序章

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序章

「お父さま、お父さま、りゅうのお姫さまのお話を聞かせて」  穏やかな冬の昼下がり、レナート・セバスティアン・アウロラ伯爵が炉端で寛いでいると娘のサラ・ベアトリーチェにねだられた。娘の愛らしい笑顔に彼はふと笑う。こうしていられるのはサラのねだるお話の主人公、龍のお姫様のおかげに他ならない。  彼はつい半年前まで海を隔てた遠い国にいた。船の沈没事故に巻き込まれ、彼自身も死を覚悟したほどだった。生存者は彼一人しかおらず、一度は彼が死んだという誤報が家族のもとに届いてしまった。  龍のお姫様こと、龍生国の皇女月城麗子に助けられなければ、彼はここにいることは愚か、生存することさえできなかっただろう。その恩義の気持ちと懐かしさから十歳の娘に話して聞かせて以来、お気に入りの話になった。  彼が保護された龍生国は至極不思議な国だった。香でもって時を計り、水をなによりも友とした。 「そうだねぇ、どのお話にしようか」 「お父さまが助けられたときのお話がいいわ」  レナートは娘を隣に座らせ、ゆっくりと口を開く。  あの日、投げ出された夜の海は恐ろしいほどに暗く、身を切るように冷たかった。 「船が暗礁にぶつかったのはまだ夜も明けきらない頃のことだった。衝撃で目を覚まして眼鏡をかけようとしたけど、見つけられないまま船は恐ろしい速度で傾いて行く。私は這うように甲板に出た。そこはもう騒然としていて、救命艇を下ろそうとしていたけれど、どう見ても数が足りていなかった。誰もが競うように乗り込むせいで、沈んでしまう救命艇もあったよ」  誰もが助かりたい一心だったのだろう。それを責めることはできない。 「見る見るうちに船は沈み、私は小さな木切れにつかまって漂流するしかなかった」  彼が救命艇に縋らなかったのは助かりたいばかりに殺し合いが始まったことも原因の一つだった。救命艇に拘っていたら早くに命を落としていただろう。殺し合いで流された血に獰猛な海の生き物たちが集まってきたのも死者が多く出た原因の一つだ。だが、そんな生々しい話を娘に聞かせるつもりはない。 「冬の海は冷たくて指先がすぐにかじかんできた。もうダメなんだと思ったよ。ふっと思い浮かんだのは君たちの笑顔。もう一度会いたい。もう一度抱きしめたいって強く強く思った。その時だ。小さな小舟が私のもとに真っ直ぐに向かってきた」  サラは目をキラキラと輝かせる。小さなレディはこのくだりが大好きだ。 「小舟は私の前でぴたりと止まった。不思議に思って見上げると赤い着物を着た黒髪のお人形のようにかわいらしい女の子が立っていた。 『乗りゃれ』  女の子は聞いたことのない言葉でそう言った。意味はわからなかったけど、助けてくれるんだと思って、急いで小舟によじ登った。小舟には帆も、オールもパドルもない。どうやってここまで来たんだろう。不思議に思っていると女の子が来た方を指さした。すると小舟がまた走り出したんだ。小舟は少しも揺れずに真っ直ぐに走っていく。それにどんどんスピードも上がって行くんだ」  沈没地点はかなりの沖合だったと後に聞いた。少女の小舟はかなりの速度で走っていたのだろう。 「女の子は深い海のように青い目で私をじっと見つめていた。心の奥底まで全部全部見られてしまうんじゃないかって思うようなきれいな目だった。少しすると飽きたのかボール遊びを始めた。三つの小さなボールをくるくる投げる一人遊びをしていたよ。そのボールは水のように透き通ってキラキラ輝いていた。女の子がボール遊びをしながら歌い始めると寒さが和らいで、いつの間にか服が乾いていた。冷たい海風も感じない。すごく不思議な時間だった……」  あの日のことをぼんやりと思い出す。あまりに不思議な出来事に黄泉の国から迎えが来たのかとさえ思った。 「岸について女の子が降りると小舟が消えて、私はそこに倒れてしまった。急に寒さが押し寄せて動けもしない。女の子は何人もの兵士を連れてきた。普通の兵士には見えなかったよ。きらびやかでゆったりとした衣装をまとっていて、とてもじゃないけど、剣を振るえるようには見えなかった」  その認識が間違いだったと思い知らされるのに時間はいらなかったが。 「彼らに運ばれてたどり着いたのが龍の生きる国、龍生の王宮だった。女の子は龍生国の第二皇女月城麗子姫だったんだ」  サラはほぅとため息を吐く。この時麗子はまだ七歳の幼い少女だった。一年以上を一緒に過ごし、我が子のように慈しんだ。 「わたしもいつかりゅうのお姫さまに会いたいわ」 「そうだね。いつか会いに行こうね」  泣きじゃくる姫にまたいつかと約束して別れてきた。そのいつかがいつ来るかはわからない。けれど、必ず会いに行くとレナートは決めていた。受けた恩に報いるだけでなく、龍生の皇王(すめらのきみ)にされた不吉な予言を覆すために。   
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