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五_昭和28年(1953年)
「伯母がすまない。俺たちはもう、ここにはいられない」
「そのようですネ。ですが、要所要所に人が配置されています。恐らく、わたしたちを逃がさないためでしょう」
まるで、実際に見てきたかのように、ヤタが言った。
「こんなことになるなんて、本当にすまない」
清一は心の底から詫びる。
ヤタの怪我が治った時点で、自分たちは寺を出るべきだった。
あの重症から一年で全快した彼女に対し「周囲に怪しまれるから、それなりの時間を置こう」と提案したのは清一であり、本音は今の生活を壊したくなかったのだ。
「なにを謝っているのデスカ? 清一さんは悪くありマセン」
「「…………」」
わずかな沈黙の後で、ヤタは申し訳なさそうに口を開く。
「清一さん。わたしは清一さんが好きデス」
「お、俺もヤタのことが好きだ」
「だから、選んで欲しいノデス。わたしを信じて夫婦となるか。人の世に留まルカ」
暗に、自分が人間ではないことを告げるヤタに、清一は嬉しそうに微笑む。
「俺の居場所はヤタの側だよ。貴女の側にいられるのなら、どんなことでもする」
「それを聞いて安心しましタ。――主様、どうか御姿を現してクダサイ。このわたしのわがままを、どうか、お許しくださいっ!」
ヤタはお堂の天井に向かって叫んだ。
「――っ!」
突如としてお堂が光に包まれた。
まばゆい光の中で人影がこちらに近づき、厳かな声が清一の頭に直接響く。
【我が僕よ。若き燕を、この燕室から連れ出す意味が、分かっているのだな?】
「燕室?」
「休憩する部屋のことです」
どうやら燕は清一を指し、この古寺を燕室と例えているらしい。
【それは理を捻じ曲げ、種族の壁を超えること。並大抵の試練ではなく、この燕には相応の罪と業を背負ってもらうぞ】
「構わない! ヤタと夫婦になれるのなら、どんな試練でも受けて立つ」
即答する清一は、真っすぐな目で光の中で立つ人影を見た。
その愚かさ、その一途さ、清一のそのひたむきさに、ヤタは何度も愛おしさを覚えていた。だからこそ、彼を古寺に繋ぎとめてしまい、この事態を招いてしまったのだ。ヤタは心の中で清一を欲したことを謝る。
【ならば、生き残ってもらう!】
光が消えて、空気の質が変わった。
遠くから、とても恐ろしいものが近づいてくる。
人間の枠から外れた、研ぎ澄まされた五感が、ここは危険だと叫んでいる。
「ヤタ、逃げるぞ!」
「ハイ、どこまでも」
清一はヤタの手を取り寺を出た。
昭和二十八年(1953年)七月十八日
活発な梅雨前線の影響により、紀伊半島で十日間、雨量七○○mm超の大雨となる豪雨が発生。河川の決壊、土砂災害、山津波、天然のダムを形成させ、地形を変形させる凄まじさ。上流から流された犠牲者の遺体が浜を埋め尽くしたほどの、甚大な被害をもたらしたこの災害は、和歌山県史上最悪の気象災害として後世に語り継がれることになる。
一方で、三重県の伊勢神宮では、八咫烏の番が、晴れ渡った空を仲睦まじく飛んでいた。
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