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序_昭和28年(1953年)
「そんな! 冗談じゃない」
清一は声を震わせた。
かつて、軍人たちの詰所でもあったこの古寺は、戦後になっても、撤去された仏や仏具が戻ってくることはなく、代わりに得体のしれない女性と行き場を失くした少年を受け入れて、今日で八年の歳月が流れていた。
たしか今年で二十三になると、伯母の栄子は、清一の引き締まった顔立ちを見てため息をつく。
シャツから覗くしなやかな筋肉。ズボン越しでもわかる足の長さ。鼻筋の通った顔立ちは、清一の父である清司譲りであり、唇が薄く細い眉は清一の母であり、栄子の妹である幸子譲りだ。まさか、こんなところで死んだ二人の面影を見出すとは思わなかった。新調した着物の下で肌が汗で湿り、形容しがたい苛立ちが栄子の胸の中を引っ掻き回す。
――えぇ、えぇ、アンタたちは、さぞいい御身分でしょうね!
空襲でさっさと死んでしまって、こんな難儀な世の中を生きずに済んだのだから!
大地主の長女として生まれた栄子の人生は、最初から決められていた。だが、決められていたことを守り続けていれば、安寧が約束されており、読書と算術が好きだという妹を心底憐れんでいた。
男でもないのに、そんな無駄なことに時間を費やすなんて、妹の頭にはどこか欠陥があると、栄子は思っていたのだ。
そんな栄子が妹に対して、初めて敗北感を覚えたのは清司を見た時だった。
洗練された振る舞いと、女性に対して紳士的な態度もさることながら、大口で笑っても品が損なわれないところが、住んでいる世界の違いを痛感させられた。
「アンタに決定権なんてないのよ、清一。子供みたいな駄々をこねていないで、腹を決めなさいっ!」
清司は和歌山市を拠点とした商家の生まれで、明治あたりから財を成した一族だ。取り扱うのは主に食料品であり、時勢を読んで軍を仲介し、取引先と仕入れ先を拡大する過程で幸子と清司は知り合った。
幸子は親が用意した見合い相手ではなく清司を選び、清司も幸子を、新しい時代を生きるのにふさわしい女性だとほめそやし、なにをトチ狂ったのか、清司の家も幸子を歓迎するのだから面白くない。
「――っ。卑怯だ! ずっとずっと、俺たちのことを放置していたクセに!」
八年前、ラジオで和歌山市が空襲に遭ったと聴いて、栄子は幸子が死んだことを確信した。天罰が下ったのだと内心で喝采しつつ「心配した。助けに来た」と使いを出して恩を売り、清司の家に取りいろうとしたのだが、結果は意識不明の清一がこの村に運びこまれ、他の親族は行方知れず、生存を期待するのは難しいだろう。
「あぁ、そうね。そのせいでアンタの考え方が、世間様から随分外れてしまったようだし、矯正するにはちょうどいい機会だわ」
絶句する清一に対して、栄子は満面の笑みで貫禄を見せる。
米国主導による農地改革で地主制度が廃止されたものの、村での栄子の地位は揺らぐことなく、婿の勇がうまくやってくれたおかげで、生活の羽振りも良くなった。
だが、孫たちのことや、先々のことを考えると今の資産では心もとなく、村を訪れていた役人のお嬢さんが、清一を見初めたことを訊いて、栄子は自分に巡って来た勝機を確信した。中央の役人から棚田を潰して蜜柑畑にするよう指導されたことも、広い心で聞き入れることが出来た。
「あの女にも相手を探してあげるわ。アンタたちはこれから、この古寺を出て世間様に顔向けできる人生を歩くのよ!」
――この私のようにね!
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