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真っ白な何も無い空間にその男は立っていた。
真っ黒な細身のスーツを着た酷く痩せた猫背の男は果歩の視線に気が付くと「どうも、希死田と申します」と自己紹介した。
あぁ夢だ。夢を見ていると果歩は思った。
そしてどうせ夢なのだからと間髪入れずに「どちらのキシダさんですか?」と尋ねると、男は「希死念慮の希死田です」と律儀に名刺のようなものを差し出した。
男の差し出した名刺には明朝体で希死念慮の希死田と書かれていた。
「……希死念慮、ってなんですか?」
「貴方最近、消えてなくなりたいとか楽になりたいって思ってませんか?」
「あ、思ってますね」
「それが僕です」
希死田と名乗る男は芝居がかった仕草で右足を後ろに引き、右手を体に添えて左手を横方向へ水平に差し出すようにして「以後お見知りおきを」と恭しく挨拶をした。
「いや、以後お見知りおかれても困ります」
「えー、僕と果歩さんの仲じゃないですか」
「他人ですよ」
「言いますね」
夢の中とはいえ突然見知らぬ男に親しげに話しかけられ果歩は大いに困惑した。
唐突で不条理な状況は夢にはありがち展開だが、ただでさえ疲れているのに夢の中でまで不愉快な思いをしたくなかった。
果歩は子供の頃から大の人見知りなのだ。
いきなり貴方の希死念慮ですこんにちはと言われても到底受け入れることは出来なかった。
「……あ、もしかして希死念慮だからキシダなんですか?」
ふと思い当たり、思わずそう口にすると希死田「そうですそうです。流石冴えてますね」と見え透いたお世辞を言った。
「あー、最悪です」
「何がですか?」
希死田は背の低い果歩に合わせて少し屈んで首を曲げると、癖のある長い前髪の隙間から少し充血した三白眼気味の鋭い瞳が値踏みするように果歩を見た。
果歩は思わず、反射的に目を逸らした。果歩は人の目を見て話すのも瞳を覗き込まれるのも不得手だった。
「これから私は、死にたいと思う度に貴方の顔が思い浮かんでしまいます」
果歩が苦悶の表情を浮かべて大真面目にそう言うと、希死田は「おや、いけませんか?」と死神のような不気味な風体には不似合いなやけに可愛らしい仕草で小首を傾げた。
「いけませんね。死にたい時にボサボサ頭のおじさんが傍にいるんだと思うと何だか凄く嫌です」
「果歩さんって大人しそうな顔をして意外と辛辣ですね。そういう所、嫌いじゃないです。では、どんな姿がお望みですか?」
顎に手を当てながらそう問われ、果歩が暫し思案した後「そうですね。猫、黒猫が良いです」と答えると、希死田は果歩が言い終える前に艶やかな毛並みの黒い猫に姿を変えた。
「なれるんだ、猫」
まぁ仲良くやりましょうよと言っているかのように足元に擦り寄って来た黒猫の喉を撫でてやりながら、果歩は噛み付かれないといいなぁとぼんやり考えた。
「変な夢」
果歩はぽつりと小さく呟くと、三回連続大きなくしゃみをした。果歩は猫アレルギーで猫が大の苦手なのだ。
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