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それから、果歩と希死田の奇妙な共同生活が始まった。
希死田は幻覚だから何も食べない。眠りもしない。時々話しかけてくる事もあるけれど基本的にはただそこにいるだけだった。
果歩が真夜中、月明かりが射し込む青白い部屋で何をするでもなく天井の隅の長靴の形に似た染みを凝視している間、希死田はダイニングテーブルで一人黙々とトランプタワーを建てている。何が面白いのか一人でチェスをしてる時もあった。果歩はチェスのルールを知らない。
希死田は時々ヴァイオリンを弾いた。果歩はクラシックには疎いけれど希死田の演奏はとても上手でプロみたいだと思った。
「……何だか悲しい音色ですね」
「映画ショコラのオリジナルサウンドトラック、Passage of Timeです」
それは果歩の知らない映画だった。希死田曰く有名な映画のテーマ音楽らしい物悲しくもドラマティックな旋律は鬱屈した果歩の心理状態に危ういほどマッチしていた。
「あーー」
ベッドの上で膝を抱え、果歩が弱々しく呻き声を上げると、希死田はぴたりと演奏をやめた。
「すみません、うるさかったですか?」
「死にたい」
血を吐くように果歩がそう呟くと、希死田は「知ってます」と静かな声で言った。ただそれだけだった。
止めもしない、励ましもしない、唆しもしない。
希死田は基本的に果歩に干渉しないのだ。
果歩の精神状態によっていたりいなかったり、聞こえたり聞こえなかったり、見えたり見えなかったり、人間の姿だったり猫の姿だったりする。
「おはようございます、果歩さん」
「おはようございます、希死田さん」
そんな尋常ではないけれど穏やかすぎるほど穏やかな日々が続いたある朝、果歩の身体に異変が起きた。
眠くは無い。むしろ頭ははっきりと冴えている。
それなのにスマホのアラームを止める事すら出来ない。まるで金縛りにあったみたいに指一本動かせない。
しかし、このアパートの壁は薄い。
こんな早朝に延々とアラームの音を鳴らしていたら近所迷惑だ。隣人に怒鳴り込まれるか、管理会社から苦情が来るかもしれない。
果歩は渾身の力を込めて伸びをして強引に身体を動かし、スマホのアラームを止めると、やっとのことでベッドから起き上がった。
さぁ、身支度をしよう。今からなら化粧を多少簡略化すればまだいつもの電車に間に合う。
無心に歯を磨いて顔を洗っていると、果歩は自分が泣いていることに気が付いた。
涙は拭っても拭っても後から後から零れてきた。これでは化粧どころではない。何を塗っても涙が全て洗い流してしまう。
もういい、化粧は諦めよう。
眉毛だけ書いて最低限の身嗜みを整え、出勤用の制服に着替えやすいという理由でヘビロテしている全く趣味じゃない服に袖を通す。
重たい身体を引き摺って玄関の鍵に手を伸ばすと、再び果歩を金縛りのような感覚が襲った。
「行っちゃダメですよ」
それは地を這うように低く良く響く希死田の声だった。
「……でも、行かなきゃ、今日は絶対に休めないんです」
「貴方がいなくてもなんとかなります。社会の歯車なんてね、それがどんなに重要な役割であっても所詮交換可能な部品に過ぎないんですよ。果歩さんがいない分、今日は誰かに無理してもらえばいいじゃないですか」
「そんなの、そんなのダメです。私のせいで皆さんに迷惑をおかけするなんて」
希死田は果歩を後ろから抱き竦めながら果歩の華奢で丸い肩に顎を乗せると、耳朶に唇を沿わせて「果歩さん」と静かに名前を呼んだ。
「ダメですよ。貴方、今日駅へ行ったら電車を止めちゃいますよ。人身事故を起こす気ですか?その方がもっと大勢の人の迷惑になります」
「でも」
「でもじゃない。今日は、僕と一緒に家にいましょう」
「……働かないと、生きていけない」
「仕事は明日から行けば良いでしょう。一日休んだくらいじゃクビにはなりません。今日は休む。そんな状態で労働なんて無理です。分かりましたか?」
希死田に幼い子供に言い聞かせるように根気よく説得され、果歩が涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔で唇を震わせながらこくりと頷くと、希死田は「さぁ、会社に死にそうな声で休みますって電話をしたら今日は僕と一緒に一日中ベッドでだらだら過ごしましょう。ほら、果歩さん、まずは電話です」と言って、果歩がダイニングテーブルの上に置き忘れていたスマートフォンを指先で摘み上げて恭しく手渡した。
「まず夕方まで寝て、そしたら何か美味しいものでも食べましょう。カロリーも糖質も気にせず好きなだけ。大丈夫、こういう時は太りません。果歩さん、貴方疲れてるんですよ。とにかく寝ましょう」
希死田は薄気味悪い笑顔で無責任にそう断言すると、涙でびしょ濡れになった果歩の頬をそっと撫で、涙を拭った。
その手は氷のように冷たかったのに不思議と温かくて果歩は子供のようにしゃくりあげ、声を上げて泣いた。
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