたまま、真由子はいった。 「本当は、奥くんじゃなくて、コロさんのことが好きなんでしょう」  国分は答えなかった。真由子は微笑を浮かべた。練習を指導するときの鬼のような表情は、どこにも見られなかった。 「すぐわかるよ。わたしもけっこうファザコン入ってるもん」  ボールに記された田所のサインを見つめ、国分に向かって投げ返してくる。 「奥くんにまた野球をさせたくて、それで、プレッシャーかけたんだ」  受け取ったボールを、国分はもう一度真由子に投げた。勢いがつきすぎて、真由子の手には留められなかった。文句をいいながら、真由子は大儀そうに腰を折った。年齢を種にからかうと、心外といった顔つきで、力いっぱい腕を撓らせた。ボールの軌道が大きく逸れたが、国分はしなやかに体を移動させて、難なくキャッチする。 「いいとこあるじゃん」 「よけいなお世話だったかも」 「そんなことないよ」  明るい声でいって、真由子は懲りもせず、ボールを求めて手を振ってみせる。 「わたしなの」  ボールのやりとりをしながら、真由子が唐突にいう。 「利用しようとしたのは、奥くんじゃなくて、わたしなの」  国分は黙っていた。 「奥くんにいわれて、考えてみた。今の仕事には満足できてないし、もし、こんどの開幕戦のイベントが話題になったら、また第一線にカムバックできるんじゃないかって、どこかで期待してたんだよ」  国分が投げたボールは、空中で揺れて、急降下した。バウンドしたボールを慌てて胸の前で受け止めながら、真由子はおどけて顔をしかめた。 「変化球はやめてってば」 「どうしてわかるの」 「思いっきり落ちたじゃない」 「さっき、フォークっていったけど、素人の女のひとは、パッと見て、球種までは、ふつう、わかんないよね」 「……」 「おれ、知ってるよ。真由子さんがいつもいちばん早くきて、みんながくるまで、本読んだりネットで調べたりして、一生懸命野球の勉強してんの」  国分は細い腕を捻り、不器用な年上の女に向かって、白球を放った。  電話番号とLINEを交換したのは、プロに入ってすぐの頃だったが、奥のほうから電話をかけたのははじめてだった。  30分もしないうちに、インタホンが鳴った。我妻は緊張の面持ちで、部屋に上がった。ヴェルヴェッツから戦力外を受けてすぐに都心のタワーマンションの一室を引き払って郊外の1LDKに引っ越していた。 「部屋、汚くしてて悪いけど」 「いや……感激だ」 「はあ?」  言葉どおり、感極まっている様子の我妻を見て、奥は眉を顰めた。 「ま、いいや。とりあえず、こっちこい」 「えっ」  バスルームに導くと、我妻は異様なほどうろたえた。 「な、なにするの」 「断髪式」 「髪切るのか」 「だれが髪切るつった」 「だって、断髪式って」 「ああ、断髪つったら、髪か。じゃあ、断毛式」 「だんもうしき?」  いよいよわけがわからないといった顔つきの我妻を無理矢理バスルームに引っ張り込む。 「はい、これ」  コンビニエンスストアで買ってきたT字剃刀を押しつける。 「なに」 「剃るんだよ」 「剃るって」  困惑している我妻に背中を向けて、奥は手早くジーンズを脱いだ。 「お、奥っ!」 「おまえもさっさとこい」  Tシャツとトランクスだけの姿になって、奥は我妻を手招いた。洗面器に湯を張って、ボディソープを含ませたスポンジを泡立てる。  タイルの上に立ちすくんでその光景を眺めていた我妻が我に返る。 「だめだ、奥、おれは」 「なにがだめだ。そのためにおまえを呼んだんだぞ」 「でも……おれは、おまえとは、そういうのは嫌なんだ。ちゃんと順序を踏まえてから……」 「こんなんに順序もくそもあるか。いいから、こい」 「嫌だって!」 「手、切るぞ。いいのか」  我妻の動きが止まる。趣味がいいとはいえない冗談に気づいた奥も口を噤んだ。 「……なんなんだよ、いきなり」 「前日とかにするより、少しずつやったほうがいいって、真由子さんがいうから」 「そうじゃなくて」  苛立たしげにこめかみを揉んで、我妻がため息をつく。 「おまえ、ロークスに入るんじゃなかったのか」 「まだ契約はしてない」 「でも、するんだろ」 「いや……」  真由子たちに宣言したように、うまくはいかなかった。軽く唇を舐めてから、いった。 「契約はしない」 「奥」 「国分たちとはずっといっしょにやってきて、今更裏切れないし、おれも、いつまでもプロにしがみついて、何年も控え選手でいるより、いっそのことすぱっと引退して、第二の人生っつうか、そういうのを考えたほうがいいんじゃないかって」  しゃべりすぎている。自分でも気づいていたが、止めるわけにいかなかった。我妻に口を開かせるわけにいかなかった。せっかく固めた気持ちを乱されたくない。 「衣装決めて、せっかくだから、無駄毛処理までしちゃおうって話になったんだよ。喜多なんか、その場でガムテープでばりばりやりだしてさ。気合入ってるよな。みんながやってんのに、おれだけやらないわけにもいかないだろ。でも、いざとなると緊張しちゃって」 「それで呼んだの、おれのこと」  唐突に、我妻がいう。思わず詰まるほど、沈鬱な声だった。 「おまえがチアダンスなんかやってんのは、おれのせいだと思ってた。おれの怪我のことで、罪悪感っていうか、自分を追い込もうとしているんじゃないかって。それかおれへの嫌がらせか……」  それで毎日しつこくつきまとったのか。ストーカー扱いしていたのは悪かったかもしれない。しかし、罪悪感というのも心外だが、嫌がらせのほうは意味不明だ。なぜダンスをすることが我妻への嫌がらせになるというのか。論理破綻もいいところだ。 「自意識過剰だったな。おまえ、昔から、おれのことになんか、全然興味なかった」 「大袈裟なこというなよ」 「でも、本当だろ」 「そんなことねえよ」  我妻につられるように、奥の言葉も沈んだ。 「おまえのことは、いいライバルだって思ってたし、もう一回、おまえの球、打ちたかった」  そういっている間にも、忘れかけていた感覚が背すじをはしり抜ける。我妻と対峙した甲子園の夏の日差しが、瞼の裏に甦った。 「おれは、ライバルだとは思ってないよ」 「そりゃそうだよな」  自嘲気味な言葉で、無理矢理会話を切り上げる。奥は我妻に背を向け、洗面器のなかの冷めた湯を入れ替えた。 「どうしてもやるのか」 「しつこいぞ」 「おれが反対しても無理か」  質問ではなかった。諦めよりも深い、徒労の色があった。 「どうしておれにさせるんだ」  最後の抵抗のつもりか、我妻は苦痛の表情で手のなかの剃刀と奥を見比べる。暗い視線を、奥はやりすごした。 「べつに、嫌だったらいいよ。他の奴に頼むから。真由子さんか、それか国分……」 「それは駄目。それなら、おれがやる」  我妻が身を乗り出す。奥は怪訝な顔をつくり、湯を揺らせて洗面器を床に置いた。バスタブの縁に浅く腰を引っ掛けたが落ち着かず、縁を跨ぐようにして、壁に背中を圧しつける。体を安定させたところで、どうなるものでもなかったが。  我妻は不承不承ジャージの裾を捲った。試合に出られず、右手を酷使するわけにもいかないぶん、下半身のトレーニングを強化したのだろう。筋肉が膨張し、脹脛の幅がひとまわり大きくなっている。  つい目を奪われ、慌てて顔を上げる。我妻は奥以上に熱心に奥の脚を観察していた。むず痒さをおぼえるほどの、強い視線だった。 「ちょっと濃いだろ」  居心地の悪さに耐えかね、冗談めかしていう。我妻は一拍置いて、顔を上げた。 「九州男児だからな」 「ああ……」  ようやく奥の話が耳に入ったらしく、何度も頷いた。 「でも、毛が濃いのは、愛情が濃い証拠だっていうじゃん」 「聞いたことないけど」  実のない会話でも、多少は気分を軽くしてくれる。奥が微笑むのを見て、我妻は露骨に咳込んだ。 「じゃ……いいか」 「うん、頼む」  素っ気ない確認の後、我妻は剃刀を洗面器の湯にくぐらせた。奥の膝頭から足首にかけて、ボディソープの泡を丹念に塗りこむ。  脚を持ち上げられ、踵を我妻の膝に預けるような体勢を取らされる。 「濡れる」 「いいよ」  そういった我妻の口調は、落ち着いたものだった。覚悟を決めてしまうと、さすがに冷静である。奥も今ではすっかり我妻に任せるつもりになっていた。  体毛の処理など、もちろん生まれてはじめてだった。一度刃を滑らせるごとに、剃刀を湯にさらして、刃に絡んだ毛を排除しなければならなかった。それでも、我妻は面倒がる様子も見せず、職人のように慎重な手つきで、作業に集中している。毛流れに沿って剃刀をつかってから、あらためてボディソープをなすりつけたうえで、反対の向きに剃る。体毛を失い、剥き出しになった脚は日に焼け、練習でできた擦り傷が目立っていたが、若々しく、しなやかに光っていた。 「女の子みたいだな」  他人のもののような自分の脚を見下ろしながら、奥は笑った。我妻も肩を竦めるが、手は休めない。 「どの辺まで?」 「太腿ぐらい」 「ミニスカだ」 「そう。セクシーだろ」  冗談のつもりでいったが、我妻は笑わなかった。いたって真剣な表情で頷く。 「めちゃくちゃ見たいけど、他の奴にも見せんのは嫌だな」 「おまえなあ」  奥は呆れて苦笑いした。 「そういうこというから、誤解されるんだぞ」 「ガキになんていわれようが、べつにいい」  奥は我妻の手元を眺めながら、数日前のやりとりに思いを馳せた。国分が我妻をゲイ呼ばわりしたことは、冗談として口にした。あくまでも世間話のつもりで、告白ごっこの話をすると、我妻の顔色は変わった。 「ただの冗談だぞ」 「わかってるよ」 「ちゃんと、否定しといたし」 「おれのこと、信用してくれてんだ」 「ていうか、ホモってのは、デザイナーとかモデルとか、そういう職業の奴がなるもんだろ。野球選手にホモはいない」  断言すると、我妻は目を見開き、すぐに細めた。ため息とともに呟く。 「本気でいってんだからな」 「あたりまえだよ。おまえだってそう思うだろ」 「……まあ、どっちにしろ、これじゃなんもできないよな」  微妙に噛みあっていない会話。あらためて尋ねるのも面倒で、奥は話を変えた。 「ガキだと思うんなら、国分につっかかるなよ」 「向こうがつっかかってくるんだよ」 「相手にしなきゃいいだろ。おとなげないぞ」 「おまえはおれとあのガキのどっちの味方なんだよ」 「はあ?」  不貞腐れた表情の我妻を見下ろして、奥は苦笑いした。解説者が目を丸くするほどの速球を放る我妻は、反面、マウンドを降りると、驚くほど子供じみた顔を見せることがある。以前までは気にならなかった。彼自身気づかないうちに、奥もおとなになっているらしい。根無し草のようだったこの半年のせいだとしたら、なんとも皮肉だ。 「右手、どう?」  剃刀を操る指の動きにぎこちなさは見られなかったが、念のため、尋ねた。 「完治したのか?」 「ああ」  我妻の表情もかすかに和らぐ。 「悪かったな」 「もういい」 「でも、まだちゃんと謝ってなかった」 「いいって」 「わざとじゃなかった」  我妻に向けられたものというより、自分自身に確認をとるための言葉だった。我妻が顔を上げる。 「信じるか?」  数秒の間視線が絡んで、我妻が細かく頷く。 「信じるよ」  我妻にとっても、つらい半年になったはずだが、奥を怨むような様子は微塵も見せなかった。  素直に謝ることができるまでに、長い時間がかかってしまった。重い呪縛からようやく解き放たれ、奥は深く息をついた。 「変な声出すなよ」 「変な声なんか出してない」  沈黙。我妻は剃刀を持ったまま、奥の脚を見つめていた。 「なんだよ」  答える代わりに、奥の踵の下に掌を滑り込ませる。王に傅く従者のように恭しい仕草でていねいに持ち上げると、自分の膝の上に乗せた。 「やめろって、馬鹿。足の裏くすぐったい……」  無毛の脹脛に指を這わせ、膝頭を掌で包み込む。あきらかに不必要な動きだった。怪我を防ぐため鑢のかけられた爪の先が膝の裏を擦ると、奥は思わず目を瞑った。喉が詰まり、鼻から息が抜ける。  我妻も深く呼吸する。熱い息が膝の表面を掠め、奥は我に返って目を開けた。 「なにしてんだよ、この馬鹿!」  慌てて脚を下ろそうとしたが、我妻に膝を抱え込まれた。 「馬鹿馬鹿いうなよ」  我妻が剃刀をバスルームの床に叩きつけた。面食らっている奥の腰にしがみつく。 「おい……」  一瞬、殺されるのではないかと思った。そんな馬鹿げた妄想が通り過ぎるほど、突然で、強烈で、切実な動作だった。あまりに唐突で、抵抗すら頭に浮かばなかった。身動きできずにいる奥の下腹部に額を擦らせて、我妻はいった。 「開幕戦」  圧しころした声で呟く。 「マウンドに上がれると思う」  声は震えていた。少しも嬉しそうではなかった。おめでとうといいかけた口を閉じて、奥は我妻の湿った頭頂部を見下ろした。 「だけど、恐い。自信がない」 「またまたあ……」  軽い口調でいったが、我妻は笑わなかった。表情を強張らせ、奥の皮膚に指先を食い込ませた。痛みを感じるほどだ。 「我妻……」  奥も笑顔を消し、行き場のない手を空中で彷徨わせた。常にエースとして大きな期待を背負ってマウンドに立ってきた我妻だ。半年ものブランクは簡単に割り切れるものではないはずだった。緊張しているのは間違いないはずだが、それでもあきらかに様子がおかしかった。 「怖いんだよ、奥……」  渾身の力で奥の体にしがみつき、我妻は絞り出すような声を出した。 「打ち込まれて野次を受ける夢ばかり見る。グラブに手を入れただけで汗が出る。練習場に入ったとたん、気分が悪くなる。こんなのはじめてなんだ。こんなんじゃ、打たれるに決まってる。開幕投手なんて絶対無理だ。絶対ボコボコにされる」  振動する語尾には、奥の謝罪をはるかに凌ぐ、真剣さと正直さがあった。笑うことはおろか、慰めることもできずに、奥は圧し黙った。励ますべきか、突き放すべきなのか。迷いながらもおずおずと我妻の髪に触れると、我妻は思いがけない力で体をぶつけてきた。  我妻の額が擦れる下腹が痛み、バスルームの湿気を含んだジャージの感触も不快だったが、振り払うことはできなかった。常に注目され、結果を残し、自信に溢れて、挫折などとは無縁のようだった我妻が初めて見せる脆く弱い姿。目が離せなかった。  我妻の気持ちはくるしいほどに理解できた。奥もおなじように感じることがあった。それも頻繁に。まったく打てず、唇を噛んでベンチにもどる。同僚たちの冷ややかな視線。客からの心ない罵声。明日にも肩を叩かれるかもしれないという恐怖。順風満帆に見えた我妻も同じ恐怖を味わっているのかもしれないとは考えたことがなかった。  奥の腰を抱きながら、我妻は子供が眠るようにじっと動きを止めている。短く刈った我妻の髪に指を滑らせながら、奥の全身の力も抜けた。  我妻のいったことは、ほぼ事実だった。奥が純粋な気持ちでチアをやっているわけでないということは、真由子をはじめだれもが知っていることだ。  奥の名前を一言も出さず、恨みごとのひとついうこともなく、怪我の責任をひとり背負い込んだ我妻の偽善を、奥は蔑視していた。国分たちと踊りながら、自分を罰し、また我妻に重圧を与えていた。  我妻に剃刀を持たせたのも、子供じみた嫌がらせにすぎない。我妻にいらぬ重責を負わせることでなにかが変わるとは思えないが、少しでも気が楽になるのではないかといういかにも自分勝手な打算が働いた。  自分だけがつらいのだと思い込んでいた。理不尽な目に遭い、絶望の淵でくるしんでいるのは自分だけだと。我妻も奥と同じように不安に圧しつぶされそうになりながら必死で闘っていた。重圧や孤独は、むしろ奥以上かもしれない。  奥の捩れた胸の裡を知っているのかいないのか、我妻は完全に脱力して、奥の腰に全体重をかけている。他のだれかにも、こんなふうに弱い部分を曝け出し、身を預けるのだろうか。それとも……  奥にはわからなかった。これで我妻は本当に満足なのだろうか。形容しがたい無力感に包まれ、冷たい壁に頭をもたせかけた。  おれだって恐いのだと、実際、口にしたかどうかはわからない。  駅を出たとたん、冷たい風に煽られた。トレンチコートをかき合わせるようにして、奥は足を早めた。また遅刻だ。目を吊り上げて怒る真由子の表情が目に浮かんだが、憂鬱な気持ちさえ湧かなかった。  けっきょく、我妻は1時間ちかくもバスルームにぐずぐずと居座り、夜まで帰らなかった。ひとりになってからもなかなか寝つけず、体が重い。  なんとか準備を整えて出てはきたものの、これまでのような高揚は生まれなかった。貴重な時間を割いてまで、こんなことをしている意味が、果たしてあるのだろうか。  我妻の腕の強い感触が、まだ腰の周辺に残っている。馬鹿げた踊りなど、はじめから求められていないことはわかっていた。半年の長い時間をかけて練習したチアリーディングは、薄い密着が与える気休めにすら劣る。自己憐憫が、急がせなければならないはずの足を重くした。  いつもどおりに練習場のドアを押す。ふだんならわずかな隙間から漏れ出てくる音楽が聞こえてこない。広い練習場の隅、真由子がひとりで本を読んでいた。奥に気づき、大ぶりのバッグのなかに本をしまいこむ。 「おはよう」 「おはよ……みんなは?」 「こないよ。わたしだけ」  スポーツバッグを肩から下ろしかけていた奥の手が止まる。 「どういうこと?」 「わかるでしょ」  夕陽を背にした真由子の表情は見えにくかったが、声はいたって冷静だった。 「みんなの意見だけど、最終的にはわたしが決めたよ」 「なんのこと……」 「あなたをクビにする」  奥の言葉を遮って、真由子ははっきりといった。 「あなたはいらないの……うちにもね」  奥はその場に立ち竦んだ。 「ごめんなさい」  真由子は謝ったが、苦しげな様子は、決断を変えるつもりがないということをかえって如実にあらわしていた。  奥はなんとか笑おうとした。予測できていないはずはなかったのだ。かろうじて、口を開いた。 「でも、おれがいないと、フォーメーションが」 「だいじょうぶ。もう代わりのメンバーを見つけてあるから」  随分と手回しがいい。ようやく、苦笑いを浮かべる余裕ができた。 「今から振りをおぼえるんじゃ、間に合わないよ」 「平気だよ。心配しないで」  真由子の言葉は、すでに奥が部外者であることを指し示していた。奥は顔に左手を持っていき、目頭を揉んでいるふりをした。  チアをはじめて、だれもが変わった。真由子の過剰なまでのストイックさは影を潜め、国分や喜多嶋といった無気力な若者たちも、それぞれに張りのある顔つきをするようになった。奥だけが、泥沼から抜け出せずにいる。ただひとり、すべてにおいて中途半端であるという自覚があった。チームのためを思うなら、身を引くべきだろう。しかし…… 「踊りたかったよ、最後まで、おれは」  奥の小さな独白に、真由子が唇を噛む。 「奥くんには、野球があるでしょ」  真由子は軽い調子でいった。ふだん以上に明るくふるまってはいるが、真由子も恐いのだ。奥のサポートなしに不良たちを纏め上げるだけの自信はないだろう。本心は、奥にいなくなってほしくはないはずだが、奥のために、無理をしている。おそらく、国分たちも同じのはずだった。全員で説得しようとせず、真由子ひとりに任せたのは、多少なりとも年長ものであり、自尊心の高い奥に対する、彼らなりの気遣いだったのかもしれない。感謝すると同時に、奥は自分がとことん小さな男であることを実感して、たまらなくなった。 「おれになにかできることはある?」  奥の質問に、真由子は眉間の皺を解いた。 「いったでしょ。野球だよ」 「いうと思った」 「奥くんがロークスに入らないってんなら、わたしたちも、こんどの話は断るからね」 「それって、脅迫?」 「そう」  ふたりはにらみあい、同時に笑った。  真新しいユニフォームに袖を通す。剃り落としてから時間がたち、伸びはじめた臑の毛がストッキングに抵抗して、奥は苦笑いした。  開幕戦は一軍スタートとなった。自由契約からテストを経て入団した若手としては、異例の待遇だった。今季からロークスの監督に就任した諸井は、甲子園での奥のプレイをいまだに記憶していたらしい。情熱的なタイプの指導者で、ヴェルヴェッツの選手育成の手法について批判的だった。  とはいえ、当然スターターに名を連ねることはなく、とうぶんはベンチをあたためるだけだろう。展開によって代走、もしくは代打でつかわれることがあるかもしれないが、それは同時にテストにもなる。少ないチャンスをものにすることができなければ、ここでもまた、二軍でくすぶるはめになる。萎縮しかける気持ちを奮い立たせるように、奥はことさら大きく体を伸ばした。  チアをやめてからは、半年間のブランクを埋めようと必死になって体をつくってきた。打撃コーチの評価も悪くない。自信はあった。  ホームのヴェルヴェッツの練習が終わり、ロークスのメンバーがグラウンドに出る。ブルペンから出てきた我妻と、視線がぶつかった。 「よう」 「おう」  グラブを脇に抱え、我妻は拳を口元にあてて咳払いした。 「調子、どうだ」 「いいよ。そっちは」 「まあまあかな」  バスルームでの夜以来、我妻には会っていなかった。すぐに沈黙に支配される。 「じゃ、おれ、練習あるから」 「奥」  走り出しかけた奥を、我妻が呼び止めた。 「今日の試合でもし完投……いや、完封したら、おまえにいいたいことがある」  真剣な表情だった。奥は首を窄めた。 「すごい自信だな。白星くらいにハードル下げとけば」 「奥、おれ……」 「嫌だ」  拍子抜けした様子の我妻に、奥はいった。 「おれが打席に立って、おまえの球打ったら、聞いてやる」  早口にまくしたてると、我妻の返事も聞かずに、奥は人工芝のなかへと飛び込んでいった。  球団広報と打ち合わせをしていると、背中に視線を感じた。白いテープで仕切られたマスコミ用のスペースの向こうで、杉内奈々が手を振っていた。 「お久し振りです、狭山さん」  打ち合わせが終わるなり、声をかけてくる。無視するわけにもいかず、真由子は奈々に歩み寄った。 「元気そうじゃない」 「おかげさまで」 「スポーツ担当になったの?」 「そうなんですよ。例の記事も、もう時効ですし、ガセだってちゃんと訂正も入りましたしね」  ほっとしているように見せているわりに、残念そうな顔だった。聞きもしないことまでべらべらとしゃべって、真由子のほうにも匙を向けてくる。 「狭山さんも、スポーツやってるんですか?」  今日の催しの内容を聞いていないはずはないのに、目を丸くして小首を傾げる。いかにもあざといしぐさだ。真由子は苦笑いして首を振った。 「そうじゃないの。実はチアを……」 「えーっ、狭山さん、チアガールになっちゃったんですか?」  同情じみた口ぶりだった。うんざりしかけたところに、折りよく広報に呼び戻される。 「ごめんなさい。仕事だから」 「わたしもですよ」  男性視聴者が可憐だと鼻の下を伸ばす華やかな微笑を浮かべて、奈々はいってらっしゃいと手を振った。  時間が押していてよかったと真由子は思った。あまり長い間話をしていると、そのうち、どうせあなたほど上等な仕事じゃないというような種類の言葉を口にしてしまったかもしれない。  広報のあとについてロビーに出ると、ヴェルヴェッツのロゴが刺繍されたそろいのコスチュームを着たチアガールたちが待っていた。 「こちら、コーチの狭山さんです」  広報の男性の紹介に、チアガールたちはそれぞれ会釈した。真由子も慇懃に腰を折り曲げる。8人しかいないチームのサポートとして、彼女たちにもいっしょに踊ってもらうことになっていた。 「簡単に立ち位置などの確認をお願いします」  そういって広報が忙しげに去ってしまうと、真由子はさっそくバッグからグラウンドの見取り図を取り出して、チアガールたちに示してみせた。細かい振り付けやフォーメーションの打ち合わせは予め済ませてあるので、簡潔に説明するにとどめる。 「突然我々のようなものが割り込んできて、ご不快に思われるかもしれませんが、皆様の邪魔はいたしませんので、どうぞよろしくお願いします」  もう一度深々と頭を下げると、チアガールたちは互いに顔を見合わせた。 「なにかご質問でも」 「あ、ちがうんです」  髪をポニーテールにしたチアガールが胸の前に掌を掲げる。 「そんなにていねいに挨拶されるなんて思ってなかったから、びっくりしちゃって」 「わたしたち、あんまりきちんとした扱いされることってないから」 「とくに女子アナにはね」  女子高生のように声を顰めていうのを聞き、真由子は苦笑いした。  真由子もアナウンサーであることを思い出したのだろう。他の女の子が慌てて口を挟む。 「でも、女子アナの方がどうとかいってるわけじゃないですよ」 「いいんです。ぶっちゃけ、玉の輿狙いのアイドル気取りもいますしね」  真由子が悪戯っぽく囁くと、チアガールたちはどっと笑った。若い女の子らしい、明るい笑いは、不良たちに囲まれていた真由子を清々しい気持ちにさせた。  女子アナとチアガール。どちらも少女たちの憧れであることにちがいはないが、女として、職業としての差は歴然である。アナウンサーとはちがい、パンチラや、野球観戦のおまけのような扱いを受けることもあるだろうが、チアガールたちはそれぞれ強固なプロ意識を持っていた。 「それに、男の子だったら、ファンを獲られちゃう心配もないしね」  いちばん若そうな女の子が悪びれる様子もなくいったので、真由子は笑い出してしまった。 「おい、あれ、ミュラーだぜ。今年入った助っ人。やっぱでっけえな」  脇を通り過ぎる外国人選手を横目に見ながら、国分は興奮を抑えきれなかった。腕をつかまれた喜多嶋が、迷惑そうに顔をしかめる。 「馬鹿。こっちは緊張してそれどころじゃねえよ」  今日のために真由子が手配してしつらえたショッキングピンクの衣装に、派手なメイクも施した喜多嶋が、神経質そうに腕を組んでいる姿は、喜劇役者にしか見えなかった。国分のほうも、体にぴったりと吸着するコスチュームに、腕や脚、大きく開いた腹にいたるまでの体毛のいっさいを処理して、どこからどう見ても立派なニューハーフだった。 「おまえ、よく平気だな」 「べつに。いつもどおりやるだけだろ」  涼しい顔をしてみせたが、国分も決して緊張していないわけではない。大舞台の経験はないにしろ、ことダンスに関しては、固くなる理由がなかった。もし、野球選手として試合を待っている身であれば、喜多嶋と同じように、真っ青になっていただろう。  そこまで考えると、反対側のベンチにいるはずの奥のことが気になった。奥もやはり緊張してはいるだろうが、彼なら、きっと乗り越えられるはずだ。  子供の頃、父親といっしょに球場に行ったことがある。途中で退学した高校の晴れ舞台はテレビで見た。かたちは違っていても、そのチームの中心選手といっしょに、このグラウンドに立つことがあるとは、どちらのときにも想像していなかった。  選手や球団スタッフ、マスコミが行き来する廊下を眺める。正体不明の昂ぶりが全身を駆け巡っていた。 「みんな、準備はいい?」  グラウンドの見取り図や資料を抱えた真由子が大股に近づいてくる。国分はスカートの裾を翻して振り向いた。  開幕戦初日の球場は、試合開始前とはいえ、すでに満席にちかかった。快晴の空に両球団の旗がなびき、ボードにロゴが映し出された。  球場アナウンスの声が、試合開始前のイベントをコールして、まずはおなじみの公式チームであるVシスターズがグラウンドに飛び出していく。男性客たちが指笛を吹き、早くも球場が湧いた。  選手入場までにはまだ時間があり、ほとんどの選手はロッカーに引っ込んでいたが、奥はベンチの隅からグラウンドを見つめていた。 「本日はVシスターズだけでなく、スペシャルゲストダンサーが駆けつけてくれました!」  大袈裟なアナウンスが、ゲストの呼び込みをはじめる。 「それでは、呼んでみましょう。Vブラザーズです!」  大きく手を振って姿をあらわした一軍に、球場が唖然とした空気に包まれる。 「なんだ、ありゃ」  女装の男たちがグラウンドの中央に陣取るのを見て、内野席から嘲笑の混じった声が上がった。 「すごいのが出てきたな」  ロークスの選手も無遠慮に笑い、奥は気が気でなかった。 「おい、見ろよ」  選手たちの横で、ヴェテランのコーチが目を凝らす。 「あの真ん中にいる奴」  奥も掌でひさしをつくって身を乗り出したが、逆光でよく見えなかった。  グラウンドの両脇に広がったVシスターズの真ん中で、ビニール製のポンポンを持った国分たちがフォーメーションを組む。喜多嶋を中心に、7人がそれぞれ中腰になって、ポンポンで「V」の文字をかたどっている。練習では、奥がその影から大きく飛び上がるのを合図に曲がはじまるのだった。奥は息を呑んでその瞬間を待った。 「レッツ・ゴー、ヴェルヴェッツ!」  球場アナウンスの掛け声とともに、喜多嶋が頭を下げた。  大きく脚を広げてジャンプした姿が球場スクリーンに映し出され、奥は思わず目を見開いた。同時に、内野、外野の観客が立ち上がる。 「田所だ!」 「なにやってんだ、あいつ!」  化粧をし、ミニスカートを履いた田所がポンポンを振り回しているのを見て、奥は愕然とした。練習を見学にきていた田所なら、多少振りをおぼえてもいるだろう。しかし、だからといって……真由子はなにを考えているのだろうか。  完全に惚けている観客をよそに、カルチャー・クラブの「カーマは気まぐれ」のイントロが流れる。チアの基本を無視したまるで道化師のようなおどけた動作で、田所たちがラインをつくる。国分と喜多嶋の胸同士がぶつかり、両腕を腰にあててそっぽを向く。コミカルな動きに、外野席から笑いが起きた。  ベースの振り付けは、奥がいたときとほとんど変わっていない。しかし、ところどころに入るクネクネとした動作は遊び心に富んでいて、チアの常識とはかけ離れているものの、目が離せなかった。  引退したヴェテラン選手が登場するというサプライズも重なり、はじめのうち戸惑っていた観客も、国分たちの派手な動きと衣装に大声を上げて笑っている。売店や喫煙所にいた客たちも、歓声を聞きつけて顔を出しはじめていた。  ボーイ・ジョージの中性的な歌声にあわせて、喜多嶋がVシスターズに向かって腰を突き出してみせる。尻を叩かれて大仰につんのめる喜多嶋を見て、奥もつい噴き出してしまった。ロッカーから出てきた外国人選手が指笛を鳴らし、緊張の面持ちだった選手たちも笑った。これから長いシーズンがはじまるとはとても思えない、和やかな空気だった。  曲がアンドリューWKの「パーティ一直線」に変わり、陣形が入れ替わる。端の数名が位置を見失い、ポジションがわずかに崩れるのを見て、真由子は爪を噛んだ。意識しないまま、爪先が神経質に芝を叩いている。 「ちがうって、そこは2・2・3でしょ。そう、そうよ、落ち着いて」  顎に拳をあててぶつぶつと呟いている真由子の隣で、球団スタッフが怪訝そうな顔をしている。気にする余裕はなかった。紅潮した顔で、グラウンドで踊るメンバーたちを凝視する。  コミカルな立ち上がりで観客の興味を引いておいて、一転、ハードな動きをメインに据えることでメリハリをつける。心配なのはスタミナがもつかどうかだ。短時間で魅せるブレイクダンスとは異なり、チアは長い時間パフォーマンスしつつ、遠く離れた観客にもはっきり見えるよう大きく動かなければならない。練習で完璧にこなせても、本番では緊張しているぶん、体力、集中力ともに極端に落ちることがある。  最初の大技が近づき、真由子は思わず胸の前で指を組んだ。  ポンポンを持った両手をL字型に伸ばし、体を反転させる。噴き出した汗が額をつたって飛び散る。対角線上で構えに入っている喜多嶋も汗だくだった。  視線で確認し、リズムに呼吸をあわせてスタートを切る。芝を蹴って喜多嶋に向かって大股に駆ける。喜多嶋が下腹の前で組んだ両掌にシューズの底をつくと、絶妙のタイミングで押し上げられた。  棒高跳びの選手のように上体を反らした姿勢で宙に浮いた瞬間、時間が止まったように思えた。  デイゲームのために今は使われていない照明器具が、太陽の光を反射して国分の目を刺す。黒い粒が密集したような観客席や、まだスコアの示されていないボードが次々に眼球をすり抜けていった。  着地すると同時に、観客席から喚声が湧き起こった。国分は体勢を立て直した。畳み掛けるように側転と後転を織り交ぜる。グラウンドの中央で喜多嶋と交錯したが、バランスは崩さなかった。  体を捻るような動きをぴたりとあわせて、ふたりが着地する。国分は肩で息をついた。最大の難関であるタンブリングをなんとか乗り越え、力が抜けそうになったが、まだ終わらない。  細かいモーションからパートナースタンツの姿勢に入る。テレビのチアダンスで見るようなピラミッド型とまではいかないまでも、2、3人でおこなう組体操のひとつ。喜多嶋と国分がしっかりと両腕を絡ませあい、腰を落とすと、最後の大技を期待する客席から声が上がった。  国分たちがつくった腕の踏み切り台に、中央の位置から助走をつけて走りこんできた田所が爪先をかける。即座に体重がかけられ、芯を失った。体勢を立てなおそうとしたが、間に合わなかった。片脚だけを不用意に持ち上げられ、田所の体は傾いだ。野球をやめて少し肉のついた体が、人工芝の上に倒れた。奥……いや、田所が大きく空中で両手足を拡げてジャンプし、迎えるはずだった。フィニッシュのポーズを取ったまま、全員岩のように硬直して動けなかった。  球場内がしんと静まり返り、国分は息を飲み込んだ。  センターの位置でうつ伏せになっていた田所が、弾かれたように顔を上げた。両手脚を大きく広げ、満面の笑顔でポーズを決める。  泥だらけの眼鏡がスクリーンいっぱいに映し出され、だれかが拍手した。遠慮がちな拍手はすぐに膨張し湧き上がって、球場を喚声で満たした。  国分たちはようやく姿勢を正した。息を弾ませながら、顔をめぐらせる。四方を囲む2万の客が一斉に立ち上がり、グラウンドに向けて拍手を送っていた。思いがけない余興は、じゅうぶんに観客を楽しませることができたようだ。  拍手に軽快なリズムが備わり、ヴェルヴェッツの応援歌が歌われる。つい昨季まで現役選手としてチームに在籍していた田所への声はとりわけ高く、とめどがなかった。 「たっどころ! たっどころ!」  田所の名前を叫ぶ声で、外野席が揺れるようだった。その声に応えて、田所が手を振る。子供の頃、テレビで見た光景を今は現実に自分の目で、しかもグラウンドから見ているのだということが信じられなかった。まだ整わない呼吸で肩を上下させながら、国分は満身創痍で立ちすくんだ。大はしゃぎの喜多嶋たちに思い切り抱きつかれ、もみくちゃにされるまで、動くことができなかった。  足元の芝が崩れ落ちるような感覚をおぼえ、真由子は咄嗟にフェンスに指をかけた。  顔面蒼白で硬直しているうち、拍手が起こった。聞きちがえたかと思った。外野席は見渡す限り総立ちで、内野席の家族連れも顔を近づけあって、笑顔だった。  フィニッシュのミスにはだれもが気づいているだろうが、そんなことは関係ない。国分たちが本気で踊っている。その気持ちが、客席にも伝わったのだ。  田所と国分がグラウンド上で抱き合い、肩を組んで客席に挨拶するのを見つめながら、真由子はつい涙ぐんでしまった。  背後から声をかけられ、慌てて涙を呑み込む。視線を感じた先に顔を向けると、メディア関係者の輪のなかに杉内奈々がいた。真由子と目があうと、あからさまに視線をはずす。気にはならなかった。それに、声はあきらかに男性のものだった。もう一度、反対方向から呼ばれた。ユニフォーム姿の恰幅のいい中年が立っていた。真由子は記憶のページを素早く捲った。打ち合わせで一度会ったヴェルヴェッツの打撃コーチ。たしか、大滝といったはずだ。 「いや、びっくりしましたよ」 「お騒がせしまして」 「田所も絡むらしいとは聞いていたんですけどね。まさかあそこまでやるとはねえ」  やはり、元同僚の田所のことは気にかかったらしい。しかし、想像していたよりも、表情はやわらかかった。真由子は適当な返事を見つけられず、迎合の笑みを浮かべるにとどめた。 「久し振りに見ましたよ、あいつのあんなに楽しそうな顔は。若者に混じって、けっこう頑張ってるじゃないか」  帽子の隙間から白髪を覗かせながら、大滝は嬉しそうだった。ただのサークル活動でしかないダンス遊びに元選手を引き込んだことで、文句をつけられてもしかたがないところだったが、グラウンドを引き上げる女装の一団を、目を細めて眺めている。  参加を申し出たのは田所のほうからだった。ロークスへの入団の話は、あらかじめ聞いていたのだろう。奥の離脱の可能性を知ってすぐに、代わりを買って出た。真由子たちにとっても、難しい選択だった。田所が登場すれば、もちろんインパクトはあるだろうが、気難しいファンの怒りを買うことになるかもしれない。危険な賭けであることは、田所にもわかっていただろう。もともと無職の国分たちや、地方アナウンサーの真由子に較べ、今後野球解説者としての仕事も控えている田所には、まさに死活問題である。しかも、彼には妻子まであり、彼女たちのことを考えれば、迂闊な行動は取れないはずだった。それでも、田所はどうしてもやるといって聞かなかった。  野球を喪うことによってできた心の空洞を埋めてくれるなにかを、もしかしたら田所も求めていたのかもしれない。そう考えるのは、都合がよすぎるだろうか。 「ところで、狭山さん」  チアガールたちを伴って田所たちが建物内に引き上げていくと、大滝がようやく真由子に視線を戻した。 「田所から聞きましたが、野球にお詳しいそうで。若い女性には珍しいですね」 「とんでもない」  真由子は慌てて否定した。 「付け焼き刃の浅い知識だけです。もちろん、興味はありますけど」 「しかし、熱心に勉強されていると聞きましたよ」 「いちおう、コーチをやっているわけですし、せっかくの機会ですから」  恐縮して真由子が苦笑いすると、大滝は細くなった目尻に皺を刻んだ。 「いや、そういうひとは最近珍しいんでね」 「そうでしょうか」 「ええ、まあね。チアリーダーの扱いもちゃんとしてますしね」  話の核心をつかめず、真由子は焦れた。ふだんなら態度に出すことはないが、今は一刻も早く国分たちのもとにはしりたかった。 「すみません。わたしはそろそろ……」 「ああ、こりゃどうも。肝心の話を忘れてましたね」  さりげなく匙を向けると、大滝がようやく頷く。 「来季からはじまる球団公式ネット中継でナビゲーターを探しているんですが、どうですかね」 「わたしですか」 「本来なら、わたしに権限はないんですが、狭山さんさえよろしければ、推薦だけでもさせていただけないかと」  思いがけない話に、真由子は唖然とした。 「無理です」 「いや、ナビゲーターといっても、アナウンサーの仕事とそれほど変わらないですよ」 「そういう問題ではないんです」  真由子は背すじを伸ばし、微笑した。 「わたしはそんなつもりで野球のルールをおぼえたわけじゃありません。主役は彼らなのに、ただくっついてきただけのわたしが、ひとりだけいい思いをするわけにはいきません」  はっきりというと、大滝はあんがいあっさりと引き下がった。 「そうですか」 「申し訳ないです」  大滝の肩越しに、まだメイクを落としてもいない国分たちが、真由子を探して歩き回っているのが見える。  真由子の視線の先に気づいた大滝も微笑んでみせる。 「そう答えるはずだといわれてましたよ」 「田所さんにですか」 「いや、その横にいた男の子にね」  とりあえず保留にしておくからといって、大滝は言葉を失っている真由子に手を振り、ベンチに戻っていった。 「真由子さん!」  首からパスをぶら提げて、国分たちが犬のように駆け寄ってくる。全員が、興奮さめやらぬといった表情で顔を輝かせていた。 「どうだった?」  挨拶もなしにいきなり訊かれて、真由子は苦笑いした。 「国分くん、きみねえ」 「わかってるって、フィニッシュでしょ。あれはおれじゃない、こいつだよ」 「ひとのせいにするんじゃねえよ」  じゃれあう国分と喜多嶋、そばを通るカメラマンが不躾な視線を向ける。真由子は慌ててふたりを止めた。 「みんな、すごかったよ。感激しちゃった」  ひとりひとりの表情を見ながら、素直にいった。褒められることに慣れていない若者たちは、一様に顔を紅潮させた。  輪のなかに田所の姿が見られないのに気づき、真由子は眉を寄せた。 「田所さんは?」 「子供さんとこ」  真由子は複雑な気持ちだった。妻子がきているとは知らなかった。道化じみた元スターの姿を、彼女たちはどう見たのだろうか。 「次はおっくんの番だね」  喜多嶋がいって、真由子は体を捻った。グラウンドでは、アイドルによる始球式がおこなわれようとしていた。  先発の名前がコールされて、我妻がマウンドに上がる。若いエースへの期待の声で、観客席が大きく湧いた。  キャッチャーとボールを遣り取りする我妻の滑らかなフォームをベンチから見つめ、奥は複雑な気分だった。  我妻はキャッチャーミットめがけて切れのいいストレートを立て続けに放る。肩はじゅうぶんに仕上がっているようだ。怪我の影響は微塵も感じられず、むしろ昨季よりも球威が増しているように見える。バッターボックスに立つと、もっと速く感じられるだろう。ほっとすると同時に、萎縮もおぼえた。もし出番がもらえたとしても、あの球を果たして打てるだろうか。高校時代と較べても比にならない我妻の実力を至近距離で見せつけられ、奥はあらためて体の芯を震わせた。  最初の打者がバッターボックスに入り、試合が始まった。我妻はグラブのなかに一度ボールをおさめ、右拳に小さく息を吹きかけた。グラブに手を差し入れ、軽く柔軟運動をしてから、構える。キャッチャーのサインに顎だけで頷き、土を蹴って振りかぶった。  初球は外角いっぱいのストレート。微妙なコースだったが、判定はボールだった。しかし、球威には凄まじいものがあり、首を捻る我妻よりも、打者のほうが表情を硬くしていた。  2球目は大きく逸れた。キャッチャーがうまく反応した。膝を伸ばしてかろうじて捕球する。落ち着けというように掌を地面と水平に動かすのを見て、我妻は細かく頷いた。  もう一度、こんどはやや外側に向けて腕を廻旋させる。チェンジアップは見逃されてストライクになったが、打ちごろといわれてもしかたがないような甘いコースだった。 「ブルペンとは別人じゃないか」  ロークスの打撃コーチが、選手と話をしているのが聞こえてきた。 「弱気になってるから、コントロールが乱れるんだ。ブランクの影響がいやなところに出たな。チャンスかもしれんぞ」  的を射た分析であり、チームの仲間としては大いに同意して、対策を練るべきだったが、奥は苛立っていた。  ツーストライク、ツーボールからの5球目は、ベース手前でバウンドする明らかなボール球だった。  なにやってんだよ。指先でベンチを叩きながら、奥はマウンドのうえの我妻をにらみつけた。  速球は持っているものの、基本的には、バランスの取れた球筋で凡打に打ち取るタイプだ。制球が乱れてしまっては話にならない。  フルカウントになり、我妻は時間をかけて最後の球を放った。内角に落ちたフォークがバットに引っ掛かり、ライナー性の当たりになった。足の速いバッターである。抜ければ長打になるというところだったが、ショートが飛びついて、素早く1塁に送った。ぎりぎりのタイミングでアウトになる。  軽く息をついて、奥はベンチに背中を預けた。相手を応援するわけではないが、我妻の立ち上がりが決して順調といえないのは気になる。  2番手はかろうじて三振に切って取り、アウトがふたつになった。3番を打つのは、昨年のホームラン王を獲った外国人助っ人の強打者である。  高めに浮いた初球を狙われた。痛烈な打球はレフトの頭上を越え、フェンスに直撃した。二死二塁。我妻の表情が悔しげに歪む。  ランナーを背負った状態でクリーンアップを迎えてしまった。我妻は肩を上下させて深呼吸すると、キャッチャーから目線をはずした。 「お、こっち見てるぞ」  ロークスの選手が囁いた。しかし、我妻が奥を見つめているのは明白だった。同期であっても、今は敵である。奥は顔を逸らした。  ボールが2球つづき、3球目のスライダーに手が出た。微妙に切れてファールになる。次の球も変化球だった。内角ぎりぎりに入って、カウント2―2。勝負球には、おそらくフォークを選んでくるだろう。奥は息を呑んで見守った。  我妻の投げたボールはほぼキャッチャーの構えた位置に吸い込まれ、打者のバットが空を切った。ストライク。バッター、アウト。チェンジ。ヴェルヴェッツのファンで埋まった外野席が大きく跳ね上がった。 「あんなど真ん中の球、おれだって打てるぜ」  球団が用意してくれた内野側の端の席に座って、喜多嶋が嘯く。すでに着替えて、メイクも落としているので、周囲の客に気づかれることはなかった。 「あれはジャイロだよ」 「ジャイロ?」 「ツーシームジャイロ。はじめはふつうのストレートみたいに飛んでくるけど、打とうとすると、手前で減速するの。打者優位のカウントだとけっこう有効だけど、ここでつかうとはね」  腕を組んで解説する真由子を、喜多嶋がなんともいえない目つきで見る。 「なに」 「いや、そんなくそ真面目じゃ、そりゃ男もできねえよなと思って」  いい終わるのを待たずに、丸めたパンフレットで頭を叩いた。大袈裟に身を捩る喜多嶋からグラウンドへと視線を戻して、真由子は息をついた。我妻がベンチに退き、攻守が入れ替わる。守備につくナインのなかに奥の姿はなかった。さすがにいきなりスターティングメンバーでつかわれることはないだろうと思っていたが、それでも少しがっかりした。  我妻は比較的すぐにベンチから出てきて、キャッチボールをはじめた。初回の投球に納得がいっていないのだろう。体力もまだかなり残っている。開幕戦にも関わらず、はじめから完投する気で投げているのだとわかる。  はじめて肉眼で我妻の球を見て、真由子は正直に感嘆していた。フォークからスライダー、ジャイロに至るまでのあらゆる変化球を投げ分け、直球も160キロを越える。とくにフォークの切れは、素人目に見ても光っていた。センスがちがうのだと、自嘲気味に奥がいったのも、理解できた。  緊張していたのか、立ち上がりこそ崩れかけたが、イニングを終えるまでにはしっかりと持ちなおした。まだ若く、精神的な弱さはこれからなんとでもなるだろう。  真由子は全身の血管が脈動するのを感じた。DVDや本を見て研究してはいたが、生で野球を観戦するのははじめてだった。今までまったく興味がなかった野球というスポーツに没頭しかけているのが、自分でも意外だった。 「あれ?」  コーラを飲みながら、喜多嶋が素っ頓狂な声を上げる。未成年にもかかわらず、ふだんは平気で酒を飲むが、今回ばかりは、真由子の注意を素直に受け容れた。せっかくの大舞台の成果が、自分の我儘で台無しになってしまうことへの危機感をじゅうぶん理解しているのだ。 「どうしたの」 「ブーがいない」  いわれてみると、確かに国分の姿がいつの間にか見えなくなっていた。プレイに集中していて気づかなかったのだ。  真由子は不安になって内野席を見渡したが、ヴェルヴェッツの打者がタイムリーを打って、つい意識がそちらに向いてしまった。  チアの出番はもうない。国分も子供ではないのだし、放っておいてもだいじょうぶだろう。真由子は体をグラウンドに向け、前のめりになってプレイを見つめた。  球団広報に渡されたパスを提げて、関係者以外は入れない廊下を歩く。化粧を落とし、Tシャツとジーンズといったふだんの格好に戻った国分を、だれもが訝しげに見たが、声をかけてくる者はなかった。  廊下の端に田所の姿を見つけ、国分は安堵した。近寄ろうとした足が止まる。  田所はひとりではなかった。小学生ぐらいの女の子の手を握り、泣きじゃくる女の子を必死に宥めていた。  少し離れた位置で、小柄な女性が苦笑いで観察している。国分に気づいたのは彼女が先だった。目で促され、田所が振り返る。 「おお、ブーちゃん。お疲れ」 「お疲れっす」  そのまま通り過ぎるわけにもいかず、国分は3人に向かって歩いていった。 「国分くんだよ」 「あなたの隣で踊っていたひとね」  化粧をし、なおかつ遠目だったはずだが、女性はすぐに頷いた。 「田所の妻です。よろしく」 「どうも……」  帽子を脱がずに、国分は頷くように会釈した。こういった雰囲気は得意ではない。 「あゆみ。お兄ちゃんに、挨拶しなさい」  まだ泣いている女の子に向かって田所がいったが、あゆみという女の子は母親のスカートの裾に取りすがって、顔も覗かせなかった。 「あゆみちゃんっていうの。何歳?」  膝を折り曲げてしゃがみこむと、国分は帽子の唾を上げて微笑んだ。自信を持っている笑顔だったが、あゆみはさっと母親の影に隠れてしまう。 「泣かしちゃだめじゃないっすか、コロさん」  照れ隠しに田所に矛先を向ける。田所は参ったと頭を掻いた。 「パパみたいに踊るっていって、聞かなくて」  照れている田所の代わりに、妻が答えた。家族としては、当然反対しているものだと思っていたが、田所の妻はいたって嬉しそうだった。 「よく奥さんに怒られませんでしたね」 「奥?」 「いや、奥様です」  ああとまた頭を掻いて、田所は妻を見た。 「失敗したことは、ちょっといわれたけどね」 「足を引っ張っちゃって」  田所の妻が頭を下げようとするのを、国分は慌てて制した。 「おれらこそ、助かりましたよ。コロさんがいなかったら、ただのサムい集団で終わってましたから」 「そんなことない。感動しましたよ」  田所の妻は笑顔でいった。 「はじめは、わたしも反対したんです。このひとにとっても、大事な時期ですし。でも、どうしてもやりたいんだっていわれて、しかたなく。強情なのは、血筋ですね、きっと」  そういって我が子を見下ろす目は、穏やかであたたかかった。 「びっくりしませんでしたか」 「そりゃ驚きましたけど、その程度でうるさく口を出しては、野球選手の妻なんてつとまりませんから」  当然というような口ぶりだった。初対面の妻に、国分は心底尊敬の念を抱いた。それは同時に、完全な失恋を告げていたが、不思議と心は乱れなかった。  ジーンズのポケットに手を突っ込み、田所のサインが入ったボールを取り出す。 「キャッチボールしませんか」  田所は驚いたように目を見開いたが、すぐに微笑んだ。 「そうだな。やるか」  国分はボールを弄びながら、しゃくりあげているあゆみに向かってもう一度腰を屈めた。 「あゆみちゃん。お父さんと、キャッチボールしてもいいかな」  あゆみはぐちゃぐちゃの顔で国分を見上げ、鼻を啜った。 「あゆみのパパだよ」 「ちょっとだけ。お願い!」 「しょうがないなあ」 「いい?」 「うん」  あゆみがこくりと頷く。 「だって、男の子とキャッチボールするのは、野球人の夢でしょ」  小学生の女の子とは思えない大人びた口調に、国分はつい噴き出してしまった。田所と妻も、顔を見合わせて笑っている。それは家族の笑いだった。まるでそのなかに溶け込んでしまったようで、国分は何年も経験したことのない安寧を噛みしめていた。  8回裏。ヴェルヴェッツの打線が火を噴き、一挙に5点が追加された。3回、5回と得点が重なり、反対に、ロークス打線は先発の我妻に3安打無失点と完璧に抑えられていた。スコアボードには9対0という一方的な点差が掲げられ、ロークスのベンチには疲労のムードが漂っていた。  ツーアウトになったところで、コーチから声がかかった。いつでも出られる準備をしておくようにといわれ、ベンチの隅で水を飲んでいた奥は、飛び上がった。  9回に入り、先頭打者が平凡なセカンドゴロに倒れると、監督が動いた。  代打、奥。  奥の名前がコールされると、喜多嶋が立ち上がった。 「だめ。座ってなさい」  仮にもヴェルヴェッツの応援団である。真由子は即座にたしなめたが、興奮しているのは同じだった。  階段を駆け上がって、国分が戻ってきた。 「どこ行ってたんだよ。おっくんが出るぞ!」 「聞いてた!」  喜多嶋の隣の席に体を滑らせ、国分は息を弾ませている。視線が絡み、頷きあう。  奥が打席に立つと、ロークスの応援団はもちろん、ライトスタンドのヴェルヴェッツのファンからも拍手が送られた。ヴェルヴェッツ時代のほとんどを二軍で過ごした奥だったが、決して忘れられてはいないのだということを知り、真由子は胸を熱くした。 「行け、おっくん!」 「ホームランだ、ホームラン!」  国分や喜多嶋をはじめ、チームの全員が立ち上がって声を張り上げたが、もう止めなかった。顔の前で指を組んで、真由子は必死に祈った。  どうせ負け試合だ、打てなくてもかまわないから、好きに暴れてこいというのが、監督の指示だった。試合を投げるわけではないはずだが、その言葉は奥の緊張を和らげた。コーチに背中を叩かれて、送り出された。高校時代は、ヴェルヴェッツ以外でプレイする気は毛頭なかった。しかし、今、素晴らしいチームでプレイするチャンスを与えられたことを、奥は心底から誇りに思った。  バッターボックスに立つと、マウンドの我妻と視線が交錯した。こんどは目を逸らさなかった。しっかりと我妻をにらみつけ、バットを振り上げる。 「いい顔してるぜ」  機嫌のなおったあゆみを膝に抱きながら、田所がにやりと笑う。すこし離れた席に座っている田所一家のほうを見て、国分は拳を掲げた。田所の妻が手を振る。  すっかり懐いてくれたあゆみにも手を振ってみせてから、グラウンドに向きなおった。隣では喜多嶋がすっかり興奮して、ヴェルヴェッツの応援にきたことも忘れ、奥の名前を叫んでいる。ほかの連中も、総立ちだった。何年もいっしょに遊んでいるが、これほどまでに夢中になっているところを見るのははじめてだった。途中でやめていった奴らと同じように、女子アナが目当ての遊び半分で参加した奴らばかりだった。しかし、今はちがっていた。まるで興味がなかったはずの野球を、真剣に応援している。チアをはじめて、みんな変わった。国分も同じだった。  あとはおっくんだけだぜ。  国分たちにきっかけをくれたのは、奥だった。こんなふうに熱くなれたのは、奥のおかげだった。最後までいっしょに踊りたいという気持ちを抑えて、奥を追い出したときは、胸が痛んだ。しかし、後悔はしていない。させてほしくなかった。  さっきまで田所とキャッチボールをしていた白球を握りしめながら、国分はバッターボックスの奥を見つめた。  マウンドの上で膝にグラブをあて、我妻がキャッチャーのサインを確認する。初回以降、奥に視線を向けることはなかった。こうして対峙していても、同じだった。我妻は完全に投球に集中していて、その表情からは一片の雑念も感じられなかった。真剣勝負を挑もうとする我妻の気持ちが、奥には嬉しかった。負けられないと思った。  我妻が大きく振りかぶり、1球目を投げた。真ん中、直球。呼吸を止め、強振した。バットが風を切り裂く音がした。奥は勢いあまって砂上に膝をついた。  ボードに球速が表示され、喚声が上がる。161。球場がどよめいた。  唇を噛みしめる。焦りで目が眩んだ。バットを握りなおし、構える。  2球目。もう一度真ん中にボールがきた。舐めるなよ。腰を捻り、バットを振る。ミートする直前で、ボールが落ち、角度が変わった。縦回転のスライダー。突然の変化に対応しきれず、1球目と同じように空振りしてしまった。 「しっかりしろよ、奥!」  ロークスの応援団から無遠慮な声が上がる。二軍にいた頃の屈辱感を思い出し、奥は顔を熱くした。  くそっ。  またお荷物に終わってしまうのか。子供の頃から生活のすべてを捧げてきた野球を、ここでも終わらせてしまうのか。  嫌だ。よれたヘルメットをなおして、奥は背すじを伸ばした。まだ、すべてやりつくしていない。ここで終わるわけにはいかなかった。  試合開始前の国分たちのチアダンスが瞼の裏に甦った。彼らにできたことが、自分にできないはずはない。  ツーストライクと追い込まれての3球目。スライダーは斜め下に落ち、ストライクゾーンを大きくはずれた。様子見だろう。奥は俯き、土を蹴って、はやりそうになる気持ちをなんとか落ち着けた。  負け試合とはいえ、監督は奥に期待してチャンスをくれたのだ。チームだけではない。客席のどこかで、国分や喜多嶋、真由子、田所も、信じて見ていてくれているにちがいなかった。チアダンスはホームのヴェルヴェッツを応援するためのものだったが、彼らの気持ちを理解できないほど鈍感ではないつもりだった。  ツーストライク、ワンアウトの4球目。もう1球様子を見るか、それとも勝負を決めにくるか。奥は慎重にバットを構えた。  我妻がサインに頷き、モーションをはじめる。速球の軌道が大きく逸れた。ほぼ本能的に、奥は体を捻った。重心が崩れ、しりもちをつく。眼前を掠めたボールがフェンスに激突し、乾いた音を立てた。避けていなければ、頭を直撃する危険球になりかねなかった。  起き上がるのも忘れ、奥は鋭く我妻をにらんだ。点差を考えても、内角のギリギリを攻める必要があるとは思えない。我妻はかたちばかり頭を下げたが、目には弱みはなかった。とことん勝負する気だ。奥の全身を闘志が突き上げた。 「だいじょうぶか」  奥もよく知るヴェルヴェッツの捕手が声をかけてくる。大きく頷き、立ち上がった。ユニフォームを汚す泥を払いもせずに、差し出されたバットを受け取る。  深呼吸。以前までなら、この局面で頭に血が昇って、ボール球にも手を出してしまった。じゅうぶんに時間をかけ、ベースを見つめる。  同じことが、確か前にもあった。9回表、カウントは2―2。高校最後の夏の甲子園だ。奥は我妻からタイムリーを打ち、全国制覇した。  あのとき、我妻はまだ今ほど変化球のヴァリエーションを持たず、直球で勝負してきたのだった。真ん中高めに浮いたボールを、奥はレフトに引っ張った。  死球になりかねない暴投のあとである。ふつうに考えれば、外角のボールになるか、甘い球がくるだろう。しかし、我妻は勝負してくる。  フォークだ。奥は確信を持ってバットを構えた。フォークを投げてくる。  長いキャッチャーとの視線の遣り取りのあと、我妻がようやく脚を上げる。右腕を持ち上げる。  ちがう……  漠然とした予感が、背中を駆け上ってきた。フォークじゃない……ストレートだ。直球を投げる!  ボールが風を切り裂いて襲ってくる。奥は顎に痛みを感じるほど強く歯を食いしばって、バットを振った。  ほんのわずかの振り遅れ。ストレートの威力は想像以上だった。芯を捕らえた感覚はあったが、力負けした。ボールは大きく浮き上がった。我妻が振り向く。場所によっては長打になるような当たりだったが、ライトがじゅうぶんに追いつくポジションを取っていた。ライトフライになる。内心悔しさに叫びながら、それでも奥は全力で1塁を蹴った。  やはりだめだった。そう思った瞬間。客席がざわめき、目の前でショートの選手が慌てはじめた。ボールの行方を追う。信じがたい光景が目に飛び込んできた。完全に落下地点にはいっていたライトが落球したのだ。即座にボールを拾って送球したが、間に合うはずがなかった。奥は悠々と2塁ベースに到着した。  息を弾ませ、手袋を脱ぐ。マウンド上では、まるで逆転サヨナラタイムリーを打たれたかのように我妻がうなだれていた。  ワンアウトで奥が塁に出たのにもかかわらず、その後は我妻と交代で登板した抑え投手にあっけなく抑えられ、けっきょく、9対0のまま、試合は終了した。  客がすべて退き、夕暮れが迫るグラウンドでは、担当者が整備をはじめていた。選手もスタッフもすでに引き上げ、ロッカールームは無人だった。 「よう」  廊下に出ると、私服に着替えてスポーツバッグを提げた我妻が、日焼けした顔を擦りながら近づいてきた。選手に支給されているチームの公式トレーナーを着ている。帽子にもチームのロゴがプリントされている。奥も持っていたが、私服としてつかったことはなかった。 「おう」  奥もユニフォームを脱ぎ、とうに帰り支度を整えていた。だれもいない廊下で向き合うふたりの間をぎこちない空気が漂った。 「ちょっといい?」 「あ、うん」  ロッカールームのドアを開け、体を脇に寄せて我妻を招き入れた。シャワーを浴びたのか、シャンプーとボディソープの香りが通り過ぎていった。 「ナイスピッチングだったな」 「皮肉かよ」  スポーツバッグをベンチに置いて、我妻は唇の端を歪めた。 「おまえに打たれたんじゃ、意味ない。完投もできなかったし」 「完全に打ち取られてた」  正直にいった。結果的にヒットがつきはしたものの、ライトのエラーがなければ、どう考えてもアウトだった。我妻の投球は完璧で、非の打ちどころがなかった。奥への最後の球は、162キロの自己新記録だった。 「ヒットになったら、いっしょだよ」  投げ遣りにいう我妻の表情は、悔しそうだった。 「抑えられたらいうつもりだったことって、あれ、なんだよ」 「いえねえよ、こうなったら」 「いいじゃん。いえよ。ラッキーなヒットだったんだから」 「でも、ヒットはヒットだ」 「おれがヒット打ったら聞くっていっただろ」 「ヒットじゃないんだろ」 「めんどくせえな。いいたいのかいいたくないのかどっちだよ」  奥は苦笑いした。こんなふうに我妻と素直に向き合えたのは、どのぐらいぶりだろう。勝負に勝ったからではない。試合には負けているのだ。勝ち負けを越えたなにかが、奥の心を穏やかにしていた。 「あのさ……」 「ん?」 「えっと……」  狭いロッカールームを所在なさげにうろつきながら、我妻が口籠もる。マウンド上で吼えていた姿が嘘のように自信なさげで優柔不断な態度に、奥は半ば呆れていた。ベンチに座って、籠のなかのモルモットのようにせわしなく右往左往する我妻を眺める。 「なんなんだよ。早くいえって」 「うん、あの……」  周囲が気になるのか、視線を彷徨わせる。もともと気が短い奥は苛立ちはじめた。 「だれもいないだろ。さっさといえって。いわないなら帰るぞ」 「わかった……」  促されて、ようやく口をひらく。顔を伏せ、10センチ以上身長が低い奥を覗き込むようにして、いった。 「おれ、アメリカ行くかも」 「アメリカ? なにしに?」  反射的に返してから、間の抜けた反応だったことに気づいた。 「……メジャー行くの?」  我妻の成績と評価を考えれば、不思議なことではない。しかし、いずれはと思っていても、勝手にもっと先の話だと信じ込んでいた。思いがけない話に、奥は自分でも驚くほど狼狽していた。 「ポスティングの話、ちょっと前から進んでて。だれにもいっちゃいけないことになってるから、おまえにもいえてなかったんだけど……」 「今いっちゃってんじゃん」 「だからおまえだけ……」  ポスティングの守秘義務がどれほど厳重なものか、メジャーなど夢を見ることさえ叶わない奥にも想像できた。奥と我妻は友人というわけではない。今では同僚ですらない。大きなリスクを背負ってまで打ち明ける理由を問い質したかったが、同時に、知るのが怖いと思った。 「そっか……」  躊躇していたのは、奥の劣等感を刺激することを危惧したのかもしれないが、もしそうでも、もはや腹は立たなかった。かつて同期のライバルだったふたりの差は埋めようがないほど広がっていて、メジャー球団から声がかかっているという事実にも、ショックを受けることはなかった。しかし、まったく心が乱れなかったかというと、そうではなかった。 「あんま会えなくなるんだな」  無意識に呟いていた。我妻が顔を上げる。 「え?」 「え?」  ほぼ同時に発声していた。見つめあう。ほぼ同時に、赤面した。 「いや、ちがう、今のはよくないな。ごめん、間違えた。えっと、おめでとう? いや、まだ決まったわけではないのか、あの、頑張れ、かな。頑張れよ、な」  慌てて弁解しようとしたが、舌が縺れてうまくいかなかった。なんといっていいのかわからずに戸惑ったが、いくつもあるはずのパターンに絶対に嵌まらないであろう選択をしてしまった。自分でもどういうつもりで発言したのか判然としない。ますます焦り、当惑して、奥は視線を泳がせた。 「いや」  我妻は小さな低い声で呟いた。 「今のでよかった」  安堵したような、感激したような、深い声だった。 「ていうか、今のがよかった」 「あ、そう……」  再び沈黙が流れた。我妻の視線を避けるように、奥は顔を逸らした。 「……いいたかったことって、それ?」 「いや、ちがう」 「まだあんのかよ。いついうんだよ。完全試合達成したらとか?」 「いや、それはなんか、今の調子考えたらわりとすぐできそうな感じするから……」 「厭味かこの野郎。この前まで『打たれちゃうよお』って泣いてたくせに」 「泣いてない」 「うそうそ、泣いてただろ。恥ずかしがんなって」 「……おまえのほうが泣いてた」  言葉に詰まった。我妻の顔は真剣だった。息ぐるしさを払拭するように、奥はぎこちなく笑った。過剰なほど勢いをつけて立ち上がった。 「そうだ。時間あるんだったらさ、これからメシ行く? お互い頑張ろうぜってことでさ」  不自然なのはわかっていたが、止められなかった。ベンチに置いていたバッグを取り上げ、ストラップを肩にかける。 「考えてみたら、おれとおまえ、ふたりでメシとかなかっただろ。たまには……」  言葉が消えた。スポーツバッグが床に落ちて音を立てた。我妻が背後から奥の体に腕を回していた。きつく抱きしめ、胸と背を接着させる。 「え、ちょっ……」  息が止まりそうになって、奥は口を開閉させた。眼球が左右に揺れ、心臓が大きく跳ねる。 「なっ、な、なに、なにしてんの、おまえ」  声が上擦る。身を捩って逃げようとしたが、我妻の腕の力に勝てなかった。必死に暴れて抵抗すれば、振り払うことはできただろう。しかし、奥はそうしなかった。だれかに感づかれるのを恐れたのか、怪我をさせることを恐れたのか、それともなにかべつのものを恐れていたのか、自分でもわからなかった。 「幸成……」  我妻の声と息が耳の裏を吹き抜けていく。どちらもぎくりとするほど熱かった。想像もしていなかった展開に、奥は完全に混乱して、動くことができずにいた。  我妻は無言で奥の肩に手をかけ、体を反転させて自分のほうを向かせた。抵抗がないのを確かめたからか、つよい意思を感じさせる動作だった。  至近距離での視線を感じたが、真っ直ぐに見返すことができなかった。目眩がするほどの動悸を意識しながら、奥は何度も目を瞬いた。 「幸成」  もう一度名前を呼ばれた。返事をすべきなのか、それともただ呼ばれているだけで無意味なのか、判然としない。咄嗟に目を上げた。すぐに後悔した。視線がぶつかり、これまでに一度も見たことのない我妻の高熱を孕んだ眼差しに捕まれた。  日焼けした顔が近づいてきて、奥は思わず身を竦めた。ぎゅっと目を閉じ、拳を握りしめた。距離が詰まる気配がしたが、それ以上はなにも起きなかった。  おそるおそる目を開けると、さっきとおなじ場所におなじ表情の我妻の顔があった。またどきっとする。心臓に負荷がかかりすぎている。 「あのさ……」 「え?」  声が裏返り、噎せ返った。体を折り曲げて咳き込む奥の背中を掌で擦りながら、我妻は心配そうに眉を顰めた。 「平気か?」 「うん……」  かろうじて頷き、深呼吸する。 「なに?」 「あ、いや、なんかくるしそうだし、後でも……」 「いいから早くいえ!」  奥が怒鳴ると、我妻は萎縮したように肩を竦めた。おずおずといった。 「頼みがあって」  唐突な申し出に、奥は眉を上げた。我妻の声には切実さが混じっていた。 「なんだよ」  緊張を隠すようにあえて乱暴にいった。 「……これに」  我妻は頭に被っていた帽子を脱いで、奥に差し出した。裏返し、つばの部分を示してみせる。 「帽子のここんとこ、なにか書いてくれないかな」 「なにかってなに」 「なんでもいいから」  中学生のように顔を赤らめて、我妻は目を伏せる。ちゃっかり油性ペンも用意されていた。奥は呆れて帽子を受け取った。 「ファンかよ」 「ファンだよ」  我妻は照れもせず真顔で即答した。 「おれはずっと奥幸成のファンだよ」  柄にもなく、涙ぐみそうになった。我妻の態度は一貫していた。立場が変わっても、どれほどの実績を上げても、我妻はまったく変わることがなかった。いつも奥だけを見ていた。  泣きそうだと知られないように、奥は俯き、ペンのキャップを乱暴にはずした。 「頼みってそんだけ?」 「うん」  ため息が漏れた。奥はベンチに座りなおし、うなだれて、帽子を持った手で顔を覆った。我妻のシャンプーの匂いが鼻腔を刺激した。  顔が熱いのは羞恥のためだった。いきなり抱きしめられて、これまでにないほど距離が近づいて、次の言葉が帽子に文字を書けなど、そんなこと、想像できるはずがない。奥が想像していたのはもっとべつの…… 「あの……幸成……」 「うるせえ。名前で呼ぶな、馬鹿」 「また馬鹿っていう……」  我妻は突っ立ったまま、教師に叱責される子どものように大きな体を縮こまらせている。 「なんで怒ってんだよ」 「怒ってねえよ。勘違いすんな、この馬鹿!」  わけがわからないといった表情で口を噤む我妻をにらんでから、視線をはずす。怒っているわけではなかった。ただ、戸惑っていた。勘違いしたのは奥のほうだったからだ。勝手に勘違いをして、そのうえ、受け容れるような体勢を取ってしまった。実際に、奥が想像していたとおりのことが起こったとしたらどうなっていたか…… 「ゆ……奥?」  気づくと、我妻が目の前で膝を折っていた。主に傅く従者のように片膝をつき、奥の顔を覗き込んでいる。 「な、なんだよ」  手が伸びてきて、咄嗟に身を跳ねさせる。 「いや、顔赤いから」 「赤くねえよ! 馬鹿か!」 「何回いうんだよ……」 「うるせんだよ! おまえのそういうとこがおれは……」  壁に衝突したかのように、動きを止めた。それ以上の言葉が出てこなかった。我妻の戸惑ったような顔が近づく。 「え、なに?」  我妻の匂いがまた濃くなって、奥はいっそう肌の表面を燃やした。 「なんでもねえよ!」  手にしていた帽子を我妻の胸に圧しつけ、立ち上がる。 「もうおれ帰る!」 「え、メシは?」  我妻も慌てて立ち上がる。 「さっき行かないつっただろ!」 「行かないとは行ってないよ。行きたい」 「もう遅い! 気が変わった!」  我妻の体を圧し退けてドアを開け、ロッカールームを出る。当然のように我妻が後を追ってきた。 「ちょっと待って。これ、書いてくんないの?」  帽子を持って、大股に歩く奥に並ぼうとする。 「書かない。よく考えたらおまえ敵チームだし」 「え、なんでなんで。いいじゃん、そんなのべつにルール違反じゃないだろ」 「なんでじゃねえ。おれが書きたくないからだよ」 「そんなケチいわないでさ、頼むよ、幸成……」 「だれがケチだ! 名前で呼ぶなっつってんだろ!」  学生のように騒ぎながら、我妻と奥は球場の廊下を歩いていった。廊下は無人だったが、だれかがふたりを見たときに、その関係をどう名付けるか、どうでもいいと思っていた。どちらもがおなじことを考えていた。  キューがかかる瞬間の緊張感。背すじがぴんと伸びる感覚は、忘れようと思っても忘れられるものではなかった。 「神奈川ヴェルヴェッツネットスポーツニュースナビゲーターの狭山真由子です」  カメラに向かって挨拶し、原稿に目を落とすことなく喋る。 「本日の福岡スタジアムでのベガーズ戦では、今季初登板千倉投手の7回被安打6無失点の力好投に、打っては6回に鏑木選手がタイムリーツーベースヒットを放ち、ヴェルヴェッツが勝利しました。ヴェルヴェッツは貯金を6に増やし、リーグ2位に浮上。1位のロークスを3・5ゲーム差で追いかけます」  カメラが大きく引き、全体を映し出す。 「本日のゲスト解説は、ヴェルヴェッツ黄金時代を築いたかつてのエース、田所悟史さんです」 「よろしくお願いします」  スーツを着た田所が、律儀に頭を下げる。 「序盤こそいまいち調子が上がりませんでしたが、シーズンも折り返しに差し掛かって、徐々にヴェルヴェッツらしい試合展開ができるようになってきたんじゃないでしょうか」 「そうですね。主力選手を失って、どうなるかと思いましたが、チームが一丸となって頑張っていますよね」 「ロークス戦では、微妙な判定もあって、負け越してしまいましたが」 「まあ、主審の判定ですから、しかたがないでしょう。監督が抗議するのもわかりますけど、あの場合は……」 「わたしには、あの打球は完全にノーバウンドに見えました。ベガーズとの5回戦でも、3塁ベースの踏み忘れが問題になりましたね。昨今の審判員の技術に関しては、率直にいって、疑問を感じざるをえないのですが、その点はどう思われますでしょうか」  田所がにやりと笑い、視線が絡み合う。 「審判のスキルには、たしかに、今後改善する余地は多いにあるでしょうね」 「しかし、カメラによる判定には、個人的には躊躇をおぼえますね。より確実性を求めるには、そのほうがいいのかもしれませんが、ベースボールファンも、戸惑いを隠しきれていないようです」 「それに関しては、わたしも同意見です。やはり、審判も含めての野球ですから。機械に任せてしまうことには、抵抗があります」 「審判、選手ともに、実力の向上に力を尽くしてくれることを願います。では、ここでいったんCMをご覧いただきます」  撮影が終わり、真由子は首を捻って息をついた。 「やるねえ、相変わらず」  田所が囁いてきて、真由子は苦笑いしてみせる。 「やりすぎという評価もいただきますけど」 「そのぐらいでいいんだよ。当たり障りないニュースがよけりゃ、民放を見るさ」  長閑な顔で、露骨なことをいう。真由子は迎合の笑みを浮かべたが、田所の指摘はもっともだった。現実に、真由子が担当しはじめてからの番組には、苦情も多いが、それを上回る賛辞のコメントが多く、視聴率も安定していた。  球団にも視聴者にも媚びることなく、アナウンサーとしての権限を逸してまでも厳しい意見を述べる真由子の姿勢が、コアな野球ファンの心をつかんでいるのだった。そのぶん、ぼろが出ないように、必死の勉強が必要だったが、真由子は努力を惜しまなかった。暇があれば球場に出向き、試合を観戦して、知識を増やしていった。選手の信頼も厚く、ネット放送には珍しい独占インタビューを勝ち取ることも少なくなかった。きわどい質問も無遠慮に投げかけてくるので、ゲストに敬遠されることもあったが、一部の解説者は、真由子の誠意と勤勉さを買ってか、民間放送では口にしないことも惜しまず、熱心に語ってくれた。はじめた頃は弱小のネット番組に過ぎなかった放送も、開始から5年がたった今では、玄人向けのスポーツ番組として、重宝されるようになっていた。  一度は断ろうとした契約に踏み込んだのは、国分たちの説得のおかげだった。奥を説き伏せたのと同じように、情にほだされるかたちになってしまったが、本心では彼らに感謝していた。  スタジオを出ようとした真由子を、だれかが呼び止めた。女の声。しかも、知っている声だ。周囲を見渡す。階段の下で、杉内奈々が手を振っていた。 「久し振りじゃない」  階段を降りながら、真由子は微笑を浮かべた。 「ニュース見たよ。おめでとう」 「ありがとうございます」  奈々が照れ笑いを見せる。ヴェルヴェッツの若手投手千倉との結婚、妊娠が報道されたばかりである。奈々は結婚を機にあっさり仕事を辞め、専業主婦になることを宣言していた。しかし、いまだにメディアには追い回されているはずで、わざわざ挨拶にくるとは思っていなかった。 「予定よりは小物に終わっちゃいましたけど」 「相変わらずだね」  呆れるよりも笑ってしまった。 「体調、どう」 「順調です。おかげさまで」  悪態をついたわりに、幸せそうだった。どこか演技じみた奈々の笑顔を、真由子ははじめて可愛らしいと思った。 「わたし、やっぱり、女の幸せは結婚だと思うんです」  奈々が唐突にいう。勝ち誇りにきたのかと思ったが、そうでもないらしかった。珍しく躊躇いがちに俯きながら、奈々は言葉を紡いだ。 「でも、狭山さんみたいに、結婚を諦めてまで自分の夢を追いかけるのも、かっこいいと思います。それだけ、どうしてもいいたくて」  はじめて耳にする奈々の正直な言葉に、真由子は微笑んだ。しかし、最後にちゃんとこう付け加えておくのも忘れなかった。 「わたしはまだ結婚を諦めたわけじゃないからね!」  午前中のシアースタジアムはひと気もまばらだった。日本とはちがい、良席を求めて並んでいる客は少ないが、気の早いファンが売店でチームのグッズを物色している。  腕に嵌めたスポーツウォッチに目を落として、国分は顎を撫でた。すこしでも年齢相応に見せようと生やしはじめた髭だったが、2週間かけても、ざらつく程度だった。  大柄な体をレプリカユニフォームで締めつけた中年の白人男性に隠れるようにして、きょろきょろ歩いている奥を見つけて、国分は大きく手を挙げた。 「おっくん!」  国分に気づくと、奥はほっとした顔でバッグを持ちなおした。 「久し振り」  自然と手が出る。力強い握手を交わしながら、なんともいえない郷愁がこみ上げてきた。 「元気そうじゃん」 「そっちも。頑張ってるか?」 「まあね。もうだいぶ慣れてきた」  チアダンスのチームを解散したあとも、国分はひとりダンスを続けた。ニューヨークに渡ってからは、ますますレッスンに没頭し、腕を上げていた。 「なんだか、有名なアーティストのツアーに参加するんだって?」  国分と並んで歩きながら、奥がいう。 「田所さんに聞いたよ」  国分は肩を竦めてみせた。渡米のきっかけになったオーディションを受けたのは、田所の紹介がきっかけだった。資金も人脈も持たない国分を援助してくれたのも田所である。返す必要はないといわれていた金を、国分は少しずつ日本の田所のもとへ送っていた。近況を報告する手紙も添えた。マンハッタンのアパートに届く田所からの返信は、孤独な外国での生活を支えてくれていた。 「そっちはどうよ。いろいろ忙しくて、日本のニュースにまで気がまわらなくってさ」 「まあ、おれのほうはぼちぼち」  奥は曖昧に頷いた。 「この間、喜多嶋に車を買ってもらったよ」  にやりと笑いあう。喜多嶋は居酒屋でバイトをはじめ、そのまま社員に登用されて、今ではいくつかの支店を任されるほどになっているはずだった。週に数回は地元のダンススタジオの講師として子どもたちを指導しているという。  奥はロークスに4年間在籍した。通算成績は決して名選手とはいいがたいものだったが、右太腿靱帯を損傷し、選手生活にピリオドを打つまで、常に全力のプレイでチームに貢献した。  引退後は、中古車販売の営業職に就いたと聞いていた。メジャーリーグ観戦のために渡米することの報告と、ニューヨークの案内を依頼する連絡がきたときには、どのような態度で接するか決めかねていたが、そんな心配は杞憂に過ぎなかった。現役から離れ、少し顔に肉がついたようにも見えるが、童顔に浮く表情はいたって楽しげで、長くない選手時代にもじゅうぶん満足していたことがわかる。  我妻の名を出すことにも、躊躇はなかった。奥は気を悪くするどころか、嬉しそうに頷いた。 「もう会ったよ。相変わらずだった」  そういって、思い出し笑いを浮かべる。どう相変わらずなのかは、聞かずとも、なんとなく想像できた。  ニューヨーク・ジェッツのユニフォームを着たアメリカ人の一団が、ふたりに向かって声をかけてきた。 「なんだって?」  奥がにやにや笑いながら聞いてくる。英語を理解しなくとも、“クレイジー・ガッツ”の単語ぐらいは聞き取れたはずだ。国分は得意顔で奥を指差し、白人集団に向かっていってやった。 「彼はクレイジー・ガッツのステディなんだぜ」  ユニフォーム姿の男女に盛大に笛を吹かれ、背中を叩かれている奥の戸惑った顔を眺めながら、国分は大笑いした。  奥と国分のために用意された席は、三塁側フィールドシートだった。マウンド上の我妻をもっとも間近に見ることができる特等席だ。国分のにやついた笑いを、奥は無視した。外国式の冗談にはついていけない。  試合がはじまり、ビールを飲みながらの会話は、自然と仲間の噂話になる。周囲に日本人の姿はほとんどなく、我妻の話題にも花が咲いた。 「それで?」  口元に纏わりつく泡を舌先で舐め取って、国分はいった。 「さすがにもう告白された?」 「いや」 「まだ? どんだけヘタレなんだよ、あいつ」 「今日、10三振獲れたら、いうってさ」 「先発でもないくせに」  国分は顔をしかめた。 「日本にいた頃も、そんなんばっかだろ。ノーノーしたらつったら9回裏にホームラン打たれるし、20勝したらつったら、19勝あげた直後に怪我するし」  奥は笑いを噛み殺した。日本でのできごとに関心がないといいながら、詳しいものだ。おおよその情報は田所をとおして仕入れているにしても、わざわざ数字まで挙げて我妻をこき下ろす国分を横目に見ながら、彼の本質がまったく変わっていないことに安堵する。  6回に入り、1点差、一死満塁の場面で、投手交代が告げられた。リリーフカーに乗って我妻が登場すると、国分は即座に立ち上がった。  周囲の観客たちの激励を受けながら、国分は口元を両手で挟むようにして声を張り上げている。我妻を嫌っているように振舞う国分の必死の応援が、我妻に届いていればいいと奥は思った。 「それにしても、まさかほんとにメジャーまで行くとは思わなかった」  奥の視線に気づいた国分が、慌てて醒めた表情をつくる。  我妻は神奈川ヴェルヴェッツのエースとしてチームを二度優勝へ導く大活躍を見せた。昨年、日本のプロ・リーグを飛び出し、米ナショナル・リーグの名門ニューヨーク・ジェッツと契約。期待の新人として迎えられたものの、ボールやプレイスタイルの変化にうまく対応できず、思ったような成績を残せずにいた。  球場に入る直前、空港まで奥を迎えにきた冴えない表情を思い出す。しかし、マウンドに上がる我妻の顔には、迷いがなかった。  球場に向かう途中で、また帽子を渡された。洗濯で掠れてしまっただとかでこれまでに二度ほど真新しい帽子が送られてきて、そのたびに油性ペンでおなじメッセージを書いて送り返してやった。目の前で書いたのは最初の1回目以来だった。我妻は子どものように喜んで大切そうに受け取った。  初球は伝家の宝刀であるフォーク。まったくタイミングがあわずに、派手な空振りでストライクになる。肩の筋肉を消耗させるフォークを投げる投手は大リーグでは珍しく、慣れるまでに時間がかかる。切れのいい変化球にストレートをうまく織り込んで、我妻は相手チームの4番を三振に切って取った。  ポーカーフェイスの我妻が、脇腹の辺りで拳をつくる。アウトのコールを聞いて、国分は腕を振り上げた。  二死とはいえ、いまだ満塁で、クリーンナップの危機が続く。我妻は集中力を切らさずに、土を蹴った。  初球を叩かれた。客席から悲鳴と喚声が上がり、大柄な打者に思い切りミートされたボールはぐんぐんスピードを増し、レフトに向かって突き抜けていく。  外野手がボールを追いかけ、打者が一塁に走る。我妻も振り向いて、ボールの行方に目を凝らした。  切れろ。奥は膝の上で指を組んだ。切れろ、切れろ、切れろ……  ポールをわずかに逸れて、ボールが客席に消えた。塁審の判定はファール。安堵と落胆の声がスタジアムを包んだ。 「心臓に悪い」  国分が椅子に座りなおす。奥も苦笑いを返した。完全にホームラン性の当たりだった。ただでさえ成績が思わしくない。満塁ホームランなど打たれたら、我妻が責任を問われるのは明白だった。  この試合の重要さは、我妻もよく理解しているだろう。それが重圧になった。3球連続ボール球を投げ、一気に不利なカウントに追い詰められた。押し出しでも点が入る厳しい状況のなか、バッテリーが選んだボールはフォークだった。しかし、見破られていた。待ち構えていたバットがボールを強打したが、わずかに芯を捕らえられず、ファールになった。  強烈な打球がフィールドシートに飛び込む。危うくぶつかりそうになり、奥や国分をはじめとする観客は慌てて頭を下げた。  我妻がはっとする顔が目に入った。フィールドシートだけでも数百人を越える客がいるのに、視線が絡みあったような気がした。  馬鹿……  心のなかだけで呟く。おれの心配なんかしなくていいんだよ。自分の心配しろよ。  口に出さない思い……というか、悪態が伝わったのか、我妻が小さく頷いた。そう見えた。  新しいボールを受け取り、マウンド上の我妻が唇を尖らせて薄く静かに息をつく。呼吸を整え、軽く腕を回すと、さっきまでの緊張は消え、憎らしさを感じさせるほどに冷静でリラックスした投手に変身した。  フルカウント。奥は無意識のうちに膝の上で拳を握りしめていた。  フルカウント。いうまでもなく、両チームにとって最大の勝負どころだ。我妻の真剣な表情がスクリーンに映し出された。  やっぱり、気に入らねえ。スター選手として輝き続ける我妻の日に焼けた顔を見ながら、国分はあらためて思った。厭味な野郎だ。厭味な野郎だが、野球をしているときだけは。 「かっこいいじゃん」  奥が振り向く。国分は唇を曲げて笑ってみせた。  頑張れよ、ガッツ。  浅く席に座ったまま、国分の心は我妻のために踊っていた。我妻を応援し、勝利を呼び込むチアダンス。それが国分の原点だった。  我妻が腕で乱暴に汗を拭う。脱いだ帽子を胸の前で構え、じっと見つめる。ここぞという場面でのルーティーン。待ち構えていたかのように、カメラが手元に寄った。  後ろの席にいたサングラスの客に、肩を叩かれた。 「あれは日本語か?」  球場のスクリーンにアップになった帽子。つばに書かれた文字を指差して、尋ねてくる。 「なんて書いてあるんだ?」  国分はため息をついた。どうやら、俄ファンらしい。日本での選手時代から続く“クレイジー・ガッツ”というニックネームの由来は、ジェッツのファンならだれもが知っていることだ。 「馬鹿」  短い日本語。サングラスの奥の目が丸くなる。 「バ……?」 「この鈍感野郎って意味だよ」  早口の英語でいって、国分は男のレプリカユニフォームの肩を叩いた。  我妻が深呼吸し、脚を振り上げる。腕が撓り、ボールがリリースされた。  渾身の直球は、低めぎりぎりの位置を掠めてキャッチャーのミットに吸い込まれた。打者は一歩も動けなかった。隣にいる奥の喉が鳴る音が聞こえてくるようだった。  ストライク、バッターアウト。  グラウンドが大きく揺れた。国分は体をぶつけるように奥と抱きあった。  マウンド上で我妻がガッツポーズをつくる。日本にいた頃にも、滅多に見られない姿だった。  マウンドを降りる寸前、我妻はこちらに向けて帽子を振った。汗だくの顔を見ながら、奥がなにか呟いた。小さな声は、周囲の喚声にかき消された。でもたぶん、こういったのだと思う。  馬鹿。 おわり
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