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■CASE2 桃井詩音 初めては小指から
お風呂を済ませた後は、自由時間だった。
外は月や星がキレイで、観測してもいいことになっている。
いつもだったら、春香を誘っていたかもしれない。
だけど私は1人、トイレにでも行くフリをして、施設の外に向かった。
外は、思った以上に他の生徒がいて、感傷に浸れる雰囲気でもない。
あまり遠くへ行ってはいけないことになっていたけれど、私は少しだけ歩くことにした。
ハイキングコースの入り口までくると、さすがに他の生徒は誰もいない。
もう春香のことは好きにならない。
この気持ちはすべて忘れる。
悲しみも心の傷も、すべてここへ置いて行く。
春香がいい子で、これまで誰かに言いふらしたりしなかったのがせめてもの救いだ。
そもそも、言いふらすような子だったなら、好きになってないだろうけど。
そんなことを考えていると、ハイキングコースの方から、足音が聞こえてきた。
私は、零れそうになっていた涙を慌てて手の甲で拭い、足音の正体を確認する。
「あ……」
思わず、声が洩れた。
そこにいたのは、まるで人形みたいにキレイな女の子。
私と同い年くらいか、もう少し上だろうか。
一瞬で奪われた目が、離せない。
月明かり以外、彼女を照らしているのは少し離れた施設の照明だけで、神秘的な存在に思えた。
服装も、漫画から出て来たみたいにかわいいドレス姿だ。
さきほど決意した通り、悲しみやを心の傷を忘れそうになる。
こんな些細なことで忘れてしまえるほど、軽い恋心だったのかと、考えた瞬間、そんな自分が少し嫌いになった。
でも、仕方がないとも同時に思った。
だって、目の前の少女は、それほどまでに綺麗で、かわいくて、異質で。
不自然な存在だったから。
暗い中、はっきりとは見えないけど、髪は銀色で、目は装飾品のように美しい。
そんなお人形のようにかわいい少女が手にしていたのは、蝶だった。
羽をつまむようにして、胸の高さで持っている。
普通、網とか使いそうなものだし、夜に捕まえるものでもないと思うけど。
そんなことを思っていると、目の前の少女が、私に声をかけてきた。
「……あなたの目。とてもキレイ」
「え……」
「水っぽい。ううん、露っぽい。ん? 艶っぽい……かしら」
もしかしたら、日本語に慣れていないのかもしれない。
私の目が濡れているのは、さっき泣きかけていたから。
泣かないように必死にこらえたけれど、それでもじわりと滲んだ涙が、目に潤いを与えてくれたんだと思う。
それが、話しかけてくれるきっかけになったなら、ラッキーだなんて思ってしまう。
「あなたの瞳の方が、すごく綺麗……」
こんなことを言うなんて、慣れないけれど、いま言わなければ、おそらく、もう言う機会はない。
後悔しないようにそう告げると、少女はとくに喜んだ様子もなく『そう……』と、一言だけ答えてくれた。
私と違って、褒められ慣れているのかもしれない。
「あ、あの……蝶、好きなの?」
「好き……とか、そういう感情はない。食べるだけ」
「食べ……え……」
私は、その子の言葉の意味が、よく理解できなかった。
日本語が得意じゃないから、うまく訳せていないのかもしれない。
「でも、食事しているところは人に見せるものではないから、しまっておくの」
そう言うと、彼女はポケットから取り出した瓶に、蝶を詰め込む。
ああ、この子は普通じゃない。
言葉が通じないとか、そういう問題ではないのだと理解する。
私も……きっと、普通じゃない存在だった。
自分では普通だと思っているし、社会だって、そっちに流れているけど、本当の意味で理解されてるわけではない。
この子は、きっと社会に受け入れられる子ではない。
私なんかより、よっぽど。
そう考えたら、私が春香から少し距離を取られたり、可能性を消されたことなんて、小さなことのように感じた。
それと同時に、この少女に対して、申し訳ない気持ちも芽生える。
蝶を食べるだなんて、受け入れられるわけがない……そう決めつけて、自分の方がまだ普通だと、安心するなんて。
謝りたくなったけど、謝ることも失礼だろう。
「……あなたを見ていたら、悲しかった気持ちがなんだか少し消えた気がする。ありがとう」
感謝の気持ちだけは伝えたくて、そう告げる。
「見ているだけで消える? ありがとうって? 消えて、よかったのね」
「ええ、よかった。悲しみなんて、いらないもの」
そう告げると、少女は瓶をポケットにしまい、私に体を近づけた。
「いらないなら……私にちょうだい」
「え……」
どういう意味だろう。
なにかに例えているんだろうか。
「いまも悲しい?」
「……少し。それと、混乱してるかも」
「それは? いる?」
「混乱? 混乱は……いらない、けど」
いらないからといって、消せるものでもない。
そう思っていたのに。
「じゃあ、それもちょうだい」
彼女はそう私に願った。
わからないまま、私は頷く。
いらないものだし、彼女にならあげてもいい。
そんな気がして。
「痛いのは、平気?」
平気な人なんて、いるわけない。
そう思ったけど、普通とか常識とか、たぶんどうでもいい。
彼女はいま、私に聞いてるんだ。
「痛いのは、苦手……。少しなら耐えられるけど」
「麻酔、使ってあげる。ここで眠らせていい?」
「寝ちゃうのは……ちょっと、困るかも」
あと少ししたら、施設に戻らなくてはいけない。
結局、自分はルールに捕らわれていて、自分の意思ではないけれど。
「食事する様子を、見せてはいけないのだけど」
なんでいま、食事の話になるんだろう。
「どうして?」
「はしたないんだったかしら。私、食事のマナーがなってないみたいなの」
「そんな……」
マナーなんて、誰かが作ったルールだ。
きっと必要なものなんだけど……。
「マナーとか、私は気にしない」
「ありがとう。それじゃあ、なるべくこのままの私で、食事する。それなら……きっと、あなたも怖くない」
どういう意味か、私が考えるより早く、彼女が私の右手を取った。
指先を絡めとられ、心臓がバクバクと音を立て始める。
「なに……するの?」
「あなたがいらないって言ったもの、もらうの」
「どうやって?」
「あなたを食べてよ」
食べられるはずがない。
そう思っていたからか、あるいは、彼女に指を絡め取られているからか、恐怖心はない。
好奇心と、興味と、興奮が入り混じる。
「少し、チクッとするかも」
そう言われた直後、手のひらにチクリとなにかが刺さったような気がした。
反射的に手を引きそうになったけど、抑え込むように、私の右手を、彼女が両手で包み込む。
「あ……」
「動かないで。いま、麻酔をきかせているだけ」
いつの間にか、注射でも打たれたんだろうか。
注射器なんて持ってなさそうなのに。
「見たくないと思ったら、目を伏せて」
「……大丈夫」
私がそう告げると、彼女は私の小指に舌先を伸ばした。
「え……」
それがなんだかすごく、美しいもののように思えた。
舌先が、味を確かめるみたいに私の小指に這わされる。
「あ……」
そのまま口に含まれ、温かい粘膜が私の小指を包み込んだ。
美しいと思っていたのに、いやらしいものに感じてしまう。
「ごめん、なさい」
申し訳ない気持ちになって、私は彼女に謝った。
「ん……なぜ謝るの? わからない」
彼女は、小指を口内に入れたまま、私に尋ねる。
「……変なこと、してるみたいに思ってしまったから」
「変なこと……それは、あなたの嫌なこと?」
私は、首を左右に振った。
「嫌じゃない。でも……意識しそうってこと……」
「意識?」
「これ以上なにかされたら……そういう目で、あなたを見てしまいそう」
「そういう目って……?」
本当に理解していないのか、煽っているのか。
たぶん、本当に理解していないのかもしれない。
味わうように小指をしゃぶりながら、私に尋ねる。
初対面なのに。
信頼できる相手かもわからないのに。
ああ、でも、うちの学校の子ではないだろうし、こんなことをしてくるくらいだ。
「くすぐったい……ジンジンしてるの。あなたに……欲情、しそう」
「それは、いらない感情?」
「わからない……」
「とりあえず……続ける」
続ける……ああ、いいんだ。
私に欲情されても、構わないんだ?
ほっと一安心した瞬間、これまで抑えていた思いが溢れるみたいに、体が熱くなってきた。
「ん……」
「それじゃあ……いただきます」
そう彼女が告げた直後、ボキッと、なにかが折れる音がした。
きっと普段なら、不快な音だと感じていただろう。
聞いてはいけない、人がケガをする音。
「あ……ああ……!」
痛くはない。
きっと、麻酔がきいているんだろう。
私の小指を咥えたまま、太いストローでなにかを飲むみたいに、彼女がなにかをすすり上げる。
「うぁっ……ん……」
彼女が口を離した瞬間、自分の小指の第一関節より先がなくなっていることに気づいた。
本当に、食べられた?
でも、私は小指を食べていいとは言ってない。
言ってないけど……。
「換えを持ってきていないから、私の小指をあげる」
彼女はそう言うと、両手で掴んでいた私の右手から、右手だけを外すと、今度は自分の小指を口に含んだ。
ポキンと音を鳴らした後、口の中から小指の先を取り出す。
私のじゃない、彼女のだ。
そうして取り出された小指の先を、私の小指に押し当てる。
断面がくっつくように。
どうしてこんなことをされているのに、頭は混乱しないんだろう。
理解が追いついていないから?
彼女が、美しいから?
……違う。
きっと、彼女が私の悲しみや混乱を、食べてくれたから。
恐怖心さえも、食べられたのだろう。
ありえないほど、私は落ち着いていた。
正確には、混乱していないだけで、少し興奮していた。
「大丈夫。もう少しして馴染んだら、ちゃんと動かせるから」
「うん……」
もともと、誰かに認められたかったわけじゃない。
私は、普通じゃなくていい。
私以外にも、普通じゃない別の誰かが、どこかにいてくれるから。
ここにいて、私に小指をくれた。
「食べてくれて、ありがとう」
「眠っていない人を食べたの、初めてなの。だからこんな風に感謝されたのも、初めて」
「……私、あなたの初めてになれたのね」
「そうね」
「また……会える?」
「この奥にある館に住んでるの。来てくれたら、会えるわ」
儀式のような行為の余韻が、少しずつ落ち着き始めた頃、遠くで私を呼ぶ声に気がついた。
タイミングよく、いま呼ばれ始めたのかもしれないし、ずっと呼ばれていたけど、耳に入っていなかっただけかもしれない。
「戻らないと……」
「ええ。それじゃあまた……」
私は、彼女が見えなくなるまで、その背を見送った。
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