田中とマシュマロ

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田中とマシュマロ

 ……本当に、マシュマロさんはこんな所まで来るんだろうか。  右を向いても、左を向いても、男同士がイチャイチャしている本と、ポスターしかない、腐女子の牙城みたいなこの場所に。  ドキドキしながら待っていると、通りすがる若い女の子の参加者さんが、何人か本を買ってくれた。  初めて描いたボーイズラブだけど、手にとってもらえたのはちょっと嬉しい。  一人だけ若い男の人も来て、腐男子の人かなぁ、と思わず顔をじっと見てしまった。  すごくハンサムで、年は20代後半ぐらいだろうか。  世羅にちょっと似ていたから、切なくなった……。  お昼の12時を過ぎる頃になると、僕のスペースの前を通る人は滅多にいなくなり、本当に暇になってしまった。  マシュマロさんらしき人はまだ来ない。  いや、もしかしてもう、すでに来たのか?  まさか、さっきのハンサムな男の人?  でも、買う前に試し読みって感じでパラパラなかみを見てたし、名乗ったりしてなかったし、どう考えても通りすがりっぽかったよな。  暇なせいで、時間が経つのが異様に遅い。  会場は冷房なんてかかってない上に、風も殆どなくて、かなり蒸し暑かった。  さらに、連日の寝不足がたたったせいか、気分が悪くて、だんだん体調が厳しくなってきた。  マシュマロさんは、もう、来ないのかもしれないし……もういっそ、駅や電車が混む前に、撤収してしまいたいな……。  そもそもこういうイベントは、お昼を過ぎると一気に客足が減るので、閉会よりも前にいなくなるサークルさんが殆んどだ。  頭が痛い……。  吐き気もする。  どうしよう……誰か売り子さんがいてくれれば、気を抜けるんだけど、今は一人だ。  ちょっと席を外して救護室に行くとしても、スペースが心配で……。  ミキちゃん達に連絡しようかな。  でも、撮影の最中かもしれないし、迷惑だよな……。  仕方がない。せめてお金だけ持って、スペースを外そう。  パイプ椅子から立ち上がり、敷き布を本にかけ、釣り銭ケースをカバンに仕舞い、通路に出ようとした――その時。  周りのサークルの人たちから、ざわざわっとどよめく声が聞こえてきて、僕は足を止めた。 「ねぇ、あれ、何のコスプレ……?」 「え……お餅……? 蝋燭……?」 「マシュマロじゃない……?」 「……その発想はなかったわ……」  マシュマロ、という単語にハッとして、僕は一般参加者の入ってくる出入り口の方を振り向いた。  会議机で作られた島と島の間、人の行き交う通路をヨチヨチと歩いてやってきたのは――コミケのコスプレの規則ギリギリの、高さ二メートル、幅一メートルに従い、ギリギリの円筒形を攻めた、巨大なマシュマロの着ぐるみを着た何か、だった。  しかもお腹のあたりに、何だか癒される感じのほっこりした笑顔が描かれている……。  うっかり通行人がぶつかっても、フワン……と押し返す低反発素材で出来ているのか、かなり邪魔な割には、周りの人に温かい視線で受け入れられていた。 「やだー、可愛い……!」 「後で写真撮らせてくださーい」 「こっち来てー!」  声をかけられるたびに、マシュマロは済まなそうに低姿勢に腰を折りながら、だんだんとこちらに近づいてくる。  呆気に取られている僕の目の前で、いよいよそれは僕のスペースに近づいてきて――ついに、目の前で立ち止まった。  四角いお餅のような体の側面から、ニュッ……と出ている、白い全身タイツっぽいものに包まれたでかい手の上に、500円玉一枚と、100円玉3枚が載っている。 「スミマセン……ワタシ、いつもお世話になってます、マシュマロらぶです。新刊一冊ください……」  その声を聞いて驚愕した。  くぐもっていてよく分からないけど、この人、男だ。  いや、男なのはなんとなく想定内だけど、多分、この人凄いイケボ(=イケメンボイス)だ……。  見た目はこんなシュールなのに……?  僕が完全に凍りついてしまっていたせいで、マシュマロはもう一回催促してきた。 「あの、新刊。ください」 「は、……はい……800円ちょうどですね……って、そうじゃなくて! あなたのために作った本なんで、お金はいりません……!」  僕はお金をつっかえすと、机の上に積んでいた本を一冊取って、マシュマロさんに渡した。  どこからどう目が見えているのか分からないけど、マシュマロさんはまじまじと表紙を見て、それから会議机ごしに僕を見た。 「これって……あの……今回、『トリ娘』じゃないんですね……」 「はい。スミマセン。ご期待に添えなくて……」  覚悟していたことだけど、ちょっと傷つく。  僕はマシュマロの顔(?)色を伺いながら、自分から声をかけた。 「あの……。マシュマロさん、素顔、じゃないんですね……」 「ええ……シャイなので……」  ……シャイ……。マシュマロのコスプレをする方が、よほど恥ずかしい気がするけども……?  とりあえず、このまんまサヨナラになるのは何となく嫌で、僕は声を上げた。 「あの……! マシュマロさん。イベントの後で、ご予定あったりしますか……。せっかくなので、お話とか……」  勇気を出して誘ってみたら、巨大なマシュマロは首(?)を振った。 「いえ。飛行機の時間があるので」  マシュマロさん、そんな遠いところから来てるんだ……?  え……この、自作の着ぐるみを持参して……?  よく飛行機乗れたな……。  そこのところも、ちょっと話が聞いてみたい。というか、どんな人なのか、素顔がやっぱり見たい……! 「あの……。良かったら、lime、交換しませんか」  僕が食い下がると、マシュマロはぷいと横を向いた。 「ネットで知り合った人とは、交換しない主義なんで。すみません」  にべもなく言われて、心臓が凍った。  すごい、用心深い人……、てよりも……。  この人は、僕の絵は異常に好きだけど、作り手の僕のことには興味がない……というか、むしろ接触したくないタイプの人なんだろうな……。  僕、外見は多少変わったけど、人に嫌われがちな空気読めないオタクなところは変わってないしな。  うん、よくある……むしろあるあるだ。  そんなこと、本来、普通に当たり前だ。作品と作り手は、あくまでも、別なんだから。  当たり前のことなのに、無性に悲しい。  最後にこの人と、もしかして心を通わせられるかもって勘違いしてた自分が、のたうちまわりたくなるほど恥ずかしくて、情けなくて、寂しい。  僕は本当のところ、ずっとこの人に依存してたんだ。  この人のくれる、深い、無償の愛情にも近いような、温かい言葉に。  今まで、僕は何のためにマンガを描いてたのか――。  原作が好きとか、キャラが好きとか、そういうのも確かにあったけど、自分の承認欲求を満たす為……というか、同じものを好きな誰かに認めてほしい、そんな誰かと繋がって、寂しさを満たしたかっただけだったのかも……っていう、あんまり目を向けたくない事実を突きつけられて、吐きそうなほど辛かった。  ああ。これできっと、未練なくやめられる。  漫画を……オタクを。  僕は、マシュマロさんに向かって深々と頭を下げた。 「……困らせて、ごめんなさい。長い間、こんな僕を応援してくださって、本当に嬉しかったです。最後、こんな本しか描けなくて、本当にごめんなさい……。今まで、本当に、有難うございました……っ」  頭を上げた途端、脳みそに血が上りきらずに、足元がフラーっとした。  目の前が真っ暗になって、前のめりに身体が崩れ落ちる。  そんな僕の身体を受け止めたのは、机越しに立っていたマシュマロさんの着ぐるみだった。 「おいっ、大丈夫か、しっかりしろ……!!」  低反発素材の中から、妙に男らしい叫び声が聞こえる。 「田中、おい、返事しろ、田中……!!」  ――おかしい。  なんで、コミケ会場で僕の本名を呼んでる人がいるんだ……? 「……ましゅ、まろさん……?」  僕の意識はそのままそこで、プツンと途切れてしまった――。
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