現在・香月凪沙(こうづきなぎさ)

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現在・香月凪沙(こうづきなぎさ)

もうすでに口の端が痺れていた。 普段使わない筋肉を使っているせいか、まるで痙攣したように勝手に動く。けれど、ここで止めるわけにはいかなかった。苦手な作り笑顔のまま、画面越しに映る面接官に頷きかけた。 「はい。御社の事業におきましては、これから急速に成長していくであろうWEB業界におきまして、時代のニーズと変化に対応する適応力が必要であると考えております。そのために私は…」  すべて詰まることなく、すらすらと出てくる言葉たち。もう何度目だと思っているのだ。就職活動を始めたばかりの頃は、面接なんて大嫌いで拒否反応を示していた。けれど慣れてしまうと、案外リラックスして話ができる。特に俺が志望している業界では、web面接が大半を占めており、直接相手と会話をするよりも楽に感じられた。何十社も同じことを繰り返していると、誰でも慣れが生まれる。あまり人と話す事が得意ではない自分でさえ、これほど適応できてしまうのだから、人間の極限とは末恐ろしい。  この最終面接で決めないと、もう後がないのだ。無職生活半年。お金よりも精神的な面で辛い。そのせいでここ最近は全然眠れていない。目の下のクマが画面越しに映っていないかと、それだけが心配だった。 「えー、それでは香月さん。最後にお話したいことが一点ありまして……」 「はい」 「うちの会社の福利厚生とか就業規則について、簡単にご説明させていただこうと思います。まあ、珍しい規則はないんですけれど、入ってからのギャップを無くすために、肩の力を抜いて聞いて下さい」  お、これはフラグではないだろうか。わざわざ落とす相手に説明なんてしないだろう。時間の無駄になるのだから。まだ内定をもらったわけでもないのに、既に脱力しかけていた。相手に言われたとおり、肩から荷が下りたような感覚だ。うなずきを交えつつ、文字の羅列を目で追いながら、テンポ良くすすんでいく。あぁ、早く終われ。そして早く内定をくれ。 「……と、なります。そうですね。福利厚生は以上になります。あ、そうだ。忘れていました。これは時代の流れと言いますか。最近始めた取り組みなのですが」 「あ、はい」 「慶弔金に関しては、同性婚の方も含めるようになったんです。と、言いますのも実は香月さんが所属する部署に、同性のパートナーを持つ社員がおりまして。先ほど仰ったように、時代の変化に適応していこうという取り組みで、昨年から始めました」 「へ、へえ。そうですか」  ふと、そのとき。脳裏にある光景が浮かび上がった。この10年間一度も思い出したことのなかった古い記憶。けれど色あせることなく蘇る。古い木造の廊下。誰かがしまい忘れた雑巾が、窓枠に引っかかって揺れている。多い茂った木々の音と共に、爽やかな風が頬を撫でる。  背が高くて少し猫背で、そして虎のような表情でこちらを睨む。  なぜこっちを見るのだ。なぜ俺を睨むのだ。そうやって記憶に問いかけたって仕方が無い。  彼の記憶が鮮明に現れた。瞳の奥に広がる。どうして、と問いかけても答えてはくれなかった。 「……、と以上になるのですが、何か質問や分からないところはありましたか?」  我に返り、面接官と目が合う。相手は画面越しということもあり、俺の気が抜けていたことには気がついていないだろう。せいぜい電波の調子が悪いのかな、ぐらいにしか考えていない。ぐっと頬をあげてから「いえ、特にありません」と笑みを浮かべた。  どうして急にあいつが出てきたのか考えてみる。  今から10年前なので、17歳の時だ。あの頃は世界の全てが大嫌いで、毎日が退屈だった。
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