第六話 月と犬と満月クッキー

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 身支度をして店内に戻れば、灰色の犬がきちんとおすわりして、ショーケースの中を覗き込んでいた。本当にお客様のようである。 「どれが欲しいの?」  しゃがみこんでスグリが尋ねると、鼻先で示すのは、焼き菓子が置いてある棚だ。  しっとりと焼きあがったマドレーヌは、プレーンと秋限定のマロンクリーム入りがある。木の実とドライフルーツがたっぷり入ったフルーツパウンドケーキに、季節のジャム――無花果いちじくジャムが乗った繊細な模様の絞り出しクッキー。  しかし犬の目線が向かうのは、秋限定の焼き菓子ではなく常に置いてある卵色の丸い大きなクッキーだった。  棚の下の名札には『満月クッキー』とある。  バターが効いたシンプルなクッキーで、四葉のフォーチュンクッキーの次に人気がある焼き菓子だった。 「これ?」  ばうっ、と犬が答える。  そして、首を後ろに回して、背負っていたリュックサックを引っ張って降ろし、器用にチャックを開けて中から財布を取り出す。とても賢い犬だ。  スグリはカウンターの後ろに回って、ショーケースから満月クッキーを取り出した。はいどうぞと渡そうとすれば、犬は少し身を引く。  すると、ミントがカウンターの上で伸びをしながら言った。 『せっかくだ。魔法を見せてやれよ』 「魔法って……」 『そのクッキーの売りは“満月”だぜ? 犬っころもそれを期待してんのさ』  ミントの言葉にスグリは首を傾げながらも、クッキーに掛けられた魔法を発揮させるために、店のカーテンをすべて閉めて準備する。店内の電気を落とすと、カウンター上のスタンドの灯りだけが浮かんだ。そのスタンドも消してしまえば、店内は真っ暗になる。  ふと、スグリの手元に光が灯る。  開封したクッキーの袋の中から――“満月クッキー”から、白く淡い光が溢れる。  そうっと手を開けば、真ん丸のクッキーがゆっくりと上へ上へと上がっていく。ほんの少し黄色味がかった、白い満月が空に昇るように。店内に小さな満月がぽっかりと昇った。  満月クッキーは、月のようにささやかな光を宿し、宙に浮かぶ魔法がかかっている。  開封することで魔法が発動し、こうして暗い室内や夜に光を楽しむのが、このクッキーの売りだった。  犬もまた、顔を上に向けて満月をじぃっと見上げ、吠える。  おおーん。  店内に響く遠吠え。  遠く遥かに、仲間の元へと響かせる声が、鼓膜を震わせる。  犬の遠吠えを聞いていると、その響きになぜか切なくなる。聞いたことが無いのに、どこか懐かしいような、不思議な感じがした。  静かな山の中。見上げる白い満月。  傍らには君がいて、高く低く、気高く声を響かせる――。  スグリもつられてクッキーを見上げていると、やがて魔法の効力が消え、月が光を失って沈むように落ちていく。  慌てて月を両手で受け取ったスグリは、再び暗くなった店内の灯りを探して点けた。 「これでよかったかな?」  ワンちゃん、と呼びかけようとしたスグリの口は――ぽかんと開く。 「ああ、助かった。ありがとう、お嬢さん」  灰色の犬がいた場所には、一人の青年が立っていた。  犬と同じ色の灰色の長めの髪に、眦が吊り上がった琥珀色の瞳と、褐色を帯びた肌。二十代半ばくらいの、背の高い逞しい身体つきの青年だ。  精悍な顔に爽やかな笑みを浮かべる青年。ワイルドな美青年と言ってよいのだろうが―― 「……お嬢さん?」  どうした、と尋ねてくる青年に、スグリは口をぱくぱくと開閉させる。その頬も耳も真っ赤になって熱いくらいなのに、頭の中は血の気が引いている。 「お嬢さん、大丈夫か?」  青年が一歩足を踏み出した時、とうとうスグリは声を上げた。 「いやああああっ! 変態ー!!」  ――灰色の髪の青年は、一糸まとわぬ裸であったのだ。
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