短夜、長い夢を見た

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「おい、お前さ、人の犬がウンチしようるときに、『可愛い』とかって声かけてくんなよ。こっちは、必死でウンチさせて、これから出勤なんじゃけん」  犬を触ろうとする私に絡んできた男は最高に気持ち悪かった。伸びたのか伸ばしているのかわからない肩につく長さの髪の毛はべちゃっと洗ってないみたいに額にくっついていた。私は、ただ男が連れていた子犬が可愛かったから声をかけただけだった。 「私は犬に話しかけたんです。あなたには話しかけてないんです」 「犬に話しかけるってことは俺に話しかけとんじゃ、うすらぼけ」  見た目も悪いけど性格も最悪、癇癪を起こすように、私にそう言い返してきた。  私はそれから男に遭遇するたびに『気持ち悪』心のなかでそう悪態をついた。吐き気がするほど気持ち悪い男はサクラという白い子犬をいつも散歩させていた。私はそのサクラちゃんがかわいくて、『可愛いね』と通勤途中、どんなに男が嫌そうにしても自転車から降りて、サクラちゃんをなでた。その男が何をほざこうが、とにかくサクラちゃんが可愛いくてたまらなかった。そのうち、サクラちゃんも私を見ると立ち止まって尻尾をぶんぶんふりながら撫でられるのを待つようになった。男だけは気にくわない顔をして『はよう、あっちいけ』毎回 手ではらう仕草をした。  サクラちゃんのことは気になりながらも男には一切、興味がなかった。私には10歳年上の夫、博之さんがいた。博之さんの仕事は営業で全国を飛び回り、週末しか家にいなかった。それでも、土日の朝は私が起きるとちゃんとテーブルに朝御飯が並んでいたし、感情的な私とは違い、どこまでもマメで穏やかな人だと思っていた。  結婚して2年が過ぎた春、朝、目が覚めてすぐに、いないはずの博之さんの声が枕元から聞こえてきた。 『お前はなんもしらんで呑気でええな』  確かに博之さんの声で、ゾワゾワと嫌な予感がした。そして、その夜だった。私が知らない博之さんの友達の奥さんと名乗る人から電話があった。 「知ってますか? お宅のご主人がうちの主人を脅迫してるんです。金を貸してくれないなら、ホテルから飛び降りるって。奥さまは知ってますか?  毎晩そんな脅迫の電話をしてくるご主人さんのこと? 」  私はくらくらしながら、話を聞いた。 「ご迷惑をおかけして本当にすみません。主人とよく話し合います」  電話を切ったタイミングで近くに住んでいたお義母さんが血相を変えてうちにやってきた。『こんな郵便物がうちに来たんだけど』と銀行から郵送された博之さん宛の封筒を見せてきた。私が封を開けるとそれは通帳の未記帳分の記録だった。ものすごい金額がいろんな会社から振り込まれていた。お義母さんにそれを見せるとその場で泣き崩れた。 「博之はまだ浪費癖がなおってない。紀子さん、もう一緒にいないほうがいい、別れてやって」  はじめて博之さんの結婚前までの借金癖を聞かされた。  そんなことになってるとは、なにも知らなかった博之さんはいつのように金曜の夜に帰宅した。『おかえりなさい』私が郵送されてきた銀行からの未記帳の明細のこと、主人の友達の奥さんから電話があったことを告げると突然、銀行から送られてきた明細の封筒を床に向かって投げた。そして、私の実家にも内緒でお金を借りるために出張ついでのふりして寄ったことをはぞめて打ち明けてきた。私は借金があることも返済に困ってることも何一つ知らず、本当に呑気にだった。なぜなら、私は私の収入だけで暮らせていたから博之さんの給料をあてになどしてなかった。  その翌日、博之さんは荷物を自分の実家に運んだ。嘘か本当か、博之さんが私に告げた借金の額は想像を超えていた。『一緒に頑張って返済していこう』と思える額ではもはやなかった。考えてもいなかった『離婚』あまりにも突然のことに、私は博之さんが出ていった夜、夢遊病者のように無意識に川沿いを散歩していた。飛び降りる気などはなかった。けれど、橋の上から川の流れをただ呆然としながら見ていた。 「死ぬな!! 」  いきなり体を橋から離された。それはあのサクラちゃんの飼い主の男だった。コンビニに行った帰り道、私が橋から飛び降りそうな雰囲気だったとアスファルトの上に座り込んだ私に言ってきた。 「飛び降りるわけないじゃん」 私がそう言うと 「待っとけ」  男は部屋で待っていたサクラちゃんを連れ出してきた。サクラちゃんは私を見て跳び跳ねて私もはじめてゆっくりとサクラちゃんを抱き抱えた。 「お前、なんかあったんか? 」 「いや、あなたには関係ない」  まるっきり会話は続かなかったけれど、サクラちゃんを連れてきてくれたことが彼なりの優しさなんだとその時、ふと思った。  その日から仕事帰りに散歩に遭遇した日はベンチで1時間ぐらい話すようになった。彼も奥さんと離婚したこと、仕事をやめたこと、そして、もう彼女はつくらない思いで殺処分寸前だったサクラちゃんをひきとったことをポツリ ポツリと私に話した。  朝に夜に家にいる時間はしばらくの間、固定電話がなりやまなかった。『金返せ』聞いたことのない会社名を名乗る人や主人の後輩だと名乗る人。 「もう、ここからは出ていきました」  そう伝えても何度も何度もかかってきた。  そして、1ヶ月後、彼と川沿いで話しているところを、まだ離婚届けを出してなかった博之さんに見られてしまい、突然、夜、部屋にやってきた博之さんに『お前、浮気しとったんか?  』と首を絞められた。  少し見ない間に仕事も辞めて顔つきも変わってあの穏やかだった博之さんの面影は消えていた。これ以上、きつく締められたら私は死んでしまう。はじめて死を意識したところで力が緩んだ。翌日、大家さんにお願いして、早急に鍵を変えてもらった。彼に対しても、今の博之さんは何をしでかすがわからない。私は川沿いを通ることもやめた。  生きることってしんどい、ただ、仕事に追われる日々を続けていた。  彼と会わなくなってどれぐらい過ぎた頃だったか、もう肌寒くなっていた11月。夕方、スーパーのパンコーナーでパンを見ていたら突然、悪臭がした。 『なんか臭い 』  その臭いにあたりを見渡したら、坊主頭の彼がいた。 「あっ」  彼は私の顔を見て 「お前さ、シャワー貸してくれん? 」 突然 言ってきた。 「なんで? 断水なん? 」 そう聞くと 「料金払ってなくてさぁ、全部とめられとる」  彼は苦笑いした。断ろうとしたけど、ものすごい臭いで私は渋々、『いいよ』と返事をした。マンションの近くの公園で彼を待っていると、サクラちゃんと一緒にやってきた。サクラちゃんは久しぶりの私の姿に目の前でうれしょんをした。  彼がシャワーを浴びる間、私は少し? いやかなり大きくなったサクラちゃんと遊んだ。シャワー浴びたら帰るのかと思っていたらまるで夫みたいに台所の椅子に腰かけて 「給料日までここにおらしてくれ」 と頭を下げられた。 「なんで彼氏でもないのに、あなたをここにおらさんといけんのん? 」 そう言うと彼は真顔で 「じゃあ、今から彼氏になる!! 」 「悪いけど全然タイプじゃないけん、それはおことわり。しかもさっきめっちゃ臭かった」  私が言うと突然 背中から抱きついてきて 「ほんまはどうしようかとなやんどったんじゃ。金はないし、仕事して汗くさいし、ガスも電気もとめられとって、お前がおってくれてほんまに助かった」  少しうなだれていた。どうしていいか、わからなくて固まっていたら、台所の窓から博之さんが廊下にいる影が見えた。 「まずい、廊下に元旦那がいる。あなたとの浮気を疑われておかしくなっとるんよ。まずい!! 」  私が言うと、彼は玄関のドアを開けて博之さんに向かって 「なんしょんや?  あいつになんかするんなら、まずはこっちに文句言えや」  そう言いながら迫っていった。博之さんは突然のことに慌てて逃げた。 「お前、大丈夫なんか?  しつこいようなら警察言った方がええで」  それから1週間ほど、彼とサクラちゃんは夜8時にうちにきて、翌朝6時半にうちを出る生活をした。ご飯だけ一緒に食べて、後は彼は洋室で寝袋に寝てもらい、私は隣の和室でひとりが寝た。お互い仕事で疲れて特に会話もなかった。給料日になると約束通り、うちには来なかった。休みの日に、浴室で寝袋を洗って屋上に干した。屋上から降りようとしたら、階段を歩く足音がして、博之さんかと思って、過呼吸になって階段に座り込んだら、彼だった。 「ちょっとほんまに驚かせんでくれる?  殺されるんかと思った」 「肉まん買ったけん、茶いれてくれ」  部屋にもどってお湯を沸かした。やかんからピーッって音がして火を消したとき 「お前さ、ちゃんと泣けよ、我慢するんが美学みたいに一人が強がるなよ。今のままでいたら俺みたいに心を壊すぞ」  突然 そう言われた。それでも返す言葉が見つからず、そのまま急須にお湯をそそいだ。 「人が真剣に言っとるのに、わかっとんか? 」 「ちゃんと聞こえとる。でも、泣けって言われても今ここで泣けるわけないじゃん? あなたの前で泣いて、そこで抱かれて、自分の人生の重さが軽くなるわけでもないじゃん?  誰かの前で泣いて楽になるならとっくに泣いてる。泣いたって涙が出るだけで苦しみや悲しみが減るわけじゃない」 「カッコ悪いな。そうやって一人が強がっとる姿はみっともないで。俺はお前のことが好きで抱きたいけん、今 ここにきた」  「肉まんが冷める、抱くとか、そんなことは今の私には、どうでもいい」  そう返事しながら肉まんを口いっぱい頬張ったらむせた。彼の好きじゃけん、抱きたいって言葉もよく理解できなかった。それでも少しだけ涙がこぼれた。冷めかけた肉まんをわざと熱かったふりをしてごまかした。彼も肉まんを食べた。食べ終わったら、なぜか和室にあぐらを組んで座り込んだ。 「膝枕してやるわ」 って言われて、私は 「そんなんいいって。子供じゃあるまいし、恥ずかしいだけ」 って言い返したのに、いきなり頭を膝に押し付けられた。いい大人が仕方なしに彼の膝枕で横になった。彼に膝枕してもらったら、おかしくなる前のあの穏やかだった博之さんを思い出した。20分ぐらいしてから 「おい、やっぱりしんどいけん、頭 どけてくれ」 っていきなり言われた。 「えーせっかく気持ちよく寝れると思ったところだったのに」  私が言うと 「もっと気持ちよく寝れることしてもええけど? 」 とエロい顔で言ってきた。  そこでなぜか私は 「みんなすごいよね、エロいことしてもなんにもしてませんって顔で朝になると外歩いてるもんね、本当は違うのにさ」  思わず本音が口から出てしまい、彼はドン引きした。 「普通はそんなこと言わんで。まあ今日は帰るけど、なんかあったらいつでも言えや。あとほんまに命の危険があるなら警察行けよ」  彼が帰ったあと、どっと疲れが出た。和室に寝そべったら締め切ったカーテンの隙間から一筋の西陽が差し込んだ。  どんなに細くとも一筋の光が見える未来であればいい、そのとき、確かに強くそう思った。そして、そう思った瞬間に帰ったはずの彼が戻ってきて 「やっぱりほんまに好きじゃけん、付き合ってくれ」  そう玄関のドアを開けた瞬間に言われた。そのときの私にとっての一筋の光がまさに彼だった。少し震えとるように見えて 「とりあえず、珈琲いれるわ」  私は珈琲を淹れた。 「なんか、告白されても冷静じゃの」 「ああ、なんかお湯沸かしながら、これが小説なら、告白される、抱き締められる、そのまんま寝るってパターンか、ひっぱたいて追い出すってパターンか、ってちょっと考えてた。究極は寝るか、寝ないか? だと思うけど」  私がそういうと 「お前、ほんまに馬鹿か? 」 と彼は大笑いした。 「いや、元旦那には、こんなこと話したことない。あなたになら、なんとなく全部話せる気がしてるだけ」  右手でコーヒーカップを持ちながら左手でさりげなく胸を触ろうとする彼に 「なんかサラリーマン時代、そうやって飲んでた姿が浮かんできたわ」  そう言いながら私は薄暗くなった部屋の電灯をつけようと立ち上がったら、彼は私のはいていたスウェットパンツを下着ごと下にさげた。 「なにするんよ!! 」  彼の方を見たら 「丸見えじゃ」  そう言って押し倒してきた。倒されたとき、カーテンから入り込む日差しは朱色に変わっていた。肌がはじめて触れた彼の手はゴツゴツしていた。冬なのに、彼の体温は火傷しそうなぐらい熱くて、それはしだいにうちに引火した。引火させとって消す前に 「わりぃ、サクラ連れてくるわ」  彼は突然、立ち上がって暗くなった中、サクラちゃんを迎えにいった。彼の体はもう離れてるのに自分の体のそこらじゅうに彼の体温がまだあった。  厄介な気持ちがまたやってきた。そう思いながら冷凍庫にあった冷凍チャーハンをいためて、その上に目玉焼きとキムチをのせた。彼がサクラちゃんと再びやってきたとき、それを晩御飯だとちゃぶ台にならべていっしょに食べた。 「俺さ、お前と違ってずっとエリートじゃったんじゃわ。毎晩、新宿に飲みに行って経済やくざって言われとるときもあって、このままずっと安泰の人生じゃと思いよった。けど、落ちたら早かったな。仕事に行けんくなって、ローンが払えんくなって、嫁さんが鬱陶しくなって、離婚して自己破産して、先輩の優しさでワンルーム貸してもろたけど、冷蔵庫も買えんような生活で、今は肉体労働じゃしな。落ちるんわ、ほんま早いわ」 「落ちる気持ちはずっと底辺の私にはわからんね。生きるために働いとるんか、働くけん、生きとるんか、結婚してようやく穏やかになったと思ったら、突然、突き落とされたみたいになって、離婚してからはほんまにようわからん。ただ、生きとることは確かじゃけど」  サクラちゃんはそんな話をずっとお座りして聞いていた。 「サクラちゃん、そんな緊張せんでもええよ」  私が撫でるとごろんとひっくりかえってお腹を見せた。その夜、はじめて彼とならんで寝た。正確にはサクラちゃんも一緒だったけれど。何事もなかったように次の日出勤したら、 「のりちゃん、なんか今日、エロいな。なんかあったんか? 」  請求書を封筒に入れていたら、上司が突然言ってきてびっくりした。そう言えばこの人、奥さんが妊娠中に浮気してたよな。浮気相手の人が何回か事務所にやってきた。日傘をさして、少し影があって、あの人は今頃、どうしてるんだろう? ふとそんなことを思った。  仕事が終わってスーパーに寄って帰宅したら、ドアの前に彼の姿はなかった。ドアの鍵を開けようとしたら、屋上に隠れていた博之さんが後ろから首をしめてきた。 「お前みたいな女は死ね」  かすかに耳元でそう声がして、ああ、これ以上絞められたら死ぬなと思ったところで手を離された。それから 床にバラけたスーパーの袋から出たものを踏みつけながら、私の体も蹴ってきた。 「博之さん、ええ加減にせんと、警察呼ぶよ。今まで情があったけん、被害届も出してない。これ以上、こんなことするなら、今から警察呼ぶ」  私が鞄から携帯を出したら、 「すまん、それだけはやめてくれ。悪かった、悪かったけん、警察だけはやめてくれ、それだけはおふくろが悲しむけん、やめてくれ」  目の前で土下座した。廊下で土下座して るとき、彼がやってきて、廊下に散らばった割れた卵やらつぶれた納豆の箱を見て、博之さんを殴ろうとした。 「もうええけん、帰って」  私が博之さんの手をとって背中を押した。彼は 「殺されるかもしれんのに、警察呼べよ。お前は馬鹿か、まだ好きなんか? 」 って私をひっぱたいた。  廊下での騒ぎに階下の杉田さんがやってきて 「のりちゃん、大丈夫? あれじゃったら、警察呼ぶよ? 」  杉田さんは彼が私に暴力をふるとると勘違いした。 「杉田さん、すいません。騒がせて。もう大丈夫です」  廊下に散らばった食材を片付けて部屋に入ったら、彼が 「お前、まだ好きなんか? 」 ってシャツの襟元を掴んできた。卵でべとべとになった雑巾も締め付けられた首も蹴られた太腿も全部が泡のように消えたらいいのに。さっき、いっそのこと、もう一息チカラを入れてあの世にいかせてくれたらよかったのに。怒りに狂った彼の気を背中に感じながら炊飯器のスイッチをいれた。畳の上のクッションでくつろいでるサクラちゃんと違って、怒りに狂った彼は台所に立つ私の後ろをうろうろしていた。 「そんな腹立つんなら帰ってええよ」 「お前、その首の手跡見てみ、そんだけ絞められとって冷静でおれるか」  テーブルを バン!! と叩いた。 「ねぇ、むすびは具入れる派? それともシンプルに塩? 」  私がそう聞くと 「はぁ? そんな話じゃないじゃろう。じゃけど塩むすびに決まっとる」 「わかった」  私は炊き上がったご飯を塩むすびにして、冷凍うどんとうどんスープと玉ねぎと豚バラで肉うどんを作って、ちゃぶ台に運んだ。 「とりあえず、食べよ、冷めたら味がおちるけん」 「首絞められてもご飯作る女かっ」 「首絞められてもお腹がすく女」 「寒いけんか、うどんがうまいな」  彼がうどんをすする姿に、なぜか涙がとまらなくなった。 「いや、ごめん、気にせんでええ。気にせんでええんじゃけど、涙がとまらんくなった」  私はうどんをすするんか、鼻水をすするんか、わからん感じでうどんを食べた。 「すげえよな、お前って、殺されそうになっても、ご飯作って、食べるんじゃもんな」  そう言いながら、彼はむすびに味付け海苔を巻いて、頬張った。その彼がむすびを頬張る姿になんか救われた。いろいろあっても、そうやって目の前で美味しそうに食べてくれる人がおってくれる。何気ない、特別なことなんかひとつもない、ただ、その頬張る姿とうどんスープの匂いがその日は生きてる証のように思えた。  私はうたた寝しとる彼を見ながら冷凍うどんと豚肉とうどんスープ、冷蔵庫にはった買い出しメモに書き足した。それが私のの明日への微力な生命力だった。  お盆が近いせいか、久しぶりにあの頃の夢を見た。彼もサクラちゃんも、もうこの世にはいない。博之さんはどこでどうしているのか、さっぱりわからない。去年、私が住んでいたマンションも解体されて更地になった。  もう随分と前のことなのに、昨日の事のように思える。スマホを手に取るとまだ深夜1時だった。体を起こすと玄関に飾ってあるカサブランカの匂いを感じた。陽射しが眩しくて、暑くて汗をかいて、いいことなんてなさそうな夏が過ぎてみれば恋しくなるみたいに、もう二度と触れることができない彼に一番最初にしてもらった膝枕と橋から呆然として見ていた川の流れが愛おしい。すっかり目が覚めて眠れなくなって、私ははじめて彼のことをちゃんと書こうと思ったんだ。夏の夜みたいに、短くて暑かった彼との日々を──、長い夢を見たみたいに。誰に何を伝えたいのかそれさえも浮かばないというのに。  『短夜、長い夢を見た──』私はようやく書けた物語をそっと枕元に置いた。どうか、あなたがそっと読みに来ますように。
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