希死念慮の希死田 1

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「希死田さんって、死神なんですか?」 深夜、ベットの上で体操座りをしてぼんやりと虚空を見つめながら果歩が半ば独り言のように尋ねると、何故か海外の大道芸人のようにキレッキレのパントマイムを披露していた希死田はピタリと動きを止めた。 「……死神、とは少し違いますかね。いや全然違います」 希死田はそう言うと考え込むような仕草で無精髭の生えた顎をさすった。 「最初に自己紹介したじゃないですか。僕は希死念慮の希死田です」 「希死念慮って要は自殺願望じゃないんですか?」 果歩が小首を傾げると、希死田はうーんと唸りながら果歩に歩み寄り、一人分の空間を空けてベッドに腰掛けた。大人二人分の体重に安物のシングルベッドが抗議するように軋んだ。 希死念慮にも体重があるらしい。果歩はその事が妙におかしくて思わず吹き出しそうになった。 「希死念慮と自殺願望はちょっと違いますね。前も言いましたけど、希死念慮は死にたいというよりどちらかと言えば消えたい、に近い。死にたいとは思いつつも具体的な方法までは考えていない状態です。何もかも投げ出してここからいなくなりたい。弊社爆発しろ。非課税の五百兆円欲しい。買ってない宝くじ当たらないかな。不労所得欲しい。ずっと眠っていられたらいいのに、とかまぁそんな感じです。僕は自分で言うのもなんですけど、上手く付き合ってさえいれば、わりと無害な存在なんです」 「……無害」 果歩が思わず目を丸くしてオウム返しにすると、希死田は「今のはちょっと傷付きました」と薄い唇を子供のように尖らせた。 無害。確かに言われてみれば希死田は無害だ。 いつもそこにいるだけで何もしない。ただ、希死田が現れる時は決まって気分が落ち込み、酷い倦怠感と虚脱感に襲われる。 部屋にスライム状の不安と哀しみとやるせなさが充満して窒息しそうになるのだ。そしてそれは不思議と、悪くない気分でもある。 時々このまま希死田と二人きり、働くのも眠るのも飲み食いするのもやめてしまいたいと思う。しかし、希死田はそれを許さない。 「果歩さん、そろそろお昼ご飯食べたらどうですか?朝ご飯も食べてないでしょう?ほぅら、そう言われると何だかお腹が空いてきた。春雨ヌードルくらいなら入るでしょう?」 「果歩さん、アラーム鳴ってますよ。長かった十連勤も残す所あと三日、もうひと頑張りですよ。手足ぐっぱーして血流良くしていきましょう。ほら、果歩さん!起きて下さい!」 「果歩さーん!玄関で寝たら風邪引きますよー!ここは雪山ですよー!寝たら死にますよー!」 希死田は果歩を、いつも自堕落な生へと繋ぎ止めようとする。 「……希死田さんって、いつも何だかんだ言って優しいですもんね」 果歩が顎のラインで切り揃えた艶のある髪を揺らしてくすくす笑いながらそう言うと、希死田は突然突き放すような口調で「優しくは無いですよ。所詮僕は希死念慮ですからね。関わらないに越した事はないです」と吐き捨てて長い前髪を無造作に後ろに撫で付けた。 それは初めて見る表情だった。 希死田は痩せ過ぎな上に顔色が悪く、爬虫類のような印象を与えるものの、それなりに整った顔をしている。素材は悪く無いのだから長過ぎる前髪と無精髭を何とかすればもっとマシになるのに、と果歩は内心勿体なく思っている。 勿論、だからといってどうというわけではない。 希死田は果歩の幻覚だし、果歩は男性全般が苦手で薄ら嫌いだ。憎悪していると言ってもいい。けれど不思議と希死田は同じ空間にいてもストレスを感じなかった。 「さ、果歩さん、お風呂が無理ならメイクだけでも落としてさっさと寝ちゃいましょう。貴方が寝ても寝なくても朝は来ますよ。それなら少しだけでも眠っておいた方が明日楽でしょう?」 壁掛け時計を見るともう深夜と言うよりも明け方といった方が相応しいような時間だった。 「今寝ると逆にしんどくなるから嫌だなぁ」 「つべこべ言わず目を閉じる。眠れなくても目を閉じるだけでも全然違うんですよ」 「起きられますかね。寝坊して社会的に死ぬのは嫌です」 「勤務中に居眠りしても社会的に死ぬと思いますけど?昏倒して怪我をする危険性だってありますし、そうなれば労災ですよ」 「うっ、私の寝不足如きで店長にご迷惑をおかけするわけには……」 「だから五時間前に大人しく睡眠薬飲んどけば良かったんですよ。果歩さんの今日は寝れそうは当てにならないんですから」 果歩は明日仕事中に抗い難い睡魔と倦怠感に襲われる自分を想像して何もかもが嫌になった。 忙し過ぎてトイレ休憩すら取れない繁忙期も辛いが、閑散期の暇疲れはそれはそれで死ぬほど堪える。一日が永遠のように長いのだ。 「希死田さん、朝起こしてくれます?」 「希死念慮にモーニングコール頼むって斬新ですね。朝起きた時に僕がいない方が目覚めは良いと思いますよ」 「えー、でも最近希死田さんずっといるじゃないですか」 「順序が逆ですよ。僕が勝手に出てくるみたいに言わないでください。果歩さんが死にたい、消えたいって思ってるから僕が出てくるんです」 「じゃあもし、私が抗うつ剤とかちゃんと飲んで希死念慮が無くなったら希死田さんのこと見えなくなるんですか?」 不意に果歩が純粋な疑問を口にすると、希死田はにこりともせずに「寂しいですか?俺に会えなくなったら」と爬虫類のような目で果歩を見た。 「さぁ、いなくなってみないと分かりませんね。そもそも希死田さんがいる生活の方がイレギュラーなので、いなくなっても元に戻るだけですし」 「果歩さんってほんとにドライですよね。そういう所好きですよ」 「それはどうも」 「……さて、どうなんでしょうねぇ?腹痛とは違うので薬飲んで即治ったー!ってスッキリ消えるもんじゃないとは思いますけどね。でも寛解する場合もあるみたいですよ。その場合、もしかしたら出てくる頻度は減るのかもしれませんねぇ」 希死田は長い指で顎をさすりながら独り言のようにそう言うと、何処からともなく輪っかになった赤い毛糸の紐を取り出し無言であやとりを始めた。 果歩は結局メイクすら落とせないまま、ぼふんと音を立て横になるとつるつるとした肌触りのサテンの枕カバーに頬を押し付けた。 川。ほうき。四段はしご。東京タワー。 トランプタワーといい、ヴァイオリンの腕前とい、希死田は無駄に手先が器用で芸達者だ。 魔法のように次々と形を変える毛糸の紐をぼんやり眺めている内に果歩の瞬きが段々ゆっくりになり、次第に瞼が重くなり始める。 「あやとり、上手ですね」 果歩が眠たげな声でそう言うと、希死田は果歩の方を振り向きもせず「恐れ入ります」と言いながら流れ星を作って見せた。 何もかも投げ出してここからいなくなりたい。 ずっと眠っていられたらいいのに。 あぁ、もう疲れた。 消えてなくなりたい。 楽になりたい。 死にたい。 死にたい。 死にたい。 「……ねぇ希死田さん」 「なんでしょう」 「死んだら、どうなるんですか?」 闇夜に溶ける細身のスーツに身を包んだ男は果歩の唐突な質問にぴくりと身体を強ばらせ、あやとりをしていた手を止めた。 「気になりますか?」 「……人並みに」 「それは、死んでからのお楽しみです」 希死念慮と共に現れる不思議な男は猫のように妖しく目を細めると、人差し指を唇に当てながら小首を傾げ不敵に微笑んだ。
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