休職願

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休職願

 職場のミーティングスペースで課長と向かい合って僕は座っている。課長の表情はやや険しく映っている。心配しているような、怒っているような。僕はというと、「休職願」と書かれた用紙に目を落とし、必要事項にペンを走らせる。白髪が混じった頭を掻きながら。 「多田君は今後のことをどう考えてるのかな?」  突如として吐かれた台詞に内心どきりとした。デリカシーのない課長らしいとは思ったが、それが僕を心配してのものなのかどうかは図りかねた。 「そうですね、とにかく1か月しっかりと休養して、体調を回復させたいです……」  僕が発言するや否や、 「いや、そういうことじゃなくて、これからの君のビジョンを聞いているんだよ」  と課長は冷静に言い放った。それでいて、なおかつ大胆な物言いに思えた。 「……」  突然のことだったので、言葉に詰まってしまった。ビジョンがあることはあるのだ。でも空気を読んでしまうと、とても自分の考えているビジョンは話せなかった。 「君、独身だろ? 身も固めないでフワフワしていたところで、人間として大きくなれないよ。それに四十になってヒラに甘んじてるのはどうかと思うけどな」  過去の面談でも、課長から口酸っぱく言われてきたことで、「よく飽きずに言えるな」と思わずにはいられない。 「ええ、そうは思っているのですが、なかなか浮いた話がないもので。それに……」 「そうか、それならマッチングアプリでもやってみたらどうだ。最近流行っているらしいじゃないか。娘に聞いたら、最近の若者はそうやって恋人と出会うらしいぞ。いやあ、時代は変わったもんだな」  そうやって、話が止まらなくなる課長を前に、休職願を完成させた。と同時に、スーツの内ポケットから封筒に入った診断書を取り出した。 「あの、お話のところ失礼しますが、診断書です」 「分かったよ、受け取っとく。ちゃんと人事課に提出しておくからな」  と言うと、課長はやれやれという表情で席を立ち、元々いたデスクに座る。そして、僕の丸まった背中目がけて、 「期待しているからな」  と周りに聞こえるように言った。  僕が心療内科を初めて訪れたのは、休職届を提出する半年前に遡る。僕の職場での様子を見て、課長が一度かかってみたらどうだと言ったからで、半ば業務命令のようなものだった。初めは病気だと思われていることにショックを受けたものだったが、自分の人生のあらゆることに対するやる気のなさは病的だとも感じていた。なので、心療内科を訪れることについての抵抗は不思議となかった。  問診票を書くところから始まり、血圧、体温を測った。血圧は高くも低くもなく平均値で、体温も平熱だ。辺りを見回すと、待合室にはそこら辺にいそうな人々が怠そうに診察や会計を待っていた。既視感を覚える僕の中の偏見が露呈したようで、自分に嫌気がさす。ふと目に飛び込んできたのは、誰かの趣味で飼われているであろう熱帯魚の泳ぐ姿だった。 「優雅に泳いでいるように見えるけど、君たちも悩みを抱えているんだろ? そうでなければ、あんなに憂いを帯びた目をしていないはずだ」  頭の中でアテレコをしていると、僕の名を呼ぶ声がした。  結局、この日の診察は問診票を元にした生活状況の聞き取りに終始した。これで何が分かるのだろうと思いながらも、自分なりに丁寧に答えていったつもりだ。眠れないこと、職場でぼんやりしている場面が多いこと、そのくせテンションが突如として高くなること。自覚していること以外にも、仕草とかも観察されていたのかもしれない。  それからも月一回のペースで通院は続き、その結果としてある病気の診断が下りた。そして、医師はしばらく仕事から離れる必要があるとも話した。僕はどういうわけか、仕事のない自分の生活を想像することができなかった。どう足掻いても、朝起きて電車に乗って会社に行って、ぼんやりする。この方程式がずっと頭から離れない。現実を受け入れることができたのは、課長に自分の病気のことを話した日の帰り道でのことだった。  仕事の引き継ぎを終え、安堵して自販機コーナーで缶コーヒーを買う。ホットを買ったはずがアイスコーヒーのボタンを押していたようで、落ちてきた缶を拾った時に手がヒヤッとした。自販機から放たれる機械音が空間の無機質さを一層引き立たせる。飲み物や菓子パン、カップ麺などの自販機が並ぶこの空間。僕にとっての癒しの場とも言えた。しばらく佇んでいると、遠くから女性二人組の甲高い声が聞こえた。話し声は段々近づいてきている。無機質な空間が侵されると思い、居た堪れなくなって自販機コーナーから退出した。僕は小さい身長をより縮めて壁際に張り付いた。振り返ると、その二人組は自販機コーナーを通り過ぎて、お手洗いへと入っていった。僕は「何だ、トイレかよ」と呟き、思いがけず舌打ちをした。手に持っていた缶コーヒーは相変わらず冷たいままだ。  定時に退社できたのはいつぶりだろうか。昨日まで残業が当たり前だったから、早く帰ってしまうことに罪悪感を覚えた。 「きっと、こんな働き方も思考さえも体育会系の代物なんだろうな」  なんて呟いてしまう。世の中では、「残業なんてナンセンスだ」みたいな考えが浸透し始めているのに。軽くネクタイを緩めて、駅へと向かう足取りは重い。周囲は金曜日だからと浮かれているのに、一人冴えない顔をしているのではないかと思って、周囲を見回す。実際のところ、電車に乗り込んだ人たちの顔は一様に能面をつけたように見え、感情を読み取ることはできなかった。そのことが僕を少し安心させた。  電車に乗っている時に、課長に言われたことを思い出す。 「期待しているからな」  それは心の底からのセリフだったのだろうか。どう考えても、そうは思えなかった。これまでの営業成績は課員の中でも下から数えた方が早い。同期は皆出世していて、中には部長クラスに登り詰めた者もいる。さらに退職して起業した奴もいた。そいつは噂によると、億単位の収益を上げているらしい。彼らに対する憧憬、あるいは嫉妬がないといえば嘘になる。特に若い頃はまだ血気も盛んだったから、周りを出し抜こうとセミナーに通ったり、営業ノウハウ本を読み漁ったりしたものだった。資格取得に動いたこともあった。しかし、いつの頃からか出世こそが第一という価値観とは距離を置くようになった。それにはかつて起きた出来事が絡んでいる。
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