紙魚の夢

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耳にかけている横髪の先が、うつむくと口に入るようになった。こうなると切りたくて仕方がなくなる。数日は我慢して、セルフカラーでやり過ごそうかとも思うが、その間に美容院の予約をしてしまうのが目に見えている。 出会った頃はロングだった。うしろでひとつに結ぶのが日課だったし、幼い頃からのくせ毛が嫌で、アイロンで毎朝まっすぐに伸ばしていた。 ショートにしたのは、付き合い始めて間もなく「短いのも似合うんじゃない」と言われたから。「今はもうどっちでもいい」らしい。 言いたいことを言い合える関係のほうが長持ちすると言うけど、どちらかと言えば、飲み込むことのほうが多い6年目を迎えている。 髪もネイルも服装も、若い頃のほうが、案外どうでも良かった。今のほうがずっとお洒落に気を遣うようになったし、選ぶものの趣味も変わった。それは、すべてが彼につながっているようにも思うし、わたし自身が重ねて来た歴史の今、だからとも言える。 「…ッ」 持ち上げたカップに口をつけただけで、火傷しそうな熱さ。でもそれがいい。ゆっくりと口に含むと、濃いミルクと茶葉の香りに溶け込む甘さが舌に馴染んで、喉の奥に消えた。 手元にある文庫本のページをめくり、挟まれた小さな折り紙の裏に書かれた文字に目を通す。 ───このカツ丼美味しそうですよね。この小説のクライマックスはこのカツ丼を食べるシーンだと思ってます。このお店、本当にあるって知ってますか? 思わず口元が緩み、熱いカップに口をつけて誤魔化す。 このカフェは、ずいぶん以前に初めて2人で来てからのお気に入りで、ひとりで来るようになってから1年ほどが経つ。月に2、3回程度だが、いつ来ても風通しの良い空間と、その静けさにほっとする。 ひとが多いときでも聴こえるのは、カトラリーの触れる音、立ち座りのときの椅子、歩くときの床の軋む音、そして本のページをめくるかすかな音。 室内にはさまざまな形や大きさの本棚やキャビネットが所狭しと並び、そのなかには、あらゆるジャンルや出版時期の本がたくさん並んでいる。 要らなくなった本、懐かしさを共有したい本、誰かと一緒に読みたい本。自由に持ち込んでマスターに「検品」してもらう。持ち込むのは小説やエッセイ等、活字本のみ。 検品と言っても、感性はひとそれぞれなので内容を精査されることはない。「どうしてこの本をここに置きたいのか」の明確な理由を聞かれるだけだ。 そして訪れた客は、テーブルにある木箱やかごに入っている小さな折り紙を自由に使い、本の感想を書いたり、誰かへのメッセージを書いたり、自分のアドレスを書いたりして、本に好きに挟んでいい。 トラブルにならないよう、自己責任において。そして、トラブルになりそうなものを見つけたら、すぐにマスターに伝える。そのルールを守れる者が訪れ、いつのまにか常連になり、特別な空間をめいめいが楽しんでいる。 いま手にしているのは、中学生の頃に父に買ってもらった文庫本と同じものだ。当時有名になりつつある作家さんで、のちに幾つもの賞を得られた。子どもでもとても読みやすい文体で、物語のなかの情景が自然と頭に思い浮かんだ。 当時通っていた塾の帰りは、迎えに来た父と近くの本屋で待ち合わせて帰るのが習慣だった。 父は本であれば、惜しまずわたしに買い与え、その本たちが、わたしにいろんなことを教えてくれた。 ───知っています。実在すると知ったのは、読んだ頃からずいぶんと大人になってからだけど。いつか行きたいと思っていたのに、それすら忘れていました。行ったことはありますか? 返事を書いて、同じページに挟む。 3か月くらい前にこの本を見つけて、懐かしさを綴って挟んだ折り紙に、次に来たとき返事が挟んであった。ラリーはこれで5回目くらいになる。 いったいどんなひとなんだろう?どれくらいここに来るんだろう?筆跡からいろいろ想像する。 SNSで瞬時につながれるこの時代に、若い頃は手紙を書くことが日常にあった世代には、こんなやり取りが、じんわりと心をあたたかくする。 「!」 ブブッと携帯電話が鳴ってメッセージの到着を知らせる。 (着いたよ)(すぐに出ます) お会計を済ませてカフェを出ると、すっと目の前に車が止まり、彼が笑顔で手を上げた。月に1回だけの夜の逢瀬。車に乗り込むと、かすかに彼の煙草の匂いがして、すうっと息を吸い込んだ。(まかろん→ノッキへ)
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