魔法使い 谷口信吾

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 まだ暑さの残る9月末。谷口信吾が行方不明になって1ヶ月が過ぎようとしていた。  美希はひとり、これまでに起こったことを思い出していた。この数ヶ月、いや、正確には数年。もしかしたら、産まれたときからこの運命は決まっていたのかもしれないと思うほどに、美希の人生は彼らふたりに振り回されてきた。そう信じていた。  照りつける日差しを手で防ぎ、腕時計に目をやる。時刻は14時。あたりを見回すと、 向こうのほうから小さく手を振りながら走ってくる女性の姿が目に入った。 「ごめーん。待った?早いね」  女性はハンドタオルで汗を拭いながら、腕時計を確認している。 「超元気だよ。私も今来たとこ。久しぶりだね。叶絵、元気してた?」 「あんたほど波乱万丈な人生送ってないからね、こっちは。ま、詳しい話はあとにして、とにかく暑いし、どっかのお店に入ろうよ」  ふたりは近くに喫茶店を見つけ、店に入った。どこか懐かしい感じのする小さな純喫茶だ。平日の昼間ということもあってか、客もそれほど入っていない。  店員は、マスターと思われる初老の男性と、奥でテーブルを片付けている男性のふたりだけのようだ。奥の男性店員の顔は見えない。  マスターに案内され、窓際のテーブル席へ通される。 「アイスコーヒーふたつ、でいいよね?」叶絵の問いに美希はうなずいて返し、マスターはカウンター裏のキッチンへ下がっていった。  そのタイミングを見計らって、叶絵のほうから話を切り出した。 「大変だったね。生活のほうは大丈夫なの?」  美希は小さくうなずく。 「ほんとうに、大変だったよ。一度にこんなたくさんのことが起きるなんて、思ってもみなかった」 「谷口君もいなくなったんでしょ?何があったんだろうね」 「わからないの。でも、いなくなる日の朝、うちの郵便受けに手紙が入ってて……」 「そっか、美希と谷口君と正行君、仲良かったもんね。高校の頃は、谷口君と正行君とどっちと付き合ってるんだろうって思ってた。美希はどっちも否定してたけど、ふたを開けてみたら、就職してすぐに正行君と結婚しちゃうんだもん。びっくりしたよ。それがあんなことになっちゃうんだから、何があるかわかんないよね」  美希は悲しそうにうなずき、話を続けた。 「でね、その手紙に書いてあったの。僕はいなくなります。代わりに僕の店をお譲りしますって。どう思う?」 「店って、谷口君の実家がやってた小さい商店のこと?なんで美希に?」 「わかんないよ。店が欲しいなんて言ったことないし。もし言ってたとしても、本当に明け渡すことなんてあると思う?そしたら信吾、本当にいなくなっちゃうし。わたし、怖いの。どうすればいいのか、わかんなくてさ。だから、お店はもらえませんて、手紙だけ信吾の家の郵便受けに押し込んできたの」 「いくら仲がいいって言ったってさ、他人の家を残して行かれるのは確かに怖いかも」 「でしょ?それも昔からある古くて汚い家だし。正直、あんなところで働きたいなんて思わないよ。それに、いつか突然、信吾が帰ってくるような気がして……。行方不明になる前の信吾、なんだか怖かったの。用もないのに毎日うちに来て、ずっと一人でしゃべって、私のからだとか見てくるんだ」  叶絵は驚き、しばしの沈黙が流れた。 「大丈夫なの?本当に谷口君とは何もなかったんだよね?」 「ないよ。ないない。あんな芋くさい陰気な奴に何もできないよ」 「それならいいんだけど……」  沈黙が産まれた。その沈黙の間、ふたりが何を考えていたのかは誰にもわからない。叶絵は思いつく限りの想像を膨らませていたのかもしれないし、美希は亡くなった元旦那と谷口との3人で過ごした日々を思い出していたのかもしれない。 「アイスコーヒーです」  話が聞こえていたのだろう。タイミングを見計らったようにさっきまでテーブルを片付けていた店員がやって来てコーヒーを並べている。小さい店だ。人も少なく、話し声が聞こえてしまってもおかしくない。そこで店員から汗と埃の混ざった匂いを感じ、美希は、はっとするのだった。
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