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 普段の彼女にしては遅い時間帯に、リズが一人入浴に来た。 「やあリズ。この時間帯は珍しいな」 「こんばんはサムヒギン。今日は少し考え事があって……一人で入りたくて、来ました」  河の水から温泉側に跳ねながら声をかけると、リズははにかみながらこう返してきた。  おや、と思う。彼女は明るく、優しくて、その上聞き上手だ。故にすっかり妖魔たちに気に入られ、入浴中彼らとおしゃべりに興じていることがほとんどであるこの娘が、自分の悩み事を抱えて入浴に来た。 「悩み事があるなら口に出してみるといい。日頃聞いてもらってばかりだからな。たまにはオレ様が聞き役になってやろう!」  そう胸をはると、ありがとうございますと囁きこちらへ寄ってきてくれた。 彼女は熱い湯を好むわけではないが、外側すぎても身体を温めるにはぬる過ぎる。それでもこちらへ寄ってきてくれるのだから、相変わらず優しい娘だ。 「私、ここへお邪魔してもうすぐ半年が経ちます」  リズがオレ様に向かい合う形で足場に座り、サムヒギン様のお悩み相談室の始まりだ。 「ほう? もうそんなに経っていたのかい。早いなぁ。すっかり馴染んでいて、最早もっと前からいた気がするぜ」  そう嘯くと、リズはふんわりと笑ってくれた。 「歴代の女の子たちは1年間生き抜いたら、外の、人間の町に旅立つと聞いております。その居場所を決めるのは自分自身で、渓谷で暮らしながらスピカと共に町々を巡り、最初の居場所を探すと。実際今まで、たくさんの町を訪れました」 「ははぁ、気に入りの場所を見つけあぐねているといったところか? もう半年しかない、ではなく、まだ半年って考えたらいいさ。きみが気に入る町がきっと見つかる。何なら見つかるまで旅を続けていてもいいんだから」 「そうですね……ねえサムヒギン、今までの渓谷卒業者に、ここを旅立った後に足を踏み入れた方っていますか?」 「ここを出た後で?」  オレ様は考えた。  記憶するかぎりそれは稀だ。ここは数百年来スピカ竜の結界に守られている。それが、地、風、水の氣をまとい本来のそれより強固なものとなっている。いくら渓谷卒業者とて、スピカ竜の手引きがなければ出入りはできない。無論、オレ様たち渓谷の妖魔はちょっと気合いを入れれば開けられるから出入りは基本自由だ。  外の奴らはそもそも結界にすら辿り着かない。外の奴らが悪戯に入り込んでこないのはそのためだ(意図しない偶然のもの且つそのモノのレベル次第では、結界に辿り着くどころか渓谷に足を踏み入れることもあろうが)。あ、待てよ? 河の中までは張ってないんだっけ?  そう言うとリズは、「卒業したら、もう外のものなのでしょうか」と目を伏せてしまう。 「まあ、、、外のモノになるための場所だから、な」  歴代の渓谷卒業者に思いを馳せる。瞬く間に甘く切ない感情が胸の内を占拠する。  ティティア――オレ様が一等気に入っていた娘。泳ぎが上手く、一緒に川上りをしたり、川を下って海を見せに行った。今思えば滝登りは人間には難しかったな。卒業後、魔法印(サイン)の呼び出しに応じるスピカ竜について行ったことが二度ほどあった。海辺の町、市場で働く彼女はすっかり海の女といった風情で、久しぶりだと細めた目の笑顔は美しかった。  然しながら彼女が漁師の男と結婚してからは会いに行っていない……だってそうだろう? 二人に子供ができたとして、仮にその子がオレ様に懐いてくれたとしたら、それは一番あってはならないことだ。オレ様は、サムヒギン・ア・ドゥール。ウェールズの嫌われ者、獰猛な肉食水精。その子がオレ様と思って他の奴に手を伸ばしてみろ、オレ様にとって間違いなく、一生引きずる傷になる…… 「妖魔は、ちょっかいをかけたり手助けをして食べ物をもらったり、人間の存在ありきなところがあるが、人間はそうでもないだろう。本来妖魔と人間が目と目を合わせておしゃべりするなんて親密な付き合いはまずない。それでもオレ様たちは、共に暮らす仲間なら種族なんて関係なく特別だ……スピカ竜から”魔法印(サイン)”の話はもう聞いたかい? 折角の縁が簡単に途切れるのが嫌で、あの世話焼きのドラゴンは渓谷卒業者にお守りを渡している。だから外のモノになったとて、決して会えないなんてことはないさ」  それに、彼女の結婚以後会うことはなかったものの、ティティアとオレ様の絆は一級品なのだ。これは長くなるからいづれ話すとしようよ。  意識をリズに戻すと、彼女は湯でふんわりと火照った顔に可憐な困り顔をのせていた。いづれ来る別れに思いを馳せているというよりも、身の内にわだかまる感情を言い表す言葉を探しているという風情だった。それが解ったから、オレ様は辛抱強く待った。 「どうしましょう……それでも、出て行くには名残惜しくて……」  やっと彼女の唇から紡ぎ出された言葉に目を見張った。言いようのない嬉しさが身の内に充満していく。 「なんて嬉しい言葉だろう! この渓谷を、オレ様たちを気に入ってくれているなんて!」  だってそうだろう? 花嫁の少女たちは次の人生のスタートを切るためにここで過ごすのだ。終わりが存在する、まさに一期一会の慣習。今までも、名残惜しんでくれる娘は確かにいた。然しながらこうも明確に言葉にしてくれた娘は初めてだった。  嬉しくて嬉しくて、今にも踊り出したいくらいだ。  たとえ彼女の旅立ちの刻限が近づいてきているのだと分かっていても。 「ええ、みんな、優しくて素敵な方々。でもね、とりわけ、わたし……」  おや、言葉尻が曖昧になってきた。聞き取れず聞きかえすも、リズは口元まで浸かってしまってブクブクと、言葉が(あぶく)となり弾けていく。前髪の間から覗く顔が赤いのは湯のためだけではきっとない。  何だか今夜の彼女は様子がおかしい。怪訝に思ったので、オレ様は”心象模様(カレイド・スコープ)”を使った。
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