この世でたった一冊の、愛する人への絵本

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この世でたった一冊の、愛する人への絵本

 その日ムサは、ラゴスの中心部の路傍(ろぼう)にタクシーを停めたまま、とりとめもないことを考えては、ため息を吐いていた。念のために断っておくと、ムサがため息を吐くのは、この日ばかりのことではない。彼はこの十数年、二十歳まで追いかけた夢を諦めざるを得なかった身の上を思うと、何度となく気鬱になり、どことなく客が声をかけて来なさそうなところを見つけては、休憩をしているふりをして、物思いに(ふけ)っては、それを振り払おうとしているのであった。  しかしこの日は、タクシーの扉を背にしゃがみ込んでいたところを、或る青年が声をかけてきた。おそらく旅行者であろう。荷物で膨れたリュックを背負って、折り畳んだ紙の地図を持っている。薄曇りの空のたもと、まだ風の吹かぬ往来に、いまにもこぼれ落ちそうな粒のような汗を額に貼っている青年を見ると、ムサは(チッ)と舌打ちをしたい気分となった。彼の横に伸びている薄らとした影から、色とりどりの草花が咲きそうに見えたのである。  ホテルまで行きたいという彼をタクシーの後ろへ乗せると、いくらか混んでいる道を走りはじめた。半開きの窓から、(たゆ)んだ糸のように優しくむち打つ風が、捕食される恐れのない土地にいる鳥のように、身軽な体をして通り抜けていく。窓の隅は土汚れている。水拭きするにはまだ早いと思っていたはずだったのだが、この青年を後ろに乗せて走っていると、いますぐにでも綺麗に磨き上げたい気持ちになった。自分を嘲弄(ちょうろう)する種となるいかなる瑕疵(かし)も、彼の前に現わしたくないというプライドが、忽然(こつぜん)として首をもたげてきたのである。  青年はあちこちを眺めやりながら、写真を撮ったり、なにやらメモを取ったりしている。ムサはバックミラー越しにそれを見やるたびに、わざと車を揺らしてやろうかと思ったが、そうした意地悪が、彼の経験においては想い出として美化されやしないかと、つまり旅行の土産話になりやしないかと考えると、あえて模範的な運転を心がけてやろうという心持ちが、タクシー運転手をはじめたころの初心とともに(きざ)してきたのであった。 「観光名所でもない、こういうところが物珍しいなんて、きみはラゴスは初めてかね?」  青年は「そうです。初めてきました」と流暢(りゅうちょう)に英語で答えた。これにはムサも(きょ)()かれて、しばらく二の句を継げないでいたが、前を走る車が徐行しはじめたところで、ようやく口を開いた。 「俺は、西はモンロビア、東はヤウンデまで行ったことがある。異国の地に行くことの高揚感みたいなものは、分からなくもないが、三日もすれば住み慣れた土地のように思えてくる。きみも、ここに長居をするのだとしたら、まるで自分の家の椅子に座っているような気分になるかもしれない」  ムサは、今朝市場で買ったコーラの実を袋からつまんで、青年に渡した。どうした心境の変化がそうさせたのか分からないが、旅行の記憶を(さかのぼ)っているうちに、この青年を愛らしく感じだしたのである。  が、それから少し経つと、青年はコーラの実を一粒口の中で転がしながら、スマホを熱心にいじりはじめた。そんな彼の姿にムサが失望したのは想像に難くない。ムサが生活するラゴスの光景に、彼はもうすっかり満足してしまっている。  見慣れた風景のなかに目をこらし、何物にも代えがたい唯ひとつの美しさを掴み取ることを目指し、苦労しながら道具を揃えて絵を描いていたムサからすれば、目の前に広がるこの町並みから、自分だけに感じられる美を見つけようとする姿勢を持たないのは、現実からの逃避である。 「これは……お兄さんが描いた絵なんですか?」  少し進んではまた止まる道に辟易(へきえき)としていたムサは、窓から手を垂らして、曇り空の下に閉じ込められた熱気を、車を()って吹き抜けていく涼やかな風に紛らわしていたところだった。  その絵というのが、運転席の裏に保護シートを貼って、透明のテープで頑丈に留めてある、一枚の風景画のことを指していることは間違いない。 「それは……俺の故郷を描いた一枚だよ」  ムサの頭の中に、遠い故郷の風景が広がりはじめた。すると、車が立ち往生するのを幸いに、ムサは子どものころの記憶を、青年に聞かせるというより独り言のように話しはじめた。が、その熱気に比べて青年は、適当に相槌(あいづち)を打ったり、言葉に詰まったムサの話を先に(うなが)すような一言を添えたりするだけだった。  しかしそれを気にすることなく、ムサは、自分になにかを言い聞かせるように、いや、奮い立たせるように、幼心に見た夢のことを回想し、出会ったばかりの青年に、絵を描いて生きていきたかったのだということを告白した。だが、青年はそれにすげなく答えるだけで、なんら感動も覚えていなかった――はずだった。  意外にも青年は、ムサが要求するより遥か大きな額で、この絵を買い求めたのである。      *     *     *  あれから五年の月日を経た。  ムサはこの五年を、単調に日を繰り返しながら生きていた。しかし、あれからというもの、ふたたび絵筆をとるようになった。最初は、運転席の後ろに貼る新しい画を作る目的だったが、それを作成しているうちに、なんとも言われぬ感動に突き動かされて、休日となれば車を飛ばして、風景を描くようになったのである。  そんなムサが努めるタクシー会社に一通の手紙が届き、彼の手元へとそれが渡ったのは、青年と出会った日から六年目のことであった。そして手紙の主は、その彼であった。  手紙に目を通したムサは、さっそく青年の住所に返信をし、その月のうちに再会を果たした。そして何度も連絡を取り合い、丁寧に作り上げていったのが、ムサの知らないうちに結婚をした青年の、愛する子どもへ向けた、一冊の絵本であった。  あれから青年は、何度も作家になる夢に挑戦した。だが、狭き門をくぐり抜けることはできなかった。地元の葬儀会社で働きながら、それでも文章を書き続けていた。そしてふと、一冊の本を作ってみたいと思うようになった。  折角なら、だれかに表紙をお願いしたい。挿絵も描いてもらいたい。そう考えていたときに、彼の目に真っ先に飛びこんできたのは、部屋のなかに飾ってあるムサの絵だったのだ。青年はそれから、ムサに依頼するためのお金を、こつこつと貯めるようになった。  絵本には青年の名と、ムサの名前が入っている。絵本の中身については、事細かく書かずともよい。ふたりのその後については、いずれ知ることになるかもしれない。
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