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一_昭和20年(1945年)
八年前 昭和二十年(1945年) 七月九日
――深夜の和歌山市は、米国軍による都市部を中心とした大規模空襲に見舞われた。後に和歌山大空襲と呼ばれる惨劇である。
九日の深夜から翌日十日の未明まで行われた焼夷弾による爆撃は、多くの人々の命を奪い、和歌山城や神社を筆頭とした文化財をも消失させ、立て続けに翌月には広島・長崎への原爆投下である。
後日、ラジオから聞こえてきた終戦の報せから、自国の敗北を知り、首をたれるしかない国民。
彼らは彼らの心の傷を癒す余裕も与えられずに、戦後復興の圧力に流されるまま、自分たちの生きる道を模索することになる。
――だが、それができない人間は、果たしてどうすればいいのだろう?
昭和二十年(1945年)九月
空襲で生き残った清一は、火傷の傷が癒えたものの、伯母の家で無気力に過ごしていた。
食べる、寝る、排泄する、なんの目的もなく徘徊するのも、最初のうちは、栄子の甥であり、空襲で怖い思いをしたのだろうと黙認されてきた。
「このごく潰し! 働け!」
「…………」
だが一部で確実に不満が溜まっていた。
発端は清一と同じ空襲を生き残り、同じ村に避難して、和歌山市に帰らずにそのまま居ついた人々だ。彼らは必死に村人たちと交流を深めて仕事を手伝い、汗と土に塗れ、空襲で負った怪我の痛みに耐えながら稲刈りに従事していた。
「怠け者! 卑怯者! なぜ、お前は生きているんだっ!」
この村は急斜面が多く、ほとんどが棚田を占めているため、足腰を限界まで酷使する。
自分たちは血反吐を吐く思いで働いているのに、なぜ五体満足の清一は、優雅に散歩を洒落込んでいるのだろうか。
なぜ清一が、なぜ自分たちが、同じ痛みを有している同朋意識があるからこそ許せない。いったん暴れだした負の感情が、血のように赤黒くなっていくのを止めることなんて出来ない。
「そうだ! そうだ! 調子に乗りやがってっ!!!」
村人も次第に、避難民の感情に感化されていった。若手や男衆が戦争に取られたがゆえに、収穫期においての人手の申し出がありがたく、一方で清一の存在が嫌でも目について許せない気持ちになる。
清一は今年で十五歳。ゆくゆくは徴兵されて米国と戦うことになっただろうに、徴兵される前に戦争が終わってしまった。自分たちの大切な人たちはまだ戻ってきていないのに、なぜ清一がここにいるのだろうか。
「…………」
向けられる明確な憎悪に対して、清一は淡々としていた。
農具を手に持ち、殺気立った男たちに囲まれても表情に変化はない。
あわや一触即発のところで、助け舟を出したのが栄子の夫である勇だった。
「ハイハイ。皆さん、落ち着てください。彼には古寺にいるあの女性を世話させようと思います。ですから、ここはグッと堪えてくださいな」
「へ、へい」
「チッ」
清一を背後に庇い、済まなそうな顔をして禿げた頭を下げる勇は、即座にこの場を収めて清一の手を引く。
九月に入っても蝉の声がやかましく、急斜面の道を、行ったり来たりして森の中に入ると、整備された道から枝分かれした獣道に入り、抵抗らしい抵抗のないまま清一は無言で伯父に従った。
「栄子さんのことなら心配いらないよ。というよりも、今日、清一くんが家に帰ったら、ちゃんと話そうと思っていたんだ。どうも、こっちもいっぱいいっぱいで、君のことを疎かにしちゃってごめんね。アメリカ様がーとか、指導みたいなのが来ちゃってさ。ちゃんと聞こえている?」
「……はい」
人目がないことを確認して、勇は矢継ぎ早にまくし立て始めた。この男もこの男で、このタヌキのような丸い腹に鬱憤を溜めていたのだろう。清一は無視することなく、最低限の返事で相槌を打ちながら山道を進むと、やがて視界が開けて寂れた寺が姿を現した。
「今日から、清一くんはここで生活してもらう。軍人さんたちの詰所だったから、最低限の生活基盤は整っているし、裏に小さな畑もあるよ。近くの川の場所ぐらいは分かるよね? それでね、タダでだとみんなに示しがつかないから、君には、この寺にいる女性の看病をしてもらう」
「いいんですか? 女性の方が適任なのでは?」
今まで従順だった清一が、初めて自分の意志を見せた。
勇はニヤリと口端を歪め、甥の肩に優しく手を置く。
「見れば、分かるよ」と。
その笑顔で下品で禍々しくて、清一は久しぶりに苦々しい感情が蘇るのを感じた。
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