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日記
「―小四郎殿。」
どこかで呼ばれている。何事か、と思いながらその目を開いた。
「朝で御座います。」
聞き慣れた伊賀の方の声。私はどれ程眠っていたのだろう。そう考えながら半身を起こす。布団から出ようとして、脚に痛みが走る。
「はぁ…」
今日も脚が動かない。いつからこうなったのか。何度か立ち上がろうとする私に見かねた妻が肩を貸す。ひと月前まではまだ立ち上がれた気がする。直垂に着替えはしたものの、政所へ出向くことができない。朝餉を終えて、しばらく庭を眺めていると、文官たちがやってきた。
「危急の沙汰が御座います。」
今日は緊急で我が館が政所となった。
長い会議が終わった。西国問題を片付け、ほっとした気持ちで縁側の腰掛ける。
「随分とお疲れのご様子ですね。」
そう言いながら、妻はお茶を差し出した。しばらく湯呑み片手に彼女と話していると、久しぶりに息子の政村が顔を出した。
「四郎。」
すらっとし、目鼻立ちの整った青年だ。政村は隣に腰掛けた。
「父上、お久しぶりで御座います。」
二人で碁を打つことにした。互いに一歩も譲らない攻防戦となった。次の手を考えているとき、体調が悪くなった。目の前がぼやけている。次の拍子に、私は目の前に伏していた。
「父上!」
目を覚ませば、私はまた床に就いていた。
「脈は非常に安定しておられます。」
医師の言葉に、妻も政村も安心した様子だ。
「父上、お加減はいかがですか。」
「すこぶる良い。」
「安心致しました。」
念のため、と政村は今晩そばに控えることになった。
翌朝。
「父上、お早う御座います。」
「ああ。」
いつもの様に直垂に着替え、朝餉をとった。雨が降っている。そこへ、人が来た。
「小四郎。お早う。」
尼御台だった。
「姉上、お早う御座います。」
しばらく姉と話をしていた。すると急に、胸に激痛が走った。
「…っ!」
なんとか意識を保ちながら、その場にかがみ込んだ。
「小四郎!」
「小四郎殿!」
「父上!」
三人の声が一斉に響き渡る。しかし、あまりの痛みに体を起こすことができない。自分の背に、姉の腕が回ってきた。
「小四郎、しっかりなさい!」
自分の体が起こされ、布団の上に寝かされた。苦しみのあまり、声が出ない。
「…ぅう。」
うめき声しか出せなかった。すぐに政村が医者を呼びに行った。
「脈が激しく狂われております。」
意識が朦朧としてきた。すぐ近くの姉の顔がぼやけて見える。しばらくして、腹も痛んできた。両方の痛みで、体が縛られたように動かない。
「…姉……上…」
私は死ぬのだろうか。そんな考えが顔に出ていたのだろう。姉は涙ぐみながら私に抱きついた。
「小四郎…。大丈夫よ、あなたは大丈夫。きっと助かるわ。」
はたから見ても苦しそうなのだろう。政村も妻も、慈愛の目を向けている。そして、時間が経っても苦しみが和らぐことはなかった。そこで医者が痛み止めと持病の脚気の薬を用意した。妻がそれを私の口に注ぐ。しばらくして、少しだけ痛みが和らいだ。
「小四郎殿、いかがですか。」
「少し…良くなった。」
「父上…良かった…」
痛みが和らいだところで跡継ぎを考えておかねばならない。医者も陰陽師もすぐに良くなると言ってはいるが、信用ならない。
「姉上…。太郎と五郎へ使者を…」
「ええ、分かりました。」
尼御台が部屋をあとにした。
「の……え」
また胸が苦しくなってきた。
「小四郎殿?」
「紙と…硯…筆をそこの棚から取ってくれ。」
「はい。」
すぐに彼女が書き物の道具を持ってきた。政村は私が体を起こすことを手伝った。私は遺書をしたため始めた。
「それから、政村…次郎と平六を呼んできてくれ。」
「は。」
さらに政村も部屋をあとにした。私のそばには妻がついている。しばらくして、書をしたため終わった。それとほぼ同時に次郎朝時、三浦平六義村がやって来た。
「平六。この書を預かってくれ…。私に何かあればこれを…皆に差し出してくれ。」
「承知した。」
平六は渡された書をしばらく見つめ、衣の袂に入れた。そこへ、姉も帰ってきた。
「これで…鎌倉も…安泰だ」
全身にまた激痛が走った。もう動けそうにない。周りの者が一斉に私へ駆け寄る。
「小四郎?」
「おい、小四郎!」
「…んっ!!」
そして、何も感じなくなった。もはや思い残すことはない。
――真っ暗な道を、私は進み始めた。
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