19人が本棚に入れています
本棚に追加
女たらし
時間通りに新宿駅を降り、学校に向かう道筋にあるパン屋で、逸彦は焼きそばパンを一つだけ買い、大通りを折れて学校へ続く坂道を歩いた。
重たいカバンを担いで背を丸めて歩く逸彦の横を、真っ赤なポルシェが物凄いスピードで追い抜いていった。
「バカにしないーでぇよっ、てか」
この辺りの金持ちかと鼻白む思いでやっと坂を登り終えたところに、件のポルシェが止まっていた。
「邪魔くさ」
わざと呟きながら中を覗くと、同じ制服を着た男子と、左の運転席の女とが、濃密に抱き合ってキスを交わしていた。
「マジか」
まだ免疫のない逸彦は、思わず近くの電柱の陰に隠れてじっと見つめてしまった。
いや、隠れることはないのだが……。
やがて降りてきたのは、年上女キラーで有名な、学校一の色男、霧生久紀であった。
毎朝校門を潜るたびに女子の嬌声を浴び、男子の嫉妬と羨望の眼差しをものともせず、武道で鍛えた長すぎる足で校内を闊歩し、独身女教師を悶絶させる無駄に男前なヤツ。そのくせ成績は常にトップクラス。
「夕方、迎えに来るわ」
「今日はバイト」
「何でよぉ、アタシと一緒にいてくれるって言ったじゃーん」
「美梨、しつけぇの嫌いって言わなかったっけ」
「ああん、怒んないでぇ」
どう見ても10歳は上の女性相手に、この俺様な言い方は何なんだ……とばかりに戦慄いていると、久紀がふと立ち止まった。
「何やってんの、チビ」
久紀はニュウッと電信柱の陰に顔を突っ込んでくるなり、逸彦に頭突きをした。それも大分腰を屈めるようにして。
「童貞には刺激が強かった? 」
「ど……」
久紀は真っ赤になって頬を膨らませる逸彦をケラケラと笑い飛ばし、長い足をブンブン振るようにして校門を潜っていった。
腹立たしいことに、久紀は逸彦の隣の席に座った。
「よっ、おチビ」
「んだよっ、おまえかよっ」
「えっと……深海だっけ、志望は? 」
「言わない。どうせおまえより下だよ」
「卑屈なヤツ。志望の専攻聞いただけだぜ、お嬢ちゃん」
「おじょ……ふざけんなっ」
思わず叫んだ逸彦を、先生が睨みつけた。
「かーわいい」
久紀が揶揄うように顔を寄せ、高校生とは思えないセクシーボイスで囁いた。
逸彦は耳まで真っ赤に染めて俯いた。
授業中、たまたま覗いた久紀のノートには、びっしりと書き込みがされていた。女と朝帰りして直登校する奴にしては、意外だった。
男前で、腕っ節も強くて、勉強もできる。こんなヤツ、少女漫画だろう……やっと身長が155センチに至ったばかりの逸彦には、眩しすぎる高嶺の花のように映っていた。
二週間も経つと、この高嶺の花には兄が一人に弟が二人いることや、存外真面目に勉強していること、あのお色気たっぷりの年上女がタンゴダンサーで、彼氏の代わりに久紀が大会に出場する羽目になったことなどが分かってきた。
「また焼きそばパン? それじゃデカくなれねーぞ」
逸彦が昼休みに屋上で焼きそばパンを齧っていると、久紀が握り飯を放ってよこした。そして了解を得るまでもなく、当たり前のように隣に座った。
チビと色男……あまり良くはなかった互いの第一印象はあっという間に薄れ、気がつけば、こんな風に並んで座るようになっていた。
互いに1人が苦ではないし、下らない噂話もしない、色眼鏡で見ないし、干渉もしない。考え事に集中して何も話しかけなくても文句を言われない。
友、と呼ぶべきか、なんてどうでも良いほど、気付けば必ず隣にいる……それが久紀であった。
放課後、数学で解けなかった問題を久紀に教えてもらっていると、そういえば、と突然久紀が顔を上げた。
「おまえさ、若松高校のヤツに告られたって? 」
因みに若松高校は、付近の男子校である。
未だ小柄で、ふわふわのくせ毛に大きな瞳が印象的な女顔から成長しない逸彦は、この学校に通い始めた頃から何度も男子に言い寄られていた。
だから、惚れ惚れするほどに男らしい久紀が、羨ましかった。
実際、久紀は年上女との艶聞が絶えることがない。女との経験がある男ならではの色気もあるし、同世代の奴らより遥かに腹が据わっている。そう、完全なる大人の男だ。
対して逸彦は完全なる童貞だ。どうしようもなくお子様だと、久紀のおかげで嫌という程に自覚させられる。
「変なことされそうになったら、呼べよ」
「呼ばねーよ」
「ま、孤高のおチビだもんな」
「何だそれ」
「いつも1人で、自分のペースを死守して誰にも媚びないし、合わせない。強ぇなって思ってた」
「……おまえこそ、何で俺なんかと仲良くしてんの。もっと同じような奴がいるじゃん」
「同じような奴? 」
よせ、と逸彦の中で止める声がする。照れ隠しにしては最悪だ。
「遊んでて、女にモテて、勉強もできる奴ら。霧生は金もあるんだし、一緒に遊びに行けばいいじゃん。俺はカラオケもクラブも興味ないし、行く金もない。つまんねーぞ」
よせと言ったのに……久紀から、笑顔が消えた。憐れむような冷たい目。
久紀はその実、派手に見えても派手ではない。兄弟思いで、祖父思いだ。バイトの金は自分の参考書や学校の集金に充てているし、弟達に服や本を買っているのも知っている。あんな、親の金で気楽に遊び回ってる奴らとは違う。
ただ、ひたすらモテるというだけなのだ。
だから、同じように、地味ながら堅実に一人で生活を維持する逸彦と、どこかウマが合ったのだ。
わかっていた筈なのに、それなのに……。
「帰るわ」
久紀は参考書をさっさと仕舞って、失言を激しく後悔する逸彦を置いて帰ってしまった。
謝ることもできず、逸彦は沈んだ心を抱えて昇降口を出た。
「あのぅ、深海逸彦くんだよね」
校門を出たところで、若松高校の制服を着た2人の男子に、逸彦は呼び止められた。
155センチの逸彦を取り囲む彼らは、運動部系なのか、長身でガタイがしっかりしていて、囲まれると圧が中々のものであった。
「すげぇ、マジ可愛い」
「やべぇだろ、もうさ、たまんねーの」
何の話だと聞きただす前に、逸彦は2人に腕を掴まれて引きずられていった。
最初のコメントを投稿しよう!