二_昭和20年(1945年)

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二_昭和20年(1945年)

 本堂に案内されると、そこには仏がなく、広い空間にせんべい布団が敷かれていた。黴臭(かびくさ)さと血の匂いが鼻につき、清一は、なにかに突き動かされるように布団の元へ行こうとする。 ――深夜の町。空襲で家族と逃げるも、途中ではぐれてしまった。迷った時に決めていた合流地点……分からない。爆発で、音が音が音が、周囲は火の海で、土くれが舞い上がり、海へ続く紀ノ川(きのかわ)には、たくさんの死体が浮かんでる。ようやく到着した避難所には、人の原型を保っていない人たちで溢れ、溢れ、溢れ、溢れ、溢れ、怖くなって逃げだしたら避難所にも火火火火の手が及んでいた。たくさんの悲鳴とうめき声、声、声、声、助けて、助けて、助けて、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、死にたくない、死にたくない、死にたく……。 「死にたくナイ?」  掠れた女性の声に、清一の意識は過去(悪夢)から現在(うつつ)へ引き戻された。 「あ……」  布団のそばで涙を流す清一に、白い手が伸びて頬を撫でる。  最初に目についたのは、濡羽色(ぬればいろ)の長い髪。全身に直接まかれた包帯が痛ましく、自力で着替えることが出来ないのか、寝間着(ねまき)はひどく乱れていて、布団は皮脂(ひし)と血で黒く汚れきり、不浄の匂いを放っていた。 「ひどい。このままでは、死んでしまう」 「分かるよ。それで村の診療所に運ぼうとしたら、いつの間にか姿を消して、なぜかここに戻っているし。それで、みんな気味悪がっちゃってさ。そのまま放置するのも夢見が悪いしで、君に白羽(しらは)の矢が立ったわけなんだ」  勇は神妙にうなだれて説明する。 「話を聞いてみても(なま)りがある上に要領(ようりょう)()なし、食べ物にも手をつけないから、ほとほと困っていたんだ。たぶん、空襲でケガをしたんだろうけど、疎開する途中でこの寺に置いて行かれたんだろうね。いやぁ、ひどい話だよね」 「……名前は?」 「ヤタ」  この時、清一の頭に浮かんだのは、神の御使(みつか)いである三本足(さんぼんあし)(からす)――八咫烏(やたがらす)。日本神話において、神武天皇(じんむてんのう)熊野(くまの)から大和国(やまとのくに)まで案内したとされる神鳥(しんちょう)だ。熊野は現在の和歌山県南部をさしており、一部の地域では、八咫烏自体が信仰の対象とされて、清一の家の近所にも八咫烏を祀る小さな神社があった。  彼女が八咫烏の化身(けしん)? そんな。莫迦(ばか)な。  敗戦と同時に、昭和天皇が人間宣言をしたのだ。そんな状況で八咫烏が現れたら、行き場を失っていた人々の怒りが、全て神の御使いに向けられる。   「俺は清一だ」  頬を撫でる手を取って、清一が自己紹介すると、女性の口元に淡い笑みが浮かんだ。 「それじゃあ、あとは頼んだよ。清一くんの私物はちゃんと届けるからね」  逃げるようにその場を後にする勇は笑っていた。  厄介ごとが一気に片付いたことを喜ぶ笑みだった。      
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