電子のチョロ

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 母が死んだ。  年の離れた兄が喪主になって葬儀社の手配から役所の手続きまで一通りやってくれたので、妹の私は何もすることがなく、棺の中で眠る、記憶よりも痩せた母の顔を見てただ嗚咽するだけだった。田舎を出て一人暮らしを始めてから帰省するのは盆と正月だけ。それもここ数年は仕事の忙しさにかまけてどちらかをさぼりがちだった。もっと会っておけばよかった、親孝行しておけばよかったなんて今ごろ後悔する。きっと皆そうなのだろうと思う。  忌引きが明けて一週間も経てば、少なくとも勤務中は元通りに働けるようになった。就活の時期になり、我が人事部は大わらわ。毎日何十人もの入社希望者と面接をしていれば落ち込んでいる時間などなかった。けれど仕事を終えた帰り道、一人になると寂しさがまた顔を出す。冷えた心を少しでも温めようと、人の賑わいを求めてショッピングモールへ寄り道をする。エスカレーターで二階へ上がると、おもちゃ売り場や本屋が並んでいて、そこら中を子供たちが無邪気に走り回っていた。かわいいなと思う。母も孫の顔が見たかったのかなと思うと申し訳ない気持ちになった。でも、一人で自立して働く道を選んだことに後悔は無かった。  子供たちの喧騒に紛れて「わん!」と甲高い鳴き声がした。ペットショップ。仕切られたガラスの向こうで仔犬や仔猫が走り、眠り、くつろいでいた。近くで見てみる。柔らかそうなクッションを寝床に小さな柴犬が丸まって寝息をたてていた。ぬいぐるみにしか見えないが、呼吸に合わせて上下するフカフカの毛が、そこに温かな命が宿っていることを示していた。  葬儀の後、兄は別れ際に「あんまり無理すんなよ」と私に声をかけてくれた。父が五年前に亡くなり、母もいなくなった今、とうとう肉親は兄だけになってしまった。私は三十二歳、兄は四十五歳。順番から言えば最後に残るのは私だ。私の人生、家族はいなくなっていくだけで増えることはない。……そう思っていたけれど、もしかしたらこの仔犬たちは私の新しい家族になってくれるのだろうか。 「抱っこしますか?」  見透かしたように女性店員が声をかけてきた。「あ……」と肯定とも否定ともとれない曖昧な返事をポジティブに前者と受け取り、店員はガラスケースを開いて抱き上げた柴犬を私の両腕に抱かせた。子犬は眠たそうな半開きの目で私を見上げ、クゥンとか細い声で鳴いた。そのあまりの小ささと弱々しさが無意識下の母性本能を刺激する。なるほど。こうすればたしかに抗いがたい愛情が湧く。うまい商売だ。けれど。 「ありがとうございます。考えておきます……」  そう言って柴犬を店員に返してその場を後にした。マンション住まい、一人暮らし、残業続きの仕事。今の私に命を預かる責任はとても背負えない。 ※ ※ ※  玄関で靴を脱ぎ、いつものように「ただいま」と声に出して、ふとそれが誰に向けてのものなのかと考えてまた心が冷えた。同時にあの柴犬のことを思いだした。こうやって後ろ髪を引かれて、次の日に引き取りに行く客も多いのだろうなと苦笑する。そういえば、子供の頃に犬を飼いたいと親にねだったことがあった。あの時は、父は賛成してくれたが、母が頑なに反対したので叶わなかったのだ。理由を尋ねると、お別れする時の悲しさに耐えられないからだと言った。 「よいしょ」  マンションの入口で宅配ボックスから回収してきた段ボール箱を床に置き、荷札を確認した。差出人は兄、品名は「雑貨」。几帳面な兄らしく、剥がしやすいようにガムテープを避けて貼られた荷札を剥がして中を開けると、実家に置いたままにしていた私物が詰められていた。住む人のいなくなった実家を引き払うとは聞いていたが、いつもながらに兄の仕事は早い。箱に入っていたのは子供の頃の愛読書や玩具、流行おくれの服に靴。三年使わなければ一生使わないとはよく言ったもので、それらは今の私に必要なものではなかった。 「あ、これ……」  箱の底から最後に出てきたのは折りたたみ式の電子機器だった。手にとって思い出した。子供の頃に遊んでいた携帯ゲーム機だ。あの頃キラキラに輝いていた銀色のボディはすっかりくすんだ鈍色に変わっていたが、開いた上下の二画面を見ると変わらず心が踊った。ここには家族四人で過ごしていた頃の楽しい記憶が詰まっている。試しに電源ボタンを押してみる。が、点かない。箱に入っていた充電アダプタを本体に接続してコンセントに繋ぐと、赤いバッテリーランプが点いた。どうやらまだ動きそうだ。晩ご飯とお風呂を終える頃にはランプの色は緑に変わっていた。改めて電源ボタンを押すと、懐かしい起動音が鳴り、二つの画面に光が灯った。 「……チョロだ」  画面に映った小さな柴犬を見た瞬間、その子の名前が記憶の底から浮かび上がってきた。そうだ。私はこの子を飼っていた。あの時、犬を飼ってもらえなかった代わりに、私はこの子を買ってもらったのだ。画面の中で犬のお世話をするゲーム。当時かなり流行して、たしか百万本以上は売れたはずだ。付属のペンで下画面のタッチパネルをつつくと、チョロが反応して駆け寄ってきた。頭をこちらに向けている。撫でてほしいらしい。ペンで画面を回すように撫でると、チョロは「ワン!」と機嫌のいい声を上げた。当時遊んでいた時のルーチンを思い出す。そうだ、次はごはんをあげないと。 「よしよし……」  世話をするうち、自然とそんな声が出ていることに自分でも驚いた。口角も上がっていた。なんだか久しぶりに笑った気がする。 「うん、次はお風呂に入れないと」  そこで気が付いた。チョロの毛並みは綺麗だった。汚れもあまり見当たらない。ゲームなのだから当然だろう、というのは間違いだ。一定期間お世話をサボると、ゲームの中の犬はちゃんと(と言ったらおかしいが)汚れや泥が毛について、だんだん汚い見てくれになってくるのだ。実際、子供の頃にそんな状態になったことがある。新作ゲームが発売されると、どうしてもそちらを遊びたくなって、私はだんだんチョロの世話をしなくなっていった。一週間に一度、一ヶ月に一度、そして──私はいつしかチョロのことを忘れてしまった。あれから二十年以上が経った。それなのにチョロの毛並みは美しかった。 「お母さん……」  私が世話をしなくなった後、チョロはずっと母と暮らしていた。そしてチョロは母の望み通り、最後まで悲しいお別れをすることなく今日を迎えたのだ。 「お前、えらいね」  声をかけ、私はもう一度チョロの頭を撫でた。 ※ ※ ※  玄関で靴を脱ぎながら「ただいま」と声をかけ、ゲーム機の電源を入れる。私に気付いたチョロが画面の手前に走ってきて尻尾を振った。 「はいはい、ごはんね」  私はチョロにごはんを用意してから自分の夕飯を作り始めた。母からチョロのお世話を引き継いで半年が経っていた。母のいない非日常はいつしか新しい日常となり、そこにはチョロも加わっていた。この子のお世話をすることで冷えていた心の温度は上がり、私はまた歩き始められたのだ。今日もチョロにごはんを食べさせ、お風呂に入れて、毛並みを整えて、最後に「おやすみ」と声をかけて電源と電灯を落として布団に入る。新しい家族との暮らしだった。 ※ ※ ※  起きた時、チョロはいなかった。  何度電源を入れ直しても、画面は無数のラインが走った緑色に染まり、不快なビープ音と共にチカチカと点滅を繰り返すばかりだった。素人目に見てもバッテリーの問題ではないとわかる。思えば、もう二十年以上前のゲーム機だ。今まで正常に動いていた方が不思議だったのかもしれない。突然のことに狼狽し、部屋を無意味にうろうろと歩きまわり、はたと気付く。ゲーム機の箱から説明書を取り出して巻末に記載されたサポートセンターの電話番号を確認し、スマホに入力する。 「お願い……」  このゲーム機のメーカーがまだ存続しているのは知っていた。しかし、番号は変わっているかもしれない。どうか繋がってくださいと願いながらコール音を聞く。三度目のコールの直前で「はい、こちら〇〇サポートセンターでございます」と男性の声が返ってきた。 「あ、あの……ゲーム機が壊れてしまって……。すごく昔のなんですけど……。中に犬がいて……」 「かしこまりました。それではゲーム機の名前を教えていただけますか?」 「は、はい」  説明書の表紙に書かれた名前を読み上げると、サポートセンターの男性は少し困った様子で少々お待ちください、と一度保留にした。昔遊んだことのあるゲーム音楽のピアノアレンジが保留音になっていたが、今の私にそれを楽しむ心の余裕はなかった。 「……………………」  随分長く感じたが、おそらく二、三分後に「お待たせしました」と返事があった。男性は申し訳なさそうに、このゲーム機のサポートが既に終了していることを告げた。「そうですか……」と返した私の声は自分でもわかるほどに暗く沈んでいた。男性はもう一度「申し訳ございません」と不要な謝罪をしてくれた。  終話した後、私はぺたりとその場に座り込んでテーブルに顔を伏せた。ああ、そうか。今ならわかる。あの時、犬を飼うことに反対した母の気持ちが。こういうことだったんだ。……でも、母はひとつ間違っていた。それは、チョロを失った悲しみよりも、チョロと過ごした大切な思い出の方がより大きく、より強いということだった。私はチョロを飼ったことを決して後悔していなかった。 ※ ※ ※  スマホの揺れる音で目を覚ました。テーブルから顔を上げると、部屋の中はずっと前に昇っていた朝日で照らされていた。休日でなければとっくに遅刻だ。スマホを確認する。着信が一件。また迷惑電話かと無視しようとしたが、その番号には見覚えがあった。少し考えて、昨日のサポートセンターだと思い当たった。かけ直すと同じ男性が出た。彼は「突然すみません」とまた謝ってから話し始めた。 「本当はお客様への架電はしない決まりになっているのですが……どうしても気になってしまって。あの、お客様。中に犬がいる、と仰ってましたよね」 「は、はい。犬を飼うゲームの……」 ※ ※ ※  ハア、ハアと息を切らせて帰宅すると、玄関に靴を脱ぎ捨てて部屋に走った。行儀なんて気にしていられない。持ち帰った袋の中身をテーブルの上に広げる。中古の携帯ゲーム機と工具セット。近所のリサイクルショップで見つけたものだ。買ってきたゲーム機を私の持っていたものと並べると、液晶画面の大きさはそのままに軽量・小型化され、デザインもより洗練されていた。  サポートの男性は言っていた。 ”この携帯ゲーム機には後継機種がありまして、下位互換が──つまりお客様の旧型ゲームも引き続き動作する機能があるんです。こちらの機種であれば、まだ中古ショップなどで多く出回っているのではないかと思います。それから……”  男性に言われたことを思い出しながら、壊れたゲーム機の裏蓋を工具セットのドライバーでこじ開けると、中にSDカードが収納されていた。慎重にカードを取り出し、買ってきた後継ゲーム機に差し込む。そしてゲームカードも入れ替えて──祈りながら電源を入れる。 ”このゲームの場合、セーブデータは本体ではなくSDカードに保存される仕様になっています。だからSDカードさえ無事なら……” 「わん!」  光の灯った新しい画面で、私の家族が嬉しそうに吠えた。  これからもよろしくね、チョロ。 -おわり-
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