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田中の目覚め再び
次に僕が目を覚ましたのは、さっきまでいた東館のホールに比べると天井の低い、会議室っぽい感じの部屋だった。
クーラーがちゃんときいていて、涼しい。
ここ、どこだろう。
そろりと起き上がると、自分が黒いマットの敷かれた床の上に寝てたことに気付いた。
しかも、右を見ても、左を見ても、床に倒れて毛布を被せられてる人がズラーッと並んで寝ていて、さながら、マグロの競市か野戦病院だ。
「ここは……」
「ハイ、コミケの救護室ですよ」
ゲームキャラクターの名前がずらりと書かれたオタ法被を着た、温厚そうな年配の男性がやってきて、僕の目の前にしゃがんだ。
「僕は医者の、通称ドクターDです。DはディレクターのDです、よろしく。貧血で倒れちゃったみたいですね。歩けそうですか?」
「は、はい……どうにか。有難うございます」
頷いて辺りを見回すと、沢山のスタッフさんがいて、ストレッチャーやら台車やらで運ばれてきた急病人が寝かされ、応急処置を受けている。
コミケにはボランティアで勤務しているお医者さんと看護師さんが何十人も、救急病院並みの体制で揃ってて、何十万人も来る大イベントの割には奇跡みたいに救急搬送になる人が少ないって聞いたことあるけど。
この素敵な祭典を守るために、沢山のスタッフさんが関わっていることが改めて分かって、何だかちょっと感動した。
僕なんて本売ることしかできないのに……更にスタッフさんに迷惑までかけてしまって、申し訳ないやら、ありがたいやら……。
ひたすら恐縮してると、僕の荷物の入ったカートを別の女性スタッフさんが持ってきてくれた。
「あ、有難うございます……」
「タクシー呼びますか?」
「大丈夫です、歩けますから……でも、スペースが……」
「あなたのスペースは、コスプレイヤーの女の子二人がちゃんと撤収してくれていましたよ」
ミキちゃんとマキちゃんだ……!
今度、ちゃんとお礼しなくちゃ……。
「そうだ、あなたをここまで運んでくれたマシュマロ君。着ぐるみが暑過ぎた所で激しい運動しちゃったものだから、熱中症になっちゃって、そこで寝てます」
「ええー!?」
なんてこった!
どうやら僕はマシュマロさんを巻き込み事故してしまったらしい。
飛行機の時間があるって言ってたのに、大丈夫かな!?
僕は慌ててあの白いボディを探したけど、どこにも見当たらなかった。
「あの、マシュマロさんは……?」
「あ、お知り合いじゃなかったですか? 端っこで寝てる、一番背の高い若い男の子」
慌てて雑魚寝マットの端の方へと駆け寄る。
その人は額に冷えピタシートをあてられ、仰向けで目を閉じて眠っていた。
一人だけマットから飛び出してる長い手足、汗に濡れてオールバックになってる黒髪、日本人離れした高い鼻梁に、二重の線がくっきりとした彫りの深い目蓋、意志の強そうな、口角のキリッと締まった薄い唇――。
見覚えのあるその顔に、驚いて息が止まった。
だって――。
「何で、世羅が、ここに……?」
そこに横になって寝てるのは、どこからどう見ても世羅公英だ。
僕は振り返り、もう一度聞き直した。
「あの、マシュマロのコスプレしてた人って」
「その人ですよ」
そう言われて、もう一度向き直る。
「……っ」
なんで。
疑問符しか浮かばない僕の目の前で、世羅がうっすらと目蓋を開けた。
何て話しかけたらいいんだろう。
「世羅、……だいじょぶ?」
聞くと、世羅は僕の顔を見て怯んだように、すぐに顔を逸らした。
それでも、聞かずにはいられない。
「……何で、ここに、いるのか聞いていい……?」
「お、俺は偶然通りがかっただけだ」
「う、うそつき……マシュマロの着ぐるみ被ってたよね? も、もしかして、キスの時みたいに、また俺のことからかってたの……」
「違う……!」
世羅が、毛布を跳ね飛ばすみたいにして起き上がる。
白い全身タイツに着てたらしい、黒いタンクトップ一枚の逞しい上半身が露わになって、びっくりした。
「そんな訳あるか……! もう、十何年も前から見守ってきたのに……!」
「はぇ!? 待って、待って、世羅、何の話してんの……!!」
混乱する僕に、世羅は骨ばった大きな手で顔を覆ってしまった。
「ああ、もうダメだ……もう俺は……アカウントも消す……ネットからも金輪際姿を消す……」
「ちょちょちょ、早まらないで!? どういうことなのか、話して……っ、お願いだから」
僕が懇願すると、世羅はやっと覚悟を決めたように、両手を顔から外して俺を見た。
綺麗な、深い紫色の瞳……。
「前に電話で話した時……傷つけて、悪かった。本当は、俺にもある。前世の、記憶ってやつが……」
「!!」
世羅……アスワドだった時の記憶が、戻ってたんだ!?
「い、いつから……!?」
「小学校で、お前と、初めて会った時にはもう……」
うそ……。
それって、小学校の……ほんとに、一年生とかの時じゃないか。
そんな小さな時に、一人であんなに辛い記憶を思い出して、苦しんでたの?
しかも、僕はといえば、全くちゃらんぽらんの小学校生活を送っていたって記憶しかないのに。
「なっ、何ですぐ僕に言わなかったの……!?」
「何も知らずに好きな絵を描いて、今をちゃんと幸せに生きてるガキんちょに、そんなこと言えるか!?」
「……た、確かに……ごめん……」
そうだな、多分そんなこと言われても、からかわれてるだけだと思って、世羅のこと嫌いになるだけだったかもしれない。
でもでも、じゃあ……!
「なのにどうして、何で僕のこと、応援してくれてたの……」
世羅がうつむき、視線を外しながら、どこか泣いてるようにも聞こえる掠れた声で、吐き出した。
「それは……。セフィード様の絵を、好きだったから……。幸せになってっ、今度こそ願いを叶えて欲しくて……それを、見守っていたかった……っ。俺のことなんてお前の幸せには邪魔になると思ったから、他人のふりもしたし、酷いことも色々言った。……悪かった……」
思いがけない、余りにも深い愛の告白に、どうしようもないほど涙が溢れてくる。
僕にはとても出来ない、好きな人をただ、無償の愛で見守り続けるだけなんて。
「世羅、僕こそ、本当にごめん。世羅がマシュマロさんになって見守っててくれたから……僕、お陰で楽しく絵を描けたし、凄く幸せだったよ。でもね、僕、やっぱり、本物の世羅と一緒にいたいし、もう一度恋人になりたいって思ってる」
僕は自分のカートを開けて、今回のコミケで出した新刊を一冊、取り出した。
「この本、世羅に読んでほしい。……この漫画はね、王子と騎士が、生まれた赤ちゃんと一緒に、幸せになる物語を書いたんだ……」
押し付けるように本を渡すと、世羅はびっくりしたような顔でそれを受け取って、無言でそれを開いた。
僕が描いたのは、辛い過去の物語じゃなく、未来の、希望の物語だ。
恋人同士になった二人は、国外に駆け落ちして、誰も自分たちのことを知らない田舎で、慎ましい生活を送る。
産まれた赤ちゃんの成長を見守りながら、絵を描いて売ったり、馬を飼ったりして、いつまでも楽しく穏やかに暮らす――そんな二人。
無言でページをめくりながら、アスワドの――今は世羅の瞳に、涙が浮かぶ。
「ああ……。あなたの漫画は、やっぱり素晴らしい……。あなたの絵は、俺に、生きる希望をくれる……。光に満ちた世界が、ちゃんと未来にあるってことを教えてくれるんだ……」
マシュマロらぶさんからの、初めての文字じゃない感想が、僕の心をぎゅっと抱きしめてくれて、涙が溢れた。
まだ読んでいる彼の横で、泣きながら訴える。
「……僕ね、去年思い出したんだ、アスワドのこと。ダイエットも、世羅と同じサークルに入るために頑張ったんだよ。アスワド……思い出すの、僕だけ遅くなっちゃって……本当に、ごめんね……っ」
「セフィードさま……っ!」
「今はね、晶だよ……!」
どちらともなく両腕を開いて、しっかりと抱き合う。
「世羅、今度こそ、幸せになろう……!」
僕が囁くと、世羅は何度も頷いてくれた。
嬉しくて嬉しくて、ずっと抱き合っていたいけど――ここはコミケの救護室だ。
「あのー、そこのお取り込み中のお二人さん」
ドクターDに突っ込まれて、慌てて僕たちは離れた。
「す、すみません、こんなところでーー」
冷静になって謝ると、ドクターは首を振り、救護室の扉を指差した。
「いや、あなた方二人にぜひ会いたいって言ってる人が外に来てるので、元気になったなら話してあげて」
「……はい……?」
僕たち二人に……?
一体、誰だろう。
マキちゃんとミキちゃんだろうか?
それとも、玉置さん?
でも、今日は参加日じゃないはずだけどな。
「……とりあえず、僕、ちょっと外に行ってくるね。世羅、後で一緒に帰ろう」
首を傾げながら立ち上がり、僕はカートを引きながら廊下に出た。
そこで待っていたのは、背のすらりと高い、ビシッとした夏用スーツのイケメンの青年だ。
見覚えがあるな、と思ったら、さっきスペースにいた時に僕の本を買いに来た男の人だと気付いた。
そうだ、世羅にちょっと似てるけど年上で茶髪で、もうちょっと明るい感じの。
そして、その人は――僕の顔を一目見るなり、叫んだ。
「ママーッ!!」
は、はい!?
突然始まった赤ちゃんプレイで僕が完全に混乱したその隙に、男性は僕の身体に体当たりするみたいに、思い切り抱きしめてきた。
「んなっ!? どちら様ですかーっ!?」
びっくりしてテンパってると、謎の青年は僕に頬擦りしながらしんみりと訴えてきた。
「あなたの同人誌を読んでいたら、私、急に前世の記憶が蘇っきちゃいまして……! 初めまして、前世であなたの子供だったものです!! 父上と母上にずっと会ってみたくて転生したら、時空の歪みでちょっと先に産まれちゃって……いやー、本当に、会えて感激ですよー!」
ベッタリ抱きついて離れない相手に、僕はさっぱり見覚えがない。
前世でも一日しか一緒にいなかったから当たり前と言えば当たり前なんだけれども……。
困惑する僕の後ろに、いつのまにか世羅が仁王立ちで立っている。
「あ、世羅、元気になったんだ……?」
抱きつかれたまま振り返ると、世羅は僕の服の背中をガッと掴んだ。
そのまま僕の体が世羅に無理やり奪い返されて、胸の中で庇われる。
「セフィード様はもう誰にも渡さんっ!! この無礼者っ、出てけーーーーーっ!!!」
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