9人が本棚に入れています
本棚に追加
二_昭和20年(1945年)
本堂に案内されると、そこには仏がなく、広い空間にせんべい布団が敷かれていた。黴臭さと血の匂いが鼻につき、清一は、なにかに突き動かされるように布団の元へ行こうとする。
――深夜の町。空襲で家族と逃げるも、途中ではぐれてしまった。迷った時に決めていた合流地点……分からない。爆発で、音が音が音が、周囲は火の海で、土くれが舞い上がり、海へ続く紀ノ川には、たくさんの死体が浮かんでる。ようやく到着した避難所には、人の原型を保っていない人たちで溢れ、溢れ、溢れ、溢れ、溢れ、怖くなって逃げだしたら避難所にも火火火火の手が及んでいた。たくさんの悲鳴とうめき声、声、声、声、助けて、助けて、助けて、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、死にたくない、死にたくない、死にたく……。
「死にたくナイ?」
掠れた女性の声に、清一の意識は過去から現在へ引き戻された。
「あ……」
布団のそばで涙を流す清一に、白い手が伸びて頬を撫でる。
最初に目についたのは、濡羽色の長い髪。全身に直接まかれた包帯が痛ましく、自力で着替えることが出来ないのか、寝間着はひどく乱れていて、布団は皮脂と血で黒く汚れきり、不浄の匂いを放っていた。
「ひどい。このままでは、死んでしまう」
「分かるよ。それで村の診療所に運ぼうとしたら、いつの間にか姿を消して、なぜかここに戻っているし。それで、みんな気味悪がっちゃってさ。そのまま放置するのも夢見が悪いしで、君に白羽の矢が立ったわけなんだ」
勇は神妙にうなだれて説明する。
「話を聞いてみても訛りがある上に要領を得なし、食べ物にも手をつけないから、ほとほと困っていたんだ。たぶん、空襲でケガをしたんだろうけど、疎開する途中でこの寺に置いて行かれたんだろうね。いやぁ、ひどい話だよね」
「……名前は?」
「ヤタ」
この時、清一の頭に浮かんだのは、神の御使いである三本足の鴉――八咫烏。日本神話において、神武天皇を熊野から大和国まで案内したとされる神鳥だ。熊野は現在の和歌山県南部をさしており、一部の地域では、八咫烏自体が信仰の対象とされて、清一の家の近所にも八咫烏を祀る小さな神社があった。
彼女が八咫烏の化身? そんな。莫迦な。
敗戦と同時に、昭和天皇が人間宣言をしたのだ。そんな状況で八咫烏が現れたら、行き場を失っていた人々の怒りが、全て神の御使いに向けられる。
「俺は清一だ」
頬を撫でる手を取って、清一が自己紹介すると、女性の口元に淡い笑みが浮かんだ。
「それじゃあ、あとは頼んだよ。清一くんの私物はちゃんと届けるからね」
逃げるようにその場を後にする勇は笑っていた。
厄介ごとが一気に片付いたことを喜ぶ笑みだった。
最初のコメントを投稿しよう!