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今日もよく働いた。土壇場になってから力いっぱいテーブルクロスを引っ張って、きれいに並べた食器類を一枚残らず粉々にするかのような注文をつけてきたクライアントにぶち切れて、仕事を全部途中で放り出してオフィスを出てきた。これは「よく働いた」ことになるのだろうか。個人的には電話の向こうに悪口雑言を泣き喚いたりしなかっただけ、よく働いたと思っているのだけど。
週末金曜日の夕方、街は全体的に漂う気だるさの影に、抑えきれない高揚感を孕んでいるようだった。労役から解放された者々がハメを外しはじめる時間帯。いま帰ったところで寝るくらいしかやることがないし、どうせなら外食でもして帰ろうか。いつもはまっすぐ改札に向かうところを左に折れて、地下街の方面に歩を進めた。
「あ、すみません」
向かいから歩いてくる人の存在を感じて、あたしは左側に避けようとした。すると相手も同じ方向に避けてくる。そしてあたしは反対方向に避けようとして……という、よくあるシチュエーション。これが青々とした人工芝の上で、白と黒で塗られたボールを追っかけているなら青春活劇になるのに、ここは週末夕方のターミナル駅の地下街だ。いかに華麗なデイフェンスを繰り出したところで周囲から歓声が起きるわけでもなく、ただあたしの闘争心ばかりが掻き立てられる。なんであたしと同じ方向に避けようとすんだよ、こいつ。
自分のことを棚に上げながら、そんなことを思ったとき。
「――ん? もしかして、京子か?」
相手が急に動きを止めてそんな言葉を吐くものだから、あたしの視線も自然とそちらのほうに向いて、声の主が誰なのかという認識が脳の奥に届いた瞬間、高い音でホイッスルが鳴り響いた。
なんで、よりにもよって、こんなところで。
元彼に出会ってしまったのだろう。
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