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シーグラス
線路沿いを歩く二人の少女を澄んだ朝日が照らしている。空は白く霞んでいて、けれどその白を染め上げるように東には淡い朱色が広がっている。潮の匂いを孕んだ風が軽やかに通り抜けていく。
「ふぁ~……この時間はまだ結構涼しいな……」
短く切られた黒髪の少女があくび交じりに言う。
「ていうか、なんでこんな朝っぱらから海に行こうなんて言い出したんだよ湊……アタシまだ眠いんだぞ」
「いいじゃない姫火。朝の海って綺麗でロマンティックなのよ」
湊はゆらゆらと朱色を反射して揺れる水平線を指さす。姫火は目を細め、水平線を見つめる。
「お前はほんと昔っからそういう……なんだ、ロマンチストって言うかなんて言うか、ファンタジーな世界に生きてるよなぁ」
そのツインテールもお姫様みたいだもんな! と笑う。湊の明るい茶色の髪は丁寧に桃色のリボンで結われている。
「夢が無いよりはずっといいわ」
「そうかい」
肩を竦める姫火。口ではなんだかんだ言いながらも、十四歳という多感な時期を一緒に過ごしてくれる親友に湊はこっそり微笑んだ。
石造りの階段を下りると、目の前には白い砂浜と広がる海。潮風が強く吹き付ける。湊の白いワンピースがふわりと揺れる。
「おおー、確かにきれいだな! ……けど」
波打ち際に駆け寄り、触れる。苦い顔で振り返った。
「冷たい。うん、やっぱ冷たいぞ」
「まだ朝だもの、当然よ」
当然のように言う湊にうへぇ、と苦い顔をする姫火。波間が光を反射し、キラキラときらめいている。サラサラと風に吹かれる髪を抑えながら海を眺める。海水浴に訪れた人間がもたらす賑やかさや活気こそ無いかもしれないが、湊は静謐に朝焼けの中佇んでいる海が一番好きだ。
「湊……ここで何するつもり?」
「シーグラスをね、拾いに来たのよ」
姫火が首をかしげる。「ガラスの欠片のことよ。……ほら、こういうもの」とポシェットから水色のガラス片を取り出し、見せる。波に揉まれたせいだろう、角が丸くなり表面は曇りガラスのようだ。
「はー……うん、きれいだな」
姫火の返答が気の抜けた、言ってしまえばあまり関心を感じないものだろうことは湊にもわかっていた。それでも、姫火を誘って海まで来た。
「でしょう? これをね……アクセサリーにするの」
ブレスレットが良いかしら? といたずらっぽく笑う。
「できたら、あなたにあげる。今までのお礼よ」
潮風が湊の髪を揺らす。整えた髪型が崩れないように耳にかける。姫火ははぁ、とわざとらしく大きなため息を吐いて、そして笑い返す。
「ありがと。でも、そんな気にしなくていいのに。それにさ、そういうのってサプライズとかにしないか? 普通」
「サプライズにするよりもあなたの好みに合うようなものにした方が良いんだもの!」
「……好みに合うなんて殊勝なこと言っちゃってさ」
皮肉気に口角を上げる姫火に目を細めると、波打ち際に近づきしゃがみ込む。姫火も倣う。二人の指が砂をかき分ける。先に何かを探り当てたのは姫火だ。彼女の手のひらに小さな白い貝殻が乗っている。
「これもなかなかきれいじゃん」
「そうね」
せっかくだからこれも使ってほしいと手渡された貝殻を指でなぞる。シーグラス探しを再開すると、ピンク色や緑色、水色、様々な色のガラスの欠片を拾うことができた。どの欠片も光に照らされ大地に淡く色づいた影を落としている。
「あ、湊! 服が濡れるぞ」
忠告は少し遅かったようだ。寄せる波が白いワンピースの裾を濡らし、すっと海へと帰っていく。あーあ、と姫火は苦笑する。
「ここまで来るにも結構歩くのに、なんでそんな靴と服で来たんだよ。汚れちゃうし疲れるだろ」
湊の足にはミュールが履かれている。白いリボンがあしらわれたそれは確かに歩くには向いていないだろう。当然の疑問であるはずの言葉に、湊は不服そうに頬を膨らませる。
「覚えてないの? この靴も服も、あなたが褒めてくれたものじゃない」
立ち上がり、一回転。舞台上のプリマドンナのような仕草。観客が思い出を遠くへ置いて行ってしまっても、主役は初公演を忘却に埋もれさせることはできない。
「あなたはこの夏が終わったら転校してしまう。最後の思い出にはこの服がふさわしいと思ったの」
「最後って……転校したってまた会えるよ。今生の別れって訳じゃないんだ」
いや、最後だ。たとえ姫火がそう言ってくれたとしても、最後だ。
湊は幼いころ都会からこの海辺の町に引っ越してきた。五年前、まだ幼い少女だった彼女は友人たちと手紙を交わしあう約束をしたのだ。また会って話をしよう、また遊ぼう、と指切りを交わした夢のような思い出。……引っ越した日から一週間ほどは頻繁に手紙のやり取りを行ったが、新たな環境に慣れようと日々を過ごしている間にその約束はいつの間にか忘れられていった。
指先を擦る。頻繁に手紙をやり取りしていた頃、逸る気持ちを抑えきれずに手早く封を切ろうとして指先を切ってしまったことがあった。薄く瘡蓋になった傷はもうすっかり消えてしまって、今ではささくれの一つも無い。
シーグラスを掌の上で転がす。割れて、波に流されてしまったガラスの欠片は、元の形には二度と戻らない。例え欠片を全て見つけだしたとしても、角が取れすり減ってしまったものは決して修復できない。
「姫火はそう言ってくれるかもしれないけど……さよならかもしれないじゃない」
もう二度と元の形に戻れないかもしれないけれど、形を変えたシーグラスはアクセサリーとして姫火の手首を彩る。なら、それで良い。
「……意外と現実主義者なんだな」
普段はふわふわしてるくせに……とため息を吐かれてしまう。
姫火の凛とした瞳がしっかりと湊を見据える。
「湊……あたしはこれを最後なんかにしない。そりゃ、会える機会は減るかもしれないけどさ」
断言する親友に微笑みを投げかける。
「ありがとう姫火、嬉しいわ」
掌の上のシーグラスを見つめる。波にもまれ、角が取れ、海を彷徨い流れ着いたそれらは太陽の光の中できらめいている。波は繰り返し寄せては返す。砂浜に残った跡に二度と同じものは無く、すぐに波に攫われて消えていった。
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