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コンコンコン。
「……開いている」
「おはよう!」
あかりは、殆んど毎週訪ねて来るようになった。
テレビどころ鏡すらない。本当に何もない、このこぢんまりとした部屋が好きなのだと言う。
時々、学校の宿題を持って来て一緒に解いた。とはいえ、彼女はやはり優秀なようで、私がアドバイスをしたことなんてただの一度も無かった。
一緒にハーブを摘んだり、川まで行って魚を取ったりした。時にはそこら辺へ寝そべり、次の日の天気を予想するゲームをしてみたり。雨の日は家に籠って、私が若い頃に集めた書物などを読んで過ごした。彼女の年齢には難し過ぎる本だったが、彼女はそれを好んで読んだ。
ギフテッド。
そんな言葉が浮かんだ。
彼女の第一印象は『子供』で、大人びたことを言ったとしてもそれはあくまで、『ませた子供』であった。
けれど、一緒に巡る季節を過ごす内に、彼女は確かに大人びていったし、見た目以上に優秀であった。
私はやがて、薬の調合を彼女へ教えていった。弟子を取ったような気持ちになった。
彼女と過ごす一年は、目まぐるしく森の姿を変えた。春が来て夏が来て秋になり、やがて冬が来ると言うことに、改めて感動したりした。月日が巡るのはこんなに早かったのかと驚いたりもした。若々しい気持ちになった。
しかし、更に彼女が歳を重ねていくと、罪悪感のようなものも芽生えて来る。
彼女は、想像よりも遥かに綺麗な女性になった。伏した睫の長さにみとれ、ハッとすることも増えていった。
しかし勿論、あかりが大人になるほど年を重ねたと言うことは、私も同じだけ歳を取ったということだ。もう本当にすっかり、『おじいちゃん』に違いない。
「…………いつまで、此処に通うつもりだい?」
堪らず、口をついた。
あかりはハーブティーを淹れる手を一瞬止めたが、何事もなかったように二つのティーカップにハーブティーを注ぐと、その一つを私の座る席の前に置いた。
「いつまでもよ」
「馬鹿を言うな」
「あら? 何か馬鹿なことを言ったかしら?」
何食わぬ顔でハーブティーに息を吹き掛けるあかりをじろりと睨んで、私は一口だけハーブティーを飲んで、喉を潤した。それでも、このやりようのない気持ちや戸惑いは嚥下しない。
「…………私はすっかり、歳を取った。同じだけ、あかりも歳を取った。大人になった。そろそろ、……色々あるだろう」
「『色々』って?」
私は口の中をもごもごと動かした。
「……その、結婚……とか。仕事、とか。色々」
「あら。そんなことを心配して、『もう会いに来るな』と? 貴方って、いつもそうよね? わたしのことを決めつける」
「…………」
いつもってなんだ、と怒鳴り声をあげてしまいそうだったので口を開かなかった。彼女に苛立っているのではない。自分のことが、酷く腹立たしいのに、彼女に当たってしまうのが嫌だった。
これ以上、惨めになりたくなかった。
「どうしてそんなに、私に構うんだ……」
「好きだからよ」
ぎょっとして思わずあかりを凝視してしまったが、当のあかりは何食わぬ顔でティーカップに口をつけていた。
顔がカッと熱くなる。とんだ早とちりに、消えたくなった。
「好き」って言う言葉には、沢山の種類がある。彼女の言うそれは、親愛に過ぎない。否、『親愛』なんて、充分過ぎるくらいだ。私にはそれだけの自信はあった。あかりと私の間には、親愛がある。親子ほどの絆が、信頼が、あった。
「……こんな老人を一人残したくないお前の優しさはわかる。……言い出すのが遅かったくらいだ。私が悪かった。お前の人生の大切な時間を、沢山、私と過ごす時間で消費してしまった」
「だからっ、」
あかりは大きな音を立ててティーカップを置いた。普段から勝ち気な眉毛が、随分と吊り上がっている。
「そうやって自己完結しないでって言ってるの! 貴方はいつもそう! 子供がハーブティーなんて飲めやしないと思っていたのもそうだし、自分がすっかりおじいさんだと思っているのも、そう! 振られると諦めていたこともそうだし、魔法使いなんて本当はいないなんて言うのも、そうよ!」
「…………………、なんだって?」
思いがけない指摘に、思考がついていけなかった。
「この家には鏡がないけど、貴方、自分の顔を見たことがある?」
「…………」
言われて、何か得体の知れないものが背筋を駆けた。
鏡なんて無くとも、不便はなかった。顔を洗う為に毎朝川まで行けば、水辺に顔が映る。……が、そう言えば、自分の顔なんてまじまじと見たことがない。
ペタペタと両手で頬や額を触ってみた。弛んでもいないどころか、シワすら感じられない。
思いついて、自分の手のひらを見つめた。ひっくり返して、手の甲も観察する。どちらも老人のようには見えない。
「いやいや……」と頭の中の自分が言う。「自然のものを食べ、体を動かし、絵に描いたような老人の姿にならなかっただけだろう」
「貴方の肉体の時間は、わたしが結構前に止めたわ」
ハーブティーの香りが鼻を突く。ティーカップに手を伸ばしてみたが、震えて、口の高さまで持ち上げられそうに無かった。
「どうして人間は、簡単に過去にするの?」
「……なにを、言って……」
「どうして貴方は、勝手にわたしを諦めたの?」
「……なんの、話だ……」
あかり? 震える唇で、彼女の名前を呼んだ。
目の前に座る彼女が、自分がよく知る『あかり』なのか、確かめたかった。
しかし彼女は、首を振る。艶やかな長い髪が、さらさらと揺れる。
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