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72.海と夢、もしくは現実
翌朝目が覚めたのは昼近くだった。どうやら寝坊したのは私だけだったようで、既に着替えを済ませたルシウスはベッドの側に椅子を持って来て本を読んでいた。
「おはよう」
「……おはよう」
挨拶に答えながら私は上体を起こして、差し出された水を飲む。喉が痛い。そして身体も長時間プールで泳いだように重たい。何よりも、昨日の夜は積極的に行為を受け入れていた私の秘部は反省しているようにシクシクと痛んでいた。
目を遣るとシーツの上には水彩絵の具を溶かしたような薄い赤色のシミが出来ている。それが自分の血液なのだと気付いた時には驚いた。私はとうとう初夜を終えたということ。
「ごめんね、シーア……無理させて」
私の目線を追ったルシウスが、悲しそうな声音で呟く。
無理はしていないし、べつに彼が自分を責める必要は全くないのだけれど、私の中の悪魔はペロリと舌を舐めた。これはもしかすると、今日ならば叶うかもしれない。
「まだ身体が痛いわ。海に浸かれば治るかも」
「海……?」
「気分転換にもなるし」
「…………」
「ああ、こんなに天気も良いのに、冷たい海水で身体を冷やすことが出来ないなんて悲しい…」
「……分かったよ、」
よし、掛かった。
内心ニンマリと微笑みながら「じゃあ準備をするわね」と言って、私はそそくさとルシウスを部屋から追い出した。ずっとずっと恋焦がれていた夏の海にやっと手が届くのだ。
化粧など諸々のルーティーンを手早く済ませて、いつもより多めに日焼け止めを塗る。小麦色に焼けたいところだけれど、それに伴う痛みを受け入れる覚悟はないので、防御しておくに越したことはない。
◇◇◇
太陽が真上に来ていることもあって、砂浜は火傷するぐらい熱かった。
打ち寄せる波に恐る恐る近付いてみる。押しては引いていく海の水は、しょわしょわとサイダーのように白い泡を立てていた。所々に埋まった薄いピンク色の貝殻、どこかから流れ着いたガラスの欠片、そういったものを一つずつ拾っていくのも楽しそうだ。
私は強い日差しにルシウスが目を細めている隙に、そろりと靴を脱いで足を水の中に沈めてみる。お風呂の湯とは違って足の下で舞い上がるザラついた砂の感覚が面白い。もう片方も脱ぎ捨てて、歩みを進めていたら、見張り役にすぐ見つかった。
「シーア!」
走って来たルシウスは困ったように眉を寄せる。
べつに私は幼児ではないし、彼は私の保護者ではない。そんなに目くじらを立てて私の一挙手一投足を監視する必要なんかないのに、いつだってルシウスは心配そうに見守っている。
「貴方も入ってみたら?冷たくて気持ち良いわ」
「時間が経つと潮でベタつくよ」
「嫌なことを言うのね」
呆れた表情を作って、手で掬った海水を少しルシウスの方へ飛ばしてみる。
「まだ夢なんじゃないかって思う」
「え?」
「君がここに居て、こうして二人で話してることが」
「………、」
しんみりした顔でそんなことを言うので、私は砂浜に上がってルシウスの方へ歩いて行った。濡れた手で頬を包むと、不安そうな瞳がゆらりと揺れる。
昨日私を組み敷いていた強気な姿勢はどこへ行ったのか、と頭の隅で考えながら、頬の肉を摘んだ。
「いつまで寝てるの?これは現実で、貴方は私の夫よ」
嬉しそうに目を見開いたルシウスが私を抱き締める。
それに応えるように私は彼の胸に顔を沈めた。
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