呪縛

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 天耀は信じ難い速さで空を行く。彼方に見えていた雲が一瞬後にははるか後方へと飛んでいく。翼もないのにどうして飛んでいるのか不思議にも思ったが、考えるだけ無駄だ。彼は神だ。 「長旅で天耀は疲れませんか?」 「問題ありません。これも策の一つとして必要なことですから」  麗子も天耀もこれからのことをはっきりとは教えてくれない。相手の出方次第の側面も大きいから仕方がないのかもしれないが。  いかに賢く、霊力が神を凌ぐほどといっても麗子は亡国の姫だ。戦勝国側にとって戦利品になりこそすれ、敬意を払う道理はない。いくら王の資質さえ持っていたとしても後ろ盾のない彼女が不利であるのは揺るがしがたい事実だ。  皇女の正装である物具装束に身を包み、太刀を抱いた麗子はただ先を見つめる。 「吾が姫よ、見えたぞ」  天耀の声に麗子は立ち上がり、太刀を弓のように構えた。 「これを嚆矢とせん」  太刀が光り輝き、矢のようなものが放たれた。 「嚆矢って戦をしに来たわけじゃないですよね?」  麗子はころころと笑った。 「違います。手紙を送っただけです。昨日の今日では準備の時間が足りなかったかもしれませんから。これで私が来たとわかるでしょう。知らせが来るまで待つと伝えたので良いもてなしを期待したいものです」  完全に準備をさせる気はないが、できるだけの準備をするのは待つということらしい。彼女から空恐ろしいものを感じた。まだ十七だというのにあまりにも見えすぎている。わかってはいたが、底が知れない。 「返事の内容次第ですが、会見場に選ばれるのは陽安の西方にある離宮でしょう。私を王城に入れるはずがない。入れるほど愚かな王に父が負けるはずがありません」  敵の懐に乗り込もうというのに落ち着いたものだ。場数でなれたレナートはまだしもラファエーレは落ち着かないようだった。 「ラファエーレ、手を」  不意と麗子が小さな手を差し出した。ラファエーレはその手に大きな手を重ねる。 「ずっと認めないなどと言い続けていましたが、想いはここにあります」 「えっ、それって?」 「これ以上は言いません」  麗子は彼の手をきゅっと握って離した。たったそれだけでラファエーレの緊張が解けた。心を読むことさえあるという龍生の王族は人の心を導くことにも長けている。麗子にもその血がしっかりと流れているのだろう。  一時間ほどが過ぎたころ、光の矢が飛んできた。麗子は当たり前のようにそれを掴み、レナートに手紙を外させる。 「やっぱりレナートに切ってもらう方が楽ですね」  麗子がぽつりと呟くのを聞いてレナートは苦笑いを浮かべる。どうやら手紙に災いをもたらす呪がかけられていたらしい。レナートには影響しないからと何度か結界を切らされたことを思い出す。 「先に教えてほしいって言いませんでした?」 「小さいころに言われましたね。でも、何も感じないのですから伝える意味はあるのですか?」  麗子はしらっと言って、レナートの手から手紙を取る。 「気分の問題です。あなたの命を狙うものなら腹が立つくらいの話ですけど」 「私を一瞬眠らせる程度のものです。腹を立てるほどでもないのでは?」 「そういう問題じゃないんですけどね」  レナートはため息を吐く。この話題は堂々巡りになるだけで理解してもらえないことはわかっている。麗子は別次元の存在だ。 「それで手紙にはなんと?」 「半時過ぎたら離宮に来いという内容です。たっぷりもてなしてくれるようですよ」  麗子はその手紙を細く丸めて棒状にすると真っ直ぐに投げた。 「なにを?」 「呪は掛けたものに返すものですよ」  愛らしい姫はにっこりとほほ笑んだ。 「レイって結構容赦ない?」  ラファエーレが独りごとのように呟いた。 「王族たるもの必要とあらば非情になるものです」 「そう。でも、そんな君も素敵だなって思っちゃう」  麗子はわずかに頬を染めたが目をそらす。 「その手には乗りません」 「吾が姫よ、もそっと素直になったらどうじゃ」 「天耀!」  麗子は顔を赤くした。なんだかんだ言ってもまだ十七の乙女なのだ。咳払いをして、襟を正した彼女は取り澄ました姫の顔に戻っていた。 「この後のことを説明します。地上に降りたら私の後ろをついて来てください。数多くの罠や呪が仕掛けられているでしょうから、基本的には私と天耀で破壊します」 「レイを矢面に立たせるなんてできないよ」 「私にしか壊せないものです。けれど、私たちにも壊せないものがあればお願いします」  麗子にふわとほほ笑まれてラファエーレは顔を赤くする。ずいぶんとうまいこと操縦するものだとレナートはぼんやり思った。今からこれでは先が思いやられる。ラファエーレより麗子の方が何枚も上手だが、彼女は精神的にもろい部分がある。うまく補い合っていけるのかもしれない。 「時が来ました」  麗子の声に天耀が下降を始める。龍生より二回りほど大きな島国が見えた。近隣諸国を焚き付けて龍生を滅ぼした国の王にこれから接見する。  地上に降り立つと麗子は天耀に手を引かせて歩き出した。人の身に姿をやつした銀髪の白龍と赤い装束をまとった黒髪の姫君。その姿はまるで一幅の絵のようにさえ見える。龍生が滅んでいなければ、かの皇女は今もそうして生きていただろう。  レナートとラファエーレは並んで二人の後ろを歩く。そうして歩くことが自然に見えるほど、麗子は高貴な皇女だった。  出迎えのものもなく、不自然に開かれたままの扉をくぐると二人が同時に手を打った。突如、一陣の風が吹き抜け、何かが壊れる音が立て続けに響く。 「この程度でわらわを止められると思うてか」 「愚かなり、愚かなり」  二人がそう呟くのを聞いて、術を破ったのだと察した。 「天耀とレイって思っていた以上に普通じゃないんですね」  息子にそっとささやかれてレナートは苦笑する。 「今さら気付いたの?」 「わかってたつもりでしかなかったみたいです」  それも仕方のないことなのかもしれない。麗子が普通でないのはわかっていても、これまで隠されていたものを目の当たりにするのとはわけが違う。 「そう。でも、レイ……麗子姫はまだ十七歳の女の子だ。肝心のところでは君が守るんだよ」 「わかってますよ」  二人はそうして何回か術を破ったようだったが、ふいに立ち止まった。 「レナート、ラファエーレ、あの角を曲がると矢が七本飛んできます。そのあとに武者が三人。片付けていただけますか? 殺さずに」  さらっと無茶を言うものだと思ったが、それも承知で来ているのだ。 「わかりました。行くよ」 「はい」  角を曲がると麗子が言った通りに矢が飛んできた。二人ですべて薙ぎ払う。呪が効かない二人を殺すためのものなのだろう。すぐさま打って出てきた武者は完全武装だった。 「鎧には隙間がある! それを見極めるんだ!」  レナートはナイフを一本ラファエーレに渡そうとしたが、難なく一人を気絶させていた。たくましくなったものだと密かに感心する。レナートが手こずっているとラファエーレの流れるような蹴りで最後の一人も昏倒した。 「鍛えた甲斐があったというもの」  天耀がころころと笑ってラファエーレの頭を撫でる。ここまで読んでラファエーレを鍛えていたのだろうか。だが、しっかりとくらいついて行っていたラファエーレも見違えるようだ。 「天耀とレイに比べたら遅いったらないですね」 「そうであろう。我が子を見直したろう、レナート」 「はい。私はもう本当に引退ですね」  くすりと笑うと麗子が不意と見上げてきた。 「極光のおじ君もいなくてはいやじゃ」  あまりのかわいらしさに思わず頭を撫でる。 「もちろんそばにいますよ。さ、そろそろ進みましょう」 「はい」  それから数度、二人が術を破り、大きな扉の前に立った。朱塗りに金銀の装飾が施された扉は王の謁見の間にふさわしい。ここまでほとんど誰にも会わなかったのは彼女を亡きものにするための術が絶え間なく掛けてあったせいだろう。  麗子は祈りを捧げて太刀を抜いた。 「手厚いもてなし有り難うおじゃりまする」  彼女が太刀を振りぬくと扉がゆっくりと開いた。麗子は太刀を鞘に納め、天耀の手を取って歩を進める。ここまでたどり着いたが、中には誰もいないのではないかとさえ思った。二人は明言しなかったが、生きてたどり着かせるつもりさえなさそうな罠ばかりだったのだろう。  だが、そこには一人の男が待っていた。百近い衛兵を従え、玉座に座すのは陽安国王山狛(ようあんこくおうさんはく)に他ならない。左右の御簾の向こうで倒れている数人が罠をかけた術者たちなのだろう。麗子の視線がどこか悲しそうに流れた。 「お久しゅうおじゃります、山狛王」  顔見知りであったのか皇女は扇で顔を隠しながら礼をした。天耀もそれに倣う。山狛は明らかに動揺していた。ここまで来られるはずがないと高を括っていたのだろう。以前とは比べ物にならないほど強くなった彼女の前に恐れをなしているのかもしれない。 「龍生国皇王月城久弘亡き今、わらわが龍生の皇王代理。国は滅ぶとも国賓としての招き、感謝申し上げまする」  対して麗子は堂々としている。これではどちらが王かわかったものではない。 「よ、よくぞおいでくださいました、龍生国皇女麗子。もてなしの馳走など暫時ご用意いたしまする所存にて、ごゆるりとお過ごしくだされ」  麗子はくと笑う。 「陽安のもてなし、十二分に感じ入りましておじゃる」  しゅる、と衣擦れの音が響いたかと思えば、麗子は山狛に肉薄していた。手にした太刀は抜き身で麗子の首に添えられている。衛兵は誰一人として動かない。 「わらわの首を酒席の花にせよというなら誤魔化しなど不要におじゃります。卑怯な臆病ものでないなら、今すぐこの首お取りになったらよろしかろ」  山狛の首には天耀の手がかかっている。哀れな王は顔を青くした。術をすべて破られ、肉薄されているのだ。命をその手に握っているのは誰かわからぬものはここにはいないだろう。しかも、麗子は優雅にほほ笑んでいる。 「この太刀を握り、引くだけでおじゃります」  山狛は震えるばかりで声さえ発さない。 「その臆病さ、吾が国に弓引く前に知っておればよかったものを」  天耀の手に力がこもる。このままでは殺してしまう。声を上げかけたレナートをラファエーレが止めた。 「レイは大丈夫です」  レナートは頷いて引き下がる。確かに麗子から禍々しいものは感じない。 「二つ、望みがおじゃります。それさえ叶えてくだしゃるなら、二度とこの地を踏むことはおじゃりませぬ。手出しをすることもない。恨みを忘るること叶わぬやもしれませぬが、心一つに納めまする」  天耀がすっと手を引いた。 「望みとは?」  麗子は太刀を鞘に納め、鋭い青い目で山狛を見る。 「一つ、二度とわらわにかかわらぬこと。わらわは安寧が欲しい。一つ、神器を返還せよ。あれらはわらわのものでおじゃります」 「断れば?」  麗子はころころと笑って手で空を撫でる。突然、雨の降る音が響き始めた。先ほどまで快晴だったはずだ。雨音はどんどん強くなっていく。 「雨が降り続き、大洪水と山津波がすべてを押し流しても文句は言えまいなぁ? 天耀」  天耀がころころと笑うと激しい雷鳴が轟く。天候さえ操って見せるとは怖ろしいでは済まない。 「望みを聞くか、滅ぶか、二つに一つでおじゃります」  麗子は圧倒的な力の差を見せつけてことを有利に運ぼうとしている。本来、見せつけるのは財力や軍事力なのだろうが、彼女はどちらも持たない。だが、彼女が見せつけている力は神のものとさえいえるほど圧倒的で超常的なものだ。この脅しに屈さないものがいるだろうか。  しかし、いくらこの条件を飲めば手出しをしないと言っても彼女が生きている限り安心できないと思わせるのではないだろうか。レナート自身も麗子に言い知れない恐ろしさを感じていた。幼いころから知っていた愛らしい姫が美しい鬼神になってしまったかのようだ。 「望みを聞いたとて手出しをせぬ保証がない」  麗子の視線がつと二人に流れる。 「わらわの身元の保証はそこにいるレナート・セバスティアン・アウロラ伯爵とその子息ラファエーレ・アウロラ少尉がする。わらわは大恩ある彼らのもとで静かに暮らす。わらわはただただ安寧が欲しい。この胸の奥にある恨みや憎しみをしまっておきたい……そなたが欲する保証はできぬが、わらわの龍生はもう、あそこにはない」  ひどく哀しそうな声だった。麗子は小さな手で胸をそっと押さえる。 「わらわの龍生はここにしかない。彼ら……彼のそばでわらわは普通の娘になりまする。それを保証の代わりにしてほしい」  山狛はすっと目を伏せ、龍生の神器を持ってくるように告げた。 「皇王麗子よ、吾らは間違えたのやもしれぬ。あなたの力を恐れるあまりに、あなたを知ろうとしなかった」  麗子はゆっくりと空を見上げた。そこに天井がないかのように彼女の目は遠く空を見る。 「わらわは平和だけを望む。わらわが欲しかったのは笑顔、偽りのない真心……一度として戦禍など望むことおじゃりませなんだ。山狛王よ、民を思うなら戦などしてはならぬ。戦で死ぬは民。踏みにじられるも民。なんぞ良いことがおじゃろう……わらわは力など要らなかった。ただただ民を愛し、守りたかった。山狛王よ、龍生はのうなったが、陽安はある。他の国々も。民こそ宝。平和あってこそでおじゃります」  雨音が消え、光が差し込んだ。濃い孤独の陰の中で麗子はやさしくほほ笑む。 「わらわは愛する。国を滅ぼし、わらわを殺そうとしたそなたも。それがわらわの在り方でおじゃります」  山狛は深く頭を下げた。王としての格は麗子の方が上だと思わざるを得ない。力で凌駕し、心でも凌駕する。これほど思慮深く慈悲深い王がいるだろうか。龍生があったらどれほど素晴らしい治世を敷いただろう。  運ばれてきた神器を確認して麗子は頷く。鏡、玉、鉾、冠。それらは王位を証明するものであり、彼らが何より大切に守り伝えてきたものだ。それに麗子が持つ太刀を加えて五つの神器となる。  その時、白刃が閃いた。レナートは間に合わなかった。だが、高い金属音が響く。刀を止めたのはラファエーレだった。切り付けたのは神器を運んできた少年だ。麗子は少年をゆっくりと見た。少年は怯えに後ずさる。麗子の気配がざわりと揺れた。 「レイ、私がいる」  そう囁かれた麗子はふと息をついた。 「そなたの父は術者か?」  麗子の問いに少年は頷く。 「わらわを捕らえる罠を作るに命落としゃったか……」  少年はもう一度頷いた。それで父の敵と麗子を狙ったのなら逆恨みとしか言えない。恨むべきは山狛の方だろう。だが、麗子はひどく哀しそうに目を伏せた。 「わらわのせいですまなんだな」  少年は声を上げて泣き出した。 「どうして殺されないのです! 悪いのは私なのにどうして殺してくれないのです!」  麗子は扇で少年の頬を軽く打つ。 「罰はこれで仕舞い。そなたにはまだ母御がある。あたら若い命を捨ててはならぬ。復讐に生きるとも幸いはない。山狛王よ。この者は何もしておらぬ」  山狛は深く頭を下げた。ここで麗子が怒り、約束を反故にされてもおかしくはない。だが、麗子はなかったことにすると言った。それが彼女にとってどれほど難しいことだっただろう。 「おさらばにおじゃりまする」  麗子は優雅にお辞儀をして歩き出した。ここですることが終わったのだろう。天耀が神器をもって後に従う。二人もすぐに後を追った。
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