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「……わたしは、『アヤコ』」
「!」
どきり、と心臓が跳ねた。
それは、恐怖にも近い。質の悪い冗談だ、とも思った。けれど私は果たして、あかりに『アヤコ』の名前を教えただろうか?―――私の、嘗ての初恋の女の子の名前だ。
「わたしも貴方のことが好きだった。なのに、貴方は何も言ってくれないから……」
「……なにを、言ってるんだ……。そんなわけ、ない……」
「何が? わたしが貴方を好きだったってこと? 今も貴方のことが好きだってこと? それとも、わたしがアヤコだってこと?」
「…………ぜんぶ……」
目の前の女性は笑った。
「『魔法使い』は、本当に、いるよ」
凛と透き通った声が、私から恐怖心を奪った。
ハッと声の主を見ると、その顔は、確かにアヤコの面影があった。
「森の奥で暮らしてないの。怪しまれないように、人間の中に紛れて暮らすのよ。確かに薬学に詳しい人間のことを『魔女』と呼ぶこともあった。実際に、私がそう。けど、『魔法』はあるのよ。『魔法使い』は、いるの」
「わたしよ」と、空気が振動し、鼓膜を震わせた。それは、歌のようにすんなりと私の中へ入っていく。
「貴方が孤立する必要なんて無かったのに。ごめんなさい……」
彼女はその、勝ち気な眉毛を珍しく下げた。瞳の奥が、普段よりも潤んで見えた。
「……貧乏くじ、引かしちゃったね。貴方が『魔法使い』って言われるようになったのはわたしのせい。なのに、貴方はすっかり自分が恐れられていると思い込んだ。それで、一人でいることを選ぶなんて。……馬鹿は貴方よ」
だから会いに行ったの、と彼女は告白する。
「貴方を引きずり出してやらなくちゃ、と思ってたのに。とても……懐かしくて……。ごめんなさい……。こんなことなら怖じ気づかずに、始めっから『アヤコ』として会いに行ったらよかった……」
ますます、人間の世には戻れなくなっちゃったね。と彼女は笑った。初めて見る、自虐的な笑い方だった。
「人間は直ぐに老いる……でしょ? そしたら、居なくなっちゃうでしょ……? 貴方をちゃんと、街へ帰してから、姿を消したらよかった。欲が出ちゃった……。あのね、わたし……わたしね……、」
「…………」
彼女は、カップに残ったハーブティーを一気に飲み干した。ゴクリ、と喉が鳴る。
天井を仰いでいた彼女の顔が再び私の方を向いたかと思うと、大きな雫が溢れて、空になったカップの中へ落ちた。
「……もう……独りになるのは、嫌だったんだぁ……」
震える声で、彼女は言う。
ポタリポタリと、また雫が落ちる。
不死というのは本当だったのか。彼女は人に紛れながら、人に怪しまれないように暮らす日々に孤独を感じていたのか。―――瞬時に、稲妻のように思考が巡る。
きっと血を飲むと言うのは、真実とは異なるのだ。だって、どう見たって彼女は、不死を望んでいやしない。
私はまだ混乱していた。
けれど、目の前の彼女が誰であれ、大切な人が泣いていることには違いなかった。
震えはすっかり収まっていた。
手を伸ばし、その手に触れる。その指先は冷たく、小さく震えていた。
彼女の手に私の手が触れると、彼女はキツく握っていたカップを離し、私の手を握り返した。
「…………まだ、混乱してるけど……。嘘じゃないことはわかった。……かといえ、その、……いきなり、『あかり』を『アヤコ』には見れない……」
「…………」
「だからその、えっと……」
もごもごと口が動く。彼女の手を放し、ハーブティーで喉を整えるわけにもいかない。
私はゴクリと唾を飲み込んだ。
長い間、独りで居たから。
もし本当に歳を取らなくなったのだとしても、たいした問題ではなかった。
どっちにしろ彼女が選んでくれるのなら、私はこれからも彼女と生きていきたいと思ってしまった。
「久し振りだね、アヤコ」
だから、再会からやり直すことにした。
アヤコは驚いた顔をして、それから、ふにゃりと表情を崩して笑った。
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