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退店(エピローグ)
ここで一息。食後の一休みは重要だ。
コップに残った水を飲みながら五分ほどの小休止。
余韻に浸りつつ、周囲に気を配る。
そろそろ席を空けた方が良い頃合いだろう。
「すいません、お冷のおかわりを……」
私がそう言ったときに件の青年は席を立ち、私に対して驚きの気配を向けた。
だが、それも一瞬の事。青年は私の後ろを通り、速やかに会計を済ませて外へ出た。
うむ、中々スマートな所作の青年だったな。
その後、注がれた水をグイッと一気に飲むと、私も席を立ち、レジへ向かった。
「すいません、お勘定を……」
「お客様のお会計でしたら、先程の方が一緒に払っていかれましたよ?」
なんと?
私の分の勘定が支払われている?なぜ?
私と先程の青年は初対面だ。それは間違いない。彼が私の分も勘定を払う義理など無いはずだ。
なのに、なぜ?
驚きと疑問が胸に残るが、私は店員の若い娘さんに「ありがとう」と一言礼を言い、店の外に出た。
予想はしていたが、店の外には青年がいた。
相変わらず、猫背と表情筋の全く働かない覇気の無い姿で立っていた。
「君が、私の分も勘定を払ってくれたと聞いたが……どこかで会ったことはあったかな?」
「いいえ、初めてお目にかかります」
「じゃあ……」
私が問いかけようとしたとき、青年が私の言葉を遮るように口を開いた。
「”うっちん”さんですよね?20年ほど前にトンカツブロガーとして彗星のように現れ、長きに渡ったラーメンブームを過去のものにして、トンカツブームを巻き起こし、その後国民食と呼ばれるまでにトンカツ定食の店を日本全国に開店させるきっかけとなった伝説のブロガー……」
驚いた!
私の過去をこうもスラスラと口にする青年。青年の年の頃を考えたら、私がブロガーとして跋扈していた時代など生まれていないか、まだ幼稚園にも満たない年齢だっただろう。
ブログだって最終更新は十二年前。その後二年経ってから閉鎖して、今では読むことすらできないはずだ。
彼はなぜ私のことを知っているのか?
「すまないが……どこかで会ったことがあったかな?」
私の質問に青年は首を横に振った。
「五年前にあなたの著書を古本屋で見つけました。それを読んでトンカツを食す世界というものを知りました。凄い熱量で訴えかけるトンカツ愛。正直、一瞬で僕は虜になりました。その後、あなたのことをとにかく調べて、自分でもトンカツを食べ歩き、一つ一つをじっくり味わい、作法を求めて今に至ります。あなたは僕の憧れの人なんです」
「今日は私を追って?」
「とんでもない。偶然です。偶然見かけて、きっと昼にはトンカツを食べるだろうと。そう思ってついてきました。一度でいい、あなたの作法をこの目で見て、真似してみたいと思って」
参ったな……
私がブログの更新をやめ、最終的に閉鎖したのはアレが若気の至りだと思ったからだ。
若さというものは実に恐ろしい。怖いもの知らずで、そのエネルギーをぶつける対象さえあれば身の程も弁えずにどこまでも突撃し続ける。
今になって考えれば恥ずかしくなるばかりだ。
一介の小僧が偉そうにやれトンカツとは何かとか、トンカツを食べる際の作法についてとか滔々と語り、天狗になってそれを開陳する。
確かに私のブログを皮切りに同じようなトンカツ愛のブログは増え、ブームに乗り遅れまいとトンカツ屋も増えていった。
当時は自分が社会を動かしたなどと悦に入ったものだったが、今となって思い返せば、本当に恥ずかしい限りだ。
「申し訳ない。できればその……昔のことはあまり話さないで貰えるとありがたいんだが。それに今はただの一介のトンカツ好きのサラリーマン。そんな大したものではないんだよ」
「……そうですか、分かりました。ただ、一つだけ教えていただいてもよろしいですか?」
「うーん……答えられることなら」
「ブログをやめた後、あなたが密かに名乗っているトンカツ師とは何ですか?」
この青年、そこまで知っているのか?いや、アレは大したものではないのだが……答えねばならないだろうか。
「あー……大したことではないんだよ。当時、ブログを書いていた連中と交流があってね。そのメンバーだけで名乗っている、いわばトンカツ好きなだけさ。子供の秘密組織ごっこみたいなもんだね」
「では、トンカツ師の相手とは?」
「トンカツ師の相手は決まっている。愛すべき親友、トンカツこそがトンカツ師の好敵手さ。礼を尽くし、真剣に戦う相手」
およそ表情というものが無い青年の顔に明らかに驚きと呆れの表情が現れた。
「それだけ……?」
「うん、それだけさ。じゃ、私は午後の仕事に向かうよ。失礼」
私はそう言って青年に背を向けて歩き出した。
二つ分かることがある。
一つはあの青年はあと十分くらいはあのまま動けないだろうということ。勿論、それは私の話した内容のあまりの馬鹿馬鹿しさを理解するのに時間がかかるためだ。
もう一つ。彼はきっと近いうちにいいトンカツ師となってまた私と共にトンカツを空であろうということ。
その時が今から楽しみに感じる。
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