第六話 月と犬と満月クッキー

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第六話 月と犬と満月クッキー

 それは、帰宅途中のことである。  たっ、たっ、たっ。  はっ、はっ、はっ。 「……」  気のせいだろうか、後ろから付いてくる足音と荒い息の音が聞こえる。スグリは自転車を扱ぎながら、冷汗をかいた。  ……もしかして変態? 痴漢?   いやまさかそんな馬鹿な。  いくら秋も深まって陽が落ちるのが早くなったとはいえ、ここは田畑に囲まれた長閑な農道だ。  すれ違うのは、小型犬三匹に引っ張られる早川さんとこのおじいちゃんとか、軽トラに乗った南さんとこのおばあちゃんと最近農業を引き継いだマッチョなお孫さんとか、スグリと同じように自転車通学する中学生の三人組とかくらいだ。  あり得ないことだと思いながらも、スグリはペダルを踏む足に力を籠める。スピードアップして、杞憂を吹き飛ばそうとしたのだが――  たったったったっ。  はっはっはっはっ。  背後の足音と息音もスピードアップして、スグリは内心で悲鳴を上げる。  こんな時に限って、見知った誰ともすれ違わない。  振り返るのが怖くて、夕陽が陰る道をスグリは全力で扱いだ。  菓子店ポムグラニットの周囲の庭と林には、スグリの伯母である『赤橙ざくろ』が描いた魔法陣がある。この中には、悪意や害意を持つ者は入れない。  スグリは、林の中の煉瓦道に、歴代最高速度の自転車で乗り込んだ。痴漢や変態であれば、この中には入ってこられまい。  ブレーキをかけて自転車から降り、ほっと胸を撫で下ろした時だった。  はっ、はっ。 「ひっ!」  腰の後ろ辺りで、荒い息の音がした。  驚きのあまりにハンドルを離してしまい、自転車が倒れて派手な音を立てる。恐怖に腰を抜かし、へたり込んだスグリの顔に、生温い息がかかって――  べろんっ。 「ひゃっ…!?」  ざらざらとした大きな桃色の舌で頬を舐められた。  横を振り向くと、眦が少し吊り上がった琥珀色の目が、スグリの目を間近でのぞき込んでいる。  ふさふさの灰色の毛が、鼻先の尖った顔が、スグリの頬に摺り寄せられた。  スグリの傍らでちょこんと大きな前足を揃えて大人しく座るのは。 「……犬?」  わうっ!  座ったスグリよりも少し目線の高い大きな灰色の犬が、元気よく吠えた。   ***** 『……何てもん連れてんだ、お前』  表口から店に入ったスグリに、店番をしていた黒猫のミントは呆れた声を出した。  スグリの傍らには、ぴったりと寄り添う灰色の大きな犬がいる。 「だって付いてきたんだもの」  スグリは困りながら答えるが、内心は少し嬉しかった。  どうやら、帰路でスグリをずっと追いかけてきていたのはこの犬らしい。  ポムグラニットの林から庭まで付いてきた犬は、スグリから離れようとしなかった。とりあえず店の前で待ってもらおうと思ったのだが、ぐいぐいと身体を摺り寄せてきて一緒に中に入ってきたのだ。  スグリは動物が好きだ。  今まで接するのは猫(ミント)とか近所の小型犬くらいだったので、こんなに大きな犬を近くで見ることができるのは嬉しい。  背中に灰色のリュックサックらしきものを背負っているところを見ると、誰かの飼い犬なのだろうか。  三角のぴんと立った耳に、きりっとした琥珀色の目。ふさふさとした毛並みとしっぽに、鼻先が長い姿は強面の大型犬、シベリアンハスキーっぽくてかっこいい。  しかも、さっきから親し気にスグリの周りを回っては身体を寄せてくるので、可愛くて仕方がない。頭や顎の下を撫でると嬉しそうに目を細める姿も可愛らしい。  こんな使い魔がいたら嬉しいかも、と頬が緩んでいると、スグリの本来の(口の悪くて上から目線な)使い魔がため息をつく。 『……お前、気付いてないのな』 「え? 何が?」 『そいつ、ただの犬っころじゃねぇぜ。なあ、ワン公?』  わざとらしくミントが声を掛けると、灰色の犬は鼻先に皺を寄せて呻った。ぐうぅぅ、わぅっ、と敵愾心を顕わにして吠える犬に、ミントの青緑色の目が眇められる。 『あぁ? やんのかワン公』  どうやら会話(喧嘩?)をしているようだが、スグリにはミントの言葉しかわからない。 「落ち着いてミント、この子何て言ってるの?」 『……この“子”、ねぇ』  にやり、と意地悪そうに髭を揺らして笑ったミントは、寝そべっていたマットから身を起こした。 『こいつは客だ。ご入り用のものを聞いてやれよ』 「お客さんなの?」  傍らの犬に尋ねると、まるでこちらの言葉をわかっているように頷いて吠える。  なるほど、犬のお客様だったのか。化け狐が来店するくらいだから、犬が来てもおかしくはないか。  納得したスグリは、ひとまずキッチンへエプロンと三角巾を取りに戻った。
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