亡国の姫

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「お父様、レイを知らない?」  数日後の昼下がり、サラが訪ねてきてレナートは顔を上げる。 「奥の中庭にはいなかった? ラファエーレが天耀に声かけてたから」 「またなの? お兄様ったら毎日じゃない」 「寂しい?」  サラとラファエーレは仲のいい兄妹で、これまでは帰ってくるとよく一緒に遊んでいた。 「そうじゃない、けど。ううん、寂しいんだわ。レイもお兄様も私と遊んでくれないんだもの」  妹のようにかわいがっているレイも、久しぶりに帰って来た兄もサラといる時間がほとんどないからそう感じるのも当然だ。十五歳といっても、まだまだ子供だ。 「レイは剣を握っている方が好きなのかしら?」 「レイは活動的な子だからね。身体を動かすのが好きなんだ。でも、刺繍をよくしていたし、おしゃべりも好きなはずだよ」 「刺繍?」 「レイの国の刺繍はすごく緻密なものでね。すごく時間がかかるし、子供のやるようなものじゃなかったけど、よくしていたよ。今もできるんじゃないかな。でも、今は剣の稽古が楽しいんだ。許しておあげよ。いっそ見に行ってみたらどう?」 「そうね。そろそろお兄様が天耀に勝ったかもしれないし」  レナートは軽く肩をすくめる。最初の手合わせの時、天耀は相当手加減をしていた。いくら飲み込みの早いラファエーレでもそうそう追い越せるとは思えない。 「まだ厳しいだろうけど、私も行こうかな」  レナートは娘と連れ立って奥の中庭に向かう。奥の中庭は元々ほとんど人が寄り付かない。人払いをしている今はなおさらだ。天耀はごく一部の人間にしか見えないから彼らの手合わせが見られないようにするための措置だ。  麗子もあれ以来天耀とよく手合わせをしている。二人の動きは速すぎてもはやほとんど見えない。そのせいで起きた幽霊騒ぎでますます人が寄り付かなくなったのは幸か不幸かわからない。  麗子には手合わせ用にズボンとシャツを与えた。元々ドレスよりもさらに動きにくい装束で暮らしていた麗子はますます俊敏になり、剣技は研ぎ澄まされた。  ラファエーレが天耀に勝てる日はまだまだ来そうにないが、天耀に勝ったら麗子と手合わせをする約束をしているらしい。血気盛んなことだ。若さとはそういうものだったろうかとぼんやり思う四十過ぎの伯爵だった。  中庭に出ると二人が激しい攻防を繰り広げていた。以前見た時よりラファエーレが天耀についていけている。可能性なしとは言えなくなってきたようだ。天耀にはまだ余裕があるが、手加減をそれほどしているようにも見えない。  麗子は木陰に座って史書の続きを書いていた。しっかりした画版と携帯用の筆記具を渡したから活用してくれているらしい。以前は置いていなかった太刀を傍らに置いていた。 「レイ、ラファエーレはそろそろ君のお眼鏡にかないそう?」  声をかけると顔を上げた麗子はちらと二人を見た。 「飲み込みが早いのであと二週間といったところでしょうか。楽しみになってきました」  集中して書いているようでいて、二人の様子もよく見ているらしい。 「それは何よりだね。だから太刀を持ち出してきたの?」 「それも少し」  麗子が小さく笑った。他にも理由があるようだが、聞くのはやめておいた。 「稽古は仕舞いじゃ」  二人が来たことに気付いたのか、天耀はあっさりと決着をつけた。やはりまだまだ差は大きいようだ。ラファエーレは大きく息をつく。額を流れる汗や乱れた息からも彼に余裕など少しもなかったことがうかがえる。 「あとちょっと、って思うと、遠いんだもんな」  天耀はころころと笑って水を差し出した。最初の険悪さはどこへやら、今は師弟のような雰囲気さえある。 「遠きにありて近きもの。もはや遠くない。精進せよ」  ラファエーレはごくごくと水を飲んで座り込む。 「余裕綽々で遊んでるくせに」 「吾が姫が太刀を抜かれたくて待っておられるのが楽しいのよ。ラファエーレ、早う強くなれ、姫が待っておる」 「気軽に言ってくれるよね、まったく」  ラファエーレは盛大にため息を吐いた。差の大きさは自身が一番よくわかっているのだろう。 「父には勝てるほどになったと思うが?」 「父上に?」 「天耀、私は引退した身ですよ。焚き付けないでください」  麗子が不意にくすくすと笑った。 「あれだけの手練手管を見せておいて引退したとは笑止。次は勝つと言ったキリ、手合わせをしていませんでしたね」  麗子のターゲットが自分だと気付いたときには遅かった。サラもグルだったのかもしれない。三人がいつもここにいることをサラが知らないはずがなかった。 「あー、今日は腰が痛くて……歳なので……」  わざとらしく腰をさすってみたが、麗子はにっこりと笑った。近頃笑顔が自然になって来た彼女のおねだりが一つも断れない。 「お願いします、レナート」 「はーもーわかりましたよ。最近おねだり上手になって困りますね」  麗子はころころと笑って立ち上がる。 「今度は勝ちますよ」  麗子は負けず嫌いで、負けると隠れて泣く子だった。前回、レナートが少々ずるをして勝ったから根に持たれているのかもしれない。だが、彼女が自分の希望を通すために人を動かしたことをうれしくも思う。麗子は以前の明るさ取り戻し始めた。その笑顔を守りたい。 「レイ、今回もハンデ貰えませんか?」 「嫌です」 「ですよね」  レナートはため息を吐き、ラファエーレから訓練用の剣を借りる。麗子は天耀と同様に太刀を作り出した。刃のない氷の太刀だ。だが、長さは太刀と同じで、麗子の身長に対して長過ぎるようにも見える。だが、彼女は幼いころからその長さの得物で鍛錬を重ねてきた。  小柄な彼女には不利ともいえるが、それさえも強みに変えるのだ。並ではない。 「ラファエーレ、見てわかるものもある。吾が姫となれの父の手合わせ、よう見ておけ」 「言われなくても」  相対した直後、麗子がかき消えた。尋常なスピードではない。サイドから打ちかかってきた麗子の太刀を受ける。 「正面から突っ込まなくなったのは褒めてあげます。でも」  やはり麗子は力が弱い。軽く押し返すとバランスを崩した。 「鍔迫り合いは不利ですよ」  そのまま転ぶかと思いきや、麗はぐんと跳躍した。 「作戦のうちですよ」 「ですよね!」  麗子の蹴りを腕で受け、突きを狙う太刀筋をサーベルでそらす。 「おしゃべりは命取りですよ、レナート」  彼はいつの間にか視界がぼやけていることに気付く。麗子に眼鏡を取られたようだ。一瞬のことで気付かなかった。 「レイ、眼鏡を取るのは反則ですよ」  彼の攻撃を避けながら彼女は踊るように眼鏡を返して来た。 「昔手合わせした時には掛けていなかったので、見えなくても動けるのかと思っていましたが?」 「動けなくはないですよ。距離を測るのが難しいだけで!」  二人は自然に会話を続けながら激しい攻防を繰り広げる。 「なら、あの時も眼鏡があったら私に負けなかったんですか?」 「どうかな? あなたの国の剣術はスピードが段違いですからね!」 「私は遅い方でしたよ?」  そう言った麗子の方が手数が多く、レナートは押され始めていた。 「あなたたちの遅いが、私たちの速いなんですよ!」  唐突に背後を取られ、ナイフを突きつけようとしたが、ナイフが一本もなかった。 「え?」  レナートの首にすっと添えられたのは彼のナイフだ。 「種明かしをしたら取られないように用心しないといけませんね」  麗子はくすくすと笑う。やはりこの姫には勝てそうにない。レナートは両手を上げる。 「ああ、負けました。やっぱりレイは強いですね。いつの間に抜いたんですか?」 「抜いたのではなく、外しました」  身体を離した麗子はレナートのナイフ入れを持っていた。 「えぇ……」  ナイフ入れは腕にベルトで止める特別製で、簡単には外せないようになっている。見ればいつの間にか袖がまくられていた。カフスボタンも外し、三本あるベルトの留め具も全部外したらしい。眼鏡を取って見せたのはデモンストレーションだったのかもしれない。 「ナイフを出されるのが一番脅威だったもので。レナートはサーベルを使うのがあまり得意ではありませんよね?」 「おや、気付かれました? 目が悪いせいか精度が低いんです。短い方が扱いやすい」 「やはり。純粋に剣の腕だけならラファエーレの方が上です。レナートの方が強く感じるのは経験値のものでしょうね」 「冷静に分析されると辛いものがありますね」  レナートは軽く肩をすくめて、ラファエーレに視線を移す。 「ラファエーレ、聞いた通りだよ。私が訓練であれ手合わせを回避するのは実戦でしか使えないものだからだ。御前試合になんか引っ張り出されたら即負ける。でも、あらゆる状況で生き残るってそういうことなんだ。覚えておいてね。天耀もレイも実戦剣術を使うから正攻法だけじゃほぼ勝てない。彼らと鍛錬を続けることで得られるものは間違いなく多いだろう。士官になった後に役に立つかは別だけどね。いろいろ工夫して頑張ってごらん」  ラファエーレはしっかりと頷いた。たくさん見て学んでほしい。近衛士官なら命のやり取りは少ないだろうが、軍人である以上どんな局面に立つかわからない。これほど強い手本を身近に持てたのは若き士官候補生にとって幸運だろう。 「あの、レイ? 戦闘中に外せたのに戻せないんですか?」  話をしている間、麗子はナイフ入れをレナートの腕に戻そうと悪戦苦闘していたが、一本目のベルトさえ止められていなかった。 「外し方はわかったんですけど、戻すのは難しいですね……」  元々が靴一つ履くことさえ自分でしたことのない高貴な姫だ。今も身の回りの世話を天耀に任せている彼女にできなくて当然だろう。 「自分で戻せるので大丈夫ですよ」  レナートはいつも通り片手でナイフ入れを着ける。着ける分にはそれほど複雑ではない。 「レナート、私もこれが欲しいです」 「えぇ……必要ないでしょう?」 「護身用に」 「いや、あなただったら戦わずに逃げてほしいんですよ。目立たないでほしいんです。この国の女性はサラやアマリアのように剣を持つことさえしません。あなたが暴漢を片っ端から倒して噂になられる方が問題なんです。あなたならほとんど誰からでも逃げ切れるでしょう?」 「吾が姫よ、レナートは暴漢の心配をしているのだ。吾が姫を侮れば腕の一つや二つ置いてゆくことになる。そうなれば、彼らの暮らしが立ち行かなくなろう。それは皇女の振る舞いとしていかがなものか」  天耀の言い分はズレているとも合っているとも言い難いが、説得してくれるならそれでいいとも思う。追手の存在を彼女に思い出させたくない。 「それに吾が姫よ、ナイフがなくともこうすればよい」  天耀が指さすと細い枝がぽきりと折れた。麗子は感心したように頷いて、同じように指さした。今度は太い枝がぼきりと折れた。 「えぇ……」  予想外の展開に開いた口が塞がらない。 「これこれ姫よ、それでは人は死んでしまう。人は脆いのだ。もそっと優しゅうな」  天耀がもう一度やらせようとしていることに気付き、レナートは慌てて口を開く。 「いやいやいや! 待ってください! ダメですから。飛び道具も禁止。天耀もなに危険なことを教えているんですか! ダメです」  麗子は不思議そうに小首を傾げた。変なところでズレているのは文化の違いと許容してきたが、危険を伴う行為はしっかりと禁じなければならない。 「水遊びもダメなんですか?」 「水遊びなんですか?」 「はい。水滴を飛ばしただけです」  水龍とその加護を受ける姫は当然ながら水とゆかりが深い。だが、水滴一つで木の枝を折るとは思わなかった。 「水遊びは本来何かを破壊するものではないんですよ。なので、さっきの水滴飛ばしは禁止です」 「わかりました」  麗子が素直に頷いた直後に大量の水が降って来た。 「うわ」  麗子はくすくすと笑って天耀に水の球を投げる。 「天耀、レナートは私たちが生きやすいように注意してくれている。ちゃんと聞きなさい」 「吾が姫の指図以外聞かぬ」  天耀は当然のように水の玉を操り、ラファエーレに当てる。 「ちょ、こんな寒い時期に!」  天耀が両手を広げるとそこにいた全員がずぶ濡れになった。 「天耀! 今日こそ許さぬ!」  びしょ濡れの麗子が叫ぶと天耀はくつくつと笑った。 「捕まらねば済むことよ」 「わらわを侮るでない!」  ドンという衝撃が響き、天耀が氷の柱に磔にされていた。麗子の方が強いとは聞いていたが、想像以上だ。天耀も予想外のことだったのか、動揺している。 「天耀、今後は私の言いつけだけでなく、レナートの言いつけも聞けるな?」  天耀はプイと顔をそむけた。彼にも神としての矜持があるのだろう。本来は守護神ではなく、瀧に住まう水神だったと聞く。 「レイ、私は気にしていませんから」 「レナートは黙っていてください。これは主人として守護神を躾けているんです」  キッとこちらを見た麗子の青い目がわずかに光っていた。これは引き下がるほかない。確かに近頃天耀の振る舞いが目に余るのは事実だ。麗子が手を滑らせるとすべてが何事もなかったかのように乾いた。 「仕置きをされたいのか、天耀」 「吾が姫にできようはずもない」 「試してみるがよい」  麗子は独特の形に手を組んで何事か唱え始めた。 「ま、まさか! 吾が姫よ、許せ!」  天耀が顔色を変えた。麗子は相当厳しい罰を下そうとしているらしい。 「わらわを侮った罰じゃ」 「あぁああああっ」  天耀は身をよじって絶叫した。あたりに轟いたのは雷鳴だろうか。天耀はすっかり大人しくなっている。 「うわ、レイって怖そうと薄々思ってたけど、想像以上……」  ラファエーレの声にレナートは曖昧に笑うことしかできない。サラも呆気に取られている様子だ。大男で何にも動揺しそうにない天耀があれほどおののき、ダメージを受ける罰を下せる麗子はやはり普通の少女ではない。  麗子はぐったりとした天耀の顎を引き上げる。 「天耀、わらわの言うことのみならず、レナートの言うこと聞けるな?」  天耀は抵抗するそぶりを見せたが、ぎりと睨まれて頷いた。 「許してやろ」  麗子は氷の柱を消し、跪いた天耀と唇を重ねた。天耀の力が戻って行くのがわかる。龍生の王族にとって守護神と唇を重ねるのは力の授受や祝福のほかに、力の上下を教え込む側面があるのだという。それはどこか神聖な儀式にも見える。天耀は自然と頭を垂れた。 「吾が姫よ。吾がおろかであった」 「わかればよい」  天耀の頭に手を置いた麗子は正しく龍生の皇女だった。 「ご迷惑をおかけしました」  そう言って頭を下げた麗子はいつも通りで、男二人は苦笑いを浮かべる。サラだけが麗子のそばに駆け寄った。 「大丈夫よ、すぐに乾かしてくれたじゃない。レイは大丈夫?」 「私は」  麗子は唐突に意識を失くして崩れ落ちた。天耀が自然に抱きとめる。 「大丈夫ですか?」 「力を使いすぎた反動が出たのだ。休ませればようなる」  天耀は深いため息を吐いた。 「あなたが怒らせなければよかったのでは?」 「確かめたかったのだ」  彼が傍若無人に振舞って見せたのは理由があったらしい。これまでも理解できない発言や行動はあったが、明らかに迷惑になる行為は避けていた。 「吾が姫は強い。強いからこそ脆い。七つまで吾が姫が閉じ込められて育ったこと知っていよう」 「はい。力が制御できなくて周囲に害を及ぼしてしまったから力が使えない結界の中で育ったんですよね?」 「そうじゃ。理由はそれだけではない。強き力の反動を小さなその身で受け止めきれぬのだ。氷の柱を出したまではよかったが、仕置きの反動を受け止めきれておらぬ。強さも考えものよ。何かしらの手立てを講じねばなるまいよ」  天耀はもう一度ため息を吐いてかき消えた。麗子を寝かせに行ったのだろう。 「サラはレイが力を使うとよくないって知ってたの?」  サラは迷う様子を見せたが、頷いた。 「天耀から聞いていたのもそうなんだけど、レイはたまに倒れるの。それは決まって占いをした後や、天耀と何かをした後に。レイにも天耀にも口止めされていたから黙っていたけど、さっきは本当に怖かったの。あんなに強い力を使ってレイが死んじゃうんじゃないかって」 「そう。大丈夫だよ。レイは特別強いから色々難しいんだって。天耀が大丈夫って言っているうちは大丈夫だよ。心配なら様子を見に行っておいで」  サラは頷いて去って行った。レナートは深いため息を吐く。 「実はレイの引き渡し要請の書状が届いたんだ。それで天耀も焦っているのかもしれない。国交のない国だし、遠すぎるからもみ消されたんだけど」 「そうだったのですね。レイと外出するときはこれまで以上に注意して行動します」  その言葉に違和感を覚えてレナートは息子の顔を見る。 「君とレイっていつの間に外出するほど仲良くなったの?」 「ああ、サラも一緒ですよ。サラが出かけたがるので」 「なるほどね。サラがレイをお兄様に独占されて寂しいって拗ねてたよ」  ラファエーレは軽く肩をすくめる。 「レイは木陰で書き物をしているだけなのでサラはしょっちゅう来てますよ。今日は口実」 「やっぱりサラもグルだったんだ」  レナートはくすくす笑う。 「レイが何かを欲しがったり、したがったりするのは珍しいから叶えてあげなきゃって言ってました。あの子、仕方がないんでしょうけど、たまにびっくりするほど悲しそうな眼をするので抱きしめてあげたくなります。しませんけどね」  レナートはふうとため息を吐く。 「あれでもずいぶんよくなったんだよ。気位の高い子だから痛手をあまり見せたがらないんだけど気付いたらできるだけ話を聞いてあげてもらえると嬉しい」 「はい。できるだけ気を付けるようにします」  じわじわと迫ってくる追手にレナートは不安を募らせる。そればかりではない暗雲が垂れ込めているような気がしてならなかった。   
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