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中庭の噴水の中で麗子はぼんやりと座り込んでいた。長い黒髪が濡れて頬に張り付き、ドレスは水を含んですっかり重くなっている。麗子は迷っていた。自分がどうしたいのか。どこに行きたいのか。自分でもわからない。
天耀は何も言わずにそばにいてくれる。これまでのようにこっそりレナートのところに行くこともない。それだけ認められ、尊重されるようになったこともわかっている。だからこそ、なおさらわからない。
これまではまだ漠然とではあるが指針があった。だが、すべてを終えて、草木の生い茂る故郷を見て、自身が空っぽだと気付いてしまった。
国が滅べば王はともに死せるもの。滅んだ国の王になった麗子はどこに行くべきなのだろう。守るべきものもなく、先行きも見えない。空っぽだ。手ですくった水が零れ落ちるように亡国の王の心も零れ落ちていく。
普通の娘になるとは言ってみたが、背負ったものが重すぎて、共に背負ってくれとは言えなかった。
「そろそろ冷えるよ」
ラファエーレのやわらかい声が聞こえた。もう彼が帰ってくる時間になったのかとぼんやり思う。近頃こうして濡れていることの多い麗子を彼らはそっとしておいてくれる。だが、冷える時間になるころには声をかけに来てくれる。それは大体がラファエーレだ。
「はい」
天耀の手を取って噴水を出て、ドレスや髪を乾かす。
「ねぇレイ、水が君にとって体の一部のようなものなのは知っているけど、噴水じゃなくてお風呂にしてくれない? 寒そうで気になる」
季節はいつの間にか秋を迎えていた。やめろとは言わずにいてくれるやさしさに麗子はどう答えたらいいのかわからない。
「そう、ですね」
彼は大きな手で麗子の髪を一房取る。
「皇王麗子、私をあなたの民にしてくれませんか?」
唐突な言葉に麗子は小首を傾げる。彼は髪にそっと口づけを落とした。
「ずっと考えていたんだ。王としての君が一人ぼっちのままでは私の幸せもきっと見つけられない。君が独りでなくなってくれたら、それだけでも私はうれしいよ。何度か君を失いそうになって、君なしでは生きられないって思い知ったから」
心を許しそうになって麗子は目をそらす。
「私は独りでなければいけないんです。私はこの胸に憎悪の念を宿しています。あなたがいなければ、あの日私は少年を殺し、陽安どころか周辺の国々も滅ぼしていたでしょう。その前の時も。もしかしたらあなたも殺めてしまったかもしれない。そんなおぞましい憎悪と力を持つ私があなたに思われていいはずがないのです」
「怖かったよ。君が世界を滅ぼしてしまうよりも、君がいなくなってしまうことが」
どこまでも真っ直ぐに見つめられて麗子は後ずさる。
「私は愛されてはいけない。許されてもいけない」
「そんなこと誰が決めたの?」
「私です! 私は誰も守れなかった。私がいたから数多の命が犠牲になった。どうして私はのうのうと生きているのか。それさえもわからない!」
悲鳴のような声を止めるように彼は人差し指を麗子の唇に押し当てた。
「一緒に守らせて。二人だったら君の龍生を守れるかもしれない」
「私の龍生は……」
「あるよ」
ラファエーレは自らの胸に手を当て、麗子の胸に手を当てる。
「こことここに。君の心の中に。民なら私がいるよ。皇王麗子、あなたの民はあなたの幸せを願っています」
涙かあふれ出し、言葉が紡げなかった。
「自分を許せないなら、私が君を許すよ。君が自分を愛せないなら私が全部全部愛する。ねぇ、麗子、私の手を取って」
麗子は自分の手を握り締める。
「私は許されてはいけない……」
「私は許すよ」
「愛されてもいけない」
「私は愛する」
「幸せになってはいけない!」
「私は幸せにしたい!」
後ずさりした麗子の背が天耀にぶつかった。守護神はこの上なくやさしくほほ笑んだ。
「民の願いを聞けずして何が王か」
「天耀……」
「瀧の中で聞いた声を忘れたか。皆々の切なる願いを忘れたか。吾が王よ、あれこそ未来」
ふわと背中を押されて、ラファエーレの胸にぶつかった。慌てて離れようとしたが、優しく抱きしめられた。彼の腕の中はひどくあたたかい。彼の顔を見上げ、麗子は口を開く。
「私は幸せになっていいのですか?」
「いいに決まってるでしょ。私は君と幸福な未来を描きたいって思ってる」
「私もあなたと未来を描きたい……」
ラファエーレは喉の奥を絞められたかのような声を出した。彼は跪いて麗子の手を取る。
「麗子、私と結婚してくれますか?」
麗子は思わず彼の手を振り払って天耀の陰に隠れる。再びあふれ出した涙が頬を濡らす。それは悲しみの涙ではない。
「吾が王は結婚すると仰せじゃ」
「天耀経由じゃなくて麗子の口から聞きたいんだけど?」
「ラファエーレ」
震える声は小さくてなかなか声が出てこない。
「あなたと、結婚します」
天耀がひょいとどき、彼に抱きしめられそうになって麗子は跳躍する。着地したのは木の上だった。
「吾が王は初心であらせられる。抱きしめるのであれば手順を踏むべきよ」
「手順ってどこから?」
「見つめ合い、手を繋ぎ、しかる後じゃ」
「あー、うん、わかった。ただちょっと天耀どっか行ってくれない? いちいち間に挟まれたら話せることも話せないよ」
天耀はころころ笑って、麗子を捕まえる。
「道理よ」
「天耀!」
守護神は麗子をラファエーレの正面に下ろす。
「往生せよ、吾が王」
ふわと浮きあがった天耀はどこかに消えてしまった。
「えっと、その……なんと言ったらいいか……」
「私のこと、好きかどうか教えてくれる?」
真っ直ぐに見つめられて顔が熱くなるのがわかった。
「好き、です……」
「私も好きだよ。抱きしめないから手を握ってもいい?」
「はい……」
差し出した小さな手を大きな手がつつんでくれた。やさしくてあたたかい手だった。
「ねぇ、好きだよ」
「私も、好き……」
突然手を引かれてバランスを崩すと彼の胸の中だった。
「え、あ、ちょ……」
「もう可愛すぎて我慢できない……今だけお願い」
鼓動がうるさくてたまらない。けれど彼の胸に頭を預けると不思議なほど心が安らいだ。
妻と寛いでいると突然天耀が現れ、レナートは驚く。彼が神出鬼没なのは当たり前のことなのだが、近頃はほとんどなかった。
「なにかあったんですか?」
天耀は楽しそうに笑う。
「若人に邪魔と言われたものでな。邪魔者はこちらに参ったまでよ」
「若人ってラファエーレですか?」
「左様。男と女、想いと想いが向き合えば幾久しゅう幸いが訪れよう」
「えっ、それって……」
思わずアマリアと目を見交わす。麗子の気持ちが落ち着くのを待つばかりでラファエーレがじれったい思いをしていたのを知っている。やっと思いが通じ合ったのだろうか。
「吾が王も己が幸いを受け入れる気になったのだ」
「そう、ですか」
帰って来てからずっと塞ぎ込んでいた麗子が先に進もうと思ってくれたことが何よりもうれしい。レナートは妻の手をそっと握る。
「お祝いしなきゃいけませんね。二人はどこまで話してましたか?」
天耀は口を開いたが、にっと笑う。彼のこれほど晴れやかな笑顔を見るのは初めてだ。
「これより先は当人たちに聞くがよい」
彼が扉を開けると麗子を抱いたラファエーレが飛び込んできた。ラファエーレは幸福に満ち溢れて輝いている。対して麗子は恥ずかしくて仕方がないらしく、真っ赤に染まった顔を両手で隠している。
「私は麗子と結婚します。麗子も同意してくれました。祝ってくれますよね?」
「もちろん。おめでとう、二人とも」
「おめでとう、レイ、ラファエーレ。幸せになるんですよ」
アマリアにやさしく頭を撫でられた麗子は突然彼女にしがみつく。
「おっと」
ラファエーレはバランスを崩しかけたが、麗子をそっと下ろした。
「どうしましたの? レイ」
「恥ずかしくて、胸がいっぱいで、苦しいです」
「あらあら、落ち着いてちょうだいな。深呼吸をなさって」
自ら遠ざけていたものを受け入れていっぱいいっぱいになってしまっているらしい。アマリアになだめられて深呼吸をする麗子の頭をそっと撫でる。
「皇王麗子、幸せになってください」
「はい……」
天耀が不意と麗子を抱き上げた。
「吾が皇王よ、幸いあれ。吾、天耀。吾が王の幸い成して吾が幸いとす。幾久しゅう睦まじくあれ、吾が王よ。祝い言祝ぎ慶ばん」
天耀は歌うように言って麗子と唇を重ねた。
「えっ、今のタイミングでキスする? 私とはまだしてないのに!」
天耀はころころ笑ってラファエーレとも唇を重ねた。
「いや、そうじゃなくて! キスまで経由しないでよ!」
ラファエーレが抗議するのが面白いのか天耀はまたころころと笑った。
「結縁しようと契ろうと、吾と吾が王は二人で一人。吾が王の口づけは吾のものよ」
「そんな! 麗子、本当なの? 私とはキスできない?」
「ち、違います!」
麗子は慌てて口を開いた。天耀は二人の結婚を祝う気はあるようだが、複雑らしい。折に触れて焚き付けたり、後押ししたりしていたのにいざとなると違うようだ。
「ラファエーレ、私と天耀の口づけは祝福や交感です。幸せや悲しみを分かち合うためのもの。それが不愉快と言われてもなくすのは難しいです」
「それはいいんだけどね。君らの関係に口出しするつもりはないよ。私とはしたくない?」
麗子は顔を真っ赤に染めて天耀の胸に顔を押し付ける。麗子は思いのほか純情であるらしい。
「まだ恥ずかしいから無理と仰せじゃ」
「だから間に挟まないでよ」
「ラファエーレ、こうなることは薄々わかってたでしょ? 麗子と天耀は二人で一人なんだし、急かしたり、追い払ったりするのはよくないよ」
「そうなんですけど、天耀が明らかに面白がってます」
見上げれば確かに天耀はにやにやして面白がっているようだった。麗子が幸せを掴んでくれたことがうれしくてたまらないが、主の興味が自分以外に向いているのも気に入らないのだろう。
「天耀も面白がり過ぎだとは思うけど、麗子が普通の子じゃないのはわかってたでしょ? ここまで初心だとは思わなかったけど……待っておあげよ。やっと思いが通じたんだから」
「そう、ですね。わかってたのに舞い上がってました」
おずおずと顔を上げた麗子が天耀に下ろしてもらい、ラファエーレの前に立った。
「慣れるように努力をするので、待っていただけますか?」
「もちろん。大好きだよ、麗子」
麗子はまた顔を真っ赤にしたが、ラファエーレの目を見つめ返した。
「わ、私も大好き、です」
消え入りそうな声だった。時間をかけて心を癒した麗子と寄り添って、一緒に幸せになってほしい。
悲しみの日々は終わり、喜びの日々が訪れるといい。心から、そう願う。
「ああ、ダメ、倒れそうです」
皇王の正装に身を包み、控室で待っていた麗子は両手で顔を隠す。
「大丈夫よ、落ち着いて、レイ」
サラにやさしく頬を撫でられて、麗子は力なく笑う。麗子が十八になるのを待って結婚式を挙げることになったのだが、麗子は当日を迎えても覚悟が決まらなかった。ラファエーレに抱き寄せられると未だに恥ずかしくなってしまい、キスができていない。けれど、結婚式ではキスをしないわけにはいかない。それはわかっている。
「私、おかしいですか? サラ」
二人の結婚式のために駆けつけてくれたサラのお腹は大きい。新たな命を宿しているからだ。誰もが難なく登っていく階段を麗子は登れそうにない。
「おかしくないわ。大丈夫よ。レイはお兄様が嫌い?」
慌てて頭を振ると王冠に付いた飾りがしゃらりと鳴った。麗子の気持ちを尊重し、麗子の衣装は龍生のものがいいと言ってくれた。この上なく愛してくれるラファエーレが嫌いなはずがない。
「好き、です」
「そうよね。今、幸せ?」
「はい……怖いくらい……」
「結婚式はドキドキしている間に終わっちゃうわ。それに、儀式は得意なんじゃないの? 龍の王様?」
麗子はそう言われてふと笑う。
「そうですね。儀式を恐れるとは皇王としてあるまじきことでした。サラ、結婚式が終わったら、私たちは義理の姉妹ですね」
「そうね。本当に妹になるなんて嬉しいわ」
「私もうれしいです」
「刻限じゃ」
そう言って手を差し伸べる天耀の頭に角はない。今日ばかりは彼もできる限り人の姿に近付けて一緒に祝ってくれる。少し背が低いせいか、顔が近い。
「吾が王よ、幸いあれ」
天耀とサラに手を取られ、ゆっくりと歩む。祝いの楽の音が聞こえる。まっすぐ進む先にラファエーレが待っている。レナートとアマリアがやさしくほほ笑む。麗子は小さな胸が幸せでいっぱいに満たされるのを感じた。悲しみも、苦しみも、ゆっくりと溶けていくようだ。
――幸いあれ、幸いあれ、孤独な龍姫は幸福な王になった。幸いあれ、幸いあれ、皆参じて祝いあれ。
天耀の声にならない祝福が降り注ぐ。
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