希死念慮の希死田 1

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初めのうちは希死田が姿を表すのは夢の中だけだった。 気が付くと果歩は何処までも広がる真っ白な空間の中にいる。辺りをきょろきょろと見渡すと希死田がすぐ傍に立っていて薄気味悪い笑みを浮かべながら会釈をするのだ。 果歩が「あぁ、またこの夢」と全身で疲労と不快感を露わにすると、希死田はそんな果歩の心中を見透かすように「明晰夢ってやつですね」とハスキーな低い声で言って長い前髪の隙間からじっとりと果歩を見つめた。 「これは夢だと自覚しながら見ている夢の事です」 「言葉の意味なら知っています」 「明晰夢の中では夢の状況を自分の思い通りに変化させられるそうですね。その気になれば空だって飛べるかもしれませんよ」 「私、高所恐怖症なので空を飛びたいとは思いません」 「おや、そうでしたか」 希死田は真っ黒な細身のスーツを着た二十代後半から三十代前半の成人男性の姿をしている時もあれば、果歩が希望した通り黒猫の姿をしている時もあった。 猫の希死田は喋らない。ただごろごろと喉を鳴らして果歩の足元に擦り寄って来るだけだ。 人間の姿をした希死田はどうでも良い事ばかりよく喋った。果歩は親しくない相手と話すのが苦手なはずなのに希死田と話すのは不思議と嫌では無かった。 そして果歩はいつしか希死田に旧知の友人のような親しみを覚えるようになった。 最初は声が、聞こえるようになった。 起きている時も頭の中で希死田が話しかけてくるようになったのだ。 「今日はお天気が悪くてしんどいですね」 「金曜日の夜が永遠に続けば良いのにって思うことってありませんか?あ、果歩さん平日休みでしたね。これは失礼」 「眠いけど寝たくないんですよね。だって寝たら朝になっちゃいますもんね。でも寝ないと明日の朝起きられませんよ。いいんですか?そろそろ寝た方が良いと思いますけど」 果歩はいよいよ自分は頭がおかしくなってしまったのだとショックを受けた。 しかし、こんなストレスだらけの世の中なのだから多少おかしくなっても無理もないだろうと思い、頭の中でちょっと風変わりなイマジナリーフレンドと会話するくらいセーフだろうと考え直した。 念の為心療内科も受診してみたが、頭の中で希死念慮が話しかけてくるんですとは言い出せず「過労による軽い抑うつ状態ですね」と診断され、何か趣味を持つと良いですよと調子外れのアドバイスをされた。 ではお大事に、とそのまま診察室を追い出されそうになったので慌てて「最近、疲れているのに眠れないんです」と訴えると「あー、そうですか。じゃあー、軽い睡眠薬、出しときますね。眠れなかったら飲んでくださぁい。ではお大事にー」と何とも間延びした口調で睡眠薬が処方された。 睡眠薬を飲むと夢も見ずに朝までぐっすり眠れたが、薬が効きすぎているのか目覚めは最悪で全身が気だるかったので時々しか飲まなかった。 「全部気圧が悪いんですよ。果歩さんは悪くない。ほら、お薬飲んで寝ちゃいましょう」 「でも、洗濯しないと」 「こんな雨の日に洗濯したってどうせ乾きませんよ。まずは寝てください」 「……分かりました。おやすみなさい、希死田さん」 果歩はいつしか希死田との会話を楽しむようになった。平日休みで希望休も通りにくく土日休みの友達と疎遠になってしまい、長らく恋人もいない一人暮らしの果歩にとって、希死田は体の良い話し相手だった。 そうこうしているうちに希死田はとうとう実態を伴って現実の世界に姿を表した。 十二月はケーキ屋が一年で一番忙しい季節だ。 過酷な残業を終え、這う這うの体で狭いアパートに帰還し、希死田が果歩のお気に入りのソファーに腰掛けて文庫本を読んでいる姿を見た瞬間、果歩は思わず悲鳴を上げて腰を抜かした。 「わぁッ!びっくりしたぁ!」 「果歩さん、おかえりなさい」 「た、た、たたたただいま」 「今日も遅かったですね。しんどくてもちゃんと湯船浸かった方がいいですよ」 「えっと、あの、希死田さん」 「はい?」 「どうして、私の部屋に、その、普通にいるんですか?貴方は私の、その、幻覚なのに」 果歩が壁伝いになんとか立ち上がろうとしながらもごもごと口ごもっていると、希死田は「声が聞こえるんだから姿が見えることもあるでしょう。そこに大差は無いんじゃないですか?」と肩を竦めて文庫本をパタンと閉じた。 「いや、その、大変申し上げにくいんですが、幻聴と幻覚の間には大きな差というか、越えてはいけないラインがあると思うんです」 「えーー?今更そんなの気にしちゃうんですか?目に見えるもの、聞こえるものだけが真実とは限りませんよ。大切なものは目に見えないんですよ。星の王子さまもそう言ってたじゃないですか。それに僕達、結構長い付き合いでしょう?ね、仲良くやりましょうよ」 希死田はそう言うと薄気味悪い笑顔を浮かべ、果歩に握手を求めた。 希死田の手は乾いていてひんやりと冷たく、骨張っていて大きな大人の男の手だった。
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