第七話 ブラッディ・ゼリーは誰の味?

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「!? なっ……」  小さく声を上げた青年の手が、スグリの腕を突然離した。  バランスを崩して後ろに倒れ込んだスグリは、尻もちをついたままそろそろと目を開く。立ち上がった吸血鬼の青年の手には、赤く激しく燃え盛る炎が巻き付いていた。  青年は驚いたように目を瞠っていたが、さっと腕を振って炎を消す。そして、床に座り込んだままのスグリを見下ろしてきた。 「……君、魔法を使えるのかい?」 「え?」  青年の問いかけに、スグリは思わず首を横に振った。魔法なんてほとんど使えない。使い魔のミントの声を聴くことくらいだ。  青年は唇に指を当てて、少し考え込むように俯いた。 「僕の魅了に抵抗もできたし、やはり赤橙の血か……?でも”色無し”であんなに強力な……」  青年は小さく呟きながら、考え事に耽っているようだ。  スグリは混乱しながらも、逃げるなら今のうちだと立ち上がろうとするが、情けないことに腰が完全に抜けていた。  這いずるようにしてショーケースの向こう側、カウンターの奥の方に向かおうとする前に、青年に気づかれてしまう。 「……まあいいか。君の血を飲めばわかることだね」  青年は気を取り直したように、スグリの方へと近づいてくる。ショーケースを背にして逃げ場を失ったスグリは、伸ばされる手に身を竦めた。  そのとき、店の扉が大きく開く。 『そいつに触るな!』  頭の中に響く声は力強く、そして怒りに満ちていた。  強い風が吹き込んできたかと思えば、スグリの膝の上に一匹の黒猫がいる。  ミントだ。  黒いつややかな毛並みを逆立てて、しっぽを膨らませたミントは青年に向かって低く喉を鳴らす。 『てめぇ、この俺を不意打ちで次元の(はざま)に飛ばすたぁ、舐めた真似しやがって……』 「あはは、ごめんごめん。屋根の上でのんきに寝ているようだったから、つい」 『ついじゃねぇ。その喉噛み千切るぞ』  ミントの声は怒鳴らない分、余計に本気を感じさせた。スグリをよそに両者は睨み合う。 「そんな可愛い姿で凄まれてもね」 『だったら本当の姿で相手してやろうか』  ぐるる、とミントが喉を鳴らす。しなやかな黒猫の輪郭から、じわりと滲みだすのは濃い闇色の霧だ。  スグリの周囲を囲む黒い霧は、やがて徐々に大きな獣の輪郭を取っていく。闇の中、二つの緑色の炎が浮かぶ。  深い森の深緑のように、底の見えない湖の緑青のように、ゆらゆらと色を変えて青年を見据える。  しかし、それらが完全に形作る前に、青年は降参というように両手を掲げて見せた。 「おおっと、怖い怖い。さすがに僕も、猫妖精の王族をまともに相手するほど愚かじゃないよ」 『てめぇは愚かだよ。俺だけじゃなく、こいつに手を出した時点でな』 「なるほど。黒の御方様は、今はこの子に夢中ってことか」 『ふざけるな』  黒い霧の獣が、青年に向かって飛び掛かった。獣の顎あぎとが、宣言通りに青年の喉を噛み千切る――が、青年は笑顔を浮かべたままだった。 「じゃあ、そろそろお暇しようかな。怖い護衛(ボディガード)も戻ってきたことだし」  噛み千切られたはずの喉の部分から、さらさらと砂が落ちるようにして青年の身体が消えていく。  崩れていく青年の、赤い目はスグリをずっと捉えていた。 「じゃあね、スグリちゃん」  またね、と赤い唇が動いた後、その唇も赤い目も、砂のように掻き消えてしまう。  青年が消え、残されたのはテーブルの上の皿とカップ、ポットだけ。それ以外、青年のいた痕跡は無い。  まるで白昼夢のようだ。呆然とするスグリであったが、床についた手に温かな毛並みがすり寄ったことで我に返った。 「ミント……」 『怪我はねぇな?』 「う、うん」  意外にもミントの声は優しい。さっきまで響いていた声が恐ろしかったせいか、余計にそう感じた。  見下ろせば、ミントはいつも通りの黒猫の姿で、青緑色の目でこちらを見上げていた。  ミントを抱き上げて温もりを感じたことで、ようやく自分の手が、身体がひどく冷たくなっていることに気づく。スグリは震える指先で、ミントの毛並みを梳く。 「……こ、怖かった……」  かたかたと小さく震えるスグリに配慮してか、ミントはそのまま強く抱きしめられても嫌がらない。スグリの震えが治まるまで、ミントは辛抱強く待ってくれた。
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