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「いやー、まさかあんなとこでバッタリ会うなんてさ。久しぶりだな」
「本当にバッタリなんでしょうね。待ち伏せしたりとか――」
「悪いんだけど、本当だよ。駅ビルで本を買った帰りだ」
松平翼はそう釈明するとともに、紙袋の中から一冊の本をのぞかせる。小説サイトの投稿作のアンソロジーだという。翼が文字だけの本を読むなんて、意外だと思った。新聞は四コマしか読まないし、そもそも最近は新聞なんて指一本触れてもいない……と言っていたのは遠い昔、あたしとまだ付き合っていた頃の記憶でしかなくなったようだ。時間は止まらずに流れ続けていて、いま目の前にいる翼は、あの頃あたしと一緒にいた時間と繋がっていないみたいに思えて、少しセンチメンタルになった。
暇ならカフェでも入ろう、と誘われてホイホイついてきたあたしもあたしだけど、翼もよく別れた元カノをそんな気軽に誘えるものだ。コーヒーにはミルクだけ入れて砂糖を入れない……という嗜好は変わっていないらしい。
あたしが注意深く観察していることに気づかないまま、翼は気楽なノリを崩さずに言った。
「京子と最後に会ったの、いつだっけ」
「別れたときだから、二年くらいじゃない」
「あれからどう。そろそろ玉の輿に乗ってバスローブまいてタワマンの最上階とかに住んでるか?」
「だとしたら、こんなカッコして歩いてないわよ」
服装を自分で見下ろすことで示してやった。仕事は嫌いじゃないけれど、ここまでくたくたになるまで働きたいとは言っていない。そろそろ買い替えようと思っていたオフィスカジュアルが泣いているように見えた。
かつて別れを切り出したのはあたしからで、いずれ結婚したら家庭に入ってほしいと願う翼と、自分のお金くらい自分で稼ぎたいと思ったあたしの意見が食い違ったことが理由だった。はるか先とはいえ、未来予想図を広げて必要な選択をするのは確かに大事なことだとしても、何らの思い残しもなかったかと問われたら「ない」とは言えない。
それでもあの頃のあたしは「これを分かってもらえないなら、分かってもらえる相手と付き合えばいいや」と信じてやまなかった。
だから彼の手を離した。そして離した後で気づいた。正確には、何人かと同じように付き合って、振ったり振られたりと繰り返した後の話だ。
世の中とは、そんなに都合よく回るようにはできていない。多少目を瞑らなくてはならないとしても、それを補って余りあるものをくれる存在というのは確かに存在している。
あたしにとって、それが翼だったんだと気づいた時には、もう彼と連絡が取れなくなってしまっていた。
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