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繁忙期を乗り越え、閑散期に入った店は落ち着いた客入りになり、果歩はほぼ定時で上がれるようになった。
その頃には睡眠薬を飲まなくても眠れるようになっていたが、希死田は夢には出なくなった代わりに起きてる間ずっと果歩の傍にいるようになった。
恐らく果歩のイマジナリーフレンドのような存在である希死田は果歩以外には姿は見えないらしく、果歩は勤務中でもお構い無しに果歩にべったり着いて周り、どうでもいいことをべらべらと話しかけてくる希死田の言葉にうっかり返事をしてしまわないように大層苦心した。
「今のお客さん、昨日奥さんを怒らせちゃったみたいですね。あのケーキ、お詫びの品ですよ」
「希死田さんってそんなことまで分かるんですか?」
「ふふ、ただの当てずっぽうです」
「なんだただの言いがかりじゃないですか。田島様は月に一度ほど朝一番にお電話で苺のショートケーキとモンブランをご予約されてテイクアウトされて行かれるんですよ」
「じゃあほぼ月一で色々やらかしてるんですね。女性は甘い物を与えてやれば機嫌が治ると思ってるんでしょうね。普通に謝れば良いのにケーキで誤魔化そうだなんて舐めてますよねぇ」
ショウケースの前に立って客を待つ時間、果歩は小声で希死田との会話を楽しんだ。
「そうですねぇ。でも、もしかしたらケーキを食べたら喧嘩はお終いって奥様が決めてるのかもしれませんよ。そういうルールというか、ひとつ目安があった方が楽じゃないですか。怒り続けるのもエネルギー使いますしね」
「果歩さんって案外ドライですよね」
「今日のケーキ、廃棄にならないかな。ブルーベリーのタルトが食べたい」
果歩が待機姿勢で強ばった身体を控え目に軽く解しながら小さくそう呟くと、希死田は「その姿勢、良いと思います。仕事なんてほどほどにやればいいんです。死ぬ気でやると死んじゃいますからね。」と歌うような口調で言って身体を揺すってくっくっくっと喉で笑った。
「果歩さん、知ってますか?キリスト教の神様はアダムとイブが林檎食べた罰として楽園を追放して永遠の命を取り上げ、男には労働の苦しみを、女には出産の苦しみを与えたそうです。その神への裏切りと堕落が人間の全てが生まれながらに背負う原罪になったと言われているそうですよ」
「ふーん、そうなんですか」
「僕は人間が神のように善悪の判断が出来るようになることがそこまで罪深いとは思えませんがね。だからカトリックには労働は罰であるという思想が根強く、カトリックが多い国は経済的に栄えにくいなんてデータもあるらしいですよ」
「希死田さんの雑学コーナー、結構好きです」
「恐れ入ります」
希死田は誰にも見えないのを良い事にショウケースの上に軽やかに飛び乗り腰掛けると長い脚を持て余したように組み、自らの膝に頬杖をついて上機嫌な様子で鼻歌を歌い始めた。
「……その理屈で行くと、女性は労働も出産もして罰が重過ぎませんか?二重取りですよね?」
「お、良いですねぇ。そういう視点、好きですよ」
それは果歩の知らない曲だったが、勤務終了後にそういえばさっき歌ってた曲ってなんて曲ですか?と聞いてみると「アルルの女より、ファランドールですよ」と教えてくれた。
果歩はボサボサ頭に無精髭で痩せぎすの男が座ったショウケースを視界の端に入れながら、腹筋に力を入れて吹き出さないように慎重に「いらっしゃいませー」と程々に声を張り上げた。
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