28人が本棚に入れています
本棚に追加
春の終わり、麗子が不意と体調を崩した。季節の変わり目だからかと思ったが、龍生が滅んだ日が近付いたから気持ちが落ち込んでいる可能性もある。眠り薬を余分に欲しがったり、しきりに寂しがったり、様子もおかしい。天耀もあまり話そうとしなくなった。
ただ事ではない。それだけしかわからない。どうすることもできないまま、龍生が滅んだ日を迎えた。麗子は悲鳴を上げて気絶し、抱きとめた天耀はさめざめと涙を流した。
「吾が姫の運命はどうして斯様に重い……」
「天耀、話してください。どうしたんですか?」
天耀は逡巡した末に美しい拵の短刀を差し出して来た。
「なんですか?」
「吾が姫は知ってしまった。龍生が滅んだわけを」
レナートは言葉を失う。一番知ってほしくないことを麗子が知ってしまった。
「復讐に生きると吾が姫の心が定まったら、諸共に殺せ」
「そんなことできるわけないじゃないですか! 復讐を選んだとしても生きていてほしいと思ってはいけないんですか?」
「吾が姫を邪神にしとうない」
絞り出すような声だった。
「一人殺せば歯止めは利かぬ。吾が姫は仇の国々をすべて平らげよう。それだけの力が吾らにはある。吾が姫は追うものをすべて屠る。吾が姫は穢れに染まり、見境が付かなくなる。吾諸共邪神になる。来るは末世。吾が姫の御心は地獄のように荒れ果てるであろう。姫は死んでも家族に会えなくなる。いや、死ぬことさえ許されなくなる。そうなってまで生きよというは残酷と思わぬか……」
レナートは想像以上の話に声さえ出なかった。
「なれの剣であれば吾が姫も心安んじて受け入れよう」
天耀は静かにほほ笑んでレナートの手に短刀を握らせる。
「これも、吾らの定め……」
レナートは震える手で短刀を握り締める。もしもの時にはこの手で二人を殺さなければならない。どうしてそんな運命が待っているのだろう。麗子はただ強大な力を持って生まれてしまっただけなのに。
「レイが起きたら静養に行きましょう。きっと気分が晴れます」
震える声で言うと天耀はゆっくりと立ち上がった。
「そうじゃな」
去って行く天耀の表情は見えなかった。
レナートは南方の湖水地帯を静養先に選んだ。水龍である天耀は清い水が多くある地でこそ本領を発揮する。麗子も同様であるのは彼から聞いた。
麗子は起きたまま眠っているような雰囲気でずっとぼんやりしている。時折、その気配がざわりと黒く染まる。麗子は必死に考え、苦しみあがいているのだろう。どうか復讐も死も選ばないでほしいと願い続けることしかできない。
天耀の腕に抱かれたまま動かない日も多い。開いたままの目はガラス玉のようで、このまま麗子が消えてしまうのではないかと怖かった。サラは毎日、麗子の髪を梳かしながら一生懸命話しかけているが、反応がない。
「レイはどうしてしまったの? 本当に心を病んでしまっただけなの?」
サラに泣きそうな顔で問われて、レナートは力なく笑う。
「運命が重すぎるんだ。一緒に背負ってあげたくてもできなくてね」
代わりに背負えるものなら代わってやりたい。そう思ってもできるはずもなく、麗子は苦しんでいる。心優しく、民を愛する姫であるのに自らが生まれたせいですべてを失ったと知ってしまったのだ。自身が悪いと思い、死を選ぶか。彼女を恐れた国々の王が悪いと思い復讐を誓うか。二つに一つを彼女は選んでしまうのだろうか。ただ、自身の生を選んでほしいと願うのは傲慢なのだろうか。
天耀に託された短刀をぎりと握る。どちらの道を選んでも麗子は命を落とすさだめ。この手にかけたくない。だが、その先の苦しみを思えば殺してやるのが正しいのだろう。
その時、突如として突風が別荘を揺らした。木々のざわめきは聞こえず、ただ別荘だけが揺れた。レナートは胸騒ぎを覚え、麗子の部屋に駆け込む。窓が開き、誰もいない。
「レイ!」
窓の外を見ると麗子が浮かんでいた。滑るように湖に向かっている。すぐそばを飛んでいる長大な白龍は天耀だろうか。
「レイ! 行っちゃダメです! 戻ってきてください!」
振り返ることもなく麗子は進み続け、すっと、湖に落ちた。水しぶきもなく吸い込まれるようだった。
「麗子姫!」
レナートは必死に走って湖に飛び込む。透き通った湖を麗子はもがくこともなく真っ直ぐに沈んでいく。胸に抱いた太刀が重りになっているのだろうか。それとも寄り添っている天耀が導いているのだろうか。レナートは必死に潜ったが、麗子の沈む速度が速く追いつけない。レナートは一回浮上して麗子が沈んでいく地点の真上に移動してから勢いをつけて潜る。
湖の底に麗子が横たわっているのが見えた。天耀の姿が消えている。それの意味するところがわからない。とにかく浮上させなければ死んでしまう。掴もうとして伸ばした手が弾かれた。
「そんな……」
言葉にならないあぶくが口から漏れる。麗子はレナートの手を汚させることなく死ぬことを選んでしまったのだろうか。
「麗子姫」
気高く美しい姫はもう生きることをやめてしまうのだろうか。せっかく笑顔を取り戻してくれたのに。せっかくわがままも言えるようになってきたのに。これで終わりと思いたくなくてレナートは何度も手を伸ばす。弾かれるその手が赤くなっても、息が切れそうになっても諦めきれなかった。
「嫌ですよ……」
その時、麗子の目が開かれた。ほの青く光る目が確固たる意思を持つ。
「参る」
はっきりと彼女の声が聞こえた。突然、驚くほど大きな水龍が彼女を真っすぐに押し上げた。レナートもその龍の鉤爪につかまれ、一気に水面を突き破る。
「天耀?」
笑い声のようなゴロゴロという音が龍の喉から聞こえた。
「レナート、心配させてすまなんだ」
見上げれば麗子が白銀に輝く龍の頭に立っていた。ドレスではなく龍生の衣装をまとっている。その姿は正しく龍生皇女月城麗子のものだった。彼女が選んだのは死ではなく、復讐なのだろうか。だが、禍々しいものは感じない。ただただ高貴に立ち返った深窓の姫君がそこに立っている。
「あなたが無事ならそれで」
「レナート、わらわは長く、考えていた。わらわのせいで龍生が滅んだのであれば、死ぬべきではないか。わらわの愛するものらを屠った者どもを平らげるべきではないか。なれど、わらわが最後に思ったはそなたらのことであった。寄る辺もなくしたわらわを助け、親身になってくれた。愛してくれたそなたらのことを思い出した。わらわはもそっと生きようと思う。これからもわらわを愛してくれるだろうか?」
レナートは涙で前が見えなかった。麗子は最良の道を選んでくれた。
「当然じゃないですか。私はあなたの後見ですよ。愛しています、麗子姫」
「有り難う」
ふわとほほ笑んだ麗子は大きな玉を二つ取り出した。一つは透明で、一つは青い。
「これはそなたに預けておこうとぞ思う」
「なんですか?」
「わらわと天耀の力を込めたものじゃ」
「えっ」
「我が身から取り出すため、湖の力を借りた。生きるため、また自らの力を使いこなせるようになるまでそなたに預けようと天耀と決めたのじゃ」
「わかりました。預かるのはいいんですけど、目立つので降りませんか?」
天耀はゆっくりと高度を下げる。二人を下ろすと天耀は人の姿に戻ったが、角が消えていた。
「小さくなりました?」
「力を七割ほど玉に移したゆえ。レナート、力を玉に移す利点は術者に見付けられにくくなるところにもある」
深い理由あってのものだったらしい。
「二人で決めたなら事前に教えてほしかったんですけど」
ついつい拗ねたような口調になった。天耀はくと笑い、元のドレス姿に戻った麗子は申し訳なさそうにした。
「話そうとするだけでも辛かったんです。ごめんなさい、レナート」
「いいんですよ。無事だったから」
三人で別荘に向かって歩いて行くと、サラがタオルを持って走って来た。
「レイ!」
サラは濡れるのもいとわず麗子を抱きしめる。
「心配をかけてごめんなさい、サラ。あなたの声にどんなにか励まされたか」
「無事でよかった……」
サラの声が震えている。泣いているのかもしれない。
「無事です。ちゃんと生きています。もう大丈夫です」
「本当?」
「はい。大好きです、サラ」
「私も大好きよ」
レナートはそんな二人の姿を見て、ほっと息をつく。やっと気持ちが落ち着いて来た。
「そういえば、乾かさないんですか?」
「力を削ったゆえできぬ」
「え、じゃあ、早く戻って乾かさないと風邪を引いてしまうじゃないですか! レイはここのところちゃんと食べていなかったんですから!」
そんな心配をよそに、翌日熱を出したのはレナートだった。水神の加護を受ける麗子は水の影響をほとんど受けないのだという。
久しぶりの高熱にレナートが寝込んでいると、天耀が不意と現れて薬を飲ませてくれた。
「惟神なり。眠れ、レナート、すぐにようなる」
額に大きな冷たい手を添えられ、それがひどく心地よくて、レナートはすぐに寝入ってしまった。そして目を覚ますとすっかり熱が下がり、体調も良くなっていた。風邪を引く前よりもよくなったような気さえする。
力を弱くしたといっても神がくれた薬だから特別だったのだろう。身支度を整えて談話室に行くとサラやアマリアと刺繍をしていた麗子がほっとしたように笑った。彼が風邪を引く原因を作ってしまったから責任を感じていたのだろう。天耀が部屋に来たのも彼女が送り込んだのかもしれない。
「レナート、気分はいかがですか?」
「もうすっかり良くなりました。あなたがくれた薬のおかげです」
「それならよかったです」
まだアマリアには天耀が見えない。なんとなく感じるようになってきたようだが。麗子はふわとほほ笑む。これまでとは比べ物にはならないほどに麗子の笑顔がやわらかい。思わず頭をそっと撫でる。
「大好きですよ、レイ」
麗子は一瞬驚いた顔をしたが、少し恥ずかしそうに笑った。
「私も大好きです、レナート」
素直に言葉を紡げるようになったことがひどくうれしい。
「私も大好きよ、レイ」
サラが後ろから麗子を抱きしめた。麗子は幸せそうに微笑む。
「サラのことも大好きです」
その姿はまるで姉妹のようでレナートは胸がほっこりとあたたかくなった。
「レイ、うちの子になりますか?」
「え?」
「あ、いや、つい。もういっそ私の養子になったらいいんじゃないかと思ってしまっただけです。軽率でした」
アマリアがふと笑って、麗子の頬に触れる。
「わたくしもあなたがわたくしの娘になってくれたらうれしいわ。でも、無理はなさらなくていいのよ」
麗子はためらいがちにアマリアの胸に頬を寄せる。
「お気持ち、とてもうれしいです。でも、今はまだ……」
「いいのよ」
その時、アマリアの視線が不意と麗子の後ろに移動する。
「どなたかしら?」
「あ、アマリア、驚かないで聞いてほしいんだけど、彼は天耀と言ってレイの守護神なんだ。ずっとそばにいたんだよ。レイが君に心を開いたから見えるようになったんだ」
「まぁ、まぁ……まぁ!」
アマリアは嬉しそうに笑って麗子をぎゅっと抱きしめる。
「わたくしも大好きですわ、レイ」
「私も大好きです、アマリア」
予想外にアマリアは柔軟に受け入れてくれたらしい。アマリアとサラに挟まれて笑った麗子はひどくかわいらしくて、以前の彼女が戻ってきたような気がした。麗子はもう大丈夫だ。
夏の日差しがやわらかい。
最初のコメントを投稿しよう!