第三話 白雪姫のアップルパイ・試作

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第三話 白雪姫のアップルパイ・試作

 ジリリリリリーン。ジリリリリリーン。  金曜日の夕方、菓子店ポムグラニットに古めかしい黒電話の音が鳴り響いた。閉店準備で店内の掃除をしていたスグリは、慌ててカウンターに戻って受話器を取る。 「はいっ、菓子店ポムグラニットです」 『あ、スグリ、元気してるー?』  明るい声が耳に届き、スグリは目を瞠る。 「え、おばさん?」 『ザクロさんって呼べって言ってるでしょうが。バイト代引くわよ』 「ご、ごめんなさい……」  明るい声が一転、刺すような冷たい声に、スグリは思わず肩を竦めて謝った。電話の向こうにいるのは、スグリの伯母であり、この店の主である赤橙ざくろだ。  新しいお菓子を開発するための材料探しやアイディアを得るために世界中を飛び回っており、店にいないことは当たり前でどこにいるかも不明。そんな人物からの二週間ぶりの電話に、スグリは驚いた。  一週間に一度の定期連絡で売り上げや在庫の報告をするものの、大抵はメールだ。電話連絡は急用のある時にしかしてこない。 「ザクロさん、どうしたの?」 『ああ、うん。ちょっと新しいの作ったから、試食してくれる?今から送るから』 「うん、わかった。準備するから、少し待って」  頷いて、電話を保留状態にする。ちらりとカウンターを見やると、寝ていた黒猫のミントが面倒そうに起き上がった。  スグリはキッチンに移動する前に、店の外に出て『OPEN』の立て看板をひっくり返して『CLOSE』にする。扉に鍵をかけ、店内の灯りを落としてキッチンの方に向かうと、ミントが準備を済ませていた。  準備といっても、ダイニングテーブルのクロスを引きはがしただけだ。むき出しになった木のテーブルの表面には、大きな円が描かれている。  幾重にも重なった大小の円、隙間には図形や古代文字が整然と並んでいる。焼き印のようにしっかりと木に刻まれたそれは、『魔法陣』と呼ばれるものだ。  魔女や魔法使いが使う、魔法陣。  己の使い魔を召喚したり、物や人を時空を超えて運んだり、結界を張ったりするときなどに用いられる。  ポムグラニットには、ザクロが作った魔法陣がいくつもあった。  まずは、店と広い庭全体を覆う大きな魔法陣。これは、害意を持つ者を拒み、周囲の林の煉瓦道で散々に迷わせる効果がある。しかも、魔法陣内ではザクロに許可された者か、ザクロより強い者でしか魔法を使えないという魔力制御の効果を備えていた。  そして、店内のショーケースと棚には、時間の流れを非常に遅くする魔法陣が付けられている。この中に保存しておけば、ケーキのような生菓子でも二週間は出来立ての風味を保つことができるのだ。  さらに、キッチンのダイニングや冷蔵庫に描かれた、物資運搬用の魔法陣。ザクロが作ったお菓子や新しく見つけた材料が送られてくる。ザクロが店にほとんどいなくても新鮮なケーキを常備できるのは、このためである。  その他にも細々と生活に便利な魔法陣があるらしいが、スグリ自身は魔法陣を扱えないので、よくは知らない。何個かの魔法陣には、絶対に触るなと注意されているものもあるため、あまり深く聞かないようにしている。  ミントがテーブルの魔法陣の外に座ったのを確認し、スグリは保留中だった電話をキッチン内の電話機で取った。キッチン内の電話機は店内の黒電話と違い、青みがかった半透明で半球体の形をしている。通話ボタンを押すと、半球の上にホログラム映像が浮かび上がる。  赤毛に緑の目を持つ、美しい女性の上半身。二十代後半にしか見えない美貌で、赤い唇に悪戯っぽい笑みを浮かべているのは、『マダム・ザクロ』ことスグリの伯母の赤橙ざくろに相違ない。 「ザクロさん、準備できました」 『ありがとう。行くわよ』  ザクロの合図とともに、魔法陣にじわりと緑色の光が滲み、光だけが浮き上がるようにして宙にそっくりの陣が描かれる。オーロラのような鮮やかな青緑色のカーテンが一点からぐるりと一周して、赤い光にとって代わった。その赤い光もすぐにテーブルに沈んで、消える。  そうして陣の中心に現れていたのは、ワンホールのパイだった。
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