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「本当に申し訳ない」
スグリの前で項垂れるのは、簡素なシャツとジーンズを身に着けた青年だった。
――あの灰色の犬は、『犬』ではなく『狼』であり、しかも『人狼』だったらしい。
衣服は背負っていたリュックサックに入れていたようで、スグリが悲鳴を上げた後、気付いた青年は急いでそれを身に着けたものだ。
逞しい青年の裸体を間近で目にしてしまったスグリは、まだ熱の引かぬ頬を隠すように頭を下げた。
「いえ、あの……こちらこそ、失礼なことを言って本当にすみません」
「いや、あの反応が当たり前だ。気にしないでくれ」
青年は「君に声を掛ける前に服を着るべきだった」と生真面目に謝ってくる。変態どころか、誠実な青年の態度にますますスグリは申し訳なくなった。
青年は北斗と名乗った。隣の町の山奥に棲む人狼らしい。
急いで人間になる必要が生じたが、熟練の人狼ならいざ知らず、北斗のように若く未熟な人狼は、半月以上の光が無いと変身できない。しかし次の半月まで一週間はかかり、それでは間に合わない。
そうして満月に近い光を探し求めていた折、このポムグラニットにある魔法菓子のことを聞いたようだ。
「無事に変身できてよかった。これで間に合うよ」
「それはよかったです。とても大事な用事なんですね」
「ああ。……幼い頃に遊んだ友達が入院したらしくて、どうしても見舞いに行きたかったんだ」
北斗は琥珀の目を細めて、懐かしそうに宙を見る。
彼が小さい頃、満月の夜にしか変身できなかったときに出会った、人間の友達らしい。
「そうだな、君に少し似ているよ。小さな、優しい、女の子だった」
「え……」
「これで、あの子の最期に間に合いそうだ」
青年は寂しそうに微笑んだ後、スグリに深く一礼して店を出ようとする。その大きな背を、スグリは急いで呼び止めた。
「あのっ、待って下さい!」
「どうした?」
訝し気に立ち止まる彼に、スグリは急いでショーケースから未開封の満月クッキーを二枚取ってきて、差し出す。
「いや、もうこれは必要ないが……」
「お二人で食べて下さい。昔みたいに、満月を眺めて」
北斗は目を満月のようにきょとんと丸くして、スグリとクッキーを交互に見つめた。やがて、ふっと唇が綻ばせて、尖った小さな牙を覗かせる。
「……ありがとう。頂くよ」
北斗は子供のように無邪気な笑みを見せて、満月クッキーを受け取る。「また今度、お礼にくるから」と言い残し、北斗は店を出て行った。
見送るスグリの後ろで、ミントがぽつりと呟く。
『あいつはああ見えて、八十年は生きてるぜ。人狼の中じゃ若い方だけどな』
幼い頃に遊んだ友達もその年月を生きて、人狼に比べれば短い、人間の命がそろそろ尽きようとしているのだろう。
「北斗さん、間に合うかな……」
『間に合うさ。満月でも見ながら、思い出話がたくさんできるだろうよ』
見上げる空に、本物の月は見えずとも。
あの日の月を忘れていなければ、きっと二人は、昔のように話すことができるだろう。
『……ま、俺達は月の残り物でも食べますかね』
ミントが鼻先で示すテーブルの上には、すでに光を失った、満月のようにまあるい卵色のクッキーが置き去られていた。
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